主日礼拝

喜び・祈り・感謝

「喜び・祈り・感謝」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第35章 1節-10節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第5章 16節-22節

いい言葉?残酷な言葉?
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。これはテサロニケの信徒への手紙一の中で最もよく知られている、そして単独でもよく読まれ、親しまれている言葉です。あなたのお好きな聖書の言葉、いわゆる愛誦聖句はどれですか、と訊ねられた時にこの言葉をあげる方も多いでしょう。この言葉の書かれた色紙やカードを部屋に飾っておられる方も多いことと思います。これは聖書の中の、「いい言葉」の代表的なものであると言うことができます。
 けれどもよく考えてみるならば、いや、別によく考えなくてもこの言葉を本当に真剣に受け止めようとするなら、これはものすごく厳しい言葉だということを誰でも感じるのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい」。私たちはいったい、いつも喜んでいることなどできるでしょうか。「絶えず祈りなさい」。祈りが大切であり、神様から与えられている恵みなのだから、絶えず真剣に祈ることが必要だ、ということは信仰者なら誰でも分かっています。しかしそれでも絶えず祈ることはなんと難しいことか、というのが私たちの正直な思いなのではないでしょうか。「どんなことにも感謝しなさい」。「どんなことにも」です。どんなつらいこと、苦しいこと、理不尽だと思うことがあっても、神様に感謝して生きる、それはなんと厳しい要求でしょうか。この言葉は、考えようによっては、聖書の中で最も厳しい、あるいは最も残酷な言葉だとすら言えると思うのです。

手紙の文脈の中で
 この言葉は確かに、私たちの信仰を励まし導くよい言葉です。信仰者が座右の銘として心に刻みつけるのに相応しい言葉です。しかしこの言葉をそれだけ取り出して信仰のスローガンにしたり、自分のモットーとすることには気をつけた方がよいだろうと思います。ともすればこの言葉は、自分が何かで喜んでいる時、感謝している時、調子よくいっている時だけの、お飾りの言葉になってしまい、ひとたび苦しみに襲われたり、逆境に陥ってしまうと見向きもされないようなことになりかねないのです。そうならないためには、私たちはこの言葉を、その置かれている文脈の中で、つまりこの手紙の全体において語られている事柄の中にしっかりと位置づけて、パウロが言おうとしていることを正しく受け止めていく必要があると思います。

パウロの喜び、祈り、感謝
 パウロはこの手紙の冒頭、1章2節においてこう言っています。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」。パウロは、「いつも神に感謝している」のです。そのことは2章12節にも語られています。そこには「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています」とあります。このパウロの神様への感謝は、いずれも「あなたがた」、つまりテサロニケの教会の人々のことを覚えての感謝です。テサロニケ教会のことを、パウロはいつも祈りにおいて神様に感謝しつつ思っているのです。その感謝は当然喜びを生みます。2章19、20節で彼は喜びを語っています。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」。テサロニケ教会の人々こそ、自分の喜びだと言っているのです。3章9節にもそれが語られています。「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」。このようにパウロはこの手紙において、祈りにおける喜びと感謝を語ってきたのです。彼はテサロニケ教会の人々のことを覚えて絶えず祈っており、その中で喜びと感謝に満たされているのです。
 この喜びと感謝は、パウロの伝道によって誕生したテサロニケ教会が、順調に、うまく行っている、何の問題もなく歩んでいる、ということから来る喜びや感謝なのでしょうか。そうではないということを私たちはこれまで読んできた所から知らされています。そもそもパウロがこのような手紙を書いているということは、彼は今テサロニケにいないということです。せっかく福音の種が芽を出し、信仰者が生まれ、教会が誕生したのに、彼は間もなくテサロニケを去らなければならなかったのです。そしてその後も、2章17節以下にあるように、再三テサロニケを訪れたいと願い、その機会を求めてきました。しかし今に至るまでそれは実現していません。思い通りになっていないのです。パウロはそのことを、「サタンによって妨げられました」と言っています。神様に敵対する力が、伝道者パウロの働きを妨げているのです。パウロの伝道活動はいつもそういう妨害や迫害によって妨げられ、人間の思いからすれば、決して順調にうまく行ってはいないのです。また、テサロニケ教会の人々の現状も、決して問題のない、幸せな状況ではありません。パウロがこの町にいられなくなったのは、ユダヤ人たちが彼らの信仰に反対して騒動を起したためです。パウロが去った後残された教会の人々はそういう迫害に常にさらされているのです。1章6節に、「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」たとあります。教会の人々の置かれている状況も、苦しみの中にあるのです。また、4章13節以下に語られている、主イエスの再臨と、その時までに「眠りについた」人々の救いについての教えから伺えることは、教会の人々の信仰に動揺が生じているということです。主イエスの救いにあずかる信仰によって歩み出したけれども、その信仰を持っている者もやはり死んでしまう、という現実を見た時に、果してこの信仰は本当に救いを与えるものなのだろうか、という動揺が教会の中に起ってきたのです。生まれて間もない教会であり、集っている人々も信者になって間もない人々なのですから当然のことですが、信仰の面でもそういう動揺や弱さをかかえていたのです。そのような現実の中で、パウロは、この教会のことを常に祈りに覚え、喜び、感謝しているのです。そして教会の人々に、自分のこの喜びと祈りと感謝に加わりなさいと語りかけているのです。「私はあなたがたのことを覚えて、いつも喜んでいる。絶えず祈っている。そしてどんなことにも、どのような困難な状況や厳しい現実の中でも、感謝している。あなたがたもその私と共にいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい」。それが、この5章16節以下で彼が語っていることなのです。

神のご意志
 何故パウロはこのようなことを言うのでしょうか。それは、18節後半、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」、これが理由です。神がそう望んでおられる、ここは直訳すれば、「それが神のご意志である」となります。私たちが喜び、祈り、感謝して生きることを、神が望んでおられる、それが神のご意志である、だから、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するのです。私たちの中に、喜ばしいことがあり、祈りたいことがあり、感謝すべきことがあるから、喜び、祈り、感謝するのではありません。神が私たちにそれを望んでおられるから、それが神のご意志であるから、それに従って、私たちは喜び、祈り、感謝するのです。言い換えるならば、この喜び、祈り、感謝の根拠は私たちの中にはないのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というみ言葉を聞いて、自分の中にどんな喜びがあるか、祈り心があるか、感謝すべきことがあるか、と捜していくなら、この言葉は重荷となり、まことに厳しい、残酷な言葉になってしまいます。私たちはこの言葉を読む時に、自分自身の中にある喜びや祈りや感謝を追い求めてはならないのです。そうではなくて、神様が私たちに対してどのようなみ心を抱いておられるのかを探り求めていかなければならないのです。

キリスト・イエスにおいて
 神様が私たちに望んでおられること、神様のご意志は、「キリスト・イエスにおいて」のご意志です。私たちは、神様が私たちに望んでおられること、そのみ心を、主イエス・キリストを通して、主イエス・キリストにおいて見つめなければなりません。それ以外のところで神様のみ心を探り求めることを、神様はそれこそ望んでおられないのです。キリスト・イエスにおいて神様が私たちに望んでおられること、それは言うまでもなく、私たちが主イエスによる罪の赦しの恵みを受け、神様の民、神様が大切に愛し、育み、養って下さる神の子らの群れに加えられることです。私たちをその救いにあずからせることをこそ、神様は望んでおられるのです。神様はそのために独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。独り子主イエスの死によって、私たちの罪を赦して下さること、それが神様のご意志です。私たちの信仰とは、この神様のご意志が自分に向けられていると信じることです。そしてこのご意志に従うことです。神様が、独り子の命を犠牲にしてまで、この私を愛しておられる、その愛のご意志を信じて、それに従い、神様に愛されている自分であることを受け入れるのです。この神様の愛のご意志は、私たちがどのような者であるかによって左右されることはありません。私たちがどんなに深い罪を犯している者であっても、清く正しい生活ができずに、汚れた思いと行いに陥ってしまっていても、そのような罪人のためにこそ独り子主イエスを遣わし、十字架の死による救いを与えて下さった神様のご意志は決して変わることはないのです。また私たちがどのような苦しみや悲しみに陥っていても、自分を取り巻く状況が絶望的で、何の希望も持てないと思うことがあっても、それでも、独り子の十字架の苦しみと死とによって私たちを愛して下さる神様のご意志は決して揺らぐことはないのです。この主イエス・キリストにおける神様のご意志のゆえに、私たちは、いつも喜んでいることができるのです。絶えず祈ることができるのです。どんなことにも感謝することができるのです。

復活
 主イエス・キリストにおける神様の恵みのご意志は、私たちに罪の赦しの恵みを与えて下さることに留まりません。主イエスは十字架にかかって死んで、そして復活されたのです。父なる神様は主イエスに、死に勝利する復活の命を与えて下さったのです。それは、主イエスの十字架による罪の赦しにあずかる私たちが、主イエスの復活にあずかる新しい命をも与えられるという希望の根拠です。4章14節に「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」とあるのはそのことです。神様は私たちに、主イエスと同じ復活の命を与えて下さるのです。主イエスにおける神様の愛のご意志は、私たちのこの人生、この世を生きている間だけのことではないのです。私たちは、肉体の死の彼方において、なお神様の愛のご意志の中にあるのです。愛する者の死においても、また自分自身の死においても、私たちは神様の愛のみ心の中にあるのです。それゆえに私たちは、死に直面する時にも、喜んでいることができるのです。祈ることができるのです。感謝することができるのです。

再臨
 神様の愛が、死に勝利し、復活の命と体が与えられる、そのことは、主イエスの再臨において実現します。復活し、天に昇り、父なる神の右に座しておられる主イエスが、まことの神としての力と権威をもって、この世の全てを裁く方として、いつかもう一度来られるのです。その主イエスの再臨によって、この世は終わり、神の国が、つまり神様の主イエスによるご支配が実現、完成するのです。私たちの復活は、この神様のご支配の完成において与えられます。その時私たちは、4章17節の後半にあるように、「いつまでも主と共にいるように」なるのです。これが私たちの救いの完成です。神様のご意志は、私たちをこの救いの完成にまで導き、与らせて下さることなのです。私たちのこの地上における歩みには、様々な紆余曲折があるし、行き詰まったり、道を見失ったり、迷ってしまったりすることがあります。けれどもそれは最終的には、神様の恵みのご意志によって、この救いの完成へと向かっているのです。主イエス・キリストを信じる者には、この希望が与えられているのです。それゆえにパウロは、どのような困難な状況の下でも、思うようにならない現実の中でも、いつも喜んでいることができるのです。絶えず祈ることができるのです。どんなことにも感謝することができるのです。あなたがたにも、この希望が与えられている、だからあなたがたも、共に喜び、祈り、感謝しつつ歩もうではないか、とパウロは語りかけているのです。

聖霊の働き
 19節から22節は、私たちがその喜びと祈りと感謝に生きるための勧めです。「”霊”の火を消してはいけません」とあります。直訳すれば、「霊を消してはいけません」です。私たちが、あの神様のキリストにおけるご意志の中で喜びと祈りと感謝に生きることができるのは、神様の霊、聖霊の働きによるのです。聖霊の支えと導きなしには、あの神様のご意志を知ることも、信じてそれに従うこともできません。いつも喜んでいるためには、絶えず祈るためには、どんなことにも感謝するためには、私たちはいつも聖霊のお働きを求めていかなければならないのです。だから聖霊を消してしまわないように、その働きが失われてしまわないようにしなければなりません。そのためには何が必要か。それが次の20節の、「預言を軽んじてはなりません」ということです。預言とは、これから起こることを言い当てる言葉ではなくて、神様のみ言葉を宣べ伝える言葉です。今の私たちで言えば、礼拝における説教のことです。礼拝の説教において、神様のみ言葉が語られ、聞かれる、そこにこそ聖霊の働きがあるのです。聖霊の働きは、何か不思議な神秘的な体験をするところにあるのではありません。み言葉が語られ、聞かれる、そこにこそ聖霊のお働きがあるのです。聖霊のお働きによってみ言葉が語られる時、あの「キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられること」、つまり主イエスにおける神様のご意志が明らかにされます。神様が、その独り子の命を与えて下さったほどに、私たちを愛して下さり、私たちの罪を赦し、復活の命を与え、再臨の日に救いの完成に至らせようと決意して下さっている、そのご意志が、預言において、礼拝の説教において、聖霊の働きによって告げ知らされるのです。それを聞くことによって、私たちは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しつつ生きることができるようになるのです。逆に、預言を軽んじ、礼拝においてみ言葉を聞くことを軽んじていくならば、霊の火が消えてしまいます。聖霊の働きを受けることができなくなります。すると、神様がキリスト・イエスにおいて私たちに与えて下さっている恵みのみ心が見えなくなり、わからなくなります。その恵みのみ心がわからなくなったら、いつも喜んでいることはできないのです。絶えず祈ることもできないのです。どんなことにも感謝することなど勿論できないのです。

教会の制度
 「預言を軽んじてはいけません」という言葉は、さらにこういう意味をも持っています。パウロにおいて、「預言」は聖霊によって与えられる賜物の一つです。聖霊によってその賜物を与えられた人が、教会の中に立てられていくのです。そういう奉仕者の働きによって、預言が語られ、教会の人々がみ言葉を聞くことができるようになるのです。それゆえに、「預言を軽んじてはいけません」という勧めは、そのような奉仕者、み言葉を語るために立てられている奉仕者の働きを軽んじるな、という意味でもあります。そうするとこれは、先週読んだ12、13節の、「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」というところと同じようなことが語られているということになるのです。教会において指導者として立てられている者の働きを重んじ、尊重しなさいということです。先週申しましたように、これらの教えには、教会において群れを指導し、導き、戒める務めを負う奉仕者による指導体制、即ち制度が整えられていくことの萌芽があります。そのことが、「霊の火を消すな、預言を軽んじるな」という勧めにおいても語られているのです。そこから教えられるのは、教会に、聖霊の働きが豊かに注がれ、預言、即ちみ言葉がしっかり語られ聞かれていくことと、制度が整えられていくことは一つだということです。私たちはともすると、教会を制度的に整えたりすることは、聖霊の働きと相容れない、矛盾することだと考えてしまう傾向があります。しかしパウロがこの手紙で語っていることはそうではないのです。霊の火を消さないためにこそ、教会の制度が整えられなければならないのです。聖霊は、制度的に定められている預言の務めが重んじられるところにこそ働くのです。

預言の吟味
 このことは、次の21、22節とも関係してきます。「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と言われています。大事にすべき良いものと、遠ざかるべき悪いものとがあるのです。それを吟味して識別することが必要です。それは私たちの生活のあらゆる場面において言えることでしょう。しかしここで特に見つめられているのは、教会における、特に「預言」です。預言の賜物を聖霊によって与えられ、み言葉を語る務めを担う者が立てられていく、そのような人の語る言葉を、しかしよく吟味しなければならないのです。何でも鵜呑みにしてはならないのです。奉仕者はやはり人間であり、弱さと罪を持っている不完全な者です。その語ることが全て完全に正しいということはないのです。指導者、み言葉を語る務めに立てられている者の言葉も、吟味されなければならない、そして良いものは大事にし、悪いものからは遠ざかるようにしなければならないのです。このことも、教会の制度が整えられていくことの大事な意味です。教会に制度が整えられるのは、教会においてある特定の人の言葉が絶対になってしまうことを防ぐためでもあります。語られることがいつも吟味されるためのシステムとして制度は整えられるのです。私たちの受け継いでいる長老制度において、長老は牧師の語る説教を吟味する務めを負うとされているのはそういうことです。預言の務めを負っている者の言葉は、重んじられると共に吟味されなければならないのです。そのようなことを通して、教会に、本当に聖霊が働き、真実の預言が、正しいみ言葉が語られ、聞かれていくのです。真実の預言が、正しいみ言葉が語られるなら、それによって私たちは、キリスト・イエスにおいて神が私たちに望んでおられることを知ることができます。神様が独り子イエス・キリストの十字架の死と、復活と、昇天と、そして再臨によって私たちに大いなる愛を注ぎ、私たちを神様の民とし、全ての罪を赦し、死を打ち破って復活の命、永遠の命を与えて下さる、主の再臨の時にその救いの完成に至らせて下さる、そのご意志をはっきりと知ることができるのです。それによって私たちは、いつも喜んでいることができるようになるのです。絶えず祈ることができるようになるのです。どんなことにも感謝することができるようになるのです。
 ですから、教会に牧師、長老、執事という奉仕者が立てられることと、私たちが喜び、祈り、感謝に生きることとの間には、深いつながりがあるのです。二週間後には定例教会総会が行われ、新年度の計画が立てられ、長老、執事の選挙が行われようとしています。私たちはこれらのことを大切にして、祈りをもって備え、主のみ前に心をこめて行っていきたいのです。それによってこそ、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きる本当に幸いな歩みが与えられていくのです。

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