「聖霊によって立つ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:サムエル記上 第11章1-15節
・ 新約聖書:使徒言行録 第2章14-36節
・ 讃美歌:149、346
王となったサウルの生活
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いています。先月読んだ第10章には、サウルがイスラエルの最初の王として立てられたことが語られていました。サウルは、最後の士師であったサムエルによって油を注がれ、また民の間で行われた、王を選ぶくじに当って、イスラエルの初代の王となったのです。しかし10章の最後のところに語られていた、サウルの王としての即位の様子は、私たちが普通に王の即位において思い浮かべることとはかなり異なっています。24節には、民が全員喜び叫んで「王様万歳」と言ったとあります。これは通常のことですが、しかし次の25、26節にはこうあります。「サムエルは民に王の権能について話し、それを書に記して主の御前に納めた。それから、サムエルはすべての民をそれぞれの家に帰した。サウルもギブアの自分の家に向かった」。つまり、サウルが王として即位してイスラエルはいよいよ王国となったわけですが、王となったサウルも、人々も、それぞれ自分の家に帰って行き、元通りの生活を続けていったのです。王となったサウルの生活もそれまでと何ら変わっていません。そのことは本日の11章5節からも分かります。「そこへ、サウルが牛を追って畑から戻って来た」とあります。王様が、牛と共に畑を耕しているのです。王になっても彼の生活はそれまでと何も変わっていないのです。
聖書の素材と語られていること
聖書の学者たちはこのことを次のように説明しています。サウルが王となったことを伝えている伝説は元々三つあった。第一は、サムエルがサウルに油を注いで王としたという話、第二は、民の間でくじ引きがなされてサウルが選ばれて王となったという話、第三が本日の11章に語られている、サウルがアンモン人との戦いにおいてイスラエルを率いて勝利して王となった、という話である。これらの三つは異なる町で言い伝えられていた独立した話だった。例えば本日の11章の話は、14節にあるギルガルという町に伝えられていた話だったのだろう。これらの話が一つにまとめられて今日のサムエル記の物語が生まれたために、王となったはずのサウルが次の話では全然それらしくない姿で出て来たりするのだ、という説明です。確かに、この物語の元にはそういう別々の話があったのかもしれません。しかし私たちは、聖書が最終的に今の形にまとめられたことによって語られているメッセージがあることを忘れてはなりません。元々の話はこうだったという研究は、聖書の素材と成り立ちを知る、という点で意味のあるものですが、それと、聖書が語ろうとしていることを知ることは別です。聖書の注解書の中には、聖書を素材に分解して、元々はこんな話だったのだ、という分析をすることに力を注いでいるものがありますが、それらの素材が今の形にまとめられたことに込められている意味こそが聖書が語ろうとしていることです。それを読み取らなければ聖書を本当に理解したことにはならないのです。料理に譬えるならば、この料理にはどんな食材が使われているかを分析していってもその料理を味わい知ることはできないのであって、それらがどう組み合わされ、調理され、味付けされているかによって、その料理の命、味わいが決まるわけです。
イスラエルの王の本来の姿
ですから、本日の箇所においても、サウルが油を注がれ、くじに当って王となった後も、それまでと変わらずに畑仕事をしていた、ということに大事なメッセージが込められていると考えるべきです。それは、イスラエルの王とは、民を支配し、君臨する絶対君主のような存在ではない、ということです。イスラエルのまことの王は主なる神です。その主の下で、民を一つにまとめる指導者として王は立てられているのです。その王の指導力は必要な時にのみ発揮されます。必要な時とは、イスラエルが敵に攻められ、危機が訪れた時です。そのような時にこそ、王は民を率いて敵と戦い、国を守るのです。この箇所でサウルはまさにそういう王としての働きをしているのであって、戦いが終わればまた元の畑を耕す生活に戻る、それがイスラエルの王の本来の姿なのだということをこの箇所は語っているのです。
アンモンの王ナハシュによるヤベシュの危機
さてこの11章においてイスラエルを脅かした敵は、1節にあるようにアンモン人のナハシュです。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の4「統一王国時代」というのを見ていただきたいと思います。キネレト湖、即ちガリラヤ湖と塩の海即ち死海の間を南北に流れるヨルダン川、その東側にいたのがアンモン人です。その中心の町はラバであり、この町は今日はヨルダンの首都アンマンです。そこに「アンモン」の名の名残があります。ナハシュはそのアンモン人の王で、軍勢を率いて、イスラエル人の町、ギレアドのヤベシュを包囲したのです。ヤベシュはヨルダン川のすぐ東、キネレト湖と塩の海の真ん中当りにあります。サウルが王となった頃のイスラエルは、ペリシテ人にもさんざん攻められ、国内はまとまらない、非常に乱れた状態でした。その弱みにつけ込んで、アンモン人も精力拡張をはかってきたのです。そのように弱い状態でしたから、ヤベシュの住民は、これは戦っても勝ち目はない、降伏するしかない、と思いました。彼らがナハシュに「我々と契約を結んでください。我々はあなたに仕えます」と言ったのはそういう意味です。降伏して町を明け渡すから、我々を滅ぼさないと約束してください、と願ったのです。それに対するナハシュの答えは恐ろしいものでした。2節「お前たちと契約を結ぼう。ただし、お前たち全員の右の目をえぐり出すのが条件だ。それをもって全イスラエルを侮辱しよう」。ヤベシュの住民全員の右の目をえぐり出してやる、その上で命だけは助けてやろう、というのです。何とも残酷な話ですが、古代の戦争においてはこのようなことが当たり前に行われていました。戦いに負けたら、皆殺しにされるか、奴隷に売られるか、このようなひどい侮辱を与えられるかだったのです。そうならないために戦わずに降伏すると言っているのに、戦って負けたのと同じ目に遭わせる、と言って来たのです。ヤベシュの長老たちは、七日間の猶予を求めます。イスラエル全土に助けを求める、それでも助けが得られないなら、仕方がない、覚悟を決めて、目をえぐられても生き残る道を選ぶ、というのです。ナハシュがこの求めを認めたのは意外ですが、彼はイスラエルの力をよほど見くびっており、どうせ援軍など来ないと思っていたのでしょう。ヤベシュの人々があわてふためいて右往左往するのを見て楽しもうと思ったのかもしれません。実際、イスラエルの人々には、ヤベシュからの助けを求める知らせを受けても、立ち上がる力はありませんでした。4節「使者はサウルのいるギブアに来て、事の次第を民に報告した。民のだれもが声をあげて泣いた」。みんな、声をあげて泣くばかりで、「それは大変だ、みんなで行ってヤベシュの人々を助けよう」と言う者は一人もいなかったのです。イスラエルの人々は誰もが恐れに捕えられていました。それは、自分たちの力を過小評価して臆病になっていたということではありません。攻めて来たアンモンの人々と自分たちの力を客観的に比較するなら、とうてい勝ち目はない。ヤベシュの人々を助けるどころか、むしろ明日はわが身で、自分たちの町も同じ目に遭うかもしれない、そういう絶望的な思いにならざるを得なかったのです。
檄を飛ばしたサウル
そこにサウルが、牛を追って畑から戻って来ました。人々が皆泣いているのを見て彼が、「何事か起こったのか」と尋ねると、人々はヤベシュからの知らせを語りました。すると、6、7節「それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。『サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。』」。サウルは怒りに燃えて、イスラエル全土、全部族に、「わたしのもとに結集せよ」と檄を飛ばしたのです。それも激しい、言わば脅迫的な仕方によってです。牛を殺して切り裂き、それを送って、「わたしに従って出陣しない者の牛はこうなるぞ」と言わせたのです。その結果、イスラエルとユダから、つまりイスラエルの全部族から合わせて三十三万の軍勢が集まったと8節にあります。これはいささかオーバーな数だと思われますが、サウルの呼び掛けによって、臆病になり、泣いてばかりだったイスラエルの民は、結束して敵に立ち向かい、同胞を救おうという思いになったのです。
ここに、サウルの王としての働きの大事な一面が語られています。民を結集させ、その先頭に立って敵と戦うということです。王の最も大事な務めは国の安全を守ることです。そのために王は軍勢を率いるのです。しかしそれはただ強い軍隊を持てばよいということではありません。民全体の意識が、何としてもこの国を守ろうという思いで一致していなければ、軍隊だけで国を守れるものではありません。サウルはここで、恐れ、泣いているばかりだったイスラエルの人々を結束させ、共に戦おうという思いを与えたのです。
神の霊の働き
しかしこれは、サウルが人々に勇気を与え、皆の思いを一つにまとめる人心掌握の力を持っていた、ということではありません。「神の霊がサウルに激しく降った」と語られています。神の霊、聖霊の働きを受けてサウルは全イスラエルに檄を飛ばしたのです。泣いてばかりいたイスラエルの民がサウルのもとに馳せ参じたのは、サウルの力によることではなくて、この神の霊、聖霊の働きによることだったのです。7節の終わりには「民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した」とあります。切り裂かれた牛を送られた人々は恐れにかられたのです。しかしそれはサウルへの恐れではありませんでした。言うことを聞かないとサウルが我々の牛もこのようにするかもしれない、と恐れたのではなくて、主なる神への恐れが彼らを捕えたのです。聖霊の働きによって、主なる神への恐れが人々の間に起こったのです。サウルはこの聖霊の、つまり神ご自身の働きのために用いられたのです。
サウルの怒りは神の怒り
しかし同時に、聖霊が激しく降ったことによって、サウル自身が怒りに燃えた、と語られていることに注目したいと思います。聖霊によって、サウル自身の怒りが燃え上がったのです。それは何に対する怒りでしょうか。一つには勿論、イスラエルを侮辱し、ヤベシュの人々にひどいことをしようとしているアンモン人ナハシュに対する怒りです。しかしそれと同時に彼の怒りは、ナハシュに侮辱され、同胞がひどい目に遭わされようとしているのに、絶望してただ泣いているばかりであるイスラエルの人々に対しても向けられていたと言えるでしょう。アンモン人に対する怒りと、イスラエルの人々自身に対する怒り、その二重の怒りにサウルは燃えたのです。それは彼の個人的な感情ではなくて、聖霊によって彼の内に起こった思いであり、つまり神ご自身の思いです。神ご自身が、アンモン人とイスラエルの人々の両方に対して怒っておられるのです。サウルは聖霊を受けて、その神の怒りを体現する者とされたのです。私たちはその神の怒りをこそここで見つめるべきです。神は何を怒っておられるのでしょうか。どのようなことが神を怒らせているのでしょうか。
主の契約の恵み
アンモン人は、ヤベシュの住民の右の目をえぐり出す、それによって全イスラエルを侮辱してやると言っています。そのイスラエルは、主なる神の民です。主なる神とイスラエルの関係は、その最初の先祖であるアブラハムにまで遡ります。神がアブラハムを選び、語りかけ、アブラハムがそれに応えて旅立ったことから、その関係が始まったのです。主はアブラハムと契約を結び、彼の子孫を大いなる国民とし、彼らによって神の祝福が世界の人々に及んでいく、と約束して下さいました。イスラエルの民はその後エジプトに住むようになり、そこで奴隷とされて苦しめられていましたが、主は彼らの苦しみを顧み、モーセを遣わして彼らをエジプトから解放して下さったのです。その救いのみ業に基づいて神は改めて契約を結んで下さり、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と宣言して下さいました。イスラエルの民は、荒れ野の旅を経て、主が与えて下さったカナンの地に今住んでいます。イスラエルの民の歴史はそのように、主なる神との契約の歴史であり、主がその契約に基づいて与えて下さった恵みに支えられて、彼らは主なる神の民として歩んでいるのです。アンモン人はそのイスラエルの民を侮辱し、彼らに危害を加えようとしています。それは、他ならぬ主なる神に対する侮辱であり、敵対なのです。主なる神にとってイスラエルの民はどのような存在なのかを、申命記第32章10節はこのように語っています。「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」。詩編第17編8節にはこうあります。「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」。またゼカリヤ書第2章12節にもこうあります。「栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主が、あなたたちを略奪した国々に、こう言われる。あなたたちに触れる者は、わたしの目の瞳に触れる者だ」。このようにイスラエルの民は主なる神にとって、ご自分の目の瞳のような大切な存在なのです。ナハシュはそのイスラエルの民の目をえぐり出すと言っています。それは、主なる神ご自身の目の瞳をえぐり出そうとするような振舞いなのです。そのことに対して主はお怒りになっているのです。
不信仰への怒り
そしてこの主の怒りは、イスラエルの民自身にも向けられます。それは彼らが、自分たちは主なる神の民であり、神との契約の関係を与えられているという恵みの中にあり、主が自分たちのことをご自分の目の瞳のように大切に思い、愛して下さっていることを見失っているからです。主が自分たちと結んで下さった契約を忘れ、主の守り導きを見失っているから、目に見える現実が全てであると思い込み、恐れに取りつかれ、いたずらに泣き悲しむことしかできなくなっているのです。それは彼らの不信仰です。その不信仰に対して、主はお怒りになっているのです。サウルの怒りは、主なる神のイスラエルの民に対する怒りの現れでもあるのです。だからそれは、同胞が敵に苦しめられているのに助けに行かないとは何事か、情けない、という怒りと言うよりも、あなたがたは自分たちが主なる神の民であることを何と心得ているのか、神が結んで下さった契約の恵みを忘れたのか、という怒りです。この怒りの印として彼は切り裂いた牛をイスラエルの人々に送ったのです。それを送られた人々は、主なる神が、ご自分を信頼していない不信仰な民に対して怒っておられることを感じて、主なる神への恐れにかられたのです。
主が与えて下さった勝利
サウルの怒りに燃えた呼び掛けによって、イスラエルの人々は主なる神への恐れを取り戻し、サウルのもとに馳せ参じました。サウルのもとにと言うよりも、正しくは主なる神のもとに、です。サウルはその人々を率いてアンモン人を打ち破り、ヤベシュを救ったのです。その勝利はサウルの勝利と言うよりも、サウルに降り、彼を動かした聖霊の勝利、主なる神の勝利です。主の契約の恵みを思い起こし、主をこそ恐れる信仰を回復した民に主が与えて下さった勝利です。この勝利によって、サウルは完全な意味でイスラエルの王となったのです。主によって選ばれて油を注がれ、民のくじ引きによって選び出されていた彼は、この勝利によって全ての民から王として認知されたのです。12節には、民がサムエルに「『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者はだれであろうと引き渡してください。殺します」と言ったことが記されています。これは10章の終わり、27節に「しかしならず者は、『こんな男に我々を救えるか』と言い合ってかれを侮り、贈り物を持って行かなかった」とあった、その「ならず者」たちのことです。しかしサウルはこの提案を退けて「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから」と言いました。この言葉には、サウルが、この勝利は決して自分の力で得たものではない、主が救いの業を行なって下さったのだ、ということをはっきりとわきまえていたことが伺えます。自分の力によってではなく、主の救いの業、聖霊の働きによる勝利によって、彼の王位は確立したのです。それゆえに彼は、自分に敵対する者、反対する者をも、力で押さえ込むことをせず、彼らに対しても寛容であることができたのです。
聖霊によって力づけられたペトロ
サウルは聖霊の導きによってこのような勝利を与えられ、イスラエルの王となりました。本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録第2章14節以下には、同じように聖霊によって力強い働きを与えられた人の言葉が記されています。その人とは使徒ペトロです。この第2章には、主イエスの復活と昇天の後、主がお命じになった通りに集まって祈っていた弟子たちに聖霊が降った、ペンテコステ、聖霊降臨日の出来事が語られています。その聖霊によって力を与えられて、ペトロが語った最初の説教がこの箇所です。このペトロは、つい先頃、主イエスが捕らえられた時には、主イエスを見捨てて逃げ出しました。その後こっそりと主イエスの裁判の様子を伺っていた彼は、周りの人たちに「お前もあのイエスの弟子だろう」と言われて、「そんな人は知らない」と三度にわたって主イエスとの関係を否定したのです。その時の彼は、ヤベシュからの知らせを受けた時のイスラエルの人々と同じように、恐れに取りつかれていて、ただ泣くことしかできなかったのです。しかし、復活なさった主イエスが彼と出会って下さり、そして聖霊が降ったことによって、彼は恐れと弱さの中から立ち上がることができました。そしてここに語られているように、主イエス・キリストを力強く証しし、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させ、主、メシア、即ち救い主となさったのだ」と宣べ伝える者となったのです。
聖霊によって信仰を与えられて
ペトロに起こったこのことは、本日の箇所においてサウルに、そしてサウルの働きによってイスラエルの人々に起こったのと同じです。聖霊の働きによって彼らは新しくされ、力強く立ち上がることができたのです。それは聖霊が超自然的な不思議な力を与えたからではありません。聖霊は私たちに、主なる神が、私たちのことをご自分の目の瞳のように愛し、守り、導いて下さることを知らせるのです。その愛によって神はご自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって新しい命、永遠の命の約束を与えて下さったのです。私たちは、主イエス・キリストが十字架の死と復活によって打ち立てて下さった神との新しい契約の恵みにあずかっているのです。そのことを私たちに示し、信じさせ、その恵みの中で歩ませて下さるのが聖霊です。私たちはしばしば、神が与えて下さった契約の恵みを忘れ、見失い、この世の目に見える現実が全てであると思ってしまって恐れに取りつかれ、臆病になり、立ち上がることができなくなってしまいます。聖霊はそのような私たちを、時としてどやしつけ、「あなたは神の恵みを何だと思っているのか。ご自分を信頼しようとしないあなたに対して主は怒っておられる。座り込んで泣いていないで、さっさと立ち上がり、主イエス・キリストのもとに馳せ参じなさい」と告げて下さるのです。それもまた神の恵みです。それによって私たちの中に、主なる神をこそ恐れる思いが、つまり信仰が与えられるのです。その信仰によって私たちは、この世を支配している様々な力や、私たちを脅かしている様々な事柄、今で言うなら新型肺炎をいたずらに恐れて座り込んで泣いているようなところから立ち上がって、神と人とを愛するために大胆に生きていくことができます。その時私たちも、主が行なって下さる大いなる救いのみ業を見ることができるのです。