夕礼拝

神の摂理

「神の摂理」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 創世記 第44章18節-第45章15節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
・ 讃美歌 : 17、469

 
神の摂理
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記を読み進めています。創世記の37章以降には、ヨセフの物語が語られています。創世記の終わりまで続く壮大なヨセフ物語のクライマックスが、本日の箇所なのです。
 ヨセフ物語は、神の摂理ということを語っています。「摂理」とは、神様がこの世の全てのことを支配し、導いておられる、ということです。私たちの人生と、そこに起る全てのことが、神様のご支配、導きの中にあると信じる、それが神の摂理を信じることです。これは、聖書が語る信仰の中心をなす大切な教えです。神を信じるとは、神の存在を信じることに留まるのではなくて、神の摂理を信じることなのです。私たちは既にヨセフ物語のこれまでのところでそのことを見つめてきました。ヨセフは、父ヤコブに特別に愛されていた息子でしたが、そのために兄たちの妬みをかい、殺されそうになり、ついには奴隷として売られてしまいました。兄たちによって直接売られたとは書かれていませんが、結果的にはそう言えるでしょう。エジプトに連れていかれたヨセフは、仕えることになった主人の信頼を得て家の切り盛りを任されるまでになったと思いきや、主人の妻に無実の罪を着せられて牢獄に捕われる身となってしまいました。しかしそこで、同じく捕えられていたエジプト王ファラオの役人の夢の意味を解き明かしたことがきっかけとなり、ファラオの夢を解き明かすために召し出され、それを見事に解き明かしたためにファラオの全幅の信頼を得て、エジプトの総理大臣に抜擢されたのです。先月はそこまでの所を読みました。そこまでにも既に、奴隷に売られ、さらに無実の罪で牢に捕えられるという理不尽な苦しみを通して神様が彼を導き、エジプトの総理大臣にして下さったという神の導き、摂理が語られていたのです。しかし神の摂理にはまだ続きがあります。ヨセフをエジプトの総理大臣にすることが神様の最終目的ではなかったのです。そこにはさらに深い神様のご計画がありました。そのことを見ていくために、41章後半以降のストーリーを追っておきたいと思います。

エジプトを訪れる兄たち
 ヨセフが解き明かしたファラオの夢の意味は、今後七年間エジプトには大豊作が続くが、その後の七年間は大飢饉となり、穀物が全く採れなくなる、ということでした。それゆえにこの七年の内にしっかりと食料の備蓄をして飢饉に備えるようにとヨセフはファラオに進言し、ファラオはその仕事をヨセフに任せるために彼を総理大臣に抜擢したのです。ヨセフの予言の通り、七年の豊作の後に飢饉が起りました。その飢饉は、エジプト国内のみならず、周辺の地域、つまりヨセフの父ヤコブや兄たちの住むカナン地方をも襲いました。ヤコブたち家族も食料を得ることができなくなってしまったのです。しかしエジプトには穀物の備蓄が豊かにあるという情報が伝わってきました。そこでヤコブは息子たちを、つまりヨセフの兄たちをエジプトに遣わし、穀物を買って来させようとします。エジプトに来た兄たちは、大臣であるヨセフの前に出て、穀物を売ってくれるように願ったのです。彼らは、目の前のエジプトの総理大臣が弟ヨセフだとは全く気づきません。しかしヨセフの方はすぐにそれが兄たちであると分かりました。ヨセフは自分の正体を隠したまま、兄たちに厳しく接し、「お前たちはこの国の弱点を探りに来たスパイだろう」と嫌疑をかけました。兄たちが必死にそれを否定し、自分たちはカナンの地に住む者であり、国には年老いた父と、末の弟がいることを説明しました。その末の弟とは、ヨセフと同じくラケルを母として生まれた弟ベニヤミンです。ヨセフは、「今回のところは穀物を売ってやるが、兄弟の一人を人質として置いていけ、そして次に来る時には、末の弟を必ず連れて来い」と命じました。そこで兄弟の一人シメオンが人質として残り、兄たちは国に帰りました。ここまでが42章です。

ユダの言葉―ヨセフ物語のクライマックス
 しかし飢饉はなお続き、持ち帰った穀物も食べ尽くされてしまいました。もう一度エジプトに行かなければなりません。それには弟ベニヤミンを連れて行かなければなりません。しかしヨセフ亡き後、ヤコブにとって今やベニヤミンが最愛の末息子です。ヤコブは、彼をエジプトに連れて行くことに反対します。その時兄弟の一人であるユダはこのように言って父を説得したのです。43章8、9節です。「あの子をぜひわたしと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます」。兄たちはこのようにして、ベニヤミンを連れて再びエジプトに来たのです。ヨセフは彼らを屋敷に招き、特に同じ母から生まれた弟であるベニヤミンを歓迎します。さて44章に入って、彼らが食料を携えて国に帰ろうとする時、ヨセフは執事たちに命じて、ベニヤミンの袋に、自分の銀の杯を密かに入れさせておきました。そして彼らがまだ遠くへ行かないうちに追っ手を差し向け、お前たちの中に私の杯を盗んだ者がいる、と追求させます。一人一人の袋を調べると、ベニヤミンの袋からそれが見つかります。彼らは絶望の内にヨセフのもとに引き返し、ユダは、「この上は私たち兄弟全員が奴隷になります」と言います。それに対してヨセフは、「杯を持っていたベニヤミンだけを奴隷にする、後の者は国に帰れ」と言ったのです。そこからが、先ほど朗読された44章18節以下です。この18節以下には、ユダがヨセフに切々と語った言葉が記されています。このユダの言葉こそ、ヨセフ物語のクライマックスであると言うことができます。ユダのこの言葉を聞いたヨセフは、45章に入って、自分の正体を明かすのです。
 ヨセフ物語のこのあたりを読んでいて疑問に思うのは、ヨセフは何のためにこのような手の込んだ芝居をして兄たちに、また父ヤコブにもつらい思いをさせたのだろうか、ということです。兄たちに対しては、自分を奴隷に売ったことへの復讐の思いからだと考えられなくもありませんが、父に対してはそれは成り立ちません。兄たちに対しても、ヨセフは決して憎しみをもって復讐しようとしているのではないことは、穀物の代金をそっと彼らの袋に入れて返してやったことからも分かります。もう一つの疑問は、エジプトの大臣になった時点でなぜすぐに父に使いをやり、「私は生きています。エジプトの大臣になりました」と知らせなかったのか、ということです。これらの疑問への答えは、ヨセフの心の中を推測していても得られないでしょう。その答えはむしろ、このヨセフ物語を通して聖書が私たちに何を語ろうとしているのか、ということの中にあるのです。この物語を通して聖書が語ろうとしていることは、18節以下のユダの言葉の中に示されています。ヨセフ物語の全ての筋立ては、このユダの言葉が語られるために整えられていると言ってもよいのです。このユダの言葉がヨセフ物語のクライマックスであるというのはそういうことです。ユダの言葉は何を語っているのでしょうか。

悔い改め
 ここでユダが、そして兄たちが置かれている状況は、二十年前に彼らが体験したのと全く同じ状況です。二十年前というのは、彼らがヨセフを奴隷に売った時です。これまでのところに、ヨセフは十七歳で奴隷に売られ、三十歳でエジプトの大臣となったと語られていました。奴隷に売られてから13年です。そして豊作の七年が過ぎて今や飢饉が始まっているのですから、つごう二十年ということになります。あの二十年前にも、彼ら兄たちの手に、父ヤコブの最愛の息子である弟の運命が握られていたのです。二十年後の今、エジプトの大臣となったヨセフは、ベニヤミンだけを奴隷にする、他の者は帰ってよい、と言っています。今度はベニヤミンの運命が兄たちの手に握られているのです。兄たちはベニヤミンを見捨てて帰ることも出来ます。二十年前にしたのと同じように、帰って父に、弟はやむを得ない事情で失われました、と説明することもできるのです。このように彼らは、二十年前と全く同じ状況に置かれているのです。そこに神の摂理があります。神の摂理、導きによって、兄たちは、二十年前と同じ立場に再び立たされたのです。しかしこの同じ状況においてユダは、また兄たちは、以前とは違うことを、この18節以下で語りました。ユダが語ったのは、年老いた父が最も愛している弟ベニヤミンを連れないで帰るわけにはいきません、そんなことをしたら父は悲嘆の余り死んでしまいます、ということです。以前ヨセフがそうだったように、父ヤコブは今、兄弟の中でベニヤミンを偏愛しています。ヨセフに対してそうだったのと同じように、えこひいきしているのです。エジプトに食料を買いに行く旅にも、兄たちだけを行かせ、ベニヤミンは手もとに留めておこうしたことにそれが現れています。ですからヨセフと同様ベニヤミンも、兄たちの妬みを受けても当然なのです。しかしユダは今、父のために何とかしてベニヤミンを連れて帰ろうとしています。そのために彼は33節で、自分がベニヤミンの代わりに奴隷になりますと申し出ているのです。あの二十年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのはこのユダでした。37章27節にそれが語られています。その彼が今、ベニヤミンの身代わりになって自分が奴隷になると申し出たのです。このユダに、そして兄たちに起った変化は何でしょうか。それは「悔い改め」です。ユダを始めとする兄たちは、二十年前に自分たちが犯した罪と向き合い、そのことを心から後悔し、悔い改めているのです。そのことは、彼らが今起っていることを、二十年前の自分たちの罪と関連づけて受け止めていることから分かります。42章21節で兄たちはこう言っています。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった」。また本日読まれた所の直前の44章16節で、ベニヤミンの袋から杯が見つかったことに対してユダは、「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と言っていますが、それはヨセフの杯を盗んだ罪が暴かれたということではなくて、このように無実の罪でベニヤミンを失わなければならなくなったのは、自分たちがヨセフに対して犯した罪を神が暴き、裁いておられるのだ、ということでしょう。彼らはこの一連の出来事を通して、二十年前に自分たちが弟ヨセフに対して犯した罪を見つめ、神様の前でそれを本当に悔いているのです。その悔い改めなしには、このように以前と全く反対のことを言うという変化は起こり得ないでしょう。兄たちの変化は、状況の変化によって自然に起ったことではありません。二十年前よりは年をとって少しは分別がついた、などということでもありません。人間の本質はそんなに簡単に変わるものではないし、月日が経てば罪人も善人に成長する、というものではありません。私たち罪ある人間が、それまでとは違う言葉を語り、それまでとは違う人間関係を築いていくことができるのは、成長することによってではなくて、罪を悔い改めることによってなのです。悔い改めのみが、私たちが新しく生き始めることができるただ一つの道なのです。ヨセフ物語は神の摂理、神様のご支配と導きということを語っていると最初に申しましたが、その神の摂理は、兄たちを悔い改めへと導いたのです。出来事を表面的にのみ見れば、兄たちがヨセフを奴隷に売るという大きな罪を犯したが、神様の摂理によってそれがよい方向へと導かれ、かえって家族全員が飢饉から命を救われる結果になった、ということになりますが、神様の摂理の本当の目的は、ユダを始めとする兄たちの悔い改めなのです。神の摂理によって、罪ある人間が悔い改めへと導かれ、それによって新しく生かされていく、私たちはヨセフ物語からこのことをこそしっかりと聞き取りたいのです。

神を主語として
 45章に入ると、このユダの言葉を聞いたヨセフの反応が語られていきます。ヨセフは、ユダの、自分が弟の身代わりになる、という申し出を聞いて、もはや平静を装っていることができなくなり、自分の正体を明かしました。私たちはこの場面を読み間違えないようにしなければなりません。ヨセフは、兄たちの悔い改めを待っていた、兄たちが過去の罪を悔いて、正しい道を歩む者となっているかどうかを確かめるために彼はこれまで厳しい態度で接し、芝居をしてきたのだ、そして今、兄たちの悔い改めが確認されたので自分の正体を明かし、彼らの悔い改めに免じてその罪を赦してやったのだ、というふうにこの場面を読んでしまうとしたら、それは間違いです。ここに描かれているのは、ヨセフが、自分に対する兄たちの罪を、その悔い改めに免じて許してやった、ということではありません。ヨセフはここで、「私はあなたがたを赦します」とは一言も言っていません。彼がここで繰り返し語っているのは、これら全てのことにおいて、主なる神様がみ業を行っておられたのだ、ということです。5節に、「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」とあります。7、8節にも「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」とあります。ヨセフは、自分が赦すとか赦さないではなくて、「神」を主語として語っているのです。つまりヨセフはここで、兄たちを裁く者としてではなくて、兄たちと共に、神様のみ業を受ける者として、神様の前にかしこみつつ立っているのです。自分が受けた理不尽な、不当な扱い、十七歳で奴隷に売られ、十三年間を異国で、奴隷として、また囚人として生きてきた、そのとうてい言い尽くすことのできない苦しみの全てを、彼は、神様のみ業として受け止め、神を主語として語り直しているのです。兄たちが自分を憎み、殺そうとし、奴隷として売った、主人の妻が無実の罪で自分を訴え、囚人とした、ファラオが、夢を解き明かした彼を総理大臣に抜擢した、彼の歩みは人間を主語として語ればそういうことです。しかし彼はそれらの全てを、神様がご自分の民を救うために私を先にエジプトへと遣わされた、と言い表しているのです。これが摂理の信仰です。摂理を信じるというのは、その時は苦しみ、不幸と思えるようなことも、後から振り返ればよかったのだと思えるようになる時が来るだろう、という話ではありません。そのようになった時に初めて摂理を信じることができるのではないのです。摂理を信じるとは、自分の全ての体験を、喜びにせよ悲しみ苦しみにせよ、神様を主語として見つめ直すことです。神様が、自分の人生の歩みと、そこに起る全てのことを、何らかのご計画、み心をもって与え、導いておられるのだと信じることです。これまで読んできた所に語られていましたが、ヨセフが奴隷に売られ、無実の罪で囚人となるという苦しみの中でも、自分を見失わず、平静に歩むことができたのも、この摂理を信じていたからなのです。

語り合いの回復
 兄たちと自分との間に起った出来事を、神様を主語として語り直すことによって、ヨセフは兄たちとの間に、本当に平和な関係を築くことができました。本日の箇所の最後の所、45章15節に、「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」とあります。兄弟たちはヨセフと語り合ったというのは、勿論、二十年ぶりの積もる話をしたということでもありますが、しかしもっと深く見つめるならばこれは、37章の4節と対応しているのです。ヨセフ物語の最初の所です。父ヤコブがヨセフのことをえこひいきするので、兄たちはヨセフを妬み、それによって「穏やかに話すこともできなかった」とあります。兄たちはヨセフへの妬み、憎しみ、敵意のために、平和に語り合うことができなくなっていたのです。交わりが失われてしまっていたのです。そのことから、あの罪の出来事が起ったのです。しかし今、兄たちとヨセフの間に、語り合いが、交わりが、平和が回復されました。神の摂理によって罪を犯した者が悔い改めへと導かれ、またその罪によって傷つけられ、苦しみと悲しみを受けた者が、やはり神の摂理を信じて、その苦しみや悲しみの全てを、神様を主語として語り直すことができた時、そこには、語り合いが、本当に平和な関係が回復されていくのです。

主イエス・キリストによって
 私たちが神の摂理を信じることができるのは、神様の独り子イエス・キリストを見つめることによってです。主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。それによって神様が、私たちの罪を赦して下さったのです。私たちを罪の悔い改めへと導いてくれるのは、この主イエスによる罪の赦しの恵みです。自分の罪が全て主イエスによって背負われ、その十字架の苦しみと死とによって赦されていることを知らされる時に、私たちは悔い改めることができるのです。そして神様の独り子であられる主イエスが、私たちのために、何の罪もないのに不当な苦しみを受け、理不尽な扱いを受け、十字架につけられて殺されてしまったこと、父なる神様がその主イエスを復活させ、死に勝利する新しい命と体とを与えて下さったことを知らされる時に、私たちは、自分の体験する苦しみや悲しみの全てを、神様を主語として、つまり神様のご支配と導きの中にあることとして受け止め直すことができるのです。そして主イエスを復活させて下さった神様が、私たちのその苦しみや悲しみをも、最終的には、救いのご計画の中で用いて下さることを信じることができるのです。神の摂理を信じるとはそういうことです。その信仰を最も力強く語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章31節以下です。その最後の38、39節を読みたいと思います。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。

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