夕礼拝

主の名によってこられる方

「主の名によってこられる方」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: ゼカリヤ書 第9章9-10節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第11章1-11節
・ 讃美歌 : 203、305

ろばの子に乗って
 主イエスがエルサレムへ入城されました。ろばの子にお乗りになり、エルサレムへ入られたのです。人々は、主イエスに向かって、叫びます。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」主イエスに対してこのように叫んだ、大勢の群衆たちは、自分たちの上着を脱ぎ、主イエスが通る道に敷いたのです。またどこからか、葉っぱのついた枝を切って道に敷きました。他の福音書では、なつめやしの枝、棕櫚の枝となっております。その枝を手に持ち、道に敷き、主イエスの前を行く者たちも、後に従う者たちも「ホサナ、ホサナ」と叫びました。このように自分の服を脱ぎ、足元の道に敷くというのは、自分たちの王が通るための行為であります。旧約聖書の列王記下9章(13節)には王を迎えるときに、そのように人々が自分の服を道に敷いたという記事があります。王に対する服従と言いますか、歓迎をもって、王に対する礼を表し、王を迎えたのです。普通の王は勇敢な馬に乗って入城します。けれども、今ここで主イエスはろばの子にお乗りになって入城されたのです。小さな子ろばに乗って来られたということは、普通の王の入城とは違っておりました。このとき、ユダヤの国はローマ帝国によって支配されておりました。ローマは総督を置いてこの地を支配していました。ローマの総督は任期が終わると、次の総督と交代するのです。そのたびにユダヤの人々は新しい総督を迎えていたのです。ユダヤの人々は、他国の支配者の入城、それも大きな力、力強さを象徴する大きな馬に乗って入城する総督をその都度見ておりました。ローマの総督は4頭立ての馬車に乗り、支配者としての威厳や自分の力を誇示しておりました。力によって自分たちの支配を確立したのです。ユダヤの人々はそのような他国の支配者の入城を見ながら、いつの日にか、自分たちを解放する本当の王が来るのだということを待ち望んでおりました。その真の王が、ろばの子に乗り、今目の前にきているのであります。
 先ほど、お読みした旧約聖書のゼカリア9:9-10には、このようにあります。
 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」このように預言されていたのです。待ち望んでいる王、真の救い主は、神に従い、勝利を与えられた者であり、高ぶることない方である。その王は雌ロバの子であるロバに乗ってくる。軍馬や戦車に乗らず、ろばに乗るお方であります。この救い主、メシアによって、諸国の民に平和が告げられ、この救い主の支配は海から海へ、大河から地の果てに及ぶ、と預言書にあります。ゼカリヤの預言がとうとう成就したと人々は知るのです。このような王、このような支配者を人々は待ち望んでいたのです。雌ろばの子であるろばに乗ってこられる方こそが自分たちの救い主である。この方こそ待ち望んだメシアであり、人間の支配ではなく、神の支配をもたらす方であると、ユダヤの人々は信じておりました。それゆえに、叫びをあげて歓迎したのです。
 「ホサナ、今、ここに入って来る王よ、あなたはローマの皇帝の名でなく、他の誰の名によってでもなく、主なる神の御名によって来て下さった方」であると、迎えたのです。暴力ではなく、平和、力ではなく愛によって神の支配を打ち立てられるのです。人々は、このイエスを心から歓迎し、このように喜びの声をあげるのです。主イエスは確かに、王として、王の都エルサレムに入城なさったのです。ご自分がイスラエルの王であることを公にお示しになったのです。ここに私たちの信仰が示されております。主イエスを王としてお迎えすることが私たちの信仰なのです。

エルサレムへ突き進む主
 先ほど、この地域を支配していたのは、ローマの総督であると言いました。当時のローマの総督とは、先ほどの使徒信条にもあります、ポンテオ・ピラトです。「主イエスはこのポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、」とあります。主イエスはポンテオ・ピラトの支配するエルサレムに、何も知らずに入城したわけではないのです。主イエスはこれから、ご自分に起こるであろうことすべてをご存知でありました。これから、自分の身に起ころうとしていること、それはいよいよ十字架へかかることです。主イエスはこれから、祭司長や律法学者に引き渡され、死刑の宣告を受け、十字架の上で殺されることを知っておられたのです。

主がお入りようなのです
 主イエスは弟子達と一緒にそのエルサレムへ向かわれました。その前にエルサレムへお入りになるための準備をされました。その途中で、オリーブ山に近い場所(ベトファゲとベタニアにさしかかったところ)で、二人の弟子を使いに出されました。
 それは、先ほどもありましたように、主イエスご自身が、その子ろばに乗ってエルサレムにお入りになるためであります。それも、まだ誰も乗ったことのない、新しいろばの子です。
 その際に、弟子達には不安があったでしょう、ろばを連れてくる、それもまだ誰も乗ったこともないろばの子を連れて来なさいと、と言う主のお言葉に戸惑いを覚えたでしょう。連れて来る際に、誰かに何か言われたらどうしょうなど、と心配であったでしょう。当然であります。ろばとは、馬などと比べると弱い動物ですが、人々の生活には必要であり、大切な財産であります。突然、来た見ず知らずの旅行者の手に渡すなどいうことは、普通は躊躇します。弟子達の不安の通り、「その、ろばの子をどうするのか」と問われました。
 けれども、その前に主イエスはそのような不安や心配なことも見越して「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」とおっしゃったのです。
 主イエスは弟子たちに対して、ろばの子を借りる際に「主がお入りようなのです」と言いなさい、と教えました。主イエスご自身がご自分ことを「主」と言われました。主イエスは、そこにいた人々に対しても、「主がお入りようなのです」と、実際には人々と会ってはいないですが、「主」となられたのです。
 弟子達はろばを主イエスのもとに連れて来ることが出来たのです。主イエスはすべて知っておられたのです。村に入ると、ろばの子が繋いであり主イエスはご自分がそのろばにお乗りになることができることを最初から知っておりました。

進まれる主イエス
 主イエスは十字架へと進むためにエルサレムへ向かいました、また途中でろばの子を調達し、準備を整えました。すべては、神の計画のために、準備を整えたのです。
 主イエスはそれまで三度にわたって、弟子達に受難の予告をしました。同じマルコ福音書8章から(9,10章も)エルサレムにおける苦難と死を予告しました。正確に言えば、死と復活を予告したのです。10:32では、「今わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日目に復活する。」(10:32)ということでした。主イエスはこのように、ご自分が死刑の宣告を受け、殺されると、そして3日目に復活すると予告されました。(8章では)けれども主イエスがそのような予告をすると、弟子の一人であるペトロはイエスをわきへお連れして勇み始めたとあります。ペトロは主イエスに対して「そのようなことは言ってはいけない」と言いました。けれども主は、そのようなペトロに対して、「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」と叱責します。ここで、ペトロは愛する(主イエス)先生が、そのような目に会うはずはない。主イエスの支配は敵対する力への勝利であるはずだ、と思っておりました。このように人間は、神のご計画の遂行を妨害しょうとしているのです。神のご意志を、理解することが出来ないのであります。
 主イエスの十字架への道を阻害しょうとする動きもまた、私たちの姿であります。
 そのような人間の「思い」を超えて、主イエスはエルサレムで起こるべきことのために、十字架の道へと進み行かれるのです。
 十字架への道を進むことによってこそ、私たちの本当の王、救い主となって下さったのであります。ご自分の使命を完成される道を歩んだのです。
 ルカ13:33にはこのようにあります、主イエスは「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」(ルカ13:33)と言われました。主イエスは弟子たちが恐れるほどの勢いで先立って、ご自分の道を進まれました。すべては、エルサレムで十字架の死を遂げるために進んで行かれたのです。
 エルサレムは当時ローマの総督(ポンテオ・ピラト)が支配していた場所でありました。そのエルサレムに「王」として入城するということは、大変危険なことです。けれども、そのような場所にさえ主イエスは進まれました。
 誰よりも先頭に立って、その道を、ご自分の道を突き進んで行かれたのです。

同じ口で
 それを知りつつ、エルサレムを目指して歩んでおりました。既に主イエスは十字架への道を歩み始めていたのです。
 マルコは15章から、主イエスがピラトの尋問を受け、死刑の判決を受ける場面となります。この時代には、祭りが行なわれる度にピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放するという習慣がありました。主イエスと、人殺しをして投獄されていたバラバという男のどちらを釈放するのかとピラトは群衆に訊ねたのです。祭司長たちはそのバラバを釈放するように、群衆を煽動しました。ピラトが「このユダヤ人の王である、イエスをどうしてほしいのか」と群衆たちに聞くと、群衆たちはイエスを「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び立てたのです。つい数日前に「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。」と喜びの叫びを受けます。人々から、喜びの喚起の声を受けた主イエスは「王」として入城されました。
 「王」として入城された主イエスが、しかしその週の内に十字架にかけられるのです。喜びをもって迎えた主イエスに対して、人々は同じ口でもって「十字架につけろ」と叫ぶようになったのです。なぜそんなことになったのでしょうか。それは、人々が「王」とお迎えした方を本当には理解しておらず、いや理解することができなかったからです。自分たちの理想を主イエスに押し付けて、そういう方として歓迎していたからです。自分たちの思い通りになる、自分たちの期待に答えてくれる、そのようなメシアを期待していたのであります。彼らは、自分たちの期待や思いに答えない王、救い主であるならば、必要のないものとして、だとしました。主イエスに自分たちの思いや願望を期待し、ホサナと叫びました。けれども自分たちの期待とは違う王、自分の思い通りではない救い主を排除してしまうのです。

主の名によって来られる方
 先ほど申しましたように、主イエスの支配は敵対する力への勝利であるはずだ、と思っておりました。勝利であるはずだ、けれども主イエスは死刑の宣告を受け、十字架にかかるのです。ペトロを始め、誰もこのお姿には勝利を見出すことは出来ませんでした。
 真の勝利をもたらす王である主イエスが、十字架へかかる。自分たちの信じていた方が違う形で、全く正反対の道を歩まれたのです。私たちの目には、理解できない、自分たちが信じていたことが全く違う結果を生じさせることがあるのです。主イエスの十字架はそのようなものでありました。
 私たちは、自分の都合の良い思いや願望、それに忠実に答えてくれる王こそ、自分が信じていた通りの結果をもたらして下さる神様を自分たちの支配者であると確信し、歓迎をしたのです。
 けれども、そのような人間の思いを超えて、主イエスはエルサレムへと入城されたのです。信じていた主イエスが、自分たちの理想、自分たちの思いとは違う結果を示されたのです。私たちは、これだと信じ、準備を重ね進めたことが自分の予想と反する結果をもたらすことがあります。その結果も含めて、たとえ自分にはマイナスであると、そのような結果も全てを含めて信じることが、本当に、本当の意味で信じることではないでしょうか。

神の国
 本日は棕櫚の日として、私たちは受難週の歩みを始めます。この受難週初日に主イエスはエルサレムへ入城されました。主イエス・キリストがそのご生涯の最後にエルサレムに来られました。民衆は喜び自分たちの上着を道に敷き、葉っぱのついた枝を道に敷き、「ホサナ」と歌声を合わせて主を迎えました。民衆は、このイエスこそ、ダビデ王国の繁栄を再び現わす者であると期待しておりました。この方こそ、私たちの救い主であり支配者であると入城を喜んだのです。「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。」
 民衆はこの主イエスこそ、この地上で神の国を完成されると、歓迎されたのです。けれども主イエスはこの地上で神の国の支配を完成されたのではありません。主イエスの支配、神の国は特定の場所でありません。真の王の国、キリストの国、神の国は、「ここにある、あそこにあると」などの特定の場所にあるというものではないのです。神の支配の完成はこの世のものではないのです。主イエスは十字架の上において、この支配を完成されたのです。このキリストの支配に入るためには、キリストの王国に入るためには、それまでの自分を支配していたものから悔い改めることです。神さまの招きによって新しい神の支配へと入ることが必要なのです。
 悔い改めとは、単なる自己の反省や後悔なのではなく、もちろんそのようなものも含めますが、それだけではありません。洗礼を受け、今までの自分自身に別れを告げ、死に別れることです。そして新しい命の主であるイエス・キリストが来られたことに心からお迎えをするのです。
 私たちは本日、聖餐に与ります。主イエス・キリストがご自身の体を死に渡され、私たちの罪のために十字架におかかりになりました。聖餐はそのことを記念して、覚えるものです。主イエス・キリスト御自身がそのように行ないないさと、おしゃいました。その主イエス・キリストを信じ信仰を告白し、洗礼を受けるのです。私たちが神さまの招きによって、洗礼によって、それまでの自分と別れ、主イエス・キリストをお迎えする、つまりキリストのご支配の中に生きるのです。神さまが示して下さった、本当の支配はここにあるのです。

私たちのところにお迎えする
 私たちは自分自身の願望や欲望を、神の御心であるかのようにしてしまうものであります。それは、自らを主とし、王とする、神と敵対するものです。自分に合わないものを排除しょうとする者です。主イエス・キリストはそのような人間の中に、「主の名によって来られた方」として来られました。他の誰の名にもよらない、ただお一人、主の御名による方、主イエス・キリストが来られたのです。そして神と敵対する私たちを、その罪の中から救うために、十字架への道へと歩まれたのです。私たちの思いや期待などというものより、それ以上の愛を十字架の上において示して下さったのです。私たち中に、主イエスは軍馬ではなく、ろばの子にお乗りになり、私たちに仕えて下さる方として来られました。その方は私たちの思いをはるかに超えて働かれる方であり、進まれる神です。私たちはその方を心からお迎えするのです。

 私たちは新しい年度の歩みを始めました。そして、主イエス・キリストのご受難を特に覚える1週間を始めます。主イエスはエルレサムへ来られました。同じように、主イエス・キリストは私たちの一人ひとりのところにも来られたのです、私たちは私たちのために十字架へと歩まれる主イエスをお迎えし、一人一人それぞれが遣わされた場所において、今週も主イエス・キリストと共に歩んで行きましょう。

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