「主イエスのもとから」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 創世記 第3章1-10節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第7章53-第8章11節
・ 讃美歌 ; 220、361
はじめに
私たちは今、青年伝道夕礼拝を守るために教会に集っています。ここには、毎週、横浜指路教会の礼拝に来られている方がいます。他の教会で礼拝を守っているという方もおられると思います。又、普段教会に来たことがない方や今日初めて教会を訪れたという方もおられることと思います。様々な方が教会に集まっています。そして、教会に集まる人の思いも、様々です。信仰を与えられて、イエス・キリストを信じて、礼拝に集ってきた方がいるでしょう。イエス・キリストとは、いったいどんな人なのだろうという興味を抱いて来られた方もいるでしょう。自分は、教会に行こうなどとは思っていなかったけれども、自分の家族や知り合いに誘われて、たまには、教会にでも行ってみるかとの思いから来られた方がいるでしょう。皆さんは、それぞれに、異なる思いを抱いて、教会にやって来られたことと思います。
教会は、私たちの主である、イエス・キリストがおられる場所です。私たちは、どのような思いでここに来たかに関わりなく、ここで主イエスと向かい合うのです。もちろん、肉体を取ってこの世を歩まれたイエス・キリストは世におられません。しかし、聖霊の働きによって、この場に臨んで下さるイエス・キリストと向かい合い、御言葉を聞くのです。
本日の説教題を「主イエスのもとから」としました。今、私たちは、それぞれの場所からやってきて、イエス・キリストのもとにいます。ここで、私たちは、キリストと向かい合い、その語られる言葉に耳を傾け、そして、主イエスのもとから歩み出すのです。今まで数えきれない人が、この方のもとに来て、そしてこの方のもとから歩みだしてきました。そこには、主イエスの下を通り過ぎるだけの人もいますが、主イエスとの深い出会いを経験する人もいます。今日は、聖書が語る、主イエスと出会い、そこから歩み出した一人の人の話に聞きたいと思います。
朝早い神殿で
今日お読みした聖書の箇所には、主イエスのもとにやってくる人々のことが記されています。「朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた」。自らの言葉を聞きに朝早くから神殿にやってくる人々がいる。その人々に向かって主イエスは語られたのです。あたりは、朝の神殿の静けさの中に主イエスの声だけが響いていたと思うのです。
しかし、この時神殿に来た人々は単純に主イエスの言葉を聞こうとしてやってきた人ばかりではありませんでした。「律法学者たちや、ファリサイ派の人々」と言われている人々も又、主イエスのもとにやってくるのです。主イエスを試し、訴える口実を得るためでした。この人々は、当時の宗教的指導者で、旧約聖書の律法を厳格に守り、自らの正しさを主張していた人々でした。自分たちこそ、神に救われるべきものだと考えていたのです。しかし、彼らは信仰深く、清く正しい生活をしているかに見えて、実際は自らが人々から重んじられることを求めていた人でした。そして、自分たちのように律法を守っていない周囲の人を、救いから外れた人と軽蔑していました。この人々は、その偽善を指摘されたことで、主イエスと対立していたのです。そして、主イエス、陥れて、亡き者にしようとたくらんでいたのでした。
この時、律法学者やファリサイ派の人々は、「姦通の現場で捕らえられた女を連れて」、主イエスのもとへとやってきたのです。当時の律法では、姦通の罪が定められていました。結婚の約束を交わしていた男女が、その約束を破り、他の異性との関係を持つことです。今風に言えば不倫ということになるでしょう。現代の日本において、不倫は、もちろん咎められることではありますが、そのことによって死刑になるようなことはありません。しかし、当時のユダヤの律法では、この行為は石打の刑に相当する程のものだったのです。そのような大きな罪を犯した人が、朝早い神殿で、静かに座って、主イエスの言葉に耳を傾けていた人々の中に連れて来られたのです。しかも、現場で捕らえられて来たというのです。おそらく、身だしなみを整えることもなく、服もまともに着ていなかったことでしょう。誰にでも、人に隠していること、人に言えない自分の姿があると思います。この女は最も触れられたくない罪を、大勢の人が集まる、神殿で暴かれたのです。おそらく、人々の前でさらし者にされる恥ずかしさと、これから自分におこることに対する恐怖のために全身を震わせながら、なされるままに引きずられるようにして連れてこられたことでしょう。辺りは一時騒然となったことだと思います。この時の状況は、今、この礼拝堂で同じ事が起こったことを思えば、容易に想像がつきます。神殿に最も相応しくないことであるかに見えることが起きたのです。
黙る主イエス
律法学者やファリサイ派の人々は、この女を真ん中に立たせて、「先生、こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか。」と問うのです。この人々は、イエスを「先生」と呼んでいかにも教えを請うために来たような態度を取りますが、この人々の思いは、イエスを訴える口実を得て陥れようということでした。
ここで、もし主イエスが、石で撃ち殺すなと言ったとしたなら、ユダヤの律法に違反することになります。主イエスは、律法違反の罪を重く見ない者ということになってしまいます。又、当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、勝手に死刑をすることを赦されていませんでしたから、ここで、石で打ち殺せということは主イエスがローマの法律に違反することになります。ですから、この時、どちらに転んでも、律法学者やファリサイ派の人々にとっては好都合だったのです。この人々は、ついにイエスを追いつめることが出来たと優越感に浸って答えを待っていたことでしょう。
しかし、この時、主イエスは屈み込んで、指で地面に何かを書き始められたのです。主イエスを試そうとして、主イエスの下に来る人々に対して主イエスは答えられないのです。人々が自分の思いから、神を試そうとして、自らの望む答えを得ようとして、詰め寄る時に、主イエスは黙っておられるのです。
罪を犯したことのないもの
しつこく問いつめる者たちに対して、ついに主イエスが口を開かれます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。
主イエスは決して罪を軽んじられる方ではありません。石を投げるなとは言われないのです。むしろ、石を投げなさいと言われるのです。しかし、罪を犯したことのない者が、先ず、投げよと言われるのです。ここで、今まで問いつめていた人々は、逆に自らのことを問われるものとなりました。あなたたちの中で、本当に、この女を罪に定めることが出来る人がいるのかと問かえされるのです。主イエスが問題にされる罪とは単純に律法に違反する行為をしたかどうかということにとどまりません。主イエスご自身、「あなたがたも聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と語られたことがありました。主イエスが罪を語られる時、人々の心の中をも問題にされているのです。この問は、律法学者やファリサイ派の人々だけでなく、集まっていた人全てに向けられた問です。私たち人間の罪を問う、根本的な問いかけです。
これを聞いたものは主イエスのもとを立ち去って行くのです。「年長者から始まって」とあります。年長者ほど、人生の経験の中で、この問を前にして、自らなお罪がないとは言えないことを知らされていたということなのかもしれません。この主イエスの問かけを前にして、誰も石を投げることが出来なかったのです。一人また一人と、主イエスのもとを後にするのです。
人間の罪
創世記の3章には、人間がどのようなものなのかということついて記されています。アダムとエバがエデンの園において主なる神から食べることを禁じられた「知識の木の実」を食べてしまうのです。「食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と蛇に唆されるのです。そのことによって目が開け、自分が裸であることを知ったというのです。
善悪を知るというのは、まさに、神のように振る舞うということです。自分が本来の神のようになることです。ここに聖書が記す根本的な罪があるのです。この時、律法学者、ファリサイ派と言われる人々にも、そのような罪を見いだすことが出来ます。まさに、律法を厳格に守ることで自分自身の正しさを主張し、自分たちの正しさを信じて疑わなかったのです。自分たちにこそ正義があり、神に近いものであると考えていたのでした。
しかし、実際に、この人々が行っていたことは、正義を主張する背後で、自らの思いをなすことでしかありませんでした。
「正しい戦争」ということが言われることがあります。果たしてそのような戦争があるのか、もしあったとして、どのような戦争が正しい戦争であるのかということについて、ここで論じることはできません。ただ、戦争がなされる時には、このことが主張されることが多いのです。これは正しい戦争、正義の戦争である。自らの正義を主張するのです。人間は、自らの行いを何とか、正当化しようとして、正義を求めるのかもしれません。戦争のように多くの人の命を奪う行為をなそうとする時には、よりいっそう強く求められるのです。
人間が自らの正義を強く振りかざす時、人間の自分勝手な思いがなされるということが多いように思います。どれだけ、正義、正しさという言葉の背後で、個人的な恨みがはらされ、わがままのために、非理性的なことがなされてきたことでしょうか。
そもそも、ここで、この姦通の現場で取り押さえられた女というのは、決して正義の実現のために、連れてこられたのではありません。この女性は終始、主イエスを陥れるための手段でしかありませんでした。律法学者やファリサイ派の人々の、自分の誇りと自尊心を傷つけた主イエスへの復讐のための道具なのです。
ここで、確かに女性は律法違反の罪を犯しました。婚約者が自分の愛する人ではなかったのか、一時的な欲望に身を任せて婚約者を裏切ってしまったのか、詳しいことは分かりません。この女が律法に違反する罪を犯したということは事実なのです。しかし、ここで、この女を利用して、主イエスを試そうとしている者達の姿にもやはり、罪があるのです。正しさを振りかざして、自分の思いをなそうとする。その実現のためには、一人の若い女性の命のことなど顧みないのです。
主イエスのもとにとどまる
「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」。主イエスは身を起こして言われます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。「主よ、誰も」。誰も、この女に石を投げることが出来ませんでした。主イエスのもとに集まって来た人々は、自らの罪を知らされつつも、その場所を去って行ってしましました。
しかし、皆が、イエスの下を立ち去る中、一人だけ、その場所を立ち去れないでいる人がいました。姦通の現場で捕らえられた女です。自らの意志で、主イエスのもとに来たのではありません。主イエスを訴える口実を得るために連れてこられた女です。この女は、ここで、イエスに「主よ」と呼びかけています。この時、この女は、主イエスの返答によって、自分が生きるか死ぬかが決定するという状況にありました。自分の全てをこの方に委ねる経験をしたのです。ですから、ここで、イエスのことを「主よ」と呼ぶことが出来たのです。
罪人であるということでは、この女も、ここを去った人々も同じです。しかし、ここで、主イエスのもとを去った多くの人々と、この女の違いを挙げるとすれば、まさに、この人は、自らの破れ、自分の罪の現実の前で、自分の全てを主イエスに委ねることしか出来ないことを知らされたということです。この方の言葉次第で、自分自身の全てが決まってしまうということを経験したために、その場を去ることが出来なくなってしまったのです。そのような、経験の中で、この女は、主イエスと出会ったのです。
森有正という哲学者が、『アブラハムの生涯』という本の中で以下のようなことを述べています。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。また密かな欲望がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅」というものがある。そう語った上で、次ぎのように続けます。「人間がだれはばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」。私たちが神様と出会うのは、最も暗く、誰にも言うことが出来ない心の闇の中だというのです。それは、罪と言って良いでしょう。罪のただ中でのみ主イエスと出会うことが出来るというのです。
わたしもあなたを罪に定めない
主イエスは女に言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
この時、主イエス以外のものは皆去ってしまいました。この女は石を投げられることはなくなったかもしれません。しかし、たとえ石打の刑に合わずに、命拾いをしたとしても、この女性の罪が消えてしまったわけではありません。罪を犯したものという事実は一生つきまとうのです。聖書は、人間の罪と、死を結びつけています。この時は命が助かったとしても、いずれ、この女性は死ぬ時が来るのです。それは、丁度、鎖につながれた死刑囚が、いつ執行されるか分からない、自らの刑が執行されるのを恐れつつ歩むようなものです。そのような中での歩みは、罪と死の奴隷となったまま、その事実を忘れるようにして、残りの人生を気晴らしに興じながら歩むということになるのではないでしょうか。真の罪の赦し、死からの解放がなければ、石を投げられそうになる事態を回避したところで意味はないのです。
しかし、主イエスは、この女の赦しの宣言をなさるのです。この場所に最後まで残った主イエス自身は、神の子として、真に罪のない方です。ですから、主イエスこそ、石を投げることの出来る方でもありました。真の神の子として、まことに罪を裁くことの出来るお方なのです。しかし、その主イエスが、罪に定めないと言われるのです。
ただ、宣言されただけではありません。主イエス自身が、この後、罪を担って十字架で命を捧げて下さるのです。だからこそ、罪の赦しを宣言されるのです。この後、ここを去っていった人々は、この時、女に向かって投げようとした石を主イエスに向かって投げようとしたことが記されています。そして、最終的には、主イエスを十字架につけて殺してしまうのです。この、主イエスの十字架とは、私たちの罪を死を神が変わって受けて下さったということを意味しています。神の一人子として、罪のない方である主イエスが、自らの罪のために、どうすることも出来ないでいるものの代わりに、自ら罪に定められて下さったのです。
私たちは自らを支配する罪ということについて楽観的に考えることは出来ません。それは、裁かれることなく終わることはありません。主イエスの十字架とは、まさに、ここで、この女性が本来受けなくてはならない、石打の刑を主イエスが変わって受けて下さったということなのです。そのことによって、この女の罪が赦されるのです。この赦しの宣言を聞くときに、この女は、自らのなしてしまったことを悔い改め、自らの欲望に実を任せて、歩む歩みから解放されたのではないでしょうか。
自分の欲望や、思いや欲望に従って生きる歩みは、時に、魅力的で自分らしい歩みであるかに見えます。しかし、そのような歩みの中で、時に、自らの欲望に支配され、又、自分勝手な正義を主張し始めるのです。そのような歩みは、隣人を顧みることがない、愛のない歩みでしかありません。私たちは、ただ、私たちの罪のために、十字架に赴かれた主イエスのもとから歩みを始める時に、私たちは罪に縛られた歩みから自由にされて、主イエスによって与えられる新しい命に生きるものとさせられるのです。
おわりに
今日、私たちは、共に礼拝を守るために教会にやってきました。礼拝で主イエスと出会うということは、ここで、主イエスの赦しの宣言を聞くということです。この姦通の罪を犯した女の出来事こそ、教会で起こるべき出来事です。この出来事を経験せずに、この主イエスの御言葉に聞かないのであれば、自らの罪に気づかされながらも、尚主イエスのもとにとどまれなかった人と変わりはありません。自分自身の罪の姿を知らされつつ、主イエスに全てを委ねる時に、主イエスが語られる言葉を聞くのです。「わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」。この主イエスの言葉を聞きつつ、新たに歩み出したいと思います。