週日聖餐礼拝

神の国の祝宴

「神の国の祝宴」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第14章15-24節
・ 讃美歌: 12、238、525、202(54年版)

食卓への招き
 この週日聖餐礼拝は、普段いろいろな事情で主の日の礼拝に出席することができない方々をお招きし、必要な場合には送り迎えの車を確保して、礼拝を守り、その中で聖餐に共にあずかろうというものです。そしてこの礼拝の後には、婦人会有志の方々のお心尽くしによる食事が用意されています。礼拝において聖餐にあずかり、また昼食の食卓をも共にするのです。聖餐も、主イエス・キリストが招いて下さっている食事です。いただくのは小さな一切れのパンとほんの一口のぶどう液ですが、そのことによって、主イエス・キリストが私たちのために肉を裂き、血を流して十字架の上で死んで下さった、そのおん体とおん血とにあずかるのです。それはどんな御馳走にも優る豊かな食事であると言うことができます。そして礼拝後にあずかる昼食も、主イエスを信じる信仰によって結ばれた者たちの楽しい交わりの食卓です。その中心にやはり主イエスがいて下さり、私たちの心と体とを養い、育んで下さるのです。私たちは今日、このような二重の意味での豊かな食事の席へと、神様によって招かれているのです。

盛大な宴会のたとえ
 この礼拝において、主イエスの語られた一つのたとえ話をご一緒に読みたいと思います。ルカによる福音書第14章15節以下にあるこのたとえ話は、神様による救いにあずかることを、盛大な宴会へと招かれることにたとえています。このたとえ話は、14章1節から分かるように、主イエスがファリサイ派のある議員の家で催された宴会に招かれ、その席に着いておられる時に語られました。その席で客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのです。神の国で食事をする、それが、救いにあずかることです。救いとは、神様が催す宴会の席に招かれ、そこでご馳走にあずかることだ、とこの人は考えたのです。それを受けて主イエスはこのたとえ話を語られました。その神の国の食事に招かれるとはどういうことか、どのような人がその宴会に招かれるのか、ということをこの話によって教えて下さったのです。

招きを断る人々
 ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招きました。前もってその招待を伝えておいて、そして宴会の時刻になるともう一度僕を遣わして、「もう用意ができましたから、おいでください」と丁寧に招いたのです。ところが、招かれていた人々が次々に断った、とあります。ある人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼させてください」と言いました。ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言いました。また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。
 この人々が招きを断った理由はそれぞれ、人生における一大事であり、決して軽いことではありません。畑を買うのも、牛を十頭買うのも、思いきった投資であり、一生に何度もないような大きな決断です。また結婚も人生の大きな転機、新しい生活のスタートです。このように大事な時なのだから、宴会に行っている時間はない、というこの人たちの思いも分かるのです。私たちもしばしば、このような理由で、神様との関係、信仰の事柄を二の次にしたり、教会の礼拝に出席することができなくなることがあります。それは決してこれらのことを口実に使っているということではなくて、実際に人生における重大な問題や大きな転機を迎えたがゆえに、そのことに忙殺されて、神様からの招きに応えることができなくなってしまう、ということがあるのです。自分の、また家族の病気や老いによって礼拝に出席できなくなるというのもそのようなことの一つでしょう。また生活環境の大きな変化によってそれまでのように毎週礼拝に通うことが不可能になるようなこともよくあるのです。

主人の怒り
 さて、招かれていた人々が次々に断ったのを聞いて、主人は「怒った」と21節にあります。それぞれのやむを得ない事情の中で、神様との関係、信仰のことを二の次にし、礼拝に出席することができなくなる、そういう私たちに対して、神様はお怒りになるというのです。このことを私たちは一方でしっかりと見つめなければなりません。私たちにはそれぞれ、やむを得ない事情があります。人生における無視できない大事な事柄があり、どうしてもしなければならないことがあるのです。しかしそこで私たちが考えなければならないことは、それらのことのために、神様の招きに応えること、神様との関係に生きること、要するに信仰を見失ってしまってよいのか、ということです。神様は私たちに、畑や牛を買ってはならないとか、妻を迎えてはならないなどと言っておられるわけではありません。それらのことは神様の祝福によって与えられるものです。神様の恵みなしに、人間の力や努力のみで獲得できるものではありません。また逆に、病や老いやその他の生活の変化も、神様のみ手の中で私たちに与えられている試練です。神様は、幸福であれ不幸であれ、そのような様々な具体的事情をかかえている私たちを、ご自分の宴会へと招いて下さっているのです。ですから私たちは、いろいろな事情、理由のある中で、できる限りこの神様の招きに応えて生きることが大切なのです。事情があるから招きに応えることができない、と簡単に決めてしまってはならないということを、この神様の怒りは教えていると言えるでしょう。
 そしてもう一方で私たちは、このたとえ話において、怒った主人が何をしたのかをちゃんと捉えなければなりません。主人は僕たちに、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と言ったのです。そのようにしてもなお宴会の席があいているので、主人はさらに「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。招きを断られた主人の怒りによって、招きを断った人々が滅ぼされたのではなくて、もともとは招かれていなかった多くの「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」が宴会の席に連れて来られたのです。そして主人はさらに、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言いました。つまりそこらを歩いている人たちを誰でもいいから無理にでも引っ張って来て、宴会の席に着かせようというのです。神の国の祝宴の席はこのようにしていっぱいになるのだ、と主イエスはお語りになったのです。

返礼のできない者を招く
 「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」が連れて来られるというのは何を意味しているのでしょうか。そのことは、このたとえ話の直前のところ、12~14節の主イエスのお言葉から分かります。主はこう言っておられました。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を招くのがなぜ幸いなのか、それは、この人たちはお返しができないからです。つまり宴会に招かれても、自分の方からは招き返すことができない、招かれたことへのお礼のお金や品物を持参することもできない、ただ招かれてご馳走にあずかることしかできないのです。そのような人を招くことこそ幸いなことだ、と主は言われました。幸いだというのは、神様のみ心に適っている、ということです。神様は、ご自分の祝宴にこのようにして私たちを招いて下さるのです。私たちが今、この週日聖餐礼拝に集っているのは、神様のこの招きによることだと言えるでしょう。実際、体が不自由だったり、足が不自由だったりして、送り迎えがないとこの礼拝にいらっしゃれない方々がおられます。神様ご自身が、教会員の奉仕を用いて、そのような方々をこの礼拝へと招き、連れて来て下さったのです。それは体の不自由をかかえている方だけのことではありません。私たちは、神様の恵みに対してお返しが出来ない者です。神様の祝宴に持参にするに相応しい献げ物を用意することなどできませんし、普段の生活の中で、十分に神様に仕え、奉仕することもできていません。教会において様々な奉仕を担っている人々、例えばこの週日聖餐礼拝のためにいろいろと奉仕して下さっている方々であっても、神様から与えられている恵みにほんの少しお応えすることができているのみであって、恵みに見合う十分な奉仕が出来ているなどと思っている人は一人もいません。今この礼拝に集っている私たちは一人残らず、お返しができない弱く貧しい者なのです。

無理にでも連れて来る
 さらに私たちは、通りや小道から無理にでも連れて来られた者たちであるとも言えます。無理にでも、ということは、私たちはこの宴会に来るつもりもなかったし、来ることができるとは思っていなかった、ということです。私たちはただそこらの通りや小道を歩いていたのです。そうしたら、神様の僕たち、つまり先に信仰を与えられていた人とたまたま出会ったのです。その出会いをきっかけにして、もともとはそんな気はなかった私たちが、教会に通うようになり、信仰を与えられていったのです。そこには、神様の力強い導きがあったのです。神様が無理にでも導いて下さらなかったら自分は信仰など得ることはできなかった、と私たちは感じるのです。ですから、今この礼拝に集っている私たちが、このたとえ話の中に自分自身の姿を見いだすとしたら、もともと招かれてもいなかったし、ふさわしい者でもなかったのに、神様によって強引に連れて来られて宴会の席に連なった者たちこそが私たちの姿なのです。

主の招きに応えて
 これからあずかる聖餐は、神の国において私たちがあずかることを約束されている盛大な祝宴の先取りです。小さなパンと一口のぶどう液を味わうことによって私たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の赦しの恵みと、主イエスの復活によって私たちにも約束されている新しい、永遠の命の恵みを、前もって味わい、垣間見るのです。私たちはこの祝宴に招かれるのに相応しい者では全くありません。でも神様は、それぞれに様々な弱さをかかえ、困難な事情をかかえている私たちを、神様のご自身の恵みと憐れみのみ心によって招いて下さっているのです。この週日聖餐礼拝は、普段の主の日の礼拝以上に、その神様の招きの恵みを深く味わうことができる場です。私たちの側の相応しさや、信心深さ、信仰者らしい生活をすることができているか、などということによってではなく、毎週礼拝に出席することができる、ということによってでもなく、ただ神様が恵みと憐れみのみ心によって私たちを招いて下さって、この場に導いて下さったことを覚えて感謝したいと思います。そしてそれゆえにこそ、いろいろと事情をかかえ、やむを得ない理由をかかえている私たちですが、主の招きにできる限り誠実に応えて、毎週の礼拝に今は集うことができなくても、主イエス・キリストとの交わりの内に歩み、教会の枝として祈り続けていきたいのです。

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