主日礼拝

幼な子のように

「幼な子のように」 伝道師 矢澤 美佐子

・ 旧約聖書; 詩編 131:1-3
・ 新約聖書; マタイによる福音書 18:1-5

 
 今朝の御言葉は、今日の物語の一つ前の物語から続いてきている物語です。1節に「その時」と記されております。「その時」というのは、どういう時なのでしょうか。おそらく、この福音者を記した人たち、そして、最初にこの福音書が読まれた教会では、17章の物語に続く流れの中でこの部分を読むという思いで「その時」という言葉を記したのではないでしょうか。

 17章22節を見ますと、イエス・キリストが弟子たちに十字架につかれる事を予告したお言葉が出て参ります。
 『一行がガリラヤに集まった時、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。』
 と記されています。
 イエス・キリストは御自身の事を、人の子と呼ばれました。それは御自身が神の子であられる、神であられる、けれども、今、人となって、人の贖いの為に人を罪から救う為に、人として、この世に来ておられる。そのことをお示しになっておられるのです。
 しかし、この世の人のうち誰が、この方こそ、神の子であると信じ得たでしょうか?弟子達さえ、そのことを御言葉どおりに信じる事が出来ませんでした。イエス・キリストが、この世の罪人の救いの為に、十字架にかかって、死んで下さる神の子である。その死によらなければ、私達は救われない。けれども、そのことを誰も信じる事が出来ませんでした。
 そして、イエス・キリストが十字架の予告をなさる。それだけではありません。甦りの予告をなさる。それにも係わらず、この事が弟子達にとっては、心を痛める事であった。そういう風に、ここには記されています。
 その事の中で、今日のところを読んでいきたいと思います。

 弟子達は、イエス・キリストに質問いたします。
「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか」
 天国で一番偉いのは誰ですか?どういう人ですか。どういう人の方が偉くて、どういう人の方が偉くないのですか?と順位を付けようとするのです。そして、自分は上位に行きたいのです。誰が天国で一番偉いのですか。イエス・キリストは幼な子を呼び寄せて仰せになります。
 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事はできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。私の名のために、このような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
 と仰せになります。
 子供です。この子供のようにならなければ天国に入る事はできない。この子供のように自分を低くする者が、天国で一番偉いのである。そうイエス・キリストはここで仰せになります。
 これは、どういう意味なのでしょうか?

 子供、幼な子、という言葉には不思議な響きがあります。本当に無邪気で汚れなく可愛らしい様子を私達に見せてくれます。
 子供と言うのは、見ているだけでも飽きないものです。遊んでいる姿は、本当に私達を楽しくさせるものがあります。
 けれども、子供、幼な子が可愛いらしくて、そして、子供を見ていて飽きないのは、それは、子供に罪が無いからではありません。また、子供が、ここで記されているように、謙遜であるか?というと決してそうではありません。むしろ、子供同士で遊んでいる会話を聞いていますと、とても大人同士なら言えない様な、辛辣な事を言い合っている。そういう事が多くあります。けれども、言う方も、言われる方も、そのことがどんなに辛辣な事か気が付いていないから救われていると言う事なのだと思うのです。やっている事は大人と同じです。そんな風に、一人前に色んな事をやっていると言うのが、私達が見ていて面白いところなのです。
 ですから、子供のように、と言うのは、子供っぽくなってしまっても駄目なのです。子供のようであると言っても、子供っぽさと言うのは捨てて行かなければならないでしょう。ある意味で神の前に成熟した信仰を持たなければならないでしょう。
それなら、イエス・キリストがここで、子供のようにならなければ、と仰せになっているのは、どういう意味なのでしょうか?

 教会学校での事ですが。以前、私が教会学校で使う的当ての的を作っていた時のことです。大きなダンボールに、ボールが通るくらいの穴を何箇所かあける作業をしていました。一生懸命カッターナイフでダンボールを切って穴をあけていました。その様子を子供達は楽しそうに見ていました。そのうち「僕もやりたい」と言い出して、挑戦してみるのですけれども、なかなかうまくできません。結局、ほとんど私がする事になって、子供達の言うとおりの場所に、言うとおりの大きさの穴をあけていました。
 そんな様子を見ていた子供が、「お父さんなら出来るのになぁ」と言ったんです。そして、「僕は出来ないから、先生お願い、ここにも穴あけてね」と言うんです。
子供は、そこで、自分には到底できない事を大人は出来るんだ。大人って偉いんだと、そう思うのだと思います。
「お父さんやお母さんは、僕が出来ない事を何でも出来る。僕はこのくらいの事だったら出来るけれども、お父さんはこんな事だって、あんな事だって出来るんだ。僕は、こんな事しかできないけれど、大人は、こんな事だってできるんだ。」と、そう言う事の出来る謙虚さを、子供は持っているんだと思います。
 子供は、自分に出来ない事を何でも出来る、自分のお父さん、お母さんを尊敬しています。それは、どうしてでしょうか。自分に出来ない事ができるからです。それは、自分の出来ない事が出来る人の前に出ると、自分が出来ないって事をちゃんと認める事が出来るからです。そして、出来るっていう事が、すごいなぁと思うんです。
 しかし、大人になると、なかなかそうはいきません。自分が出来ない事を、出来る人がいると、羨ましいと妬ましく思いながら、くそ~負けたくないと思うんです。自分も出来るようになりたいと思いますが、出来ない自分を認めることができないんです。出来ない自分を認めることが出来ない。それは、大変苦しい事です。自分の弱さ、自分の破れ、自分の小ささを認める事が出来ない。

   聖書は、人間の罪を、鋭く示し、ありのままを描き出します。このことが、よく表されているのが、今日の物語の一つ前の物語です。神殿の納入金を納めなさい、と徴収する人が回って来て、あなたの先生は、何故納めないのですか?とペテロに聞いています。ペテロは、「納めます」と言います。口語訳聖書では「納めていらっしゃいます」と答えています。この「納めていらっしゃいます」と言う答え。これが、人間の罪を、よく表しているのです。
ペテロは、神殿税を、自分自身も納めていませんでした。それに、主イエスも納めておられない。その事を知っていながら、「納めていらっしゃいます」と言ってしまいます。
 自分も出来ていない、主イエスも出来ていない。その事を認められないでいるのです。何故でしょうか?お金が無かったからです。その事が認められないのです。だから、「納めていらっしゃいますよ」と言ってしまったのです。

 人間は何でも自分で出来たいとそう思います。大人になると、ますます、そう思います。私達は、自分ができない事を認める事ができない、そういう弱さの中にいるのです。
 ですから、自分の救いについても自分は神の前で正しいから救って頂けるんだ。自分が、自分で自分の正しさを確保する事が出来るから救って頂けるんだと思いたいのです。神の前でもです。
 ですから、イエス・キリストが私達の為に十字架に付いて下さるという事が受け入れられないのです。そんな神などいらないと、十字架に付けて殺してしまうのです。それが、私達の罪なのです。
 その罪を御自分が担うために人となられ、この世に来て下さったのがイエス・キリストなのです。イエス・キリストは、その罪人たちによって、十字架に付けられることになり、十字架に付けられるような、そんな救い主なんていらないと言ってしまうような人間の罪を全て引き受けて十字架に付いて下さったのです。

 この、主イエスが十字架に付けられると言う事を、最初に弟子達にお告げになった時に、ペテロはイエス・キリストを脇へ引き寄せて、イエス・キリストをたしなめました。「そんな事があってはなりません」そう言いました。イエス・キリストは、そのペテロに何と仰せになったでしょう。「サタン、引き下がれ。あなたは、わたしの邪魔をする者。神の事を思わず、人間の事を思っている」と仰せになりました。
サタンと言うのは、悪魔と言う意味です。ですから、サタンよ引き下がれ、と言う御言葉は大変厳しく、ひどい言葉なのです。しかし、それは、サタンに支配され、サタンの虜となっている、つまり、罪に支配され、罪の虜になっている、その罪の支配からペテロを救う為に、サタンよ引き下がれと仰せになったのです。そして、そのサタンの支配の中にある、ペテロの罪を粉砕されるのです。そして、神の国へと導かれるのです。

   今日の御言葉では、幼な子のような者が、神の国に入るのだと記されています。小さい者、子供、幼な子です。それは、どういう意味なのでしょうか。それは、無力な者と言う事です。つまり、ほんとうに神の前で、その無力さを認め、神の全能の力の前に、「私はできない」と受け入れる者です。そういう者が神の国に入る、と言っているのです。誰が一番偉いかと言っている人たちではないのです。神の前で、ほんとうに私は出来ないと言う人が、神の国に入るのです。そうでなければ、神の国に入る事ができないのです。なぜでしょうか。それは、自分から入ることが出来るものではないからです。自分からは入れないからです。入れていただかないと入れないからです。自分では出来ないのです。
 そして、私達は、神の国に入れていただける者たちなのです。それは、神が入れて下さるからです。こんな罪人でも、必ず入れて下さるのです。その事を、神は、お出来になるのです。この救いを、私達は信じること以外に、どんな方法で神の国に入る事が出来ると言うのでしょうか。
 そして、これらの小さいな者、子供です。幼な子にその事をして下さる神を、ほんとうに示していきたいと思うのです。
 子供たちに、幼な子たちに、救われる道を示したいと思うのです。たった一つの、唯一の救いなら、子供に示さないわけにはいかないと思うのではないでしょうか。
しかし、私達は、妨げる者、つまずかせる者であり、自分の力でちゃんと正しく伝える事などできない者であるのです。そのことをも、きちんと知らなければならないでしょう。
 イエス・キリストが十字架にかかられる。この救いこそが、私達の唯一の救いである。これを指し示すのでなく、かえって、イエス・キリストを脇へ引き寄せて、「そんなことがあってはなりません」と、言ってしまう。私達は、つまずかせる者なのです。「サタンよ引き下がれ、私の邪魔をする者だ」と言われて当然な、私達なのです。それは、私達が、自分自身の罪の責任を、自分では負いきれない。それほどの、深く重い罪を背負っている存在だからです。
主イエスの救いを指し示すべき責任を負いながら、その救いを指し示すどころか、その邪魔してしまう。「私の邪魔をする者だ」とイエス・キリストに言われる通りの私達であると言わざるを得ません。人をつまずかせる様な私達なのです。
 ですから、自分でこの事は自分で伝えられる、自分でこの事は証しできる。そのような事ではないのです。ただ、つまずきとなる自分の罪を悔い改めて祈るしかないのです。そして、そこでこそ、イエス・キリストが十字架について、死んで下さり、甦って下さるのです。それによって、初めて、人をつまずかせてしまうような私達を、聖なる者として、神の救いを述べ伝える使者として、立たせて下さるのです。この事を私達は信じるのです。
イエス・キリストは、まさに、その救いが伝わり、罪人である私達が救われる事を、望んでおられるのです。そして、私達が、さらに、人を導く、幼な子を導く、その時には、そこに必ず、主ご自身も共に立って下さり、自らを証しして下さるのです。私達の伝道の業を、支えて下さるのです。
この為に、この私達のために、主イエスは、十字架にかかって下さったのであり、甦って下さったのです。
 そして、甦りの力をもって、私達を捉えて下さるのです。この私たちを捉えていて下さる方に、私達は、ほんとうに、全てを委ね、全てを明け渡して行くのです。
 だから、そのために、自分が何とかしようと言うのでもなく、また、きっと、神様のことだから何とかして下さるだろうと、うそぶくのでもなく、真剣に祈っていきたいのです。最も小さい者をつまずかせない為です。
 私達に、本当に主イエスが働いて下さる事を信じて立つなら、私達の目の前に主イエス御自身が立って下さって、必ず御自身を証しして下さるのです。私達は、それを信じるようにさせられているのです。

  今、私達は、小さい者、幼な子として、神の国の民とされています。そのようにして、神の目からは、私達は、大きな存在であるのです。その神の国を地上に実現するところ、それが、教会です。
教会に集まる私達は、小さい者、幼な子です。私達は、雄弁に、立派に祈りをすることが出来ているわけではありません。また、何もかも分かって神の戒めに従って、聖書に従って生きて行くことが出来ているわけでもありません。けれども、幼な子が、自分の小さい事を認め、自分よりもはるかに何でも出来る父親を信じ、ついて行くように、私達は、「天の父」に全てを委ね、明け渡して、付いて行くのです。
そして、「天の父」に付いていく、その歩みの中で、小さい自分自身が、どれだけ、神に重んじられているか、と言う事を知らされていくのです。自分自身では、何の役にも立っていない、価値の無い存在としか思えなくなってしまった時も、神は、かけがえのない、大事な存在として重んじて下さっており、だからこそ、神の国へと入れて下さるのです。私達を愛し続け、大事な神の子として、神の国の民として下さるのです。私達は、そのことを信じ、全てを明け渡し、委ねて行くのです。これが、幼な子のように信じるということなのです。幼な子のように、「天の父」に全信頼を置いて、「アバ、父よ」と神を呼ぶ。いつも、そこへ立ち返って行くのです。

私達は、天の父なる神にとって、愛する子であり、かけがえのない大きな存在です。神の愛する神の子として、私達は、今、神によって、この世に送り出されているのです。
 主イエス・キリストが、十字架で死なれ、甦って下さった。この救いから、父なる神が、私達をどれほど、愛してやまないかが、分かるのではないでしょうか。小さい私達を、どれほど大きな存在として下さっているかが、分かるのではないでしょうか。
主が、今、御自身の、その甦りの命をもって小さな私達を、この世に送り出し、生かして下さっているのです。
私達のような小さい者に、神は目を留めて下さっています。私達のような小さな者の傍らに、主イエスは立ち続けて下さっているのです。そして、主は、天の父に「私の十字架によって、この小さな者を、神の国お入れ下さい」と祈って下さっているのです。
 この主の十字架での死によって、私達は神の国の民とされ、この世の何ものにも勝る救いを、とこしえの命の約束を、頂いている事を信じ、感謝して「天の父よ」と呼び続ける者でありたいと思うのです。

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