「力強い御手」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第55編17-24節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第5章5-7節
・ 讃美歌 : 526、353
長老と若い人
本日の箇所は5節の「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。」という文章から始まっております。「同じように」とあるのは、その直前の事柄と「同じように」と言うことです。本日の箇所は若い人たちへの勧めですが、その直前にあります1節から4節までには「長老」たちへの勧めがあります。この「長老」とは年を重ねた、指導をする立場にある人たちです。指導をする人たちとはしばしば権威を盾にして振舞ってしまうことがあります。ペトロは、少し前の5章の3節において「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。」と勧めます。この箇所に対応するものとして、若い人たちには「長老に従いなさい。」と勧めています。若い人たちは、年を重ねた者たちの言うことを聞いて、教会の長老に従うように、と言われているのです。ペトロがわざわざ、このようなことを記したのはこのような長老と若い人との問題が教会の中でも問われていたからでありましょう。年を重ねた年配の者と、若い人との問題、また教会における長老と若い教会のメンバーとの間に問題があった、と言うことができます。この両者にとってどのような問題があったのか、年齢の違いからくる問題だったのでしょうか。1節から4節までにおいては長老への勧めが語られており、その上で若い者に対する注意が語られているのです。この両者の関係をつなぐのが「同じように」という言葉です。長老も、若い人も「同じように」と勧めています。またこの両者をつなぐものとして「皆互いに」と言う言葉があります。「皆」というのは、長老も若い人たちも「皆互いに」ということです。若い人たちだけが、皆謙遜にならなければということではないようです。どちらかに一方的に問題があるのではなく、問題は両方にある、と言うことです。単なる年齢の問題ではなく、神様の前における、これらの人たちの生活、それは信仰生活が問われているのでありましょう。長老が年長者であるがゆえに、指導する者であるとすれば、より若くて指導を受ける人たちは、長老に服従しなさいということでしょうが。長老たちには「権威を振り回してもいけません」と言っているのは、「謙遜でありなさい」という意味であります。だから若い人にも「同じように」謙遜であれと教えているのです。長老たちへの勧めと若い人への勧めは「謙遜でありなさい。」という点で「同じ」なのであります。
謙遜を身に着ける
ペトロは年を重ねた長老達も若い人も「皆互いに謙遜を身に着けなさい。」と勧めます。「謙遜を身に着ける」とはどういうことでしょうか。「謙遜」とはへりくだること、控えめなつつましい態度で振舞うことです。長老も、若い人もそれぞれが互いに、へりくだり、控えめな慎ましい態度で振舞うことを勧めているのです。ペトロは教会の人々にへりくだり、慎ましい態度をとり、また従うことのできる謙遜さを求めています。人に対してへりくだり、慎ましい態度をとることは遠慮をすることかと思うかもしれません。けれどもそれは単なる遠慮深さというものはないでしょう。遠慮をする、遠慮深いとはしばしば、内心に秘めているプライドは高く、それを傷つけられまいとしているだけのことがあります。それではここでのへりくだり、信仰者に求められる慎ましさ、謙遜とはどういうことでしょうか。色々なことが挙げられるかもしれません。その中の一つとして他者の語る言葉をよく聞くことではないでしょうか。宗教改革者のカルヴァンは長老制度を重んじました。そのカルヴァンがこのように言います。「従属ほど人間の天性に反するものは他にない。昔各人がめいめいの内に王の心を持っていると言われていたが、これは全く真実である。」人間は服従の勧めに対して、最も不服従になるのです。人間の本性そのものが、そうなっているというのです。自分の心の内に、自分こそ一番正しいと思っていると言うのです。皆がそれぞれ自分のうちに王の心を持ち、小さな王様になりたがっているのです。更にカルヴァンは続けて「衣が自分のからだ覆ってしまうように、あらゆる方面から謙遜さを身につけよ、とこの聖書は教える」と言うのです。あらゆる方面から謙遜さを身につけよ、と言うことです。ただ若い人が長老に従うだけでなく、長老達自身に対する戒めでもあります。
この謙遜を「身に着ける」とはどのようなことでしょうか。「身に着ける」とは私達が日常生活において衣服を着ることを意味します。「謙遜を身に着ける」と言う場合はもう少し事柄は広いでしょう。主イエスが十字架にかかられる直前に弟子たちの足を洗うという出来事がありました。ヨハネによる福音書第13章において記されている出来事です。主イエスは弟子たちの足を洗うために「手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(ヨハネによる福音書13章4節)とあります。主イエスは着ていた上着を脱がれ、手ぬぐいを腰に巻きつけられたのです。手ぬぐいを「身に着けられた」ということです。このお姿は奴隷の姿であります。奴隷達の行為を主イエスが行なわれたということです。主イエスは僕つまり奴隷として仕える者となって下さったのです。聖書が示す謙遜と言うのはこのような姿ではないでしょうか。
「身に着ける」とは元々奴隷が自分の仕事着、エプロンのようなものを着るように、主イエスが「手ぬぐいを腰に巻きつけられたのです。」という言葉です。奴隷達が自分の仕事着を着るように謙遜を「身に着けなさい、身にまといなさい。」と言う意味です。この言葉は奴隷のように、謙遜を身に着けなさい、という意味です。謙遜を勧められた時に、それは奴隷のようになることであると考えることができるでしょうか。けれども「謙遜を身に着けなさい。」という勧めから、奴隷のようになるとは考える人はいないでしょう。奴隷のようにならなければ、謙遜とは言えないのでしょうか。私達も様々仕方で他者に仕えるということをしております。けれども、私達が仕えるということには限界があります。けれども主イエスのなさる謙遜には限界というものはないでしょう。奴隷のように振舞われたけど、主イエスの謙遜なお姿とは、弟子たちのために足を洗われたということだけではないでしょう。これよりもっと、主イエスの謙遜な姿、徹底的にへりくだる姿を見るのです。神の御子でありながら、神の独り子として権威を持っておられた方のへりくだり、謙遜なお方として十字架にかかられるお姿です。主イエスの謙遜なお姿を通して、人間の謙遜が示されるのです。主イエスの謙遜によって救われた者のみがなしえる謙遜さです。主イエスの謙遜とは、主イエスが奴隷のように弟子たちの足を洗われたお姿です。そして主イエスが十字架にかかられたということです。人間に求められことは、そのお方の十字架と復活の出来事を信じ、そのお方の御言葉に聞き従うことであります。主イエスは謙遜なお姿を示されました。何よりも罪なきお方であるにも関わらず罪人として十字架にかかられたことです。主イエスの徹底的な謙遜なお姿とは、十字架の上で死に渡されたということです。奴隷として、へりくだる方として、真実の謙遜な方として私達に仕えられるのが主イエス・キリストの十字架における出来事であります。そのお方、救い主イエスを信じ、そのような謙遜を信仰者の間で勧めるのです。
恵みをお与えになる
なぜ、謙遜が大事であるのか、ペトロは続けて言います。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。神様が謙遜な者には恵みをお与えになると言うのです。神様から恵みを受けるとは、すべての人間の願い求めることです。その恵みとは何か、ここでは具体的な内容はありません。しかし、高慢な者を敵とするとあります。それに対して謙遜な者は敵とされない、恵みを与えられるということです。恵みを与えられる、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。」とあります。「謙遜な者には恵みをお与えになる」との約束の根拠の上に、6節の「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。」との勧めがあります。約束と勧めとを結ぶ「だから」という言葉があります。6、7節は原文では途中に切れ目はなく一つの文となっております。「自分を低くしなさい。」とあります。神様によって低くされなさい、ということです。低くされる仕方として、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」とあるのです。自分が低くされる場、謙遜になる場は「神の力強い御手の下で」であります。このペトロの手紙の最初の1章5節にはこのようにあります。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」神様は「かの時」には必ず高めて下さいます。この確かな約束の上に「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」との勧めがあります。人は様々な形で苦難の中に身を置きかれます。そのような時には思い煩い、思い悩みが生じるのを認めざるを得えないでしょう。口語訳聖書において、「自分の思いわずらい」とあり、原語においては「あなたがたの思い煩い」を神様にお任せしなさい、とあります。この勧めには根拠があります。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる」と言う確かな支えです。だから、思い煩う必要はないのです。
謙遜な者
自分を低くする人、謙遜な人は、「かの時」には高めていただけます、とあります。「かの時」とは主イエス・キリストが再び来られる時であります。その時が来れば、神が高くしてくださると言うことです。謙遜な姿を他者は見ていないかもしれない、けれども神が見て下さる。謙遜な姿、へりくだる姿勢を、神様こそが高めて下さるのです。このことを信じて待つことこそ信仰であります。すべてのことの総決算の時ということでありましょう。その時まで、謙遜になる、へりくだると言うのはいわゆる徳を高めるということではありません。信仰に裏打ちされた、謙遜、へりくだりと言うことです。けれども終わりの時を望んで、謙遜になるということを普通は考えにくいものでしょう。主イエスが来られる時に備えて、謙遜に生きるということです。信仰者に求められる姿勢です。「神の力強い御手の下で」自分を低く、謙遜になりなさい、とあります。神様の力強い御手の力とは、私達の社会における「強い力」ではありません。
神は、この世を造られ、ご支配なさるお方です。そして、救い主イエス・キリストをお遣わしになりました。神の独り子である主イエス・キリストは神様の御心に従って、人を救うために「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」(フィリピ2:8)従順であられました。主イエス・キリストがへりくだられ、謙遜な姿となられたのです。神はそのようなイエス・キリストを「・・・高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(同2:9)十字架の死に至るまで従順で謙遜であった主イエスを復活させ、天に挙げられた御業こそ、神様の力強い御手の業です。その神様が「かの時が」くれば、私達をも高く上げて下さるのです。御子イエス・キリストを高く上げられたと同じように、私達を高く上げ、救いへと招いて下さるのです。この約束こそ信仰者の謙遜に根拠です。
神にお任せする
それなら、どうしたら良いのでありましょうか。謙遜に生きるとは一体どういうことなのでしょうか。神様がこのように高く上げて下さる、即ち神様が必ずこのように顧みて下さるということです。ですから、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」主イエスはこう言っておられます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ6:25)私達が生きる上で、様々な思い悩み、思い煩いがつきものです。一つの課題が終わったと思うと、また次の課題が来る。終わらない悩みが与えられる、小さな思い悩み、思い煩いがたくさんあるというのが私達の生きている生活ではないでしょうか。主イエスはその後に「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(同32節)と言います。私達に必要なことをご存知である。それは「神が心にかけていてくださる」と同じ意味です。ペトロは、神様に向かって謙遜な生活をする者とは「思い煩いは、何もかも神にお任せする。」と言います。自分の思い煩いを神様にお任せしなさい、神様に委ねなさいというのです。このお任せするというのは、何かを何かに投げつける、という意味があります。事柄を自分の手からきっぱりと放して、神様の手の中に委託することです。思い煩いを自分の手から神様の手に委託すること、それが思い煩わない道であります。
信仰者の謙遜とは自分を否定する遠慮深さと言うことではなく、積極的に神様に全てを委ねることであります。一切を神様にお任せする、神様に投げ出す、差し出すことであります。ここに神様が求められる私達の謙遜な姿があります。自分に対する自信、高慢な思いではなく、神様に対して信頼を持ち、委ねるのです。神様が「あなたがたのことを心にかけていてくださる」とペトロは勧めます。神様の御手の力、神様が私たち一人一人を心にかけて下さる愛とは私達も思いを遙かに超える神様の御業であります。私達の思い煩い、悩みは私達だけで抱えるのであれば、とても大きいものであります。けれども神様の御手に委ねるとき、神様に全てをお任せするのであれば新しい道が示されるのです。それは私達の思い描く答えではないかもしれない、思いがけない事柄を通して示されるものであるかもしれません。私達は神様を信じるゆえに思い煩いは不要であり、神様に様々な思いを渡すことができるのです。神様に思いを渡すとは、神様が語られる御言葉のもとに私達の思い煩いを渡すことです。思い煩い、思い悩みを抱える自分自身を神様に委ねるのであります。それこそ、神様が求める、私達の謙遜ではないでしょうか。神様を信じるのでなければ、全てを委ねることは不安を生むことになります。自分の計画、自分の力、人間の力のみを見て、神様の御業、主イエス・キリストが十字架において示して下ったお姿を見ないのであればそれは真実の謙遜ではないでしょう。自分が思い描く謙遜、単なる自分の小さなプライドを守るための遠慮深さではないでしょうか。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」とペトロは迫害の中にある教会に対して言います。あなたのことについては、神様が心にかけてくださる、心配して下さるということです。この御言葉を信じ、与えられる1週間を歩みましょう。