「種は神の言葉」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; イザヤ書 第55章6-13節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第8章4-15節
良い地になろう
主イエス・キリストのお語りになった、「種を蒔く人のたとえ」をこの礼拝においてご一緒に味わいたいと思います。このたとえ話の内容は、私たち皆既によく知っています。種を蒔く人の蒔いた種のあるものは道端に落ち、人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまった。あるものは石地に落ち、芽は出したがすぐに枯れてしまった。あるものは茨の中に落ち、一緒に生えてきた茨に邪魔されて育たなかった。しかし良い土地に落ちた種は順調に育ち、百倍の実を結んだ。主イエスは11節以下でこのたとえ話を自ら説明しておられます。種は神の言葉であり、道端とは、御言葉を聞くが悪魔によってそれを取り去られてしまう人々である。石地のものとは、御言葉をすぐに受け入れるが、根がないので、試練に遭うと身を引いてしまう人々である。茨の中とは、人生の思い煩いや富や快楽によって御言葉が覆い塞がれて実を結ばない者である。そして良い地に落ちたのは、良い心で御言葉を聞き、忍耐して実を結ぶ人たちである、と言われているのです。私たちがこの主イエスの説明から聞き取る教えはたいがい、蒔かれた御言葉の種がよい実を結ぶためには、私たちが良い地にならなければならない、ということではないでしょうか。道端や石地や茨の中のような者になるのではなく、み言葉を立派な善い心で聞き、それをよく守り、忍耐して実を結ぶ、そういう良い地になろうと努力することへの励ましとして私たちはこの話を読むことが多いのです。けれども、果してそのような読み方は本当に正しいのでしょうか。主イエスはこの話によって私たちに、良い地になって御言葉の種をしっかり実らせなさい、と言っておられるのでしょうか。いや、この話は、それとは全く別のことを私たちに語りかけている、と私は思うのです。そのことをご一緒に考えていきたいと思います。
種は神の言葉
このことを考える上で鍵となるのは、11節の「種は神の言葉である」というみ言葉です。良い地に落ちた種は百倍の実を結んだ、とこのたとえ話は語っています。その百倍の収穫を生み出したのは何の力なのでしょうか。「良い地」の力でしょうか。根本的にはそうではありません。蒔かれた種そのものの中に、芽を出し葉を茂らせ花を咲かせ実を実らせていく力があるのです。小さな種の中に、今日の言葉で言えば遺伝子情報が入っていて、それが豊かな実りを生じさせるのであって、土地は、そのための水や養分を提供したに過ぎません。どんなに良い土地があっても、それだけでは、そこに種が蒔かれなければ、何の実りも得られはしないのです。つまり私たちがこの種蒔きのたとえにおいて本当に見つめるべきものは、蒔かれた土地ではなくて、むしろ種そのものであり、その中に秘められている偉大な力なのです。それは神様の御言葉の偉大な力です。「種は神の言葉である」というみ言葉はそのことに私たちの目を向けさせてくれるのです。
御言葉によって生かされる
私たちはともすれば、この種そのものの力、み言葉の力よりも、土地のことばかりを見つめてしまいます。そして、自分はこのたとえにおけるどの土地だろうか、と考えてしまいます。自分は「良い土地」だ、と思う人はまずいないでしょう。たいてい私たちは、自分が道端のような者か、あるいは石地か、茨の中であると感じるのです。あるいはそれら三つが全部あてはまる、と思ったりするのです。そして、もっと良い土地にならなければ、と思っていろいろ努力してみたり、あるいは、自分はとうてい良い土地にはなれそうもない、と早々とあきらめてしまったりするのです。しかし、そのような読み方は全く間違っています。なぜなら、そのような読み方をするなら、この種が実を結ぶのも結ばないのも、私たち次第だ、ということになるからです。御言葉を生かして実らせるか、それとも殺してしまうか、が私たちにかかっているのだとしたら、私たちが、神様の御言葉に対して生殺与奪の権を握っている、ということになるのです。そんなことは間違っています。私たちが御言葉を生かしたり殺したりすることなどできません。私たちが御言葉を生かすのではなくて、御言葉が私たちを生かすのです。私たちは神様の御言葉によって生かされるのです。
種を蒔いて下さる神
私たちが信仰を与えられたのもそのようにしてでしょう。まず自分がみ言葉を受け入れる良い地になって、それからみ言葉の種が蒔かれ、それを私たちが育てていって信仰の実を結んだのではありません。まず神様が私たちに、御言葉の種を蒔いて下さったのです。その種によって、私たちは信仰を与えられたのです。御言葉を聞くことの中で次第に、御言葉を受け入れる心を整えられてきたのです。最初から御言葉にとっての良い地であった人など一人もいません。私たちも、最初は道端のように、御言葉を聞いても全く反応せず、そのうち忘れ去ってしまうような者でした。また石地のように、信じて芽を出したようでいて、少し試練にあうとすぐ挫折し、身を引いてしまうような者でした。あるいは茨の中のように、この世の様々なことに心が塞がれて、神様に従い、仕えることがなかなかできない者だったこともあります。いや今でも、これら全てのことを多かれ少なかれ引きずりながら歩んでいるのが私たちだと言わなければならないでしょう。けれども、神様は、そのような私たちに、御言葉の種を蒔き続けて下さったのです。このたとえ話の主人公は、種でも土地でもなく、種を蒔いている人です。その人とは神様です。神様が、私たちの心に、御言葉の種を蒔き続けて下さったのです。それが道端であっても、石地であっても、茨の中であってもです。このたとえ話はそのことをこそ語っているのです。私たちの心の中には、芽を出さずに、あるいは出してもすぐに枯れてしまい、実を結ばずに萎んでしまった御言葉の種の残骸がどれほど沢山埋まっていることでしょうか。しかしそれでも神様は、忍耐して種を蒔き続けて下さったのです。それによって私たちの心は次第に耕され、み言葉を信じて受け入れ、それを守り、忍耐して実を結ぶ良い地へと変えられてきたのです。御言葉の種にはそのように、私たちを造り変え、良い地として下さる力があるのです。本日共に読まれた旧約聖書、イザヤ書55章にもそのことが語られています。10、11節をもう一度読んでみます。「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。神様の御言葉が一旦語られたなら、それはむなしく消えていってしまうようなことはないのです。その御言葉によって神様のみ心が成し遂げられていくのです。神様を信じるとは、この御言葉の力を信じることなのです。
種は主イエス・キリスト
神様が私たちの心に蒔いて下さっている御言葉の種、それは神様の独り子イエス・キリストご自身です。ヨハネによる福音書の12章24節に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とあるように、主イエス・キリストは、ご自身を、一粒の麦の種として、私たちのために蒔いて下さいました。地に落ちて死んで下さいました。それが主イエスの十字架の死です。主イエスのその死は、百倍の実りを生みました。父なる神様が主イエスを復活させて下さり、私たちに罪の赦しと、主イエスの復活の命にあずかる希望とを与えて下さったのです。父なる神様は御言葉の種である主イエス・キリストを私たちに蒔いて下さり、その種が芽を出し葉を茂らせ花を咲かせて、豊かな実りを生むように、養い育てて下さったのです。私たちが主イエスを信じる信仰を与えられているのは、この神様の恵みによるのです。
聖餐の恵み
この礼拝において私たちは聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯は、主イエス・キリストがご自分の体と血とを、私たちのために、一粒の麦の種として蒔いて下さったことを示しています。聖餐にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストという種をこの体の中に蒔かれるのです。私たちはもとより、その種にとって良い地ではありません。私たちの信仰の強さとか、主イエスにどのように従っているかとか、神様のみ心をどれだけ行っているかということを見つめていくなら、私たちは道端であり石地であり茨の中のようなものだと言わざるを得ません。しかし神様は、そのような私たちに主イエス・キリストという種を蒔いて下さり、聖霊のお働きによってその種を育て、実を結ばせて下さるのです。その聖霊の導きによって、私たちは洗礼を受けました。洗礼において、聖霊が私たちを新しくして下さり、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みにあずからせ、キリストの体である教会の一員として下さったのです。聖餐においても、同じ聖霊が働いて下さっています。聖霊のお働きによって、小さなパンの一切れと杯一杯のぶどう汁をいただくことが、主イエス・キリストの体と血とにあずかることとなるのです。この聖霊のお働きによって、私たちは良い地とされていきます。何ができるからでもない、どんな立派な働きがあるからでもない、神様に熱心に奉仕しているからでもない、主イエス・キリストによる神様の愛と恵みをいただいて、その中で、いつも共にいて下さる主イエスに支えられて生きている、そのことこそが、み言葉の種のすばらしい実りなのです。
もう一度申します。私たちが御言葉を生かして実らせるのではありません。御言葉が私たちを生かし、私たちの歩みに、神様の恵みの実りを豊かに与えて下さるのです。そのことに感謝しつつ、聖餐の恵みにあずかりましょう。