「神様の愛を喜ぶ日」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: ホセア書 第6章4-6節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第12章1-8節
・ 讃美歌:280、385、509
教会の誕生日
私たちは今日、この横浜指路教会の誕生日を記念して、赤ちゃんからお年寄りまで、みんなが揃ってこの礼拝を守っています。本当の誕生日はあさっての13日です。指路教会は今年で、137回目の誕生日を迎えます。指路教会が生まれたのは今から137年前の1874年、明治7年です。137年前というと、教会学校の生徒の皆さんにとっては、ものすごい大昔のことのように感じられるのではないでしょうか。でも、私たちの教会には今101歳のおばあちゃまがおられます。その方が教会で一番お年を召した方です。そのおばあちゃまがお生まれになる36年前にこの教会は生まれた、ということですから、そう考えればそんなに昔ではないとも言えます。ヨーロッパなどに行くと、千数百年の歴史のある教会があります。そういう教会に比べたら、十分の一ぐらいの歴史しか、私たちの教会は持っていないのです。世界全体で見れば、この教会はまだまだ生まれたばかり、とも言えるのです。
日曜日の礼拝が続けられてきた
けれども137年というのは、一人の人間の一生をはるかに超えた長い年月であることも確かです。その長い年月の間、教会は何をしてきたのでしょうか。この教会が137年の歴史を持つということは、何が続いてきたからなのでしょうか。それは、日曜日に集まって神様を礼拝する、ということです。この教会が生まれてから137年の間ずっとしてきたこと、さらに世界の教会がおよそ二千年にわたって続けてきたことは、日曜日の礼拝なのです。
安息日は土曜日だった
日曜日に神様を礼拝することは、イエス様を信じる人たちの群れである教会が始めたことです。それまでは、つまりイエス様より前、旧約聖書の時代には、土曜日に礼拝がなされていました。土曜日は一週間の最後の日です。一週間は日曜日から始まるのです。その七日目、最後の日である土曜日が、もともとは礼拝の日でした。そのことは、神様がお与えになった戒めである十戒の四番目に命じられています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めです。その安息日というのは、週の七日目、最後の日なのです。なぜ最後の日、土曜日が安息日とされたのか、それは、神様が六日間かけてこの世界の全てをお造りになり、七日目にはお休みになった、という旧約聖書の初めの創世記に書いてあることのためです。神様が七日目にお休みになったのは、この世界のすべてを造って疲れたから休憩したのではありません。神様は、この世界を、そして私たち人間を、六日間かけて、とてもよいものとして造って下さいました。七日目は、その世界と人間とをご覧になり、喜び、祝福する時として下さったのです。そしてその日を、私たち人間も、神様の恵みのみ業を見つめ、感謝し、喜ぶ日として定めて下さったのです。神様のみ業や恵みを見つめるためには、自分のこと、自分のしている業をやめなければなりません。自分のことをしている間は、自分のことで頭がいっぱいで、神様の恵みやみ業を見つめることができないのです。ですから安息日というのは、人間が、自分の業、仕事や働きをやめて、神様のみ業、恵み、愛を見つめ、それを喜び、感謝するための日です。神様のみ業、恵み、愛を見つめ、喜び、感謝するというのは、神様を礼拝することです。このように集まって神様を礼拝し、その中で、神様の大きな恵みと愛を受け、神様に祈り、賛美を歌うのです。そういうことのために、週の七日目の土曜日が安息日とされました。このようにしてイスラエルの人々は土曜日には自分たちの仕事をやめて、お休みをしたのです。一週間は七日間で、そのうちの一日はお休みの日、ということはここから始まったのです。今この日本の国でも、七日で一週間、その中で少なくとも一日はお休みというのが当たり前になっていますが、それは明治時代になってから始まったこと、それこそ、この教会が誕生したのとほぼ同じ頃からのことです。それ以前の江戸時代までは、一週間という感覚はなかったし、七日に一日はお休みなどということもなかったのです。
安息日は何のため?
さて、一週間に一日は仕事を休む安息日、という生活を、イスラエルの人々はずっと続けてきたのですが、さっき読まれたマタイによる福音書の第12章には、他ならぬイエス様が、ファリサイ派の人々から、「あなたたちは安息日をきちんと守っていない」と責められてしまったということが書いてあります。それはある安息日に、イエス様の弟子たちが、麦畑に実っている麦を摘んで食べたためでした。ファリサイ派の人たちは、麦の穂を積むことは刈入れという仕事にあたるし、それを剥いて中の実を食べることも脱穀という仕事に当たる、それは安息日にしてはいけないことだ、と言って責めたのです。それっておかしなことだ、ということは教会学校の皆さんも分かると思います。だって安息日は、神様のみ業、恵み、愛を喜び、感謝するための日なのです。仕事を休むのはそのためなのであって、休むことが第一の目的ではないはずです。ところが当時のファリサイ派の人々は、神様の掟である十戒を形の上で守ることばかりを考えていたので、安息日を、「仕事をしてはいけない日」にしてしまっていたのです。そして、少しでも「仕事」に当たりそうなことをしている人を見つけると、「あの人は安息日にしてはいけないことをしている」と責めるようになっていたのです。そのために、神様の独り子であるイエス様も責められてしまったのです。でも、おなかが空いた人が麦畑の麦を摘んで食べることは、神様が麦という穀物を造って与えて下さったそのみ心に適っています。神様はそのことを喜んで下さるのです。その神様の恵みを感謝することこそ、安息日のもともとの目的です。イエス様はここで、安息日がもともと何のためにあるのかを教えて下さっているのです。
日曜日の礼拝
このイエス様の時代まで土曜日だった安息日、人間の仕事をやめて神様を礼拝する日は、この後イエス様を信じる人たちの群れである教会が生まれると、日曜日、つまり一週間の最初の日に変わりました。なぜ日曜日に変わったのでしょう。それは、この日曜日にイエス様が復活なさったからです。イエス様は私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。私たちの身代わりとなって死んで下さることによって、罪の赦しという救いを与えて下さったのです。その救いのみ業は、イエス様が復活なさったことによって完成しました。イエス様は、私たちの救いのために死んで下さっただけでなく、復活して今も生きておられ、共にいて下さるのです。そのイエス様による救いの完成である復活を覚えて、イエス様を信じる人々の群れである教会は日曜日に集まって礼拝を守り、そこでイエス様による救いの恵みをいただきながら、イエス様と共に生きていったのです。そのようにして、教会は日曜日に礼拝をするようになり、私たちにとっての安息日は土曜日から日曜日に変わったのです。十戒の第四の戒め「安息日を心に留め、これを聖別せよ」を私たちは、日曜日を礼拝するための特別な日として大切にしなさい、という教えとして受け止めるのです。ですからそれは、日曜日の礼拝を、イエス様の復活によって神様が成し遂げて下さった救いのみ業を覚えて感謝し、神様の愛を喜ぶ時として大切にしなさい、ということです。週の始めの日である日曜日にこの神様の愛を喜ぶ時である礼拝に集って、礼拝から一週間の生活を始めることができるのはすばらしいことです。日曜日の礼拝は、そこに必ず出席しなければならない、出席しないと神様の怒りにふれて、何かバチが当たる、というようなものではありません。日曜日には何をおいても教会の礼拝を第一にしなければならない、他のことをしてはならない、などというふうに、ファリサイ派の人たちのように掟を厳格に守って生きることが信仰をもって生きることなのでもありません。今の日本のような複雑な社会を生きている私たちには、しなければならないことがいろいろあります。その中で、どうしても日曜日に他のことをしなければならなくなることがあって、そのために礼拝に集うことができないこともあります。そのようなめまぐるしい、またいろいろなことに追いまくられるような生活の中で私たちは疲れてしまったり、力を失ってしまうのですが、神様はそのような私たちに、週に一度、神様のみもとに集い、イエス様によって与えられている神様の恵みと愛を喜び感謝する機会を与えて下さっているのです。つまり日曜日の礼拝は、果たさなければならない義務ではなくて、神様が恵みによって与えて下さっている機会、チャンスなのです。そのチャンスをできるだけとらえ、神様が招いて下さっている礼拝に集うことによって、私たちは、神様の恵みに守られ支えられて本当に喜んで生きていくことができるのです。
神様の愛を喜ぶ教会
この教会は137年にわたって、そのような日曜日の礼拝を守る群れとして歩んで来ました。そこに、神様の豊かな恵みと愛があったことを覚えて、心から神様に感謝したいと思います。そして今、神様は私たちをこの礼拝へと招いて下さっています。私たちがそのお招きに応えて、日曜日を神様を礼拝する日としておささげしていくことによって、神様の恵みと愛を喜ぶ群れである教会の歴史がこれからも刻まれていくのです。教会には、赤ちゃんからお年寄りまで、いろいろな人々が集められています。今日は1歳になろうとしている赤ちゃんが幼児洗礼を受けてこの教会に加えられます。1歳の赤ちゃんから101歳のおばあちゃんまで、百歳も離れた人たちが、イエス様によって実現した神様の救いの恵みにあずかり、その愛を一緒に喜ぶために日曜日にこの場に集う、それが教会なのです。そんな場所は他にはなかなかありません。神様はそういうすばらしい群れである教会に私たちを招いて下さっています。この招きに応えて、洗礼を受けて教会に連なる人、クリスチャンになり、安息日である日曜日に神様の愛を喜ぶ礼拝を守っていく人がさらに増えていくことを願います。