主日礼拝

神に喜んでいただくために

「神に喜んでいただくために」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、62篇 1節-13節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第2章 1節-4節

牧師就任式
  本日は午後に、牧師就任式が行われます。牧師就任式というのは何 のためにあるのか、皆さんはお考えになったことがあられるでしょう か。新しく着任した牧師が、その着任を内外に明らかにして、正式に 仕事を始める区切りとするための式、言わばおひろめの式、ぐらいに 思っている場合が多いのではないでしょうか。世間で行われる就任式、 着任式というのはだいたいそういうものでしょう。しかし教会におけ る牧師就任式はそれとは性格が違います。そこでは、就任する牧師と、 迎える教会員の双方が、神と教会の前で誓約をなすのです。この誓約 をもって、牧師は正式にその教会の牧師となるのです。ですからこれ は単なるおひろめの会ではありません。実際にはしなくてもよいのだ けれども、形の上で区切りをつけ、新しく来た牧師を他の教会の人た ちにも紹介するためにするセレモニーではないのです。喩えは悪いか もしれませんが、同棲を始めれば結婚したことになるのではないのと 同じです。神様の前で結婚の誓約をすることによって二人は夫婦とな るのです。牧師就任式はそれと同じ意味を持っています。別の角度か ら言えば、就任式は就任する牧師のためのみにするものではないとい うことです。私が、この教会の牧師として正式に仕事を始めるために この式があると同時に、それは横浜指路教会に連なる教会員の皆さん が、神様への誓約をもって新しく歩み出すための式なのです。私と皆 さんとが、共に新しい歩みを始めるのです。ですから、牧師就任式は、 出られる人が出ればよい、というものではありません。教会員の皆さ んにぜひ出席し、誓約に加わっていただきたい、この教会の新しい出 発に、責任をもって参加していただきたいのです。

伝道者と教会
 牧師就任式はこのように、教会に牧師が就任するということの意味 を考えさせられるよい機会です。そしてこのことは、教会の歴史の最 初からあった、一つの根本的な問題にふれてくることなのです。教会 というのは、神様のみ言葉、キリストの福音を宣べ伝える人がいて、 そのみ言葉を信じた人々の群れができる、という仕方で生まれていっ たものです。つまりそこには、み言葉を宣べ伝える人がおり、それを 聞いて信じる人々がいるのです。その両者の関係の中で教会は生まれ、 育っていきます。今私たちは、テサロニケの信徒への手紙一を礼拝に おいて読み進めていますが、この手紙の宛先であるテサロニケの教会 も、そのようにして、つい数カ月前に生まれたばかりの教会でした。 テサロニケの町でみ言葉を宣べ伝えたのは、パウロ、シルワノ、テモ テという伝道者たちです。彼らがこの町に来て、伝道をした、その語 る福音を信じた人々の群れとして、テサロニケ教会が生まれたのです。 そのことが、本日の2章1節にこのように言い表されています。「兄 弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ 行ったことは無駄ではありませんでした」。「わたしたちがそちらへ行 ったこと」、つまりパウロたち伝道者がテサロニケに行って伝道した ことが「無駄でなかった」、それが、テサロニケに信じる者たちの群 れである教会が生まれたことです。伝道者がある町に行く、そのこと の実りとして教会が生まれたのです。  このように、教会は、伝道者がそこへ「行く」ことによって生まれ ます。この横浜指路教会も、ヘボンやルーミスといった宣教師たちが アメリカから来たことによって生まれたのです。そしてそのように誕 生した教会に、その後も、様々な伝道者たちが来たのです。伝道者の 側から言えば行ったのです。その伝道者たちの語るみ言葉を、迎えた 教会の人々が聞き、その相互の関係の中で教会は成長してきたのです。 ある場合にはその中で教会が分裂の苦しみを味わったこともありまし た。あるいは深い傷を負ってしまうこともありました。しかしいずれ にせよ、伝道者と教会との相互関係の中で、教会は歩んできたのです。 パウロの時代以来、つまりキリストの教会の最初から、そのことは連 綿として繰り返されてきたのです。牧師の就任は、教会の歩みにおい てそのような根本的な意味を持つことなのです。

入っていく
 パウロはここで、「わたしたちがそちらへ行ったこと」と言ってい ますが、「行ったこと」と訳されている言葉は、先週読んだ1章9節 にもありました。そこに「わたしたちがあなたがたのところでどのよ うに迎えられたか」とあります。その「迎えられた」というのが「行 ったこと」と同じ言葉です。先週申しましたように、ここは口語訳聖 書では「わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行っ たか」となっていました。この方が原文の言葉の意味を忠実に伝えて いるのです。2章1節も口語訳では「わたしたちがあなたがたの所に はいって行ったことは、むだではなかった」となっています。パウロ はここで、自分たち伝道者がテサロニケの町に「入っていった」こと を意識しつつ語っているのです。伝道者はこのようにある町に、ある いはそこに既に教会があるならばその教会に、「入っていく」のです。 牧師が就任するとはそういうことです。私も今、この教会の中に、皆 さんの中に入っていこうとしているところです。なにせ多くの方々が おられる教会ですから、入っていくのも簡単ではありません。矢澤先 生は私より五か月前にこの教会に来られたわけですが、五か月で、ず いぶん深く皆さんの中に入っていっておられると私は感心しています。 矢澤先生に導いてもらいながら、また様々な機会を捉えて、少しでも 早く、また深く、皆さんの中に入っていきたいと願っています。皆さ んの方でも、そのきっかけを作っていただければ有り難いのです。

良い実り
 さて、パウロが、自分たちが入っていったことは「無駄ではなかっ た」と言っていることに注目したいと思います。パウロたちがテサロ ニケに入っていったことが無駄にならず、テサロニケに教会が生まれ たのです。そういうよい実りが与えられたことを感謝しているわけで すが、それはしかし裏を返せば、伝道者が入っていったことが無駄に なってしまうことがあり得る、ということです。そのことが何の実り も生み出さない、むしろ悪い結果が生じてしまう、ということも起こ り得るのです。このことを私たちは心していなければなりません。牧 師が就任して、その教会に入っていく、そのことが、無駄になってし まわないように、実りなく終わってしまうことのないようにしたいの です。パウロはこの第2章で、かなりの部分を用いて、自分たちがテ サロニケの人々の中にどのように入っていったか、またテサロニケの 人々がパウロら伝道者をどのように迎えたかを語っています。それは、 「わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではなかった」ということをテサロニケの人々と共に確認し、またそれが無駄にならず、よい実 りが与えられたのは何によってかを明らかにするためだと言えるでし ょう。それゆえに私たちは、このテサロニケの信徒への手紙一を読む ことによって、新しい牧師を迎えて教会が歩み出す、私が皆さんの中 に入っていく、そのことが、無駄になってしまうのでなく、よい実り が生み出されていくために、何が必要なのか、どのように歩むべきな のかを学ぶことができるのです。皆さんと共に礼拝において読む最初 の箇所としてこの手紙を選んだのはそのためです。

伝道者のあり方
 伝道者が教会に入っていく、そのことが無駄にならず、よい実りが 与えられていくためには、入っていく伝道者の側も、また迎える教会 の皆さんの側も、共に心していなければならないことがあります。そ れゆえに、就任式における誓約は、牧師と教会員との双方によってな されるのです。牧師を迎えてそれがよい実りを生まず、無駄になって しまうようなことが起るならば、それは牧師の側にだけ問題があるの ではありません。教会員の側にも責任があるのです。そのことは基本 的にわきまえておくべきです。しかしパウロがこの第2章で先ず語っ ているのは、彼ら伝道者がどのようにしてテサロニケの人々の中に入 っていったか、つまり伝道者のあり方です。教会に入っていくことが 無駄になってしまわないためにまず問われるのは、伝道者のあり方な のです。そのことが、2章の前半に語られていきます。それゆえにこ こは、伝道者たる者がよく読み、学ばなければならない所です。しか し、伝道者だけが読んでおけばよい、というものではありません。な ぜなら、伝道者のあり方は、教会の人々のあり方と対応しているとい う面があるからです。つまり、教会の人々が伝道者をどのような者と 考え、また何を期待しているか、求めているか、それによって伝道者 のあり方が変わってくるということがあるのです。それゆえに、伝道 者のあり方を語っているこの部分を、教会全体がしっかりと受け止め ていく必要があるのです。

大胆に、公然と語る
 さてパウロが、自分たちがテサロニケに行ったことが無駄にならな かったことの第一の現れとしていることは、2節の「無駄ではなかっ たどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめら れ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦 闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」ということです。 「以前フィリピで苦しめられ、辱められた」、そのことは使徒言行録 の16章に語られています。パウロたちはフィリピで起った騒動のた めに鞭打たれ、投獄されたのです。その後、テサロニケに来て伝道を したのでした。そしてこのテサロニケでも、反対者によって騒動が起 こり、立ち去らなければならなくなったのです。パウロらの伝道はそ ういう「激しい苦闘」の中でなされていました。しかしその中で彼ら は、「わたしたちの神に勇気づけられ」て、神の福音を語ったのです。 この「勇気づけられ」と訳されている言葉は、「大胆に、公然と語る ようにされる」という言葉です。敵対する人々の前でも、語るべき福 音を大胆に語る勇気と力を、神様から与えられたのです。敵対や妨害、 迫害がある中で、伝道者が神様に勇気づけられてみ言葉を語っていく、 伝道者が入っていくことが無駄にならないためには、このことが先ず 必要であるのは言うまでもないことです。

迷い、汚れ、ごまかし
 パウロはその勇気ある大胆な宣教が、「迷いや不純な動機に基づく ものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と3節で言っ ています。敵対や妨害の中で、勇気を持って大胆に語ることができる ためには、伝道者の中の、語る動機が問題なのです。語る者の中に「迷 い」があったら力強く大胆に語ることはできません。そしてその「迷 い」は、「語っていることを自分自身がどれだけ本当に信じているか」 ということよりも、語っていくことの中に「不純な動機」が入り込ん でくることによって生じるのです。この言葉は、直訳すれば「汚れ」 という意味で、口語訳聖書では「汚れた心」となっていました。それ が何を指しているのか、はっきりとはしませんけれども、パウロがこ のようなことを言っている背景として次のようなことはあったようで す。当時のギリシャ・ローマの社会は、一種の宗教ブームのような状 態にあって、いろいろな新しい教えを説いて回る巡回説教者のような 人々が沢山いたのです。それらの人々は、それまでのいろいろな宗教 や道徳的教えを自分なりにアレンジして語っていました。そして、そ の教えを聞きに集まってきた人々からお金をもらっていたのです。人 気のある、多くの人々が集まる教えを語ることができれば、それだけ 儲かる、という構造がありました。パウロも、当時のそのような巡回 説教者の一人だと思われていたらしいのです。それに対して彼は、自 分たちはそういう者たちとは全く違うということを訴えている、それ がこの3節の「私たちの宣教は不純な動機に基づくものではない」と いう言葉に込められた意味ではないかと思われるのです。そのような 説教者たちの教えは金儲けのためだ、そういう汚れた、不純な動機に よって語っているのだ、私たちはそうではない、と言っているのです。 そのような金儲けのための、つまり多くの人々を引き付けようとする 教えは、次に出て来る「ごまかし」が付き物です。口語訳ではこれは 「だましごと」でした。人を騙し、ごまかして自分に引き付けようと するのです。自分たちの宣教はそのようなものではない、とパウロは 言っているのです。そしてこのことが、最初の「迷い」とつながって いきます。迷うのは、確信がないからと言うよりも、どうすれば人を 引き付けることができるか、人気を得ることができるかと思っている からです。衆議院が解散され、総選挙に入りますが、政治が混迷する のは、選挙になるとみんな、自分に投票してもらえそうな、人を喜ば せることばかりを言うからです。人の顔色をうかがっていくところに、 迷いが生じるのです。パウロは、自分たちの宣教は人を引き付けるた めの、人気を得るためのものではない、と言っているのです。

神に喜んでいただくため
そしてこのことは、次の4節につながっていきます。「わたしたち は神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っ ています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される 神に喜んでいただくためです」。人に喜ばれるためではなく、神に喜 んでいただくために語っている、それがパウロたちの宣教の基本姿勢 です。人に気に入られようとして、人の顔色を見て語っているのでは ないのです。神様に喜んでいただくために、神様のみ顔を見つめなが ら語っているのです。それゆえに彼らは、迫害や妨害の中でも、力強 く大胆に語ることができるのです。人の評価、人気を気にし、人がど れだけ認めてくれるか、ということを考えていたら、大胆に語ること はできません。神様が語れとお命じになっていることを、神様に喜ん でいただくために語る、ということに徹していく時にこそ、人の評判 や人気、あるいは妨害、迫害に左右されずに、力強くみ言葉を語るこ とができるのです。

沈黙して、ただ神に向かう
神が喜んでくださることを、神に喜んでいただくために語る、それ が伝道者に与えられている課題です。そこで問われているのは、語る ことの内容というよりもむしろ、どこを見つめて語っていくかという 姿勢でしょう。本日は、共に読まれる旧約聖書の箇所として詩編第6 2編を選びました。その最初のところに「わたしの魂は沈黙して、た だ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わた しの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」とあります。ほぼ同 じ言葉が6、7節にも繰り返されています。ここにある、「沈黙して、 ただ神に向かう」こと、それこそが、神が喜んでくださることを、神 に喜んでいただくために語るための根本です。神様が喜んで下さるの は、信仰の、また聖書の正しい知識を語ることよりも、語る者が全身 全霊をもって神様に向かい合っていくことです。自分の言葉、自分の 知っていることを語るのをやめて沈黙し、神様に顔を向け、神様にこ そ救いを求めていく、そういう姿勢をこそ神は喜んで下さるのです。 そのように神様にしっかりと顔を向けていく者を、神様は認めて下さ り、福音を委ねて下さるのです。4節前半に、「わたしたちは神に認 められ、福音をゆだねられている」とあります。「認められる」とい う言葉は、後半の「わたしたちの心を吟味される神」の「吟味する」 と同じ言葉です。もとの意味は「試す、テストする」です。神様は、 私たちの外面ではなく心の中を吟味し、試し、テストされるのです。 そのテストにおいて「合格」とされることが神に認められることです。 パウロたちはそのようにして神に認められ、福音を委ねられました。 神様のテストに合格したのです。そのテストはしかし、知識の量を問 うものでもなければ、どれだけ品行方正な生活をしているか、という ことを問うものでもありません。沈黙して、ただ神に向かう、神様に まっすぐ顔を向けて、神様の救いをひたすら求めていく、その姿勢が 問われるのです。そこで人の顔色を見、人に喜ばれることを求めてし まうならば、神に認められることができません。すると、福音を委ね られることもないのです。人の顔色をうかがい、人に喜ばれようとし ている間は、福音、つまり神様からの喜びの知らせを語ることはでき ないのです。福音を語るべき伝道者に求められているのはこのことで す。ここに、伝道者の戦いがあるのです。人に喜ばれるためではなく、 神に喜んでいただくためにこそ語る、そのことに徹していくことがで きるかどうかに、伝道者が福音を力強く大胆に語ることができるかど うかがかかっているのです。

共に戦う
そして、伝道者のこの戦いは、教会の人々が福音によって生かされ ていくことができるかどうかを左右するのです。その伝道者が教会に 入っていったことがよい実りを生むか、それとも無駄なことに終わっ てしまうかの分かれ道がそこにあるのです。従って、伝道者のこの戦 いは、その語るみ言葉を聞く人々にとって他人事ではありません。教 会の人々は、伝道者がこの戦いをしっかり戦い抜き、人に喜ばれるた めではなく神に喜んでいただくために語ることができるように支えな ければならないのです。それだけではありません。伝道者が、人に喜 ばれるために語ってしまうとしたら、その「人」とは教会の人々です。 つまり伝道者は、教会の人々を喜ばせるようなことを語り、教会の人々 の顔色を伺うようになってしまうという誘惑の下にあるのです。その 誘惑に打ち勝つためには、伝道者自身の戦いと共に、教会の人々が、 伝道者に何を求めていくか、ということも大きいのです。丁度選挙民 が自分たちの耳に心地よいことを語る候補に投票してしまうように、 教会の人々が伝道者に、自分たちを喜ばせ耳に心地よいこと、つまり、 あなたは今のままでいいのだ、変わらなくてよいのだ、ということの みを語ることを求め、神様のみ言葉によって打ち砕かれ、悔い改めて 変えられていくことを拒むという姿勢でいるならば、伝道者も、結局 はその人々の顔色を伺うようになってしまうでしょう。人に喜ばれる ためではなく、神に喜んでいただくために、という戦いは、それゆえ に伝道者と教会の人々とが共に戦っていかなければならないものなの です。この戦いが教会の全体に行き渡っていくならば、福音のみ言葉 が大胆に、力強く語られ、パウロたちがテサロニケでしたようなすば らしい宣教がなされていくのです。

まことの慰め、励まし、勧め
3節の「宣教」と訳されている言葉は、「慰め」とも「励まし」と も「勧め」とも訳すことができる、幅広い豊かな内容を持った言葉で す。人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくためにみ言葉が 語られる時に、そのみ言葉は、私たちを本当に慰め、励まし、勧めを 与える福音になるのです。何故ならそのみ言葉は、神様の独り子、イ エス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死ん で下さり、私たちの罪を赦して下さったこと、そして父なる神様がそ の主イエスを復活させ、私たちにも、死に勝利する新しい命の恵みを 与えて下さることを約束して下さったことを告げるからです。そこに こそ、死の力に捕えられてしまう時にも失われることのない本当の慰 めがあり、どのような苦しみの中でも私たちを支える励ましがあり、 私たちに歩むべき道を示す勧めがあるのです。私の就任が無駄になら ず、この慰めと励ましと勧めとによってこの群れが豊かに生かされ養 われていくという実りが与えられるために、人に喜ばれるためではな く神に喜んでいただくため、という信仰の戦いを、ご一緒に戦ってい きたいのです。

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