夕礼拝

イエス・キリストに従い

「イエス・キリストに従い」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第24章1-11節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章2節
・ 讃美歌 : 222、509

わたしについて来なさい
 主イエスは神の国の福音を宣べ伝えておりました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。主はお一人でも人々に福音を伝えることがお出来になったのに、弟子たちと共にその業を進めたのです。主イエスはガリラヤ湖の湖畔で、網を打って魚を取っていた漁師たちのところに突然来られたのです。主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしょう。」とペトロに呼びかけられたのです。そのような主イエスの呼びかけ、招きを受けたペトロはすぐに応じて主イエスの弟子とされました。主がお召しになる。ペトロはそれまでの一切のものを捨てて主に従い、主の後について行ったのです。私たちは自分の信仰生活、あるいは信仰に入った時のことを思い起こすと、そこには自分の決心だけではなかったことに気付きます。主イエスに呼びかけられ、主イエスの招きを受けました。自分の意志で信仰を手に入れたのではなく、主イエス・キリストに召されたと言えるでしょう。主イエス・キリストに捕らえられたと言っても良いでしょう。
 主イエスが突然、突然と言うのは思いがけない時、思いもしない時に、人間が予想もしない、考えもしない時と場所において主イエスは呼びかけられるのです。私たち人間の側にとっては、突然の時、予想もしない時かもしれません。けれども主なる神様にとっては計画された時なのです。神様は私たちの生涯の始めから終わりまでをその御手の内に置かれております。主なる神は私たちのすべてをその御支配の中に入れておられます。聖書には主イエスから呼びかけられ、主イエスに従う道を歩み始め、その生涯が全く変わった人がたくさん描かれております。私たちの周囲を見回してもおひとりおひとりが主イエス・キリストの出会いを通して、主イエスに従う人生を歩んでおります。

自分を捨て
 漁師であったペトロは網を捨てて、即ち生活の術、家庭あるいは財産を捨てて主イエスに従いました。ペトロは最初の弟子のうちの一人です。主は最初に12人を弟子として召されました。それ以来、主は人々を招いておられます。私たちをも召しておられます。今も私たちに呼びかけておられます。私たちをご自身の救いの御業の中へと招き入れておられるのです。主の召しに応えて立ち上がり、主に従って歩き出した者たちがいたのです。弟子とされた者たちはそれまでの自分の生活を捨てて主に従ったのです。主イエスに従うということは「捨てる」ということと結びついております。

あらかじめ立てられた御計画
 私たちは夕礼拝において、共にペトロの手紙一を通して神様の御言葉を聞いております。その手紙の冒頭には挨拶があります。本日の箇所にはこのようにあります。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」この手紙の著者ペトロはこのように挨拶を締め括っております。ある神学者はこの部分は始めの頃の教会の礼拝で用いられた言葉であろうと言っております。どのような形で用いられていたかは定かではありませんが、信仰の告白の言葉として用いられたのか、礼拝の指導者または会衆が唱和したのか、讃美歌であったのかは定かではありません。けれども、手紙の最初の挨拶の部分にこのように礼拝で用いられた言葉を使うというのは素晴しいことであります。またとても大事な内容であるから手紙に記したのです。ペトロはこの手紙を出している諸教会に対して、離散して仮住まいしている選ばれた人たちへと説明を付しております。教会に対して、その教会に集う人々に「選ばれた人へ」としております。キリスト者は選ばれた人達である。それでは選んで下さるのはどなたか。父である神様です。父である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて選ばれているのです。私たちは自分が、神のあらかじめたてられた御計画により選ばれた者であると思い起こせるのは、キリスト者にとっての励まし、慰めになるでしょう。失望を覚えるとき、またどのような状況でも、そのように思えるにはとても幸いなことです。神様の御計画というのは、神様の側にある計画です。人間の方には何もないのです。人間の側には主イエスを信じることに際して、力も何もないことを言い表しております。人間の自身の理性や力によっては主イエス・キリストを信じたり、主イエス・キリストのもとに行ったりすることはできないのであります。それでは、何が、どのような力や働きによって私たちは主イエス・キリストを信じることが出来るのでしょうか。

霊によって
 それは、次にあります、霊による力なのです。霊の働き、聖霊の力によって聖なる者とされる。神様は御計画に基づいて選ばれた者を霊によって聖なる者とされると、ペトロは言っております。聖霊は私たちの生活のあらゆる領域、あらゆる段階で働きます。この部分を口語訳聖書では「御霊のきよめにあずかっている人たち」と言います。神様がお選びなった者に対して御霊が働き、御霊のきよめによって聖なる者とされるのであります。神様が与えて下さる御霊、聖霊によって私たちを清めて下さるのです。清めるということは、清らかにする、汚(よご)れや汚れ(けが)れを洗い流すという意味です。私たちの汚れとは私たちの内にある罪です。その意味で血を注ぎかけるというのは、罪を洗い流すという意味で洗礼でもあります。罪に生きる私たちを罪の汚れを洗い流すものは、主イエス・キリストの流された血なのです。「血の注ぎ」については旧約聖書を背景として語られております。レビ記には重い皮膚病の人が癒されると清めの儀式として鳥の血を注ぎかけられたという記事があります。血を注ぐことは清めの象徴でもあったのです。更に血を注ぐということの意味は、神とイスラエルとの契約においてその役目を果たしております。主なる神はこの契約において、神様がイスラエルの神となり、イスラエルをご自身の民となさりました。先ほどお読みした出エジプト記第24章1-11節はモーセがシナイの山で神様から十戒をいただいた時の話です。モーセは主なる神の言葉を民のすべての者に告げました。すると、民は皆、声を一つにして「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」と言いました。そして、モーセは朝早く起きて山のふもとに祭壇、礼拝の場所を築いて、その前で犠牲をささげ、その時にささげた雄牛の血の半分を鉢にとり、その半分の血を祭壇にふりかけました。その上で、モーセは契約の書、即ち神が人間を救って下さるという約束の書を取り上げ、民に読んで聞かせました。民は「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言いました。そしてモーセは血を取り、民に振りかけて言いました。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」旧約聖書の時代の契約というのは、このように動物を流して犠牲の捧げものとし神様と契約を結んだのです。そこで動物の血が流されました。血を注ぐということは、ここでは民に振りかけるという行為ですが、唯一の、主なる神への服従のためでありました。民は言いました。「私たちは、主が語られた言葉をすべて行います。」主なる神への服従、従うことです。
 ペトロがここで「血の注ぎ」と言う言葉を用いたのは、単に旧約の時代の犠牲の話をするわけではありません。「血の注ぎ」とはつまり主イエス・キリストの十字架上における犠牲によって、信仰者が神様との新しい関係に招き入れられることなのです。そこから、キリスト者は罪を赦され、主イエス・キリストに従うのです。キリスト者は将来の服従を誓約したのです。キリスト者はイエス・キリストの十字架を通して生涯、聖なる者とされ、イエス・キリストに従い歩みます。神の御心によってあらかじめ立てられた御計画によって、キリスト者は召されました。イエス・キリストの十字架の血潮によって、罪を赦され、イエス・キリストに従うのです。
 本日の箇所は短くも大変内容の濃い1節であります。教会の礼拝で用いられていた言葉です。私たちが礼拝するのは、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神です。私たちは礼拝において、単に聖書のお話を聞きに来るだけではないのです。心から神を崇め、神様を讃美する、神様を礼拝しに来ているのです。そこに教会があるのです。
 本日はこれより聖餐に与ります。聖餐は目に見える神様の恵みです。罪の汚れにいた私たちを主イエス・キリストは十字架においてその命を捨て、その血によって私たちの罪を清め、赦して下さいました。そのためにご自身の血を流されたのです。聖霊によって、主イエス・キリストによって清められ、聖なる者とされる。罪の汚れに生きていた私たち、主イエス・キリストの血、つまり十字架の出来事によって罪が赦されたのです。聖霊によって、私たちの罪が赦され、イエス・キリストが私たちの救い主であるという確信を与えられます。キリスト者は聖なる者とされ、イエス・キリストに従い歩みます。そのために選ばれたのです。
 主イエス・キリストは言いました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」自分を捨て、自分の十字架を背負って生きることが主イエス・キリストに従うことであります。けれども、このことを全うできた人間はいたでしょうか。私たちが従うべきお方は、ご自分のすべて捨て、十字架を担った方、人類のためにその身を捧げきったお方です。その身を捧げきるというのは、従順に、神様に従いきったただお一人の方、主イエス・キリストです。その方がすべてを担って下さったのです。私たちはその方に従うのです。イエス・キリストに従うために選ばれた。この手紙を記したペトロはその手紙の冒頭ではっきりと述べます。
 そして、この手紙の挨拶部分をこのように締めくくっております。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」これは主イエスが私たちに語られているお言葉でもあります。「恵み」と「平和」があるように。恵みは主イエス・キリストによって与えられた罪の赦しです。神の限りない愛を示す恵みです。平和とは神と人間との間の平和です。洗礼によって罪を赦され、主イエス・キリストに従う人生こそ、恵みと平和であるのです。神様が与えて下さる恵みと平和がいつまでも続き、豊かに与えられるように。
 恵みと平和を与えて下さる神様に感謝してこの1週間を歩みましょう。

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