「励まし、慰め、勧め」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; 詩編、第17篇 1節-15節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第2章 5節-12節
テサロニケでのパウロの伝道
本日は、テサロニケの信徒への手紙一の第2章5節以下からみ言葉 に聞きたいと思います。段落の切れ目でもない、一連の文章の途中か らであることにとまどいを覚える方もおられるかもしれません。前回、 先々週の礼拝において、4節までを読んだのです。2章1節から始ま るこの部分には、「テサロニケでのパウロの宣教」という小見出しが つけられています。テサロニケの町に、パウロを始めとする何人かの 伝道者がやって来て、キリストの福音を宣べ伝え、それによってこの 町に、信じる者たちの群れ、教会が生まれた、そのパウロたちの伝道 がどのようになされたかがこの第2章に語られているのです。先々週 に読んだように、1節には、「わたしたちがそちらへ行ったことは無 駄ではありませんでした」とあります。パウロたちがテサロニケへ行 って伝道をしたことが、無駄にならず、教会の誕生というよい実りが そこに与えられたのです。そのよい実りを生んだ伝道はどのようにな されたのか、それを語っているのが第2章です。あるいは1章9節の 後半には、「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられ たか」とあり、そのことが至るところで語り伝えられることによって、 テサロニケ教会から主の言葉が響き渡っている、と語られていました。 そして何度も言っていますが、この「迎えられた」というのは、原文 を直訳すれば、「入って行った」なのです。「わたしたちが、どんなに してあなたがたの所にはいって行ったか」と口語訳聖書は訳していま す。パウロたちがどのようにしてテサロニケに入って行き、伝道した か、そのことが至るところで語り伝えられ、それによって主の言葉が 響き渡っているのです。豊かな実りを生んだテサロニケ伝道はどのよ うになされていったのか、私たちはそのことをこの第2章においてじ っくりと見ていきたいのです。
へつらいの言葉でなく
本日の箇所の最初の5節でパウロは、「あなたがたが知っていると おり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取っ たりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてください ます」と言っています。パウロたちの伝道は、相手にへつらったり、 口実を設けてかすめ取るようなものではないと言っているのです。こ れはどういうことでしょうか。へつらうというのは、本当に語るべき ことをねじ曲げて、相手の気に入るようなことを語ることでしょう。 そうやって相手の気に入ろうとする、喜ばれようとする、自分を受け 入れてもらおうとするのです。神様のみ言葉を宣べ伝える伝道者には、 こういう大きな誘惑があります。み言葉を語ると言っても、どこかか ら聞こえて来る言葉をただオウム返しにそのまま語るわけではありま せん。伝道者は、神のみ言葉を、自分の言葉で語るのです。自分の言 葉になっていなければ相手に伝わっては行きません。しかしそこには 同時に、聞く人々にへつらう思いが入り込んで来る危険があります。 聞く人の耳に心地よい、喜ばれることを語ろうとしてしまうことがあ り得るのです。それは相手に嫌われないためです。誰だって、人に嫌 われるよりは好かれたい、嫌な顔をされるよりは喜ばれたいと思いま す。言葉を語る者である伝道者としては、「よいお話しでした」と言 われたいのです。教会の皆さんから、「今日はよいお説教でした」と 言われると、私も正直言って嬉しいです。けれどもそこでただ喜んで だけはいられないと思っています。本当に神様のみ言葉が語られ、そ れによってその人が打ち砕かれ、悔い改めを求められ、そして神様の 恵みによって新しくされるという喜びの出来事が起っているのか、そ れともただ単にその人の気持ちに沿った、み言葉による喜びとは全然 別の、人間の思いにおける喜びを与えたに過ぎないのか、つまりへつ らいの言葉を語ってしまっただけなのか、そのことをよく吟味しなけ ればならないのです。このことは説教を聞く皆さんの方もよく考えて おくべきことです。礼拝を守り、説教においてみ言葉を聞く、それに よって喜びを与えられる、それはすばらしいことですが、それがどん な喜びなのか、本来神様のみ前に立ち得ない自分が、み言葉によって 裁かれると同時に赦され、神様の恵みを受けて新しく生きることがで きるようにされた、そういう喜びなのか、それとも単に自分の気持ち に適うことが語られ、自分の思いが肯定されたという喜びなのか、つ まりへつらいの言葉による喜びに過ぎないのか、み言葉を語る者も聞 く者も、その喜びの中身をしっかり吟味していかなければならないの です。
「相手にへつらう」というのは私たちにおいてはそのようなことに つながっていくのですが、パウロたちが直面していたのはもっと赤 裸々な、金銭にまつわることだったようです。「口実を設けてかすめ 取る」という言葉がそれを表わしています。以前にも申しましたが、 当時、宗教的、倫理的な教えを説いて回り、それによって報酬を得て いた巡回説教者たちがいたのです。彼らは、まさに人の気に入るよう な、喜ばれるような教えを語り、それによって人気を得てお金を稼ぐ ことを目指しています。つまり、相手にへつらうことでお金を得よう という世界です。「口実を設けてかすめ取る」とはそういうことを指 しているのです。テサロニケの町に来て伝道したパウロたちのしてい ることも、形の上ではそれらの巡回説教者と似ている点がありました から、そういう連中と混同されて、彼らも物珍しい新しい教えを語る ことで結局はお金をもらおうとしているのだろう、と思われてしまう ことがあったのです。自分たちの伝道はそのような報酬目当てのもの とは違うということをパウロはここで強調しているのです。
人間からの栄光の放棄
しかしパウロたちが求めていないのは、報酬だけではありません。 もっと根本的に、彼等が放棄していたものがあるのです。そのことが 6節に語られています。「また、あなたがたからもほかの人たちから も、人間の誉れを求めませんでした」とあります。「誉れ」と訳され ているのは、「栄光」という言葉です。「人間の」は正確に訳せば「人 間からの」です。「人間からの栄光」をパウロたちは放棄しているの です。人に喜ばれ、気に入られようとする、あるいはそれによって報 酬を得ようとする、それらは全て、「人間からの栄光」を求める思い から生じていることです。人に褒められ、感謝され、そして報酬をも らう、神様のみ言葉を語ること、伝道にも、そういう動機が入り込む ことがあり得るのです。そういう「人間からの栄光」を放棄するとい うことが、パウロたちの伝道の基本的なあり方であり、またそこに彼 らの戦いがあったのです。
幼子のように
このことは、ただ人からの賞賛を求めない、ということに留まるも のではありません。このことの持つ広がりあるいは深まりが、次の7 節を読むことによって見えてきます。「わたしたちは、キリストの使 徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの 間で幼子のようになりました」。パウロがここで言っているのは、我々 は実は人間からの栄光を受けることができるし、それを権利として主 張することもできるのだ、ということです。「キリストの使徒として 権威を主張することができた」、とあります。「権威を主張することが できた」と訳されている言葉は、直訳すれば、「重いものとして在る ことができた」となります。重きを置かれ、重要視され、尊重される ことを当然のこととして求めることができる、自分たちはそういう者 なのだと言っているのです。それはパウロたちが偉い立派な人間だっ たからではありません。「キリストの使徒」だからです。「使徒」とは、 「遣わされた者」という意味です。キリストに遣わされて福音のみ言 葉を語るという使命のゆえに、伝道者は大いに重んじられ、尊重され て然るべきなのです。そういう意味でパウロのみならず全ての伝道者 は、人間からの栄光をも受けることができるはずの存在なのです。し かしパウロは、自分たちはそういう主張、要求をしなかった、そうい うことを放棄した、と言っています。そのことが「しかし、あなたが たの間で幼子のようになりました」という言葉によって言い表されて いるのです。「幼子のようになった」、それは、自分の権利を主張した り、自分が重んじられることを求めたりしないということでしょう。 幼子にだってそのような思いがないことはありません。しかし少なく とも大人のように、自分のプライドにしがみつき、それを傷つける者 は絶対に赦さない、という思いは幼子にはないと言えるでしょう。キ リストの使徒としてみ言葉を伝えているということを自分のプライド とし、自分を重んじ、尊敬し、重要人物として扱うことを求める、な どということをしないのが「幼子のようになった」ということです。 ところで口語訳聖書ではここは、「あなたがたの間で、ちょうど母 がその子供を育てるように、やさしくふるまった」となっていました。 「幼子のように」ではなく、「やさしく」となっていたのです。これ は元になっている写本の違いです。「幼子のように」と「やさしく」 と、両方の写本があるのです。「幼子のようになりました。ちょうど 母親がその子供を大事に育てるように」というのはなんだか変な言い 方です。その意味では、「ちょうど母がその子供を育てるように、や さしくふるまった」という口語訳の方がすんなり読めます。けれども 新共同訳の、「幼子のようになりました」という訳にも深まりと広が りがあります。私たちは当然ここで、主イエス・キリストの、「心を 入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはで きない」というみ言葉を思い出すのです。「自分を低くして、この子 供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」というみ言葉もあ ります。幼子のようになる、とは、この主イエスの教えに従うことで す。それは、自分を何か偉い者、立派な者、重んじられるべき者とす るのではなく、ただ神様の憐れみと恵みによってのみ救いにあずかる ことができる弱く小さい者であることを認め、受け入れ、そういう者 としてひたすら神様に寄りすがることです。天の国、つまり神様の恵 みのご支配、救いは、そのようにしてこそ与えられるのです。パウロ ら伝道者たちは、テサロニケの人々の間で、そのような者として歩ん だのです。キリストの使徒としてみ言葉を宣べ伝えることも、自らの 権威を主張し、使徒に相応しい扱いを求めることにおいてではなく、 神様のみ前に幼子であることに徹していくことによってなされたので す。そしてそのような彼らのあり方は、先程の主イエスのお言葉から もわかるように、決して伝道者のみに求められていることではないの です。主イエス・キリストによる救いにあずかり、神様の民として生 きる者の全てが、幼子のようになることを求められているのです。そ のようにしてしか、私たちは救われないのです。私たちの内の誰一人 として、神様の前で、自分の権威を主張し、重んじられることを求め、 私のプライドを尊重せよと要求できるような者はいないのです。です から幼子のようになったパウロたちの姿は、全ての信仰者のあるべき 姿です。「あるべき」と言うよりも、主イエス・キリストの救いにあ ずかるのはこのようにしてでしかあり得ないのです。伝道者は、教会 の人々皆が、主イエスの救いにあずかる者として神様のみ前に幼子の ようになって歩む、その先頭に立つのです。パウロらのテサロニケで の伝道はそのようにしてなされたのです。
母親のように
そしてそのように幼子のようになることに徹していくことによって、 伝道者は、教会の人々に対して、母親のようになることができるので す。母親がその子供を大事に育てるように、教会の人々を大切に養い、 導くことができるのです。幼子のようになることと、母親のようにな ることは、言葉の上では矛盾しているように見えますが、内容におい ては一つなのです。幼子のようになることによってこそ、母親のよう になることもできる、それが教会なのです。ところで、ここで「母親」 と訳されているのは、正確には「乳母」という言葉です。自分の子供 ではないけれども、乳を与えて子供を育てる働きを担う人です。この、 乳を与えるというイメージが、次の8節の、「わたしたちはあなたが たをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自 分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたした ちにとって愛する者となったからです」という言葉につながっていま す。赤ん坊におっぱいを与えるというのは、まさに自分の体、命によ って子供を養い、育むことで、それは母親、女性の特権であると思い ますが、パウロはそれと同じように、教会の人々に、神の福音、主イ エスによる救いの知らせを伝えるのみでなく、自分の命さえ与えたい と願っているのです。この「与える」というところで、ある英語の聖 書では「シェア」という言葉を使っています。「分かち合う」という ニュアンスがこの言葉にはあるのです。母親が赤ん坊におっぱいを含 ませるというのも、ただ乳を与えると言うよりも、そこには命の分か ち合いとも言える相互のコミュニケーションがあるでしょう。伝道者 が神の福音を伝えるのも、単なる情報の伝達ではありません。そこに は、愛によって自らの命を与えていくような、命の分かち合いがある のです。
キリストを見つめ、従う
このあたりを読んでいくと、伝道者パウロがいかに教会の人々を愛 し、献身的にみ言葉を宣べ伝え、多くの労苦と骨折りを負い、また教 会の人々に負担を掛けないように夜も昼も働いて自分の生活を自分で 支えながら伝道をしていったか、また、彼らの生活がいかに敬虔な、 正しい、非難されることのない立派な生活だったか、ということが強 調されています。牧師、伝道者としては正直言って読んでいてつらく なる所です。ここに語られているパウロの姿と、自らの姿を見比べて みると、その落差に愕然とせずにはおれないのです。伝道者として召 され、立てられている者は、この思いをいつも失ってはならないと思 います。そして、ここに語られているパウロの姿に、自らを少しでも 近付けていくために努力しなければならないと思います。けれども、 それと同時にこういうふうにも思うのです。ここに示されている伝道 者パウロのすばらしい姿を語っているのはパウロ自身です。パウロは 自分のことをこのように言っているのです。それは見方によっては、 随分傲慢なことだとも言えます。パウロが、「自分はこんなに苦労し ながらこんなすばらしい働きをしているのだ」と自慢話をしているよ うにも見えるのです。パウロは何故こんな語り方をするのでしょうか。 パウロ自身が、本当にここに語られている通りの生き方をしており、 これは自慢でも何でもない、事実を語っているのだという自信があっ たからこのように語れたということでしょうか。そういうことではな いだろうと思います。パウロがここで見つめているのは、自分自身の 働きや労苦のことでは実はないのだと思うのです。パウロが見つめて いるのは、私たちのために人間となり、十字架の苦しみと死を引き受 け、そして復活して下さった主イエス・キリストです。パウロは「あ なたがたをいとおしく思っているので、自分の命さえも喜んで与えた いほどだ」と言っていますが、パウロはまだ誰のためにも命を与えて 死んだことはありません。後には殉教の死を遂げることになるにして も、今はまだそうなってはいないのです。しかし主イエス・キリスト は、既に、彼らのために、パウロのためにもテサロニケの人々のため にも、十字架の苦しみと死とを引き受け、ご自身の命を与えて下さっ ているのです。パウロはこの主イエス・キリストをこそ見つめていま す。そして、その主イエスの後に従っていく者、主イエスについてい く者であろうとしているのです。自分の命さえ喜んで与えたい、とい う思いはそこにこそ起って来るものです。また彼が伝道のために、教 会のために負っている様々な労苦や骨折りも、彼にとっては主イエ ス・キリストの十字架の苦しみの後に従っていくことに他ならないの です。さらに先程の、自分の権威を主張するのではなく幼子のように なったというのも、実は主イエス・キリストご自身が私たちのために して下さったことなのです。フィリピの信徒への手紙の第2章6節以 下に語られているように、主イエスは、神としてのご自分の栄光、誉 れを放棄して、人間となり、さらにはそのどん底である十字架の死に まで身を低くして下さったのです。自分が重んじられ、尊重されるこ とを要求するのでなく、幼子のようになったというパウロの姿は、こ の主イエス・キリストに倣い、従った結果です。伝道者パウロは、ひ たすら主イエス・キリストを見つめ、主イエスに従い、そのあとにつ いていこうとしているのです。その結果、彼の歩み、働きは、主イエ スのお姿と重なり合うような、主イエスの歩みを彷佛とさせるような ものとなったのです。しかしパウロはそういう自分の歩みや働きを見 つめているのではありません。それに自信を持ったり、誇ったり自慢 したりもしていません。主イエスをこそ見つめ、主イエスに従ってい くことの中で、自分の歩みや働きのことを、冷静に、客観的に、ある 意味では他人事のように、見つめ、語ることができるのです。伝道者 として、パウロを見倣うべき根本的な点はここにこそあると思います。 そしてこの、主イエスを見つめ、主イエスに従っていくことは、教会 に連なる信仰者みんなに求められていることです。キリスト者になる とは、キリストの弟子となり、キリストに従っていくことなのです。 伝道者は、そのみんなに求められている課題を、先頭に立って負い、 歩んで行く者なのです。
父親のように
主イエスを見つめ、主イエスに従っていく伝道者の歩みにおいて、 パウロは、教会の人々に対して、父親のようにもなっています。11、 12節、「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がそ の子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心 にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした」。先程は母 親あるは乳母のようになったと言い、今度は父親のようになったと言 っています。伝道者は、教会の人々の母親のようにも、父親のように もなるのです。それは一人の人間に過ぎない伝道者の資質や力量によ ることではありません。私たちを母親のように育み、養い、育て、ま た父親のように励まし、慰め、勧めて下さる方は主イエス・キリスト です。私たちは、その主イエス・キリストをしっかりと見つめ、主イ エスに従っていくことの中で育まれ、養われ、育てられ、励まされ、 慰められ、勧められていくのです。その主イエスを見つめ、主イエス に従う歩みの先頭に立つために立てられ、遣わされているのが伝道者 です。伝道者はそのことに徹することによってのみ、自分より年上の 人々に対してすら、母のようにも父のようにもなることができるので す。
神にふさわしく
父親が子供に対するように、パウロは教会の人々一人一人に呼びか け、「神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧め」ました。 「神の御心にそって」は、もっと端的に訳せば、「神にふさわしく」 です。神にふさわしく歩むようにと励まし、慰め、強く勧めることが 父親としての働きです。神にふさわしく歩むとはどのように歩むこと なのでしょうか。そのことは12節の後半から分かります。「御自身 の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられま す」とあります。この文章は独立したものとして訳されていますが、 原文においては、「神にふさわしく」の「神」を説明する文章なので す。口語訳は「御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにか なって歩くように」となっています。神様は私たちを、御自身の国、 つまり恵みに満ちたご支配と、その栄光とにあずからせようとして召 し集めて下さっているのです。その神様の召し集めがあるから、私た ちはこうして礼拝に集って来ることができたのです。この召しに応え て、神様の恵みのご支配に従い、人間からの栄光ではなくて神様が与 えて下さる栄光を求めて生きることこそが、神にふさわしく歩むこと です。神様が恵みをもって私たちの名を呼び、主イエス・キリストに よる救いにあずかる者としようとしていて下さることを真剣に受け止 め、その恵みを願い求めて神様を礼拝しつつ生きることこそが、神の 御心にそった、神にふさわしい歩みなのです。