「生きておられる主」 副牧師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: エレミヤ書 第4章1-2節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第24章1-12節
・ 讃美歌 : 218、327
復活の信仰
「生きておられる主」という説教題を掲げました。キリスト者の信仰の中心は、キリストの十字架の死と復活です。しかし、この信仰は、ただ、2千年前に死刑に処せられた主イエスが甦ったという奇跡のみを信じることではありません。復活されたキリストが今も生きておられると信じることなのです。復活というかつて起こったことを信じるだけでなく、復活の主が今も生きて働いておられ、私たちを導き、永遠の命を与えて下さっていることに信頼して、その命に生かされるのです。もちろん、主イエスが生きておられるというのは、地上を歩まれた時のように、肉体を持ってこの世で生きているのではありません。復活の後、天に挙げられ、父なる神様の右の座におられるのです。更には、聖霊という形で、私たちに臨んで、私たちに十字架と復活の主のお姿を示して下さっているのです。本日はルカによる福音書第24章に記された物語から、生きておられる主に導かれて歩む歩みを示されたいと思います。
墓に行く婦人たち
本日朗読された箇所は、主イエスが葬られた後、三日目の朝の出来事です。朝早く、主イエスの遺体に香料を塗るために墓に出向いたのは婦人たちでした。この婦人たちについて、10節に詳しく述べられています。「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた婦人たちであった」。名前が挙げられている婦人の内の二人、マリアとヨハナは、この福音書の8章に記された「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」の中に登場します。しかも、マリアの方は七つの悪霊を追い出していただいた女とあります。七つの悪霊に取りつかれた病気とは一体何なのか定かではありません。しかし、それが命に関わる非常に重いものであったことは想像がつきます。つまり、この婦人たちは、主イエスによって病が癒され、具体的に肉体のとげが取り除かれるという、大きな救いを与えられた人たちであったのです。それは、人生が変えられるような大きな経験でした。事実、婦人たちは、この出来事の後、「自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していた」のです。つまり、主イエスの後に従い、身の回りの世話をしていたのです。主イエスがガリラヤにいた時から、文字通り、自分の全てを捧げて、主イエスに仕えて来たのです。肉体の病を取り除かれたという救いを経験し、そのような大きな恵みを与えて下さった主イエスに少しでもお応えしたい。自分が受けたことの感謝から、同じように主イエスを助ける者になりたいという思いもあったのではないでしょうか。だからこそ、主イエスが墓に葬られた後、真っ先に、その遺体に香料を塗りに来たのです。しかし、墓の石は取り除かれ、遺体はなくなっていたのです。婦人たちは途方に暮れてしまうのです。不可解なことが起こったことに戸惑ったというようなことではありません。自らの全てを捧げて来た主イエスの御体が失われたことによって途方に暮れてしまっているのです。ここには、婦人たちの、肉体を持って地上を歩んだ主イエスに対するこだわりが感じられます。ここで「遺体」と訳されている言葉は、ただ「体」と訳せる言葉です。婦人たちは、肉体をもって地上を歩んだ主イエスとの関係のみに目を向けています。婦人たちは、主イエスによって肉体を癒された自らも、主イエスのお世話をしたいと願っていました。肉体をもって歩む主イエスの身の回りの世話をするということにおいてのみ、主イエスと自分との関係性を見出していたのです。だからこそ、その体が無くなってしまったという事実を前に途方に暮れてしまったのです。
人間の限界を超えて
婦人たちの、肉体に対するこだわりの根本にあることは何でしょうか。それは、人間が、自分の願望や、過去に自分が与えられた救いの出来事から、キリストの像を造り出そうとすることです。わたしにとって主イエスはこういう方だと、自分にとってのキリストの像を造り上げることと言っても良いかもしれません。婦人たちにとっては、それは病を癒す方であり、自分が身の回りの世話をする方であったのです。しかし、そのように、人間が見出すキリストの姿とは本当のキリストの姿ではありません。キリストは、地上を歩む者がとらえようとする像に縛られてしまうような方ではないのです。3節には、「主イエスの遺体が見当たらなかった」とあります。ルカによる福音書において、主イエスを呼ぶ時に「主」という言葉が使われています。又、イエスと名前だけが記されている箇所もあります。しかし、主イエスと記されるのは、3節が初めてです。一方、ルカによる福音書の下巻である使徒言行録においては、「主イエス」という言葉が頻繁に登場します。このことから、この主イエスとは、復活によって、死の力を滅ぼし、栄光をお受けになった主イエスのことを示していると言った人がいます。つまり、復活の主、「主イエス」は、私たちが、自分の理解出来る範囲の中で、見出そうとする所にはおられないのです。 この時の婦人たちの姿は私たちと無縁ではありません。私たちも、主イエスを自分の考え得る範囲でとらえようとしてしまうことがあります。この世での幸せを約束する方、又、自分の生活を豊かにしてくれる方のように考えてしまったりもします。そのように、自分が理解出来、自分の手の届く範囲で主イエスとの関わりをもとうとすることがあるのです。
天使の言葉
婦人たちが途方に暮れていると、「輝く衣を着た二人の人」、即ち天使がそばに現れ語りかけます。ここで、天使が一体どんな人物であったかとか、天使などというものが本当に現れることがあるのかということを考える必要はありません。ここで大切なことは、天使が、人間の力ではなく、神様の力によって神様の言葉を告げるものとして描かれているということです。つまり、この時、婦人たちは、神様の力によって語られる御言葉を聞いたのです。そこで語られた御言葉が、5節以下に記されています。「なぜ、生きておられる方を、死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。
ここで真っ先に語られていることは、婦人たちの態度は、生きている方を死者の中に捜しているのと同じだということです。それは全くの検討違いです。自分の願望の中にキリストを見出そうとする時、生きている主イエスを死んだものにしてしまっているのです。
更に、ここでは、生前主イエスがガリラヤで語られた御言葉が語られます。主イエスの十字架と復活が「必ず」起こると言われていたことが示されるのです。「必ず」という言葉は、そのことが神の力強い意志として実現するという時に使われる言葉です。罪人を贖い救い出そうとする主の意志が、ここで実現するということです。
主イエスは、生前、ご自身の死と復活を予告されていました。しかし、その時、婦人たちはもちろん周囲にいた人は皆、その言葉の意味が分かりませんでした。一度だけではなく、何度も聞いていたのです。けれども、主イエスが十字架で死に、復活されたのは、罪人の罪を贖い、罪と死の力を滅ぼすことによって神様の救いの御業を成就するためであるということが分からなかったのです。繰り返し聞かされても分からない。それは、まさに婦人たちが、主イエスを、死んだ方にしてしまい、自分が思い描ける範囲で、この世での救いを実現して下さる救い主とだけしかとらえていなかったからではないでしょうか。そのような者たちに、神様の力の中で御言葉が語られたのです。
「立ち返る」
天使から御言葉を告げられた婦人たちは、主イエスの語られた言葉を思い起こします。ただ語られていたという事実を思い出したというのではありません。そこで語られていたことが、リアリティをもって迫って来たのです。主イエスが、死の力を滅ぼし、この世を超えた救いを実現する方であることを御言葉によって示されたのです。御言葉を聞いた婦人たちは、「墓から帰っていった」とあります。ここで「帰る」と訳されている言葉は、ルカによる福音書に特徴的な言葉です。ただ家に帰宅するということを示す言葉ではありません。これは、むしろ、「立ち返る」とも訳すことが出来る言葉です。人間が真の主なる神へと向き直るときに、この「立ち返る」という言葉が使われるのです。今日の聖書の最後12節のところに、婦人たちから話しを聞き、墓が空であることを確かめた弟子のペトロが「この出来事に驚きながら家に帰った」と記されています。この時の「帰る」という言葉は単純に「家に帰る」ということをあらわす言葉です。この時、ペトロは、天使が告げる言葉を聞いた訳ではありません。だから、空の墓を見ても、復活の主を信じることが出来ないのです。しかし、御言葉を聞いた婦人たちは違います。ただ「家に帰った」のではないのです。まさに、主に立ち返ったのです。そして、その立ち返りは、主イエスを、死を超えた命を約束する、真の命の導き手という意味での救い主と受け入れることと結びついています。婦人たちは墓から帰ったのです。墓とは、死の力、死の支配を象徴的に表しています。主が生きておられることを示され、復活の命に通じる救いを示されたからこそ、死の力から立ち返ったのです。
十字架につける罪
婦人たちは、今まで、自分の思いによって、キリストと自分の関係を定め、それ故に、真のキリストから離れていました。そこに婦人たちの罪がありました。主イエスは、そのような人間の罪によって十字架につけられたのです。主イエスは、何故、人々から十字架につけられたのでしょうか。それは、主イエスの姿が、人間が思い描く救い主の姿とはかけ離れていたからです。それ故に、主イエスが自らを神の子と言った時、それが神を冒涜する言葉に聞こえたのです。まさに、人間が、自分が望んでいる救いを実現してくれる救い主を偶像とすることの背後で、真の救い主が殺されたのです。そのような態度は、直接、主イエスを十字架に引き渡した、ファリサイ派や律法学者だけのものではありません。婦人たちにもありました。主イエスの弟子たちも、又、自分たちをローマ帝国から解放してくれる力強い救い主を求めていたのです。そのような人間の罪が主イエスを十字架へと追いやった。即ち、主を自分の思いの中に見出そうとする者が、事実、主を死人にしてしまったのです。しかし、主イエスは、その死から復活されました。主イエスの十字架と復活によって起こることとは、自分の思い浮かべられる救い主に留まる罪によって、救い主を殺してしまう者の罪が、主イエスによって完全に赦されているということなのです。
立ち返る者の告白
この婦人たちは、墓から帰ってすぐ、「十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」ました。主の納められた墓が空であったこと、主イエスが復活されたと聞いたこと、イエスの言葉を思いだしたこと。それら全てを話したのです。即ち、婦人たちは、主は生きておられるということを告げる者とされたのです。これこそ、立ち返る者に起こることです。 本日朗読された旧約聖書エレミヤ書は、イスラエルの民に対して、預言者が立ち返りを告げている言葉です。1節には「『立ち返れ、イスラエルよ』と/主は言われる。『わたしのもとに立ち返れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば迷い出ることはない。』」。ここでは、主なる神様の下を離れ、偶像を拝む、イスラエルの民に、真の主の下に立ち返るようにとの勧告がなされています。更に、続く2節では、「もし、あなたが真実と公正と正義をもって/『主は生きておられる』と誓うなら/諸国の民は、あなたを通して祝福を受け/あなたを誇りとする」とあります。即ち、ここでは、主の下に立ち返ることと、「主は生きておられる」との誓いが結びつけられているのです。立ち返るとは、ただ、他宗教の神を拝むことを止めて、キリスト教に改宗するということではありません。自分の思い描くキリストを偶像とし、その限り、真の主を死人にしてしまっている者が、生きて働き、御自身を主として示して下さる方の御言葉を聞き、主は生きておられるとの告白をなすことなのです。
たわごとのように思われる
婦人の言葉を聞いた使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じませんでした。主イエスの最もそばで、御言葉を聞いていたものたちです。しかし、復活を「たわ言」としてしまうのです。この時、弟子たちは、婦人たちが天使から告げられたように、神様の力の中で復活の御言葉を聞くことはありませんでした。だから、婦人たちが語る言葉を理解できなかったのです。婦人たちが生きている方を死者の中に探したことと、弟子たちが復活を告げる言葉をたわ言だと思ったことは、根本的に同じ態度です。どちらも、生きておられる主を知らされていないのです。私たち人間は、いつも、生きておられる主を見失い、自分勝手にキリストを判断します。自分が思い描いている主イエスと自分の関係、更には、過去に示された救いの出来事から想像し得る、キリストの姿に固執するのです。そのような時、復活をたわ言にしてしまうのです。自分の思いの中で、主の復活を把握し、主は生きておられると言うことを知識として知っていれば、このことから自由であるというのではありません。自分の中で、主イエスと自分の関係を定め、自分の理解知する範囲でのキリストに執着し、生きて語りかけておられる主の御言葉を聞くことをしなくなってしまったら、それは、キリストを死人にしてしまっていることと同じです。私たち人間はいつも、この世の限界、人間の限界の中で、キリストの像を思い描いているのです。そのような者に、神様の力の中で御言葉が語られるのです。その度に、私たちは、主は生きておられること、人間の浅はかな思いを超えて、救いを実現して下さることを知らされるのです。
御言葉を聞き、墓から帰る
私達は今日、この礼拝においても、墓の前で告げられた御言葉を聞きます。「なぜ、生きておられる方を、死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。主の言葉を理解しない者たちに、生きているものを死人の中に捜してしまう者たちに、主イエス・キリストの言葉が語られています。それは、これまで繰り返し語られて来たことです。礼拝で語られる御言葉を通してだけではありません。主イエスの救いにあずかり、その喜びを証しした多くの人々がいます。私たちの信仰の先達たちは、丁度「墓から帰った」婦人たちが弟子たちに告げたように、私たちに、主の復活を語ってくださったのです。その言葉、態度、生き方をもって、「主は生きておられる」ということを語って下さったのです。私たちは一方で、生きておられる主に気づかずに、死者の中に、即ち、自分が把握する範囲の中でキリストを見出そうとしているかもしれません。又、周囲の人々のキリストを証しする言葉を「たわ言」と思ってしまったことがあるかもしれません。しかし、にもかかわらず、私たちに、「必ず、復活することになっている」との御言葉が語られているのです。今日、私たちは、その御言葉に聞きつつ、立ち返る者でありたいと思います。この礼拝の場から、ただ「家に帰る」のではなく、「墓から帰る」ことによって、主の復活の命に生かされつつ、それを証しする者でありたいと思います。