夕礼拝

命の恵み

「命の恵み」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 創世記 第18章1-15節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第3章1-7節
・ 讃美歌 : 8、504

はじめに
本日は共にペトロの手紙一の第3章1節から15節の御言葉に聞きたいと思います。この箇所の小見出しに「妻と夫」とあります。聖書が語る「妻と夫」について聞きたいと思います。普通ならば、一般的に言うならばまず先に夫で次に妻という「夫と妻」という順番でありますが、本日の箇所は「妻と夫」となっております。記されている順番からにしても、分量にしても妻に重点がかけられています。しかし、夫に対して勧められていることも大変重要でしょう。このペトロの手紙一は第2章11節からキリスト者たちに対する具体的な生活における勧めをしております。「愛する人たち」と呼びかけて、自分の本国を離れて、自分の故郷ではない土地に仮住まいしている寄留者、旅人たちに語ります。キリスト者になるということは、神の国に生きる者であり、それは同時にこの地上では旅人して生きるものであります。そのような寄留者でも、神様のためにこの世の人間の立てた制度には従いなさい、と勧めております。キリスト者の召使い達にも主人に従いなさいと勧めております。そして、本日の箇所は家庭の中の事柄でありますが、妻達に「自分の夫に従いなさい。」と勧めています。

夫の従いなさい
この手紙を受け取った人々の中において夫はキリスト者はではなく、妻だけがキリスト者である夫婦が多かったようです。この時代ですので、女性達の立場、地位と言うのは無きに等しかったでしょう。つまり、夫にとって妻はまるで所有物のようなものであったのでしょう。ユダヤ人の間でもそうであり、ギリシア人たちも、妻には自由を与えておりませんでした。だから、召使いと妻たちが同じと言うのではありません。ここで「同じように」と言っているのは、共に主人に仕える者である、神様の前において、召使いも妻も夫も同じであると言っているのです。信仰において、召し使いも、妻も、夫も、共に「仕える者」という点で同じだと言っている。なぜそう言えるのか。それは、キリスト者は皆、神に仕える者だからである。神に仕える者として、召し使いは主人に、妻は夫に、夫は妻に「仕える」と言うことでしょう。本日の箇所は結婚式によく読まれる箇所であります。「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」当然ながら他人の夫ではなく自分の夫に従いなさい、と言っております。夫に対しても妻に対しても、喜んで自分の相手に従う、仕えることを勧めているのです。「自分の夫」という言い方はたとえ妻が夫に従うにしても、妻が夫の所有物とされているというのではないことを示しているのです。神様が自分に与えて下さった相手に従うということです。従うとは、仕えるとは自分が進んで、決心をし、自分を捨てて、相手を喜ばそうとすることでしょう。相手の言われることを言われる通りにしておけばそれで良いということではない。妻が夫の所有物であるから、妻の立場が低いから従うということではなく、妻のキリストに従う信仰者としての責任を問題にしているのであります。妻に対して「従うこと」を強制しているのでも無理強いしているのではない。妻に全く自発的に、自分を捨てることを求めているのであります。自分の夫に従うということはそのようなことであります。そのように夫に従うことを求めているのは何故でしょうか。妻が夫に従う目的というのは、御言葉を信じない夫が妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。夫が救いに導かれるために夫に従うことを妻に求めているのです。ここで妻に求めていることは夫に従うことを通して夫が信仰に導かれることを第1にすることです。信仰に導かれるということは、神様の救いに与るようになるということです。神様の救いに与ることを、即ち神様との関係を第1にしていることになります。本日の箇所は、夫に対する最大の奉仕は、夫が救われることであると語るのです。妻が夫に従う目的は夫が信仰に導かれるためであるというのです。

証しをする
妻が夫に従うのは夫が信仰に導かれるためであると言っております。そのためにはどのようにしたら良いのでしょうか。ここでは「夫が御言葉を信じない人であっても」とあります。そのような時においても「妻の無言の行い」によって従うことの結果として夫の救いが与えられていく、と考える方がよいと思う。妻の無言の行いというのは、御言葉を信じ御言葉に聞いた者の行いそのものでしょう。その無言の行いは夫が信仰に導かれるようになるためであります。聖書の御言葉によって信仰に生きている妻の無言の行い、行為こそが夫を導くと言っております。行いというのは、目に見える言葉であります。妻の行いが目に見える信仰の業になるのです。一つ二つのこれこれの行いというのではなく、生活そのものが、神様を畏れる生活となるのでしょう。そのような生活における姿を夫に見せることが妻には求められているのです。聖書の御言葉に示されている神様を第一としているかどうかか大事なのです。自分を誇らないで、謙遜に神様に従う生活、神様を第1とする生活、ここでは「神を畏れるあなたがたの純真な生活」とありますが、神を畏れる純真な生活こそが神様を証しする生活となります。妻にはそれが求められているのです。夫に従う妻の業と言うのは、神様に従うことであり、神様を証しすることであります。その時に、夫に従うことが何よりも良い奉仕となるのです。主イエスはこのように言われました。マタイによる福音書5章16節においてこのように述べております。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」私たちの光を人々の前に輝かしなさい、光とはキリスト者の行いです。その光である行い見た人々が、その行いを通して天の父をあがめるようになるためであるということです。私たちの日々の行い、存在そのものが天の父なる神様を証しする。人々が信仰者の行いを通して神様を知るようになる。信仰者の行いは神様を指し示すものであるということです。神様を畏れる信仰を持った者達の行うのです。その行いそのものではなく、神様を証しするものであるのです。けれども、ここで妻に求められていることは召使いたちと同じように「従う」ということです「従う」と言うことはやはり時に忍耐を求められることでありましょう。ここで、そして「従う」と言うことがどのようなことであるのか、妻に対して具体的に説明をしております。3、4節ではこのようにあります。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」内面的な人柄というのは、一見人の目には隠れているものです。人柄というのは目には見えないものでありしょう。けれども神様にとっては内面的な人柄があらわに見えるということです。内面的なものを中心に生きることは、神様を中心に生きるということです。神様に従うことにより内面的な人柄があらわにされ、外側にも現われるのです。妻に対して隠れている内面的な人柄を装うことを求めるのは、見えるものに惑わされないということです。目に見えるものを中心にするのではなく、神様を中心にすることです。神様に喜んでもらう信仰の生活とは、ここでは柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた内面的な人柄として生きることでありましょう。そしてそのような装いこそ、神様の御前で価値があると言うのです。この世の目に見えるものに従わなければならないということはキリスト者にとって時に困難で忍耐を強いられます。けれども、私共が信じる主イエス・キリストは誰よりも不当な苦しみを受けられた方です。不当な理由で十字架にかかり命を捧げられ、私たちに仕えて下さったのです。誰よりも忍耐して、人間の罪を贖うために十字架にかかられたのです。その主イエス・キリストに倣い、今自分に与えられている状況において、従うべきものに従うことを召使いたちに対しても、妻たちに対しても求められているのです。

主を畏れる
このような妻の模範的な例として、一人の女性、サラのことが挙げられております。本日共にお読みしました旧約聖書の創世記第18章1-15節における信仰の父アブラハムの妻サラについて5、6節において記されております。「その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも」とあります。この聖なる婦人たちというのは旧約聖書が伝えるユダヤの信仰の中で、信仰に生きてきた婦人たち、妻たちのことを指しております。「神に望みを託した聖なる婦人たち」とは、神様のみを信じ、神様のみに望みを託して生きてきた妻たちであるということです。ここではその代表としてサラが登場しております。サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従したとあります。創世記第18章1-15節はアブラハムとサラの息子のイサクの誕生の予告がされている箇所です。けれどもアブラハムとサラには子どもがしばらくおりませんでした。そして2人には子どもがいないままに2人は年齢を重ねておりました。ある時に、三人の人が、おそらく神様の使いでしょうか、アブラハムの前に現れ、そしてサラにも現れて「サラには必ず男の子が生まれる」と約束をした物語がこの箇所であります。けれども、サラは笑ったのです。自分はもう子どもを生む体ではない、年齢ではない、そのようなことは起こるはずはないと笑ったのであります。しかしサラはそこで神様の言葉を聞いて主を恐れたのです。サラは主を恐れた、神様を恐れたのです。そして自分が恐れた神様に望みを託すことを知りました。望みがない時にも望みを持って生きたのです。夫アブラハムと共に神様に望みを託すことを分かち会うことができました。そしてサラはアブラハムを自分の「主人」と呼び、服従したのです。そのアブラハムの信仰の歩みに従ったのです。これのことは、サラがアブラハムを神様と間違えたということではないでしょう。神を恐れ、神様を信じたがゆえにアブラハムを自分の夫として服従することができたというのでしょう。私たちもサラのように神様のみを恐れているでしょうか。目に見えるもの、人間を恐れているのではないでしょうか。主イエスは私たちが恐れる方を示しております。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイによる福音書第10章28節)主イエスは私たちのすべてを支配し、魂も体も滅ぼすことの出来る方を恐れないと言っております。私たちのすべてを支配なさる方は神様であります。そのお方を心から畏れ崇めることが私たちの生活の中心ではないでしょうか。ここまでは妻に対する勧めをしてきましたが、最後の7節においては「同じように、夫たちよ」と夫に対して勧めをしております。それは夫たちに対する勧めも、妻たちに対する勧めも、召使いとしても神の立てた主人を重んじ、それは神の立てられる秩序であり、神の定める制度に従いなさいと言うことです。神様の定められたものに従うというのは夫婦の関係においてもそうであるということでしょう。妻への勧め、夫への勧めとは妻のあり方、夫のあり方ということでしょう。どちらか一方が重んじられ、一方は軽んじられるということではなく、夫に対する妻の責任も妻に対する夫の責任も対等であるということを示しております。夫たちに対しては二つの勧めがされています。一つは「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共に」することです。生活全てにおいて愛と理解をもって共にすることが求められています。また「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。」と勧めます。夫は妻に対して「尊敬しなさい。」と求めております。当時、女性の立場が低く見られていた風潮をペトロは見ております。生活を共にすることを実現するために破、何よりも「尊敬」が必要となります。妻をかけがえのない人格として尊び、敬うのです。尊敬するにあたり、妻が自分よりも弱いものであるということを念頭に置かなければなりません。相手が自分よりも弱い者であることを知るときに、そこには暖かい理解と態度が日常の生活の中で求められているのです。また相手を尊敬する理由として、妻が命の恵みを共に受け継ぐ者である、ということです。ここでは妻も夫も共に生命の喜び、生命の中にある恵みを、精神的にも肉体的にも共に受け継ぐ者であることを示しております。命の恵みを共に受け継ぐとは、命の恵みを共に相続すべきことでありましょう。この受け継ぐ命の恵みをお与え下さるのは、神様です。この命の恵みは自分たちの望み通りに造り出すものではないでしょう。命の恵みは受け継ぐべきものであり、私たちは神様がお与え下さるものをただ受け取るしかない存在であります。私たちの生も死をも支配しておられるのは神様であります。ここで語られている命の恵みというのは、この地上における命というものではないでしょう。ただ夫婦の生活の恵みということではなく、永遠のいのちのことをも語っているのです。夫婦の生活と言うのは地上の生活でありますので終わりを迎えます。けれども、キリスト者の夫婦は神様から永遠の命の恵みを共に受け継ぐのです。だから尊敬しなさいと、言われております。そして、永遠の命の恵みを共に受け継ぐ者である妻と夫の生活もまた互いに尊敬しなければならない、とあります。その目的は祈りが妨げられないためである、祈りのためであるというのです。祈りは神様との対話、神と共に生きることであります。神様と共に生きる生活、それは神様を礼拝する生活ということでしょう。ペトロは夫と妻が一緒に礼拝できることこそ、それぞれの生活が正しくされる唯一の道であると信じたので、このように夫と妻に勧めたのです。妻に対しては、夫の生活が正しくなって礼拝生活が妨げられることのないようにと願うのです。私たちの人間の生活は自由を与えられております。どのような生活も許されております。ただ、その生活をするために祈ることができないとなるのは神を畏れないということでしょう。

イエス・キリスト中心に
夫と妻に対する勧めを通して聖書の語る事柄は古風に思われる、時代錯誤であると思われるかもしれません。けれども、ここで勧められている事柄は神様を信じるキリスト者のあり方を示しております。神様によって与えられた隣人に対して、信仰を持って従い、仕えることが大事であると伝えております。妻も夫も共に命の恵みを受け継ぐ者であるということは、永遠の命、神の国を受け継ぐ者であるということです。どのような立場においても、そのような人生の中心には主イエス・キリストが共におられ、私たちと共に歩んで下さるということです。

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