主日礼拝

ヨセフのクリスマス

「ヨセフのクリスマス」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第130編1―8節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第1章18―25節  
・ 讃美歌:247、256、271

ヨセフの視点からのクリスマス
救い主イエス・キリストの誕生を喜び祝うクリスマスの主の日を迎えました。この礼拝においては、マタイによる福音書の語るクリスマスの物語をご一緒に味わっていきたいと思います。本日の箇所の最初の所、1章18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」とあります。「イエス・キリストの誕生の次第」として私たちが知っているのは、母マリアと夫ヨセフがローマ皇帝による人口調査の勅令によってはるばるユダヤのベツレヘムへと旅をしなければならず、その旅先で主イエスがお生まれになったこと、しかもその時、宿屋に泊まることができず、主イエスは馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたことなどですが、これらは皆、クリスマスの物語を語っているもう一つの福音書であるルカによる福音書に語られていることです。マタイによる福音書の語る「イエス・キリストの誕生の次第」はそれとはかなり違っています。マタイとルカのクリスマス物語で一番違っているのは何かというと、ルカにおいては、主イエスを生んだ母マリアに焦点が当てられているのに対して、マタイでは、焦点はむしろマリアの夫、正確には婚約者であったヨセフに当てられている、ということです。ルカが語るクリスマス物語はマリアの出産の物語であり、夫ヨセフの影は薄いのに対して、マタイのクリスマス物語においては、むしろマリアの影が薄いのです。主イエスを産んだ母マリアの影が薄いはずはないと思うかもしれません。本日の箇所、第1章には、確かにマリアが聖霊によって身ごもったことが語られていますが、そのマリアがどう思ったとかどうしたということは全く語られておらず、むしろそれを知ったヨセフが何を思い、どうしたかということだけが語られているのです。彼は主の天使のお告げによってマリアを妻として迎え入れました。さらに次の2章に語られていくのは、ヘロデ王が幼子イエスを殺そうとしていることを天使がヨセフに告げ、ヨセフがマリアと幼子イエスを連れてエジプトへと逃れたこと、その後ヘロデの死の知らせをやはり天使から受けたヨセフが、マリアと幼子を連れてイスラエルの地へと帰り、そしてやはり天使のお告げに従ってガリラヤのナザレに住んだことです。天使のお告げは全てヨセフに与えられており、彼がそれに従って行動したことが語られているのです。マリアの思いや言葉は全く語られていません。つまりマタイによる福音書におけるクリスマス物語の主人公はヨセフです。ルカ福音書が「イエス・キリストの誕生の次第」をマリアの視点から語っているのに対して、マタイ福音書はそれをヨセフの視点から語っている、つまり「ヨセフのクリスマス」を語っているのです。

夫婦の危機
さて18節後半に「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。ここからクリスマスの出来事が始まっているわけですが、このたった三行に書かれていることは大変な出来事です。マリアにとってもそれはまさに晴天の霹靂だったわけですが、ヨセフの視点から見たらこれは、婚約者が自分以外の何者かによって妊娠した、という出来事です。世間の人々は、ヨセフさん結婚までがまんできなかったのね、ぐらいにしか思わないかもしれません。しかしそうではないことはヨセフ自身が一番よく知っています。これは、これから結婚しようとしていたヨセフとマリアの信頼関係を根本的に打ち砕き、希望をもって築かれようとしていた一組の夫婦、家庭を崩壊させるような危機的状況なのです。マリアは、私はヨセフを決して裏切ってはいない、他の男と関係を持ったりしたことはない、と必死に主張したでしょう。しかし彼女が妊娠しており、次第におなかが大きくなっていくという現実の前では、それを他の人に分かってもらうことは不可能です。言えば言う程、動かぬ証拠があるのに何とずうずうしい女だとあきれられてしまうだけなのです。ヨセフも、マリアを失いたくない、築こうとしていた家庭をぶち壊したくないと思っていました。しかしマリアが自分を裏切ったとしか考えられない現実がどうしようもなく立ちはだかっているのです。おそらくヨセフは、マリアが「私は過ちを犯しました、どうぞ赦して下さい」と謝ったなら、全てを赦して彼女を迎え入れるぐらいの気持ちがあったのだろうと思います。しかしマリアとしては、そんなふうに自分を偽って事を収めることはできません。していないことはしていないのです。しかしそうなるとヨセフの方はマリアを赦して迎え入れることができません。ヨセフはマリアに裏切られたという思いをぬぐい去ることができず、マリアは自分の潔白をどうしても理解してもらえないという、にっちもさっちもいかない状況の中で、二人の関係は崩壊しようとしていたのです。

正しい人の決心
この苦しみの中でヨセフは決心します。19節です。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ヨセフは正しい人だった。「正しい」という言葉にはいろいろな意味があります。正しい人は間違ったことを何事もなかったように受け入れることはできないのです。それゆえにヨセフは、マリアの妊娠を無視することはできないのです。しかし彼は、「正しいこと」のみを求め、人の罪を断罪するような律法的な冷たい人間ではありませんでした。もし彼がそういう人だったなら、マリアを姦通の罪で訴えたでしょう。ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は結婚と同じ重さを持った事柄とされていました。まだ一緒に暮らしてはいない、という点で正式の結婚と区別されるだけで、二人を結びつける法律的な関係は結婚と同じに考えられていたのです。ですから、婚約期間中に他の異性と関係を持つことは姦通の罪になることでした。そうなれば、あのヨハネによる福音書第8章に出て来る女性のように、マリアは石で打ち殺されてしまうかもしれないのです。姦通の罪はそれほどに重いのです。しかしヨセフはそのようなことを望みませんでした。彼は「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。彼がこのことを「表ざたにするのを望ま」なかったのは、自分が恥をかくからでも、家の名誉に傷かつくからでもありません。表ざたにするとは、マリアを姦通の罪で訴えることです。それをせずに婚約を解消しようとしたのは、婚約していなければ、マリアが子供を生んでも姦通の罪に問われることがないからです。ですからこれは、ヨセフのマリアへの精一杯のやさしさの現れです。彼は、自分を裏切ったとしか思えないマリアのためにも、できるだけのことをしてやろうというやさしさを持っていたのです。ヨセフが「正しい人だった」とはそういうことです。それゆえに先程、もしもマリアが罪を認めて謝ったなら彼は赦して迎え入れただろうと言ったのです。彼はそれだけの心の広さを持った人でした。しかしそういう本当の意味での正しさ、やさしさ、心の広さを持っているヨセフであっても、この事態の中では、表沙汰にせず密かに縁を切る、というのが精いっぱいだったのです。

新たな決心
この決心に至るまで、ヨセフは随分悩み苦しんだと思います。それは誰にも相談することのできない、一人でかかえ込んで決断しなければならない悩みです。ヨセフのクリスマスは、このような深い悩み苦しみから始まったのです。20節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」とあります。「このように考えていると」というのは、どうしたらよいだろうかと対策を考えていたというのではなくて、先ほど述べたような葛藤の中で深く悩み苦しんでいたということです。その悩み苦しみの中で、彼は天使のお告げを、つまり神様からの語りかけを聞いたのです。彼は神様が自分にこうお語りになるのを聞きました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。神様は彼に、マリアの妊娠は他の男によるのではなくて聖霊によるのだとお告げになりました。だからマリアを妻として迎え入れ、生まれてくる子をイエスと名付けなさいとお命じになったのです。マリアは聖霊によって妊娠した、それは簡単に信じることなどできないことです。世の中の常識においては、マリアは自分を裏切ったとしか考えられないのです。しかし神様はそのマリアを妻として迎え入れることを彼に求めたのです。それだけでなく、生まれてくる子供に名前をつけることをも求めたのです。名前をつけるというのは、自分の子であると認める、今の言葉で言えば認知するということです。神様がヨセフに求めたのは、マリアが自分によらずにみごもった子供を、自分の子として受け入れ、その父となり、その子を守り育てる責任を負う、ということでもあります。現にこの後彼は、幼子イエスを守るために、エジプトにまで逃げていかなければならなくなるのです。そういう苦労の全てを引き受けることを神様はヨセフにお求めになったのです。ヨセフにしてみれば、「何故私がそんなことをしなければならないのですか、私にはそんな義務も責任もありません」と言いたいし、言えることです。しかし、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」のです。つまりヨセフは、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」という神様のみ言葉を信じて、神様のご命令に従うという新たな決心をしたのです。彼のこの新たな決心によって、マリアは姦通の罪で裁かれることなく、主イエスは無事にこの世に生まれてくることができたのです。ルカによる福音書には、主イエスを身ごもることを天使によって告げられたマリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応えたことが語られています。マタイによる福音書は、ヨセフもまた同じように、主のみ言葉を信じ、主の僕として生きることを決心し、お言葉通り自分の身に成りますようにと応えたことを語っているのです。クリスマスの出来事は、マリアとヨセフの二人がこのような信仰の決心をしたことによって実現したのです。

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト
ヨセフの新たな決心によって実現したのは、主イエスが無事に生まれてくることができたとか、父親のいない子にならずにすんだ、というだけのことではありません。もっとずっと大きな意味がそこにはあったのです。マタイ福音書1章のはじめには、主イエス・キリストの系図が記されています。アブラハムから始まり、ダビデを経て連綿と続いてきた家系に主イエスがお生まれになったことをこの系図は示しています。しかしその系図の最後にあるのはヨセフの名前です。16節、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。つまりこの系図はアブラハムからダビデを経てヨセフに至る系図なのです。しかし主イエスは、母マリアが、ヨセフによらずに聖霊によって生んだ子です。ヨセフと主イエスの間には血のつながりはないのです。にもかかわらずこれがイエス・キリストの系図であると言えるのは、ヨセフが、マリアの生んだ子を自分の子として受け入れたからに他なりません。彼が神様のみ言葉に従って主イエスの父となる決心をしたので、この系図は主イエスにつながったのです。この系図がつながったことによって、主イエスはダビデの子孫となったのです。神様が約束して下さった救い主はダビデの子孫として生まれる、という預言が、このヨセフの決心によって実現したのです。ヨセフがみ言葉に従ってこの決心をしなかったなら、主イエスは約束された救い主キリストとしてお生まれになることが出来なかったのです。ヨセフの決心はそれほどに重大な意味を持っていたのです。

人間にご自身を委ねる神
クリスマスの出来事とは、神様がその独り子主イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、神の子であり私たちの救い主である主イエスが一人の赤ん坊としてこの世に生まれて下さった、ということです。しかし今申しましたことを考え合わせるなら、父なる神様がクリスマスにして下さったみ業はもっと大きな、もっと驚くべきことであると分かります。神様はご自分の独り子を、聖霊によってマリアの胎内に宿らせて下さいました。マリアという一人の女性に、独り子の命を委ねて下さったのです。そしてそれと同時に、その独り子の運命を、つまりその子が約束された救い主として生まれ、様々な危険から守られて生きていくことができるか否かを、ヨセフという一人の男性の決心に委ねて下さったのです。ヨセフが、そんな義理はどこにもないのに、神様のみ言葉を信じて、自分によってではなく妊娠した婚約者を迎え入れ、その子を自分の子として守り育てる責任を引受けるという、世間の人々からは何というお人好しかとあざ笑われるような決心をすることに、ご自分の独り子の運命を、命さえも、お委ねになったのです。このことこそ、クリスマスの出来事における最も驚くべき事柄だと言えるのです。

神は我々と共におられる
そしてこのヨセフの決心によって、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という旧約聖書の預言が実現したのです。インマヌエルとは、23節に説明されているように、「神は我々と共におられる」という意味です。神様が私たちと共にいて下さるという恵みが、クリスマスの出来事によって実現したのです。しかし神様が共にいて下さるとはどういうことなのでしょうか。ヨセフがクリスマスの出来事において体験したことがそれを教えています。神様がご自分の独り子の運命を自分の手にお委ねになったということを彼は体験したのです。「私の独り子をあなたに委ねる、あなたが受け入れてくれなければこの子は生きていけないし、救い主として生まれることができない、だからこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父親になって守り育ててくれ」、ヨセフは神様のそういう語りかけを聞き、そのみ言葉に従って歩み出したのです。インマヌエル「神は我々と共におられる」という恵みは、そこにこそ実現するのです。私たちは、「神は我々と共におられる」ということをともすれば、「私の歩みに神様がいつもついてきて下さり、一緒にいて守り、助けて下さる」というふうに捉えてしまいます。しかしそれでは自分が主人であり、神様がお供のようについて来る、ということになります。そういう意識でいる限り、本当のインマヌエルは、つまりクリスマスの本当の恵みは分からないのです。神様が共にいて下さるとは、神様がご自身を、ご自身のなさろうとしておられる救いのみ業を、この私に委ね、私をそのために用いようとしておられる、そのためのある課題を私に負ってほしいと願っておられる、ということです。そのみ心を受け止めて、神様に従い、神様から与えられる課題を背負っていく信仰の決心をすることにおいてこそ、インマヌエル、神は我々と共におられる、ということを体験していくことができるのです。

背負われつつ背負う
クリスチャンの間で愛読されている「足跡」という詩があります。自分の人生の歩みを、海辺の砂の上の足跡として振り返る、そういう夢を見た、という詩です。最初のうちは、自分の足跡と主イエスの足跡と、二組の足跡が並んで続いていた。ところがある所から足跡は一組になっていた。しかもそれは自分の人生が危機に瀕していた時からだったのです。彼が、「主よ、あの危機の時にあなたはどうして共にいて下さらなかったのですか」と言うと、主イエスは、「子よ、私はいつもあなたと共にいた。足跡が一組になったのは、そこからは私があなたを背負って歩いたからだ」とお答えになる、という詩です。この詩は、「神が我々と共におられる」という恵みの一面をよく表しています。私たちは、自分の足で歩いているつもりでいても、実は共にいて下さる主イエスに背負われ、神様の力に支えられているということが多々ある、いやむしろそういうことの方がはるかに多いのです。神が我々と共におられるとは、神様が、主イエスが私たちを支え、背負っていて下さることだというのは一つの真理です。しかし、そのことだけを見つめていたのでは、インマヌエルの恵みの一面しか知ることができない、ということもまた事実です。神様は時として私たちに、ご自身を、ご自身のなさろうとしておられる救いのみ業を委ね、私たちをそのために用いようとなさるのです。そのための重荷を共に背負ってくれとおっしゃるのです。「つらいこともあるだろうけれども、この重荷を背負って私と共に歩いて欲しい、私はそのようにして、あなたと共に救いの業を押し進めていきたいのだ」、神様が私たちにそのように語りかけてこられる時があるのです。マリアもヨセフも、神様のそういう語りかけを聞き、それに応えて、主イエス・キリストの母として父として生きることを背負ったのです。その歩みの中で彼らは、実は自分たちが救い主イエス・キリストによって背負われ、守られ、導かれていることを体験していったのです。インマヌエル、神は我々と共におられる、という恵みは、そのようにして体験されていくものなのです。

ヨセフのクリスマスが私たちのクリスマスに
この礼拝において一人の姉妹が新たに洗礼を受けます。洗礼を受け、キリスト信者、クリスチャンとなるとは、クリスマスにおけるマリアとヨセフに倣って、救い主イエス・キリストを自らの内にお迎えし、主のみ言葉に従って、主から与えられる課題を背負って生きる者となることです。その歩みの中で私たちも、主イエスによって背負われ、守られ、導かれる恵みを体験していくのです。新たに洗礼を受ける者も、既にその恵みの中に入れられている者も、このクリスマスに、「私の救いの業の一端をあなたも共に担ってほしい、私と一緒にこの重荷を背負ってほしい」という主イエスの語りかけを聞き、信仰の決心をもってそれに応えていきたいのです。それは世間の人々からは馬鹿にされ、あざ笑われるような、つまり自分のプライドを捨てなければならないような歩みかもしれません。しかしヨセフがそのような道を歩むことを決心したことによってクリスマスの恵みは実現したのです。ヨセフのクリスマスが私たちのクリスマスとなる時にこそ、インマヌエル、神は我々と共におられる、というクリスマスの恵みと喜びが私たちにも満ち溢れるのです。

関連記事

TOP