週日聖餐礼拝

待ち望む信仰

「待ち望む信仰」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第40章6―8節
・ 新約聖書: ペトロの手紙二 第3章8―13節
・ 讃美歌:

再臨と最後の審判
 今お読みしたペトロの手紙二第3章の9節に「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません」とあります。ある人たちが遅い、遅れている、と考えている主の約束の実現、それは、主イエス・キリストがもう一度この世に来て下さり、最後の審判を行なって下さることによって、今のこの世が終わり、神の国が完成する、という約束です。私たちの救い主であるイエス・キリストは、私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活して下さいました。そして四十日にわたって弟子たちに、生きておられるお姿を示して下さってから、天に昇られました。今主イエスは、全能の父なる神の右に坐しておられます。そして将来もう一度この世に来ると約束して下さっているのです。主イエスがもう一度来られることを「主の再臨」と言います。主の約束とは、再臨の約束です。その再臨において、いわゆる最後の審判が行われ、今のこの世は終わるのです。10節に、「その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます」と語られているのは、最後の審判とこの世の終わりの様子を描いているのです。12節に「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう」とあるのも同じです。主の約束が実現する日には、このように今のこの世界は滅び、消え失せ、終わるのです。

救いの完成の時
 それは大変恐ろしいことのように思われます。最後の審判も、その審判、裁きを受けると自分はどうなってしまうのか、滅ぼされてしまうのではないか、という恐れを感じるかもしれません。しかしこのことは私たちを恐れさせるために語られているのではありません。なぜならば、その審きをなさる方は、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストだからです。そのキリストがもう一度来て下さり、審きを行なって下さるのですから、キリストを信じ、洗礼を受けて罪を赦され、キリストと結び合わされている信仰者が、審判において滅びてしまうことはあり得ません。むしろ主の再臨の時に、私たちは主イエスの復活にあずかって、体のよみがえりと永遠の命を与えられるのです。つまり主イエスの再臨と最後の審判によるこの世の終わりの時は、私たちの救いの完成の時であり、罪と死の力が支配している今のこの世界が終わり、神様が恵みによって支配して下さる新しい世界が始まる時なのです。主イエス・キリストを信じる者は、主の再臨によって実現するこの救いの完成、新しい世界を喜びをもって待ち望みつつ、今のこの世を生きていくのです。最後の13節がその信仰者の姿を語っています。「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。

待ち望む信仰を失うなら
 主の約束の実現を待ち望みつつ生きる信仰者にとって、その約束がいつ実現するのかは重大な関心事です。教会が誕生した最初の頃の信者たちは、自分たちが生きている間にも主の約束が実現し、主イエスがもう一度来て下さってこの世が終わり、神の国が完成すると思っていました。使徒パウロもそのように考えていたことが彼の手紙から分かります。しかし主イエスの再臨はなかなか起りませんでした。そういう中で、ここに語られているように「主の約束の実現が遅い」と思う人々が現れてきたのです。この「遅い」という思いは、「遅いなあ、まだかなあ」とやきもきしているとか、「こんなに待たせるなんて何をしているんだ」と腹を立てているということではありません。そうではなくてこれは、主の約束の実現を信じることができなくなり、もう待ち望むことをやめてしまう、ということです。「義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望」む信仰を失ってしまうことです。それが、主の約束の実現は遅いと思うことなのです。そうなると、信仰は根本的に変質していきます。待ち望むことをやめてしまうということは、「今のこの世は神様によっていつか終わる」ということを見失うことであり、「義の宿る新しい天と新しい地」に希望を置くことをしなくなることです。そうなると、今のこの世の、目に見える事柄ばかりに心が向かうようになるのです。この世には、人間の罪や弱さによる様々な問題があります。病や死に代表される苦しみや悲しみがあります。そのような様々な問題に向き合って生きていくのがこの世を生きる私たちの現実です。その現実の中で、この世を審き終わらせることができる主なる神様の力を信じ、その神様に依り頼み、神様の救いのみ業を待ち望みつつ生きることこそが信仰であるはずです。しかし、主の約束の実現を待ち望むことをやめてしまうとしたら、それは主なる神様の力を信じて歩むこと自体をやめるということであり、そうなると、この世の様々な問題を自分の力でどうにかしなければならなくなるのです。そのために、この世の、目に見える事柄ばかりに心が向かうようになるわけです。しかしそれはもはや、信仰が信仰でないものに変質していると言わなければならないし、もっと正確に言えば信仰が失われてしまっていることなのです。

主の忍耐
 この手紙が書かれた当時ですらそのように、主の約束の実現が遅いと思い、待ち望む信仰を失っている人々がいたわけですから、それからおよそ二千年が経ったけれども、まだ主の再臨は実現しておらず、しかも目に見えること、あるいは科学的に証明されることしか信じないというものの考え方がこれだけ発達している現在、主の再臨の約束を信じて待ち望む信仰に生きることはとても困難なことだと言わなければならないでしょう。
 しかしこの手紙は私たちにこう語りかけています。9節をもう一度読みます。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。主の再臨の約束が二千年経ってもまだ実現していないのは、私たち皆が悔い改めて救いにあずかることができるようにと主が忍耐して待っていて下さるからなのです。つまり私たちが主の約束の実現を待っているよりもはるかに深く強い思いで、主なる神様が、私たちの悔い改めを忍耐しつつ待って下さっているのです。そこに、私たち全ての者を救いにあずからせようとしておられる主の深い愛があります。信仰において肝心なのは、この主の愛を信じることです。それを信じるがゆえに、私たちも主の約束を信じて、「義の宿る新しい天と新しい地」を待ち望みつつ生きることができるのです。

聖なる信心深い生活
 主の約束の実現を待ち望みつつ生きる私たちに、この手紙は11節でこう勧めています。「このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません」。「聖なる信心深い生活」とはどのような生活なのでしょうか。第一にそれは、「この世のすべてのものは滅び去る」ということをわきまえている生活です。この世のもの、この世の力、人間の営みに絶対的な価値はない、言い方を変えれば、そこに救いはないということをわきまえているところにこそ、「聖なる信心深い生活」があるのです。ですから、この世の歩みのみを見つめてそこでどんなに清く正しい生活を送ったとしても、それが「聖なる信心深い生活」なのではありません。12節ではさらにこう勧められています。「神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」。「神の日が来るのを待ち望み」、それは主の再臨の約束の実現を信じて待ち望むことです。しかしここにはそれだけでなく、「それが来るのを早めるようにすべきです」と勧められています。主イエスの再臨による救いの完成を、待ち望むだけでなく、それが来るのを早めるようにしなさい、というのです。それは、神様を急かして再臨を早めていただくということではありません。この「早める」は「急ぐ」とも訳されます。神様を急がせるのではなくて、私たち自身が、主の再臨による救いの完成へと急ぐのです。「待ち望む」は、受動的に待っているというイメージですが、「急ぐ」は、能動的、積極的にそこへ向かって前進してくというイメージです。その両方のことが勧められています。「聖なる信心深い生活」は、神の日、終わりの日、救いの完成の日を、忍耐をもって待ち望みつつ、またそこへと積極的に急いでいく生活なのです。

待ちつつ、急ぎつつ
 主イエスが再び来て下さり、救いを完成して下さることを、待ち望みつつ、そこへと急ぎつつ生きること、それは具体的には、神様を礼拝しつつ生きることです。礼拝において私たちは、主のみ言葉を聞き、その見えるしるしである聖餐にあずかります。主のみ言葉にこそ、この世の終わりを超えてとこしえに立つ神様の愛が示されています。先ほど共に読まれた旧約聖書、イザヤ書第40章6節以下にこうありました。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。この神の言葉を聞く時が礼拝です。そしてその礼拝において私たちはその神の言葉が見える仕方で、私たちが味わうことのできる仕方で与えられる聖餐の恵みにあずかります。聖餐は、主イエス・キリストが私たちの罪の赦しのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して贖いを成し遂げて下さった、その救いを味わわせ、体験させて下さる主の食卓です。そしてそれと同時に、今は天におられる主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、罪と死とを完全に滅ぼして、永遠の命に生かして下さる、その救いの完成の時に、主のみ前であずかる喜びの食卓の先取りでもあります。聖餐にあずかることによって私たちは、主の再臨の約束を確認し、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望む信仰を新たにされるのです。
 私たちのこの世における歩みには、様々な困難があり、苦しみ悲しみがあり、毎週の主日の礼拝に集うことができないいろいろな事情があります。この週日聖餐礼拝はそのような事情の中にある方々のために行われています。この礼拝においてみ言葉を聞き、聖餐にあずかることを通して、この世の事柄は過ぎ去り、主のみ言葉こそがとこしえに立つのだということをしっかりと見つめていきたいのです。そして、主イエスの再臨の約束を信じて待ち望みつつ、そこを目指して急ぎつつ生きる信仰を養われていきたいのです。

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