「主の言葉はとこしえに立つ」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章6-8節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第1章22-25節
・ 讃美歌:127、474
ペトロの姿と信仰を思い起こしつつ
ペトロの手紙一を読み進めてきまして、本日は1章の終わり22-25節のみ言葉に聞いていきます。すでにお話ししてきたことですが、この手紙はローマ帝国によるキリスト教迫害が起こった紀元90年代に書かれたと考えられています。使徒ペトロは紀元64年にローマで殉教したと伝えられていますから、この手紙はペトロが亡くなった後に書かれたことになります。しかしこのことは、使徒ペトロが書いた手紙としてこの手紙を読むのが間違っているということではありません。おそらくこの手紙を書いたのはペトロの信仰に立ったペトロの弟子だと思います。そしてそれは、この手紙がペトロの存在と信仰なくしては書かれることはなかったということです。ですから私たちは代々の教会がそうであったように、この手紙を使徒ペトロの書いた手紙として読み進めているのです。実際、私たちはこの手紙を読み進める中で、度々ペトロの姿とその信仰を思い起こします。本日の箇所においても、私たちはペトロの姿と信仰を思い起こしつつ読み進めていきたいのです。
信仰に至り、救いに至る道
冒頭22節で「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と言われています。「なったのですから」の「なった」とは「至った」ということであり、ここではどのような経緯で、あるいはどのような道を通って信仰に至り救いに至ったのか、ということが語られているのです。もちろん私たちが信仰に至った経緯は一人ひとり違います。今、この礼拝に集っている私たちも、それぞれに異なる経緯を経て信仰者になりました。クリスチャンの家庭に生まれた方もいれば、そうでない方もいます。若いときに主イエスに出会い信仰に至った方もいますし、歳を重ねてからの方もいます。私たちはそれぞれ千差万別の経緯を経て信仰に至ったのです。しかしそれにもかかわらず、それぞれの違いを越えて、キリスト者なら誰もが通った道があるのです。そしてその道は、これからキリスト者になる人たちが通る道でもあります。それが「真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」ということにほかならないのです。私たちは誰もがこの道を通って信仰に至り救いに至ったのです。
真理を受け入れることによって神のものとされる
ではこの「真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」とは、どういうことなのでしょうか。「真理を受け入れて、魂を清め」と訳されていますが、むしろ「真理を受け入れることによって魂が清められた」と言い換えたほうが分かりやすいと思います。ここで魂とは、体と分かたれたものではなく、私たちの命であり、私たちの存在そのものです。この手紙の2章25節で主イエスは「魂の牧者」であると言われていますが、それは主イエスが私たちの心だけとか体だけとかではなく、心も体もひっくるめた私たちの命に心を配っていてくださり、私たちの存在そのものに心を配っていてくださる、ということです。また「清められた」とは「聖とされた」ということですから、私たちの魂が清められたとは、私たちの命が聖とされた、私たちの存在そのものが聖とされたということであり、要するに私たちが聖なる者とされたということです。前回もお話ししたように、聖なる者とは清く正しく生きている人のことではなく、神のものとされた人のことです。ですからここでは、私たちは真理を受け入れることによって神のものとされ、聖なる者とされたと言われているのです。
真理が私たちを捕らえる
そうであるならば、私たちが救いに至る道には、「真理を受け入れる」ことがなくてはならない、ということになります。私たちは誰もが「真理を受け入れる」という道を通って信仰に至り救いに至るということになるのです。私たちは「真理を受け入れる」と言われると、ある真理について学んで、その真理を理解し、「この真理は本当だ」と認めることだと思うのではないでしょうか。それと同じように私たちは聖書やキリスト教の真理を学んで理解し、「この聖書の真理は本当だ」、「このキリスト教の真理は本当だ」と認めることによって信仰に至るのでしょうか。そうではありません。聖書が告げる真理とは、福音の真理です。キリストの十字架と復活によって私たちの罪が赦されたという真理であり、私たちの行いによってではなく神の恵みによって救われたという真理です。私たちはこの福音の真理を学んで理解したから信仰に至るのではありません。そうではなくこの福音の真理が私たちを捕らえることによって、私たちは信仰に至り救いに至るのです。福音の真理を受け入れるとは、私たちが神の恵みによる救いに捕らえられることなのです。学問における真理の探究は、調べたり実験したりして真理に近づいていくものだと思います。それはもちろん尊い営みです。しかし救いについての真理は、私たちが探究して近づけるものではありません。私たちは自分の力で福音の真理に近づくことはできません。そうではなく福音の真理のほうが私たちに近づき迫ってくるのです。だからこそ福音の真理は私たちを本当に生かし、私たちに本当の希望を与え続けます。私たちが自分の力で獲得した真理などというものは、まことに不確かな、すぐ崩れ去ってしまうものであり、都合が悪くなればいつでも捨て去られてしまうものです。しかし福音の真理はそうではありません。主イエスの十字架と復活によって打ち立てられた決して揺らぐことのない福音の真理が私たちを捕らえ、私たちを生かし、私たちに希望を与え続けるのです。
主イエスが私たちを捕らえてくださる
使徒ペトロはかつてガリラヤの漁師でした。彼は福音の真理を学び理解したから信仰に至ったのではないし、彼自身が主イエスを探し求めたのでもありません。彼は真理の探究とはかけ離れた生活をしていたのです。しかしそのような彼を主イエスが探し求めてくださいました。そして「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)と語りかけてくださり、ペトロを捕らえてくださったのです。主イエスに捕らえられることによって、ペトロは主イエスを信じたのです。私たちも同じです。主イエスが私たち一人ひとりを探し求め、出会い、捕らえてくださったことによって、私たちは信仰に至り救いに至りました。この道こそ、私たちの誰もが通る道であり、真理を受け入れる道なのです。この礼拝には信仰を求めて出席されている方々がいらっしゃいます。もしかすると聖書やキリスト教のことがちゃんと分からないと、信仰に至り救いに至ることはできないと思っておられるかもしれません。しかしそうではないのです。ちゃんと分かるかどうかではなく、主イエスに捕らえられているかどうか、神の一方的な恵みによる救いの真理に捕らえられているかどうかです。キリストに捕らえられ、福音の真理に捕らえられているなら、もう信仰に至っているのです。
教会の中における偽りのない愛
このように私たちは福音の真理に捕らえられることによって神のものとされ救いに至りました。それは同時に、「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」ことでもあると言われています。救いに至るとは、偽りのない兄弟愛を抱くようになることなのです。このことからすぐ分かるのは、救われた私たちは一人で生きるのではないということです。キリストに捕らえられ、福音の真理に捕らえられ救いに入れられた私たちは一人で生きるのではなく、同じようにして救いに入れられた人たちと共に生きます。「兄弟愛を抱くようになった」とは、救われた私たちが互いに愛し合いながら生きる者とされた、ということなのです。ここで見つめられているのは、なによりもキリスト者同士が互いに愛し合うことです。要するに教会の中において教会員が互いに愛をもって接することが見つめられています。教会の中での愛だけが語られるのでは不十分だ、内向き過ぎる、教会の外での愛が、この社会に生きる人々に愛をもって接することが語られる必要があると思われるかもしれません。それは確かにその通りです。しかし教会の外での愛を語る前に、私たちは教会の中での愛に改めて目を向けなくてはなりません。わざわざ「偽りのない兄弟愛」と言われているのは、教会における愛が偽りのものになる可能性があるからです。教会における交わりにおいても偽りが生じることがあるのです。愛の言葉を語り、愛をもって接していても、そこに偽りが潜んでいることがある。それが私たちの現実ではないでしょうか。この現実は私たちにするどく突き刺さり、私たちの罪や弱さや欠けを暴きます。できれば見ないふりをしておきたいとも思います。しかし見て見ぬふりをするならば、私たちは教会の外での愛を語ることができるはずがありません。私たちが教会の中で互いに愛し合えていないのに、その愛が教会の外へ広がっていくはずがないからです。教会において私たちが互いに偽りのない愛を持って接するようになるとき、教会はその愛の発信源となります。教会において互いに愛し合っている私たちが世に遣わされることによってこそ、その愛が教会の外へと広がり、その愛を持ってこの社会に生きる人々と関わっていくことができるのです。
新たに生まれさせられたから
そのように私たちが「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と言えるのは、私たちが新たに生まれさせられたからです。23節にこのようにあります。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。ここでは私たちが新たに生まれさせられたこと、つまり洗礼の出来事が見つめられています。朽ちない種から新たに生まれるとは、朽ちることのない永遠の命に結ばれて新たに生き始めるということです。私たちは洗礼において古い自分に死に、この朽ちることのない永遠の命を生き始めました。復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストに結ばれることによって、私たちはこの永遠の命に生き始めたのです。「朽ちない種」を言い換えて、「神の変わることのない生きた言葉」と言われています。そうであるなら復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストこそ、「神の変わることのない生きた言葉」です。私たちは洗礼において、「朽ちない種から」「神の変わることのない生きた言葉によって」、つまり復活した主イエス・キリストによって新たに生まれさせられたのです。
大いなる「しかし」
24節では、このように言われています。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。私たちの人生は草が枯れ、花が散るように瞬く間に終わりを迎えます。地上の歩みにおいてどれほど富や名声を得たとしても、その華やかさはあっという間に消え去っていくのです。そのようにして人生が終わりを迎え、命が失われるのだから、「死んだら終わりだ」と言う人たちがいます。まるでそれが真実であるかのように言われています。しかし本当に死んだら終わりなのでしょうか。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る」。これが私たちの人生に終止符を打つ言葉なのでしょうか。決してそうではありません。この言葉で終わりではないのです。「草は枯れ、花は散る」に続けて、神は「しかし」と宣言されます。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」と告げられるのです。この神が告げる「しかし」こそ、「死んだら終わり」という絶望を打ち砕く大いなる「しかし」です。私たちの人生は草のように枯れ、花のように散るに違いない。しかしそのように迎える死が終わりなのではない、と告げているのです。間違えてはならないのは、「死は終わりでない」というのは、私たちの考え出したことではないということです。私たちが見つけ出した真理ではないのです。私たちがどう考えていようと、世の中でまことしやかに「死んだら終わりだ」と言われていようとも、ほかならぬ神が「しかし」と宣言され、「死は終わりでない」と告げているのです。私たちはこの神の大いなる「しかし」を信じているのです。
主イエスの言葉はとこしえに立つ
この「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」という御言葉は、共に読まれた旧約聖書イザヤ書40章8節の引用です。そこでは「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。使徒ペトロはこのみ言葉を引用する際に少しだけ言葉を変えています。すぐに気がつくのは、イザヤ書では「とこしえに立つ」とあるのに、ペトロは「永遠に変わることがない」としていることです。しかし実は、「とこしえに立つ」と「永遠に変わることがない」は原文では同じ言葉で、訳し方の違いに過ぎません。ペトロが変えた言葉。それはイザヤ書の「神の言葉」を「主の言葉」に変えたのです。「主の言葉」とは、主イエス・キリストの言葉、主イエス・キリストが語った言葉です。ペトロにとって主イエスの言葉こそ、彼を生かし続けたものに違いありません。かつてペトロは主イエスの十字架を前にして「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と言いました。しかし主イエスが逮捕されると、彼は三度主イエスを知らないと言ったのです。「死んでもよいと覚悟している」と言ったとき、ペトロは自分の覚悟や自分の信仰の確かさによって、困難の中にあっても主イエスを信じて生きていけると思っていました。しかしそのペトロの覚悟や信仰の確かさは、風が吹けば花が散るように、困難に直面することによってあっという間に崩れ去ってしまったのです。それでもペトロが再び立ち上がることができたのは、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてあげなさい」(ルカ22:32)という主イエスの言葉だったのではないでしょうか。彼は、復活のキリストに出会ったとき、あっというまに崩れ去る自分の言葉や信念ではなく、永遠に変わることなく、とこしえに立ち続ける主イエスの言葉により頼む者へと変えられたのです。とこしえに立ち続ける主イエスの言葉こそ、その後のペトロを生かし続け、困難の中にあるペトロに希望を与え続けたのです。同じように私たちも、耐え難い苦しみや悲しみによって自分の覚悟や信仰の確かさが崩れ去ってしまうときも、とこしえに立ち続ける主イエスの言葉によって生かされ、希望を与えられ続けるのです。絶望の中にあって私たちは、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」という主イエスの言葉を聞き続けるのです。
復活と永遠の命を告げる言葉はとこしえに立つ
しかしそれだけでは、永遠に変わることがない主の言葉が、この地上を歩む私たちを生かし続けるとしても、「死んだら終わり」という絶望を打ち砕くとは言えないかもしれません。けれども「主の言葉」とは、主イエス・キリストが語った言葉であるだけでなく、主イエス・キリストによる救いを告げる言葉でもあるのです。主イエス・キリストの十字架と復活による救いを告げる言葉であり、その救いによって約束されている世の終わりの復活と永遠の命を告げる言葉です。私たちの人生は草が枯れ、花が散るように終わりを迎えます。私たちの地上の歩みには必ず終わりがあるのです。しかしキリストの十字架と復活による救いを告げる言葉は、復活と永遠の命の約束を告げる言葉は、とこしえに立ち続けるのです。そうであるならばキリストの十字架と復活による救いに与った私たちにとって、死は決して終わりではありません。とこしえに立ち続ける主の言葉は、死を越えた復活と永遠の命の約束を私たちに告げているのです。
熱心に愛し合いなさい
先ほど、22節の後半の御言葉には触れませんでしたが、そこには「清い心で深く愛し合いなさい」とあります。「深く」とは、「熱心に」、「絶えず」という意味であり、つまり「熱心に愛し合いなさい」と命じられているのです。確かに私たちは救われてなお「偽りのない愛」に生きることができない者です。救いに至るとは、偽りのない愛を抱くようになることだと言われても、私たちの現実と乖離していると思わざるを得ません。そのような現実を突きつけられるとき、私たちは「偽りのない愛」なんて、「熱心に愛し合う」なんて綺麗事だと諦めてしまいたくなります。しかし忘れてはなりません。私たちは、死に打ち勝って甦られ、新しい命、永遠の命を生きておられるキリストに結ばれ、新たに生まれさせられたのです。キリストに結ばれて新しい命を生き始めているからこそ、私たちは簡単に諦めることなく、互いに熱心に愛し合うことを求めていきます。聖霊の働きによって熱心に愛する者へ変えられていくことを絶えず求めていくのです。
教会は愛の発信源
危機の時代を生きる小アジアの教会に「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」と告げられています。そして今、危機の時代を生きる私たちにも「しかし、主の言葉はとこしえに立つ」と告げられているのです。私たちの教会は危機の時代を生きています。しかし危機の時代にあって私たちは、「しかし、主の言葉はとこしえに立つ」という御言葉を聞き続けます。死に打ち勝ち、甦られた主イエスの言葉が、復活と永遠の命の約束を告げる言葉が、甦られた主イエスご自身がとこしえに立ち続けてくださり、私たちが生きているときも、死ぬときも、死んでからも、導き支え守っていてくださるのです。たとえ死を迎えるときも、私たちの人生に終止符を打つのは「草は枯れ、花は散る」という人生のむなしさを告げる言葉ではなく、世の終わりの復活と永遠の命の約束を告げる希望の言葉です。この希望によって生かされているからこそ、危機の時代にあっても、私たちは諦めることなく互いに熱心に愛し合うことを求めていくことができます。教会において私たちが互いに愛を持って接することによってこそ、私たちの教会は危機の時代に生きる世の人々に向かって愛を伝えていくことができるのです。私たちの教会は愛の発信源です。復活と永遠の命の希望によって生かされている私たちは、怒りや憎しみ、対立や争いに覆われている世界に神の愛を広げていくのです。