「主の名を呼び求める者は皆、救われる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ヨエル書 第3章1-5節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章37-44節
ペンテコステの週に
今週の日曜日はペンテコステ、聖霊降臨日でした。弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まり、教会が誕生したことを喜び祝う礼拝がささげられました。そして一人の姉妹が洗礼を受けて私たちの群れに加えられました。本日の週日聖餐礼拝も、このペンテコステの恵みを覚えつつ守りたいと思います。今朗読しましたのは、そのペンテコステの日に、聖霊を注がれ、力を与えられたペトロが弟子たちを代表して立ち上がり、語った説教の最初のところです。
ペトロは、今ここで起っていること、弟子たちが聖霊を受けて様々な国の言葉で、神の偉大な業、つまり主イエス・キリストの十字架と復活による救いのみ業を語り始めたことは、預言者ヨエルの預言の成就なのだと言っています。17?21節がそのヨエルの預言の言葉であり、それは先ほど朗読したヨエル書第3章1?5節です。ヨエルは、主なる神様がすべての人にご自身の霊を注ぐ時が来ると語りました。「終わりの時」にそれが起る。それは、この世の終わりの、神様による救いの完成がこのことによって始まる、ということです。ペンテコステに聖霊が弟子たちに注がれ、教会が誕生したことによって、この世界の終わりが始まっています。私たちの救いの完成への決定的な一歩が既に踏み出されているのです。
若者は幻を見る
聖霊が注がれることによって「あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」とあります。聖霊なる神のお働きによって、若者は幻を、老人は夢を見るのです。若者が幻を見るとはどういうことでしょうか。ここでの「幻」は、現実でない単なる幻、実体のない空しい影のようなもの、という否定的な意味ではありません。むしろそれは「希望」と言い換えることができるようなものです。将来への展望と言ってもいい。ヴィジョンと言ってもいい。その幻をはるかに見て、そこに希望を置き、そこに向かって歩んでいく、努力していく、そういうものです。それを「目標」と言ってしまうとちょっと現実的になり過ぎるかもしれません。「幻」は「目標」よりも漠然としたものです。しかしそれゆえにこそもっとスケールの大きなもの、わくわくさせるようなもの、希望の源となるようなもの、元気を与え、やる気を起こさせるものです。これから自分の人生を築き歩んでいこうとする若者にとって最も必要なのはこの「幻」を見ることなのではないでしょうか。若者がそういう幻を見ることができにくくなっているのが現代の社会の問題です。しかしそのような幻は社会が与えるものではなくて、神の霊、聖霊が注がれることによってこそ与えられるのです。聖霊によって与えられる幻によってこそ、若者は人生を力強く、希望をもって前向きに生きていくことができるのです。
老人は夢を見る
そしてそれと並んで語られているのが、「老人は夢を見る」ということです。老人が見る夢とはどのようなものでしょうか。夢にはいろいろな意味があります。「将来への夢」と言うと、それは若者が見る幻と同じような意味になります。しかし夢は過去の体験から生まれるものでもあります。幸せな体験の記憶からは良い夢、幸せな夢が生まれるし、つらい、悲しい、苦しい体験からは悪い夢、悪夢が生まれます。そういう意味では、夢を見ることには、幸せなことである場合と恐しいことである場合があります。悪夢によってうなされることが多い人は、夢などできるだけ見たくない、と思うでしょう。「老人は夢を見る」という場合、そこで考えられているのはそのような悪夢ではありません。幸せな夢、神様の恵みと祝福の体験から生まれる、そしてその恵みと祝福に支えられた将来を予感させるような夢です。しかもその将来は、この世を生きている間だけのことではなくて、迫ってきている肉体の死の彼方に開けている将来です。神様の恵みと祝福が、肉体の死によっても失われてしまうことはなく、なおそこにおいても自分をしっかりと守り支える、それゆえに死に直面しても絶望してしまうことはない、そういう夢です。超高齢化社会へと突入していきつつある現在の社会のにおいて、老人がこのような夢を見ることができにくくなっていることが大変大きな問題です。老いが、本人にとっても、また周囲の者たちにとっても、希望の見えない苦しみとなってしまうことのないように、社会のあり方を、また様々な制度などを整えていくことが今日の重要な課題です。しかし老人が本当に夢を見ることができるのは、社会のしくみや制度によってではなくて、神の霊、聖霊が注がれることによってなのです。聖霊によって与えられる夢を見ることによってこそ、老人は老いの日々を希望をもって歩み、その希望の内に死を迎えることができるのです。
イエス・キリストによる救い
聖霊が注がれることによって、若者は幻を見、老人は夢を見る。そのことが、ペンテコステの出来事において、つまり教会の誕生において起ったのだ、とペトロは語っています。なぜそのようなことが言えるのでしょうか。ペンテコステの出来事は、それだけを独立させて見つめることはできません。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活と四十日後の昇天、そしてその十日後の聖霊降臨は全て一連の出来事です。つまり神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、父なる神様がその主イエスの死によって私たちの罪を赦して下さり、さらに主イエスを復活させて、罪と死に打ち勝つ新しい命を確立し、それを私たちにも与えると約束して下さったこと、復活されたキリストが天に昇り、今や父なる神様の右の座に着いて私たちを導き、また私たちと父なる神様の間を執り成して下さっていること、それらの、キリストによって成し遂げられた神様の救いの恵みの全体を私たちに示し、私たちがその恵みにあずかって、天におられる主イエスとの交わりの内に新しく生きるために、聖霊が注がれたのです。若者が幻を見、老人が夢を見ることができるのは、聖霊のお働きによってこの神様の救いの恵みが注がれ、その恵みによって生きる者とされることによってです。聖霊は私たちを、十字架と復活と昇天の主イエス・キリストと結び合わせ、一つにし、主イエスによって成し遂げられた救いの恵みの中を生きる者として下さるのです。そのことを私たちに体をもって体験させ、主イエスによる救いの恵みをしっかりと刻みつけるために、洗礼と聖餐が備えられています。洗礼において私たちは、頭に水を注がれます。それだけで私たちの罪が洗い清められるわけではありません。しかしそこに聖霊が働いて下さるので、私たちは主イエス・キリストの十字架の死と復活にあずかり、罪に支配された古い自分が死んで、キリストの復活の命にあずかる新しい命に生きる者とされるのです。また聖餐において私たちは、小さなパンと杯にあずかります。腹の足しには全くならないちっぽけなものです。しかしそこには聖霊が働いて下さって、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、血を流して死んで下さった、そのキリストの体と血とにあずからせ、私たちを主イエスと一つにして下さるのです。教会は、この聖霊によって誕生し、今もその聖霊によって導かれて、洗礼を授け、聖餐の食卓にあずかっています。その聖霊が、今この礼拝において、私たち一人一人にも注がれています。私たちはこの聖霊によって、幻を見、夢を見るのです。そして、若者も老人も、聖霊の与える喜びと希望に生きていくことができるのです。
預言する者として
このヨエルの預言は、神の霊が注がれることによって、すべての人が預言するようになる、とも語っています。幻を見るようになった若者も、夢を見るようになった老人も、共に預言をしていくのです。預言というのは、これから起ることを言い当てることではありません。そうではなくて、神様が預け示して下さったみ言葉を人に語っていくことです。神様の恵みを、そのみ心を宣べ伝えていくことと言ってもよいのです。神様のみ言葉を宣べ伝えるというのはとても難しいことのように感じられるかもしれません。しかしその預言は、若者は幻を見、老人は夢を見る、ことによってなされていくのです。聖霊の働きによって主イエス・キリストによる神様の救いの恵みにあずかり、若者は幻を見つつ、老人は夢を見つつ、いずれも喜びと希望を与えられて生きていく、そのこと自体が、神様の恵みを宣べ伝える証しとなるのです。私たちが預言し、宣べ伝えることは、そんなに難しい複雑なことではありません。ヨエルの預言は「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と締めくくられています。私たちが預言するのはつまるところこのことです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。その主とは、私たちのために十字架にかかり、三日目に復活し、天に昇って父なる神の右に座しておられるイエス・キリストである、私たちも、その主の名を呼び求めることによって救われ、喜びと希望を与えられて生きている、しかもその喜びと希望は、この世の人生を支え導くのみでなく、肉体の死を越えた彼方にまで及ぶものだ、そのことを私たちは語っていくのです。若者も老人も、聖霊の導きの中で、洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ、主イエス・キリストの体である教会の一員として、主のみ名を呼び求めつつ生きる日々の生活を通して、この預言を語っていくことができます。毎週ここで礼拝を守ることができている者も、様々な事情でなかなか礼拝に出席することができない者も、同じこの聖霊のお働きの中に置かれているのです。