週日聖餐礼拝

主の勝利

「主の勝利」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第24編1-10節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第16章33節

 
あなたがたには苦難がある
 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。主イエス・キリストは私たちに今、こう語りかけておられます。「あなたがたには世で苦難がある」、そのことを主イエスはよくご存知であり、私たちが背負っている苦難、苦しみ、悲しみをつぶさに知っていて下さるのです。
 私たちは誰でも、いろいろな苦難を背負って生きています。その苦しみは人それぞれさまざまです。トルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭の一節に、「幸福な家庭というのはどれも皆似たり寄ったりだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」とありますが、まさに苦しみ、不幸はその人その人で違っているのです。病気の苦しみと一言で言っても、病気の種類や症状によってそれぞれに違います。体に障碍があると一言で言っても、どのような障碍かによって生活の様子は全然違います。老いの苦しみというのも、人によってその現れ方は全く違うものです。そしてそういう肉体の苦しみは、その人の置かれた家庭環境や周囲の人々との関係などによっても全然違ってきます。周囲の人々の愛と支えが、肉体の苦しみを和らげ、安らぎを与えるような場合もあるし、逆に周囲の人々との関係によって、肉体の苦しみ以上の精神的な苦しみ、寂しさに陥ってしまうようなこともあります。また、肉体的には元気でも、様々な不安、心配ごと、人間関係における問題などの精神的苦しみのために元気を失い、体にもその影響が生じてしまうこともあります。「あなたがたには世で苦難がある」という現実を私たちはそれぞれに、様々な形で味わっているのではないでしょうか。

礼拝の恵み
 そのような苦難の中で、ここに集っている私たちは、神様を信じる信仰を与えられています。神様の独り子イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、神様が私たちを救って下さっていることを信じています。苦難の中で、この信仰を与えられていることは、私たちにとって大きな恵みであり、支えです。けれども、その恵みや支えは、信仰者ならばいつでもどこでも自動的に得られるというものではありません。その恵みや支えをちゃんと受け取らなければ、それは自分のものにはならないのです。例えて言うならば、小切手をもらっても、それをしかるべき所へ行って換金しなければ現金にはならないのであって、ただの紙切れ一枚に過ぎないようなものです。神様の恵みや支えも、それをいただく場に身を置かなければ、絵に描いた餅に終わってしまうのです。その恵みをいただく場とは、礼拝です。礼拝においてこそ私たちは、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みを示され、それによって生かされ、慰められ、支えられていくのです。

礼拝に集えない苦しみ
 本日のこの週日聖餐礼拝は、普段日曜日の礼拝に様々な事情によって集うことのできない方々をお招きして、その方々を中心に行われています。その方々は普段、神様の恵みをいただいてそれによって生かされ、慰められ、支えられる場である礼拝に集うことができなくなっておられるわけです。先ほどの例えで言うならば、小切手を現金に換えに行くことができなくなっているのです。それぞれの方々の置かれている状況や事情は違いますが、礼拝に集うことができない、ということは、皆さんに共通していることです。そしてこのことこそ、最も深い苦しみであると言わなければならないでしょう。私たちは誰でも皆それぞれの苦しみを背負っていますが、その中でも毎週の礼拝を守り、そこで神様からの恵みと支えをいただいて歩むことができている者は幸せなのです。その機会を失ってしまうことにこそ、最も深い苦しみ、苦難があるのです。主イエスは、皆さんのその苦難を、礼拝に集うことができず、神様の恵みと支えを毎週新たに受ける場に身を運ぶことができない苦しみを、つぶさに知っておられます。そしてその苦難の中にあるお一人お一人に、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と宣言して下さっているのです。

主イエスの勝利
 「わたしは既に世に勝っている」、それは、「あなたがたには世で苦難がある」と対になっている言葉です。「あなたがた」は世で苦難の中にあるが、「わたし」は既にその世に勝利している、と主イエス・キリストは言っておられるのです。だから「勇気を出しなさい」。これはつまり、主イエス・キリストが私たちのために勝利して下さっているのだから、私たちはもはや苦しみに勝利しなくてもよい、ということです。主イエスは私たちに、自分の力で世の苦難と戦ってそれに勝利することを求めてはおられません。私たちが苦しみに勝利しなければ救いが得られないのではありません。私たちのために、私たちに代わって、主イエスが既に勝利して下さっているのです。そこに私たちの救いが既にあるのです。だから私たちは勝利しなくてもよいのです。

世に勝っている
 主イエスは既に世に勝っている、それは、主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活において実現したことです。これが語られているヨハネ福音書16章は言うまでもなくまだ主イエスの受難と復活の前ですが、しかし主イエスがここで語っておられるのは、これから向かおうとしている十字架の死と復活によって何が実現するのかを前もって弟子たちに示すためです。「既に」とは「十字架の死と復活において」と理解して差し支えないのです。十字架の死と復活において、主イエスは世に勝利なさった、その「世」とは、私たちを神様の恵みから引き離そうとする力です。世は私たちに様々な苦難を及ぼします。そして私たちを、その苦難の中で絶望させ、もはや神様の恵みなど自分にはない、と思わせようとします。お前はどうしようもない罪人だ、神様の恵みや救いなど受けられるはずがないではないか、と責め立てます。礼拝に集うことを妨げるのもそういう世の力です。そして、「お前は礼拝に行けない、だから恵みを受けることができない、神の守りや支えはお前にはもうない」とささやいて、私たちを絶望させようとするのです。私たちは、罪人であるから神様の恵みから引き離されるのではありません。世の力の下で受ける様々な苦難の中で、罪人である私たちを愛し救って下さる神様の恵みを見失うことによって、恵みから引き離されるのです。世の力はそのように、私たちに、神様の恵みを疑わせ、希望を失わせようとするのです。しかし主イエスは、「わたしは既に世に勝っている」と宣言なさいます。主イエスは十字架と復活によって、「世」の力に勝利して下さったのです。私たちを神様の恵みから引き離す力は、主イエスの十字架の死と復活によってもはや打ち破られたのです。この主イエスの勝利によってこそ、世で多くの苦しみを背負っている私たちが、なお勇気を出して生きることができるのです。

主イエスの勝利によって
 教会の礼拝は、この主イエスの勝利の中で行われます。主イエスが既に世に勝って下さっているからこそ、私たちは神様を礼拝することができるのです。礼拝は、私たちの勝利によってではなく、主イエスの勝利によって支えられているのです。それゆえに、毎週の礼拝に集っている者が、そのことを自分の勝利、自分の手柄のように思い、それによって神様の恵みや支えを受けることができると思うのは間違いです。同じように、礼拝に集うことができなければ、もう神様の恵みや支えを受けることができない、と思うのも間違いです。世の力の前で無力であり、それに妨げられて礼拝に集うことが普段できないという苦しみの中にあるとしても、私たちは、主イエスの勝利によって、神様の恵みと守りの中に既に置かれているのです。

神の凱旋行進
 礼拝は、主なる神様の勝利によって支えられている、そのことを、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第24編が歌っています。その3節には、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」という問いがあります。それはつまり、神様を礼拝をすることができるのはどのような人か、という問いです。そしてその答えは4節の「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」です。そういう人こそ、神様を礼拝することができるのだ、と言っているのです。これを読む時私たちは、自分は果して主の山に上り、聖所に立つ資格があるだろうか、と考えてしまいます。そして、自分は潔白な手と清い心を持つ者でもないし、むなしいものに魂を奪われることがしばしばあるし、欺くものによって誓ってしまうような者だ、神様を礼拝する資格など自分にはない、と思わずにはおれないのです。しかしこの詩はその後の7節以下で、「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」と歌っていきます。城門とは、主の山、聖所のあるエルサレムの城門です。そこを通って、栄光に輝く王として主なる神様が来られるのです。その主は、強く雄々しい主、雄々しく戦って勝利を得る主です。つまりここに見つめられているのは、主なる神様の凱旋行進です。戦いに勝利した、栄光に輝く王である神様が来られる、その凱旋行進を、エルサレムよ、広く城門を開いて迎えよ、と歌っているのです。この主なる神様の凱旋行進の一行が、主の山に上り、聖所に立つのです。主の山に上り、聖所に立って礼拝をすることができるのは、主なる神様の凱旋行進につき従う者たちなのです。彼らは、自分たちの勝利によって、自分たちの立派さによって礼拝をすることができるのではありません。主なる神様が勝利して下さったので、その勝利のおかげで、従う者たちも共に主の山に上り、聖所に立ち、礼拝をすることができるのです。私たちの礼拝も同じです。私たちが神様を礼拝することができるのは、私たちが苦しみに勝利したからではなくて、主イエスが勝利して下さったからです。その主イエスの勝利の行進に、私たちも加えられているのです。教会に連なっているとはそういうことです。キリスト者とは、自分で苦しみに勝利して礼拝を勝ち取った者ではありません。私たちはむしろ、もともと罪の奴隷、虜だったのです。そこに主イエスが来て下さり、罪と死の力に勝利して、私たちを解放して下さったのです。その勝利によって今や私たちは主イエスのもの、主イエスの凱旋行進に連なる者とされているのです。そこに私たちの救いがあります。普段礼拝を守っている者も、様々な妨げによってそれができずにいる者も、同じようにこの救いにあずかっているのです。

礼拝の群れ
 今日私たちはこのように共に礼拝を守ることができました。主イエスの勝利によって支えられたこの恵みを深く感謝したいと思います。そして普段、日曜日にここで行われている礼拝、皆さんがいつもはなかなか集うことができずにいる礼拝もまた、主イエスの勝利によって支えられているものです。その勝利にあずかっているのは、そこに集っている者たちだけでなく、皆さんがたお一人お一人をも含めた、この教会に連なる全ての者たちなのです。その礼拝においていつも、皆さんがたのことを覚えてとりなしの祈りがなされています。主イエスの勝利によって支えられているこの礼拝の群れに、皆さんがたも確かに共に連なっており、同じ恵みによって生かされ、支えられているのです。

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