夕礼拝

主を畏れよ

「主を畏れよ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第12章1-25節
・ 新約聖書:ヨハネの黙示録 第19章5-10節
・ 讃美歌:300、521

サムエルの後継者  
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いています。本日は第12章です。サムエル記の主人公であるサムエルとはどのような人だったか。2節の終わりのところでサムエルは「わたしは若いころから今日まであなたたちを率いて歩んできたが」と言っています。サムエルはイスラエルの民を率いてきた指導者だったのです。しかも「若いころから」です。彼は祭司のもとに預けられて、神に仕える者として育てられました。主なる神はまだ幼かったサムエルに語りかけ、彼を、神の言葉を人々に伝える人としてお立てになりました。人々はサムエルのもとに来て神のみ心を聞き、彼を通して自分たちの願いを神に訴えたのです。そのようにしてサムエルはイスラエルの民を導いてきましたが、12章には「サムエルの告別の辞」という小見出しがつけられています。それは2節の冒頭でサムエルが「今からは王が、あなたたちを率いて歩む。わたしは年老いて、髪も白くなった」と言っているからでしょう。自分はもう年をとったから、民を率いて歩む指導者としての働きを退く、今からは王があなたたちを率いていくのだ、ということです。その王とはサウルです。サウルがイスラエルの最初の王として立てられたことが11章までのところに語られていました。これからはサウル王があなたたちを率いて歩んでいく、とサムエルは言っているのです。この2節に「息子たちはあなたたちと共にいる」と語られているのは、サムエルの息子たちは民を率いて歩む者ではない、ということを意味しています。「あなたたちを率いて歩む」というところは以前の口語訳聖書では「あなたがたの前に歩む」となっていました。民の前に立って歩む、それが「率いて歩む」ことです。だとすれば、息子たちはあなたたちと共にいる、というのは、息子たちはあなたたちの前にではなくて共に、つまりあなたたちを率いる者としてではなくて、率いられる民の中にいる、ということです。サムエルは以前、8章のところで、息子たちを自分の後継者として一旦は立てたのですが、その息子たちは民の指導者の器ではないことが明らかになったのです。それゆえに今、この告別の辞においてサムエルは、今から後あなたたちを率いて歩むのは私の息子たちではなくてサウル王だ、ということをはっきりと告げているのです。

告別の辞?  
 このようにサムエルはここでイスラエルの民の指導者を引退すると言っているように見えるのですが、それではこの12章をもってもうサムエルは登場しなくなるのかというと、そうではありません。13章以降にもサムエルはしっかり登場しており、その姿は決して悠々自適の楽隠居ではありません。王となったサウルは結局、神のみ心に適った働きができずに退けられてしまうのですが、そのことを告げたのはサムエルです。そしてサウルに替る王としてダビデに油を注いだのもサムエルです。サムエルはそれらのことを主なる神のみ言葉に従って行ったのです。つまり神のみ心を告げて民を導くというサムエルの働きはなお継続しているのです。それならどうしてこの12章に「告別の辞」が語られているのでしょうか。このような小見出しは聖書に元々あるものではありません。翻訳において便宜的に付けられたものです。それは、このあたりにはこういうことが書いてある、という目安にはなりますが、しかし小見出しが内容を必ずしも適切に表現していないこともあります。ここもその例であって、この12章を「サムエルの告別の辞」と捉えてしまうと誤解が生じるのです。サムエルがここで語っているのは「告別の辞」ではありません。

時代の転換  
 ではこの12章におけるサムエルの長い演説は何を語っているのでしょうか。ここには確かに、サムエルからサウル王への、イスラエルの指導者の交替が語られています。しかしそれは、サムエルが引退してサウルが跡を継ぐ、ということではなくて、一つの時代が終り、新しい時代が始まる、ということです。つまり「今からは王が、あなたたちを率いて歩む」というのは、イスラエルが王国になる、王国時代が始まる、ということなのです。それまではどのような時代だったのか。そのことが「今日までわたしがあなたたちを率いて歩んできた」という言葉によって示されています。「わたし」とはサムエルですが、彼はここで、イスラエルの民のこれまでの歴史を振り返り、その終わりに自分を位置付けているのです。そのことが6~11節に語られています。「サムエルは民に話した。『主は、モーセとアロンを用いて、あなたたちの先祖をエジプトから導き上った方だ。さあ、しっかり立ちなさい。主があなたたちとその先祖とに行われた救いの御業のすべてを、主の御前で説き聞かせよう。ヤコブがエジプトに移り住み、その後、先祖が主に助けを求めて叫んだとき、主はモーセとアロンとをお遣わしになり、二人はあなたがたの先祖をエジプトから導き出してこの地に住まわせた。しかし、あなたたちの先祖が自分たちの神、主を忘れたので、主がハツォルの軍の司令官シセラ、ペリシテ人、モアブの王の手に彼らを売り渡し、彼らと戦わせられた。彼らが主に向かって叫び、『我々は罪を犯しました。主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えました。どうか今、敵の手から救い出してください。我々はあなたに仕えます』と言うと、主はエルバアル、べダン、エフタ、サムエルを遣わし、あなたたちを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたたちは安全に住めるようになった』」。ここにはイスラエルの民のこれまでの歴史がごく簡単にまとめられています。イスラエルの民は、エジプトにおける奴隷の苦しみから解放して下さり、約束の地を与えて下さった自分たちの神、主を忘れ、バアルやアシュタロトという偶像の神々に仕えるようになった。そのために主が彼らを敵の手に売り渡し、苦しみを与えた。その苦しみの中から彼らが主に救いを求めると、主はいわゆる士師たちを遣わして彼らを敵から救って下さったことが語られています。その士師たちの最後にサムエルは自分の名を挙げています。サムエルも士師たちの一人であり、最後の士師なのです。「今日までわたしがあなたたちを率いて歩んできた」ということによって見つめられているのはこの士師の時代の全体です。その時代が今や終わり、王が民を率いて歩む時代が始まる、その時代の転換をサムエルは見つめているのです。つまりサムエルはこの演説によって別れを告げているのではなくて、士師の時代から王国時代への大きな転換が起ころうとしている今、イスラエルの民が何を見つめ、どう生きるべきかを教えているのです。 

主ご自身がイスラエルの王  
 サムエルのこの演説には四つのポイントがあります。3~5節において彼は、自分がこれまであなたがたから何かを取り上げたり、あなたがたを圧迫したり、不正なことをしたことがあったか、と問うています。それに対して民は、そんなことは一度もありませんでしたと答えました。サムエルがここで人々に確認させたのは、自分が人々を苦しめたことがない、ということだけでなく、これまでの時代、神によって立てられた士師たちが民を率いてきたが、その士師たちによって民が圧迫されたり、不正なことが行われたことはなかった、ということです。周囲の国々はみんな王に治められている王国である中で、イスラエルだけには王がいませんでした。主なる神こそがイスラエルの王であられ、その神が必要な時に士師たちを遣わして民を敵の手から救い出して下さっていたのです。そこには何の不都合もなかった。民はちゃんと守られ、不当な苦しみや圧迫にあうことなく生きることができていたのです。士師の時代の終りに当ってイスラエルの民にそのことをしっかりと確認させる、それがサムエルの演説の第一のポイントです。しかもサムエルはそのことを、3節と5節にあるように、主と、主が油を注がれた方を証人として確認しています。主が油を注がれた方とはサウル王です。主に油を注がれて王として立てられたサウルも、主ご自身が王だった士師の時代にイスラエルが何の問題もなく守られていたことを確認しているのです。

民の罪  
 このように士師の時代には何の不都合もなかったのに、今やイスラエルに王が立てられ、王国時代に入ろうとしています。どうしてそうなったのかが12節に語られています。「ところが、アンモン人の王ナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した」。イスラエルが王国になったのは、民が王を求めたからです。敵が攻めて来るのを見た民が恐れをなし、自分たちを守り、敵と戦ってくれる王を求めたのです。それは「主があなたたちの王であるにもかかわらず」なされた、つまり民は、まことの王であられる主なる神がおられないかのように振る舞ったのです。神が王として支配し、守り導いて下さっているのでは安心できない、目に見える人間の王の方が頼りになる、そういう思いから民は王を求めたのです。それは、イスラエルのまことの王であられる主なる神に対する甚だしい忘恩の罪でした。士師の時代から王国時代への転換は、民の大きな罪によって引き起こされた、それがこの演説の第二のポイントなのです。それゆえに、これを聞いた人々は19節でこう言ったのです。「僕たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました」。

罪を受け止めて下さる主の恵み  
 このように、王国時代はイスラエルの民の罪の結果として始まったのです。しかしサムエルの演説はその罪を指摘し、責めることだけで終わってはいません。12節に続いて13節が語られているのです。「今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる」。人間の王を求める罪を犯した民に、主なる神は、彼らの求めた人間の王を与えて下さったのです。士師の時代から王国時代への転換は、人間の罪の結果であると同時に、神の導きでもあったのです。主なる神は、目に見える人間の王を求めたイスラエルの民の思いを受け止め、それに応えて下さったのです。神が人間の弱さを思いやり、それに配慮して下さったのです。目に見えない神を王として歩むのが神の民イスラエルの本来の姿です。しかし人間は弱さのゆえにそれに耐えられず、神がいないかのように目に見える指導者を求めてしまう、それは罪です。しかし神はその人間の弱さや罪を受け止め、それを担い、救いのみ業を行って下さったのです。罪に陥っていく人間になお恵みをもって臨み、その罪を背負って救いのみ業を行って下さる神のお姿がそこに示されています。このことが、サムエルの演説の第三のポイントです。 

主イエスによる救い  
 聖書の語る神の救いとはそういうものです。またそうでなければ、私たちの救いはないと言わなければならないでしょう。主なる神はその救いを、主イエス・キリストによって私たちに与えて下さったのです。この世界を創造し、私たちに命を与えて下さった主なる神を私たちは受け入れず、信じ従うことなく、自分の思いに従って、また神などいないかのように、目に見えるこの世の力、人間の力にばかり頼って生きています。それは神を神としない罪です。その私たちのために、神は独り子主イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私たちの罪を赦して下さり、またその復活によって永遠の命の約束を与えて下さったのです。その救いは、神が憐れみによって私たちの弱さと罪を受け止め、それを担って下さったことによって与えられたものです。イスラエルの民の弱さと忘恩の罪を憐れんで彼らを受け止め、王を与えて下さったように、神は私たちに独り子イエス・キリストを救い主として与えて下さったのです。

主を畏れよ  
 サムエルはこの神の恵みを22節でこう言い表しています。「主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである」。主なる神はご自分の民を決しておろそかにはなさらない。この「おろそかにしない」という言葉は「見捨てない、見放すことはない」という強い意味の言葉です。神はご自分の民として下さった者たちを、たとえ彼らが罪に陥っても、神をないがしろにして人間の王を求めるような忘恩に走っても、決してお見捨てにならない、見放してしまうことはないのです。士師の時代が終り、王国時代が始まったのは、この神の恵みによることです。イスラエルの民はこの神の恵みをしっかりと見つめて新しい時代を生きていくべきなのです。それはどのように生きることなのか、それがこの演説の最後の、第四のポイントです。そのことが14、15節に語られています。「だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る」。イスラエルの民も、その上に立てられる王も、共に主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従う、それこそが、ご自分の民を決して見捨てることはしないと約束して下さった神の大いなる恵みに応えて生きる、神の民としてのあり方なのです。同じことが24、25節にも語られています。「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたか、それは私たちにおいては、主イエス・キリストの十字架と復活による救いです。主イエスの十字架の死と復活による救いを覚えて、主を畏れて生きることが私たちの信仰なのです。

神を畏れる者  
 主を畏れて生きる、それは主なる神はご機嫌を損ねると何をするか分からないとビクビク怖がって生きることではありません。主は私たちの弱さや罪をも背負って下さり、独り子主イエスによる救いを与えて下さったのです。主は基本的に恵み深い方です。しかしだからといって罪の中に安住していてよい、ということではありません。「悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」という警告を私たちも真剣に聞かなければならないのです。信仰とは、主なる神による救いの恵みにあずかり、それに誠実に応えて生きることです。それが、恐怖の恐ではなくて畏怖の畏という字を用いて主を「畏れる」ことです。そのように主を畏れかしこむところには、この世のものを恐れる恐怖からの解放が与えられるのです。本日は、ヨハネの黙示録第19章5節以下が共に読まれました。ここには、世の終わりの救いの完成において、主なる神のもとでなされる礼拝の様子が語られています。その5節には「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ」とあります。神を畏れる者たちこそが、終りの救いの完成において、天で神を礼拝するのです。その者たちは、大いなる喜びの内に神の栄光をたたえていると7節にあります。その喜びとは、9節によれば、「小羊の婚宴に招かれている者たち」の喜びです。私たちのために犠牲の小羊となって下さった主イエス・キリストが、この世の終りに、花婿としてもう一度来られ、その主イエスのもとで催される婚宴に、私たちは招かれるのです。私たちはそのような招きに相応しい者では全くありません。しかし神は私たちをご自分の民として下さり、私たちの罪にもかかわらず、決して見捨てることなく、独り子の命をすら与えて下さったのです。その恵みを受けている私たちは、今この地上で、主を畏れて生きるのです。そのことによって、今私たちを脅かしているウイルスの脅威の中でも、主イエスの父である神が私たちをお見捨てになることは決してない、という信頼と平安の中を歩むことができるのです。

関連記事

TOP