主日礼拝

平和の道

「平和の道」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第59章1-8節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第19章28-44節
・ 讃美歌 ; 241、183、580 聖餐式75

 
「平和」をテーマに
 教会の入り口にアドベントクランツが飾られ、その蝋燭の一本に火が灯されました。本日から、クリスマスに備えるアドベント、待降節に入ります。  皆さんは今朝、教会に来られた時に、正面の左側に大きな垂れ幕が下げられているのを御覧になったと思います。緑の生地に赤い字というクリスマスカラーで作られたこの幕には、「クリスマスに平和の祈りを」と書かれています。この言葉はクリスマス伝道実行委員会で考えて下さったものですが、私はその相談にあずかる中で、今年のアドベントからクリスマスにかけての礼拝における説教は、コリントの信徒への手紙一の連続講解を中断して、「平和」というテーマで行うことにしました。月間予定表を見て下さればわかりますが、「平和」という言葉の入った説教題が並んでいます。2006年の横浜指路教会のクリスマスのテーマを、「平和」としようと思ったのです。  それは勿論、現在の世界の、そしてこの国の状況を見据えてのことです。北朝鮮の核実験以来、東アジア諸国の間の緊張が高まっています。わが国においても、核武装の話まで出るような状況です。そのような中で先週、防衛庁を省に格上げする法案が衆議院を通過しました。「愛国心を養う」という内容の教育基本法の改正案も最近衆議院を通過しました。そして阿部総理大臣は、数年の内に憲法を改正するとも公言しています。いわゆる「平和憲法」のもとで、曲がりなりにも歩んできたこの国が、大きく方向転換をしようとしていることを感じずにはおれません。世界に目を向ければ、イラクの治安は一向に回復せず、先日も大勢の人が犠牲になる爆弾テロがありました。アメリカ国民は中間選挙で、イラク戦争を始めたブッシュ大統領の率いる共和党に対して否をつきつけました。流石のブッシュも、テロとの戦いをこれまで通りに続けることは不可能になってきています。「あの戦争は間違いだった」として、派遣した軍隊を撤退させる国も増えてきました。そうなると結果的に残るのはイラクにおける泥沼の内戦、ということになりかねない状況です。この戦争に率先して協力し、自衛隊を派遣したわが国の政府は、この状況をどう総括するのでしょうか。政治的な事柄についての判断は人それぞれ様々ですし、そうあるべきですが、どのような考え方を持つにせよ、今私たちは、平和について、どうすれば本当に平和を築いていくことができるのか、を真剣に考えるべき時を迎えていると言えるでしょう。今年のアドベントからクリスマスにかけて、そのことをご一緒に考えていきたいのです。…と言っても私がここですることは、キリスト教的平和運動の集会でのアピールのようなことではありません。むしろ私は今日、皆さんと共に、アドベントを迎えたことの意味を、聖書のみ言葉から聞いていきたいと思っているのです。そのことの中で、自然に、「平和」というテーマに触れていくことになるでしょう。

到来する主イエス
 アドベントとは、「到来」という意味の言葉です。主イエス・キリストの到来を覚え、それに備える時、それがアドベントです。それは第一には勿論、主イエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事を覚え、それを喜び祝うクリスマスに備えるということです。アドベントに入るとクリスマスの準備で教会は忙しくなります。私も今年は二つの学校と横浜YMCAでクリスマスの礼拝説教を頼まれていて、教会のも合わせるといったい何回クリスマスの話をしなければならないのか、という感じです。そんな中で私たちはアドベントをクリスマスの準備期間としてだけ捉えてしまいがちですが、しかし考えてみるならば、主イエス・キリストの到来に備える、というのは、本質的にはクリスマスの準備とは違うことであるはずです。クリスマスは、約二千年前に主イエスがベツレヘムでお生まれになったことを喜び記念する祭です。クリスマスの出来事において主イエスはこの世に到来されたわけですが、それは過去の出来事であって、それは私たちが記念し、感謝し、喜ぶことではあっても、備えるとか、待ち望むことではないはずです。私たちが備え、待ち望むべき主イエスの到来は、ですから過去の主イエスの誕生であるよりも、将来の主イエスの再臨であるはずです。復活して天に昇り、今は父なる神様の右の座についておられる主イエスが、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と使徒信条が語っている、その到来です。アドベントは、この主イエスの第二の到来、再臨を覚え、それに備え、「主の再び来りたまふを待ち望む」という信仰を養っていく時でもあるのです。つまり、主イエスの第一の到来であるクリスマスに備え、それを待ち望むことを通して、主イエスの第二の到来、再臨に備え、それを待ち望む信仰を深めていくことこそ、アドベントの正しい過ごし方なのです。ですから私たちはこの時、クリスマスの行事の準備だけに心を奪われてしまわないようにしたいと思います。二千年前の主イエス・キリストの誕生を覚えることを通して、これから私たちのところに到来される主イエス・キリストをどのようにお迎えするか、ということに心を向けていきたいのです。  そのことを考えるために、本日はルカによる福音書19章28節以下を選びました。ここには、主イエスがエルサレムに来られた時のことが語られています。マタイ、マルコ、ルカ福音書は、主イエスがそのご生涯の最後に一度だけエルサレムに来られたと言っています。そしてエルサレムに入られたその週の金曜日には十字架につけられて殺されてしまったのです。ですからこれは、いわゆる受難週の始まる日曜日の出来事ですが、「主イエスの到来」という意味で、アドベントに読まれるのに相応しい箇所でもあるのです。

平和の王
 主イエスはどのようにしてエルサレムに来られたのでしょうか。本日の箇所の前半には、エルサレムに入るに当って、主イエスが子ろばを調達なさったことが語られています。主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入られたのです。このことは、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節の預言の実現です。そこにはこのように記されています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。エルサレムにまことの王が来られる、その王は、子ろばに乗って到来されるのだ、と語られているのです。「高ぶることなく、ろばに乗って」とあります。ろばは、高ぶらない、へりくだりの象徴です。それは要するに、立派な馬に乗って来るのに比べて、ろばに乗って来るというのはみすぼらしい、見栄えのしない姿だということです。まことの王はへりくだりの姿で、エルサレムに来られるのです。しかしこの王は同時に「神に従い、勝利を与えられた者」でもあります。その勝利によって何がもたらされるのかが次の10節に語られています。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。戦車と軍馬が絶たれ、戦いが止んで、平和が告げられる、ろばに乗って来る王によって、平和が実現するのです。「馬でなくろば」ということには、戦いの道具ではなく、という意味もあります。まことの王は平和の王なのです。主イエスはろばの子に乗って、ゼカリヤ書の預言する平和の王として来られたのです。それゆえに、主イエスを迎えた人々は38節にある賛美の声をあげたのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。この賛美の言葉は、クリスマスの晩に羊飼いたちに救い主の誕生を告げた天使たちが歌った賛美と重なります。天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。クリスマスを祝う天使たちのこの賛美に声を合わせるように、主イエスをエルサレムに迎えた人々は賛美を歌ったのです。天使たちは「地には平和」と歌いました。地上の人々は「天には平和」と歌っています。エールを交換しているわけではありません。天の平和と地の平和は深く結び合っているのです。それについては後で触れたいと思います。ここで先ず見つめたいのは、主イエスは平和の王として到来される、ということです。クリスマスにこの世にお生まれになった時にも、ご生涯の最後にエルサレムに来られた時にも、イエス・キリストは平和の王であられるのです。

平和への道をわきまえない人々
 平和の王として来られた主イエスを、人々はどのように迎えたのでしょうか。エルサレムに来られた主イエスは、先ほども申しましたように、その週の内に十字架につけられて殺されてしまったのです。人々は主イエスを、平和の王として迎えることをせず、むしろ拒絶したのです。そうなることを主イエスは既にご存知でした。知った上でエルサレムに来られたのです。そのことが、41、42節のお言葉に表れています。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない』」。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…」というのは、「しかしお前はそれをわきまえていない。平和への道を知らない」ということです。エルサレムの人々は平和への道を知らない、それゆえに平和の王である主イエスを受け入れない、ということを主イエスは知っておられるのです。平和への道を知らない者たちは、泥沼の争い、戦いへの道を歩んでしまいます。そしてついに自らに滅びをもたらしてしまうのです。それが43節以下です。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。敵が攻めてきてエルサレムを包囲し、破壊する、そのことはこの後、紀元70年に現実となりました。ローマ帝国に抵抗して戦いを起したユダヤは、その戦いに負け、エルサレムも徹底的に破壊されてしまったのです。平和への道をわきまえない者たちのそのような結末を主イエスは見越しておられ、エルサレムのために涙を流されたのです。  これは当時のエルサレムの人々だけの話ではありません。私たち自身は、あるいは私たちの国は、平和への道をわきまえているでしょうか。それをわきまえていないならば、私たちも、この国も、エルサレムと同じ道をたどらざるを得ないのではないでしょうか。

平和への道をわきまえるとは
 平和への道をわきまえるとは、何をわきまえることなのでしょうか。エルサレムの人々は、「神のおとずれてくださる時をわきまえなかった」と語られています。それが、平和への道をわきまえないことなのです。つまり、まことの神であり、平和の王であられる主イエス・キリストが訪れてくださること、その到来をわきまえていることこそ、平和への道をわきまえることなのです。それは私たちで言えば、二千年前のクリスマスにこの世に来られた主イエスが、将来もう一度、最後決定的に平和の王として来られる、そのことをわきまえて、その主イエスをお迎えする備えをしていることです。そうすることによってこそ、私たちは、平和への道を歩むことができるのです。

天の平和と地の平和
 先ほど後で触れると申しました、天の平和と地の平和の深い結びつきがここで大切になります。天の平和というのは、神様のみもとにある平和です。それは神様が、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちとの間に打ち立てて下さっている平和です。私たちは、神様に背き逆らう罪によって神様の敵となってしまっています。生まれつきの私たちと神様との間には、平和がないのです。しかしその罪を主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪は赦されて、神様との間に平和を与えられたのです。それが天における平和です。地上における平和は、この天における平和が地上に映し出されていくことによって実現していくのです。それが、聖書が教える平和への道です。私たちは誰でも、地上に平和をもたらす道を歩みたいと思います。しかしその道は、地上のことのみを見つめ、そこでの争いや対立をどうすれば解決できるか、ということだけを考えていても歩むことはできないのです。天において、神様が主イエス・キリストによって実現して下さっている平和を見つめることなしに、地上に平和をもたらすことはできないのです。なぜなら地上の平和は天における平和の映し出された影だからです。影は影であって本物ではありません。地上に実現される平和は、天における本物の平和の一部を映し出す影なのです。主イエス・キリストが平和の王としてもう一度来られ、この世が終わって神の国が実現するその終わりの日には、天と地の区別はなくなり、本物の平和が実現し、影は消え去ります。その終わりの日までは、地上の平和は影に過ぎないのです。地上に、完全な平和が実現することはないのです。人間がどんなに努力しても、この世が完全に平和になることはないでしょう。争いや戦いが無くなってしまうことはないでしょう。平和運動で世界から戦争がなくなることはないでしょう。聖書は、そういう冷徹な現実を見つめているのです。けれども同時にこう言うことができます。地上の平和は、天における平和の影に過ぎないことをわきまえているからこそ、私たちは、天の平和を少しでも大きく、よりはっきりと、この地上に映し出す努力をしていくことができるのです。その努力には終わりがないし、完成はありません。地上の平和はいつも不完全であり、しばしば破られ、努力の甲斐もなく戦争が起ったりもするのです。しかし、地上の平和が天の平和の影に過ぎないことを知っている私たちは、そのような現実の中でも失望せず、落胆せずに、なお少しでも地上の平和を増し加えていくために力を尽くすことができるのです。なぜなら私たちには希望が与えられているからです。終わりの日には、主イエス・キリストが平和の王として来て下さり、天において実現している平和をもたらして下さるという希望です。その主イエス・キリストの再臨の希望に支えられて、今のこの世の現実の中で、忍耐しつつ、平和を築くために力を尽くしていくことが、私たちの歩むべき、また歩むことのできる平和への道なのです。

賛美を歌う弟子たち
 主イエス・キリストが、平和の王として、将来再び来て下さり、それによってこの世は終わり、神の国が完成し、そこに真実の平和が実現する。この主イエスの到来、再臨を待ち望み、それに備えていくことが、平和への道を歩むことです。エルサレムに到来された主イエスを迎えて賛美の歌を歌った人々は、その平和への道をわきまえていたのです。その人々とは誰なのでしょうか。ルカによる福音書はこの場面で特徴的な語り方をしています。ルカにおいては、あの賛美を歌ったのは、群衆たちではないのです。37節に、「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」とあります。「弟子の群れがこぞって」あの賛美を歌ったのです。36節には「人々」が自分の服を道に敷いて主イエスを迎えたとありますが、その「人々」というのは「彼ら」という言葉です。それは前のところからのつながりで言えば「弟子たち」です。そして39節には、ファリサイ派の人々が主イエスに、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言ったとあります。これも、あの賛美を歌ったのが主イエスの弟子たちであったことを示しています。平和の王として到来された主イエスを迎えて賛美を歌った人々、つまり平和への道をわきまえている人々とは、主イエスの弟子たち、主イエスに従っている信仰者たちだったのです。

主イエスの涙
 それに対して、それを周りからただながめている群衆たち、ファリサイ派の人々、つまりエルサレムの町の多くの人々は、平和への道をわきまえていない、それを見ることができないでいる、それゆえに主イエスは、エルサレムのために泣いておられるのです。主イエスのこの涙は、平和への道を知らず、滅びへの道をまっしぐらに歩んでしまっている人々に、何とかして、天の平和を見つめ、それを地上に映し出していく道を歩んで欲しい、という主イエスの切なる願いの現れです。主イエスは、平和への道をわきまえない者などは滅びてしまえばよい、などとは思っておられないのです。その者たちのために涙を流して、その行く末を案じておられるのです。それだけではありません。主イエスはこのエルサレムで、十字架にかかって死のうとしておられます。それは、平和の王として来られた主イエスを拒み、受け入れない、その人々の罪をもご自分の身に背負って、死んで下さることによって、罪の赦しの恵みを与えて下さるためです。主イエスは涙を流すだけでなく、肉を裂き、血を流して、天の平和を実現して下さったのです。この後聖餐にあずかります。聖餐において私たちは、主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって、肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって、神様との平和を実現して下さったことを覚えます。主イエスは、天において実現しているこの平和を、地上を生きている私たちにも、言わば味見させて下さるために、聖餐を定めて下さったのです。聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスの再臨において、天の平和が私たちの現実となり、完成するという希望を新たにされて、この地上に天の平和を映し出すための平和への道を歩む勇気を与えられるのです。

黙することなく
 天の平和を地上に映し出し、地上の平和を築いていくために、平和の王であられる主イエスを信じて賛美を歌う弟子たちの、つまり私たち信仰者の役割は重大です。私たちは、主イエスの到来を覚えて、高らかに賛美を歌うことによって、この世に、平和への道を指し示していく使命を与えられているのです。主イエスは私たちに、平和への道をわきまえずに滅びへの道をまっしぐらに歩んでいるこの世界、この国において、この賛美の歌を歌い続けることを期待し、求めておられます。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」というみ言葉は、主イエスの、私たちに対するそういう思い、期待を表しています。この主イエスのご期待に応えて、私たちは、平和の王、主イエスへの賛美の歌を歌い続けましょう。平和の王であられる主イエスが来られることをわきまえ、そこに確かな希望があることを覚えて、争いと戦いの絶えないこの世界に、平和を造り出していくための努力を続けていきたいのです。

関連記事

TOP