夕礼拝

壺の粉は尽きることなく

説 教 「壺の粉は尽きることなく」牧師 藤掛順一
旧 約 列王記上第17章1-24節
新 約 ルカによる福音書第4章16-30節

イスラエル王国の分裂
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書列王記上を読み進めています。列王記上は第12章において、ソロモン王の時代に最盛期を迎えたイスラエル王国が、ソロモンの息子、レハブアムの時に北と南に分裂したことを語っています。イスラエルの十二の部族の内十部族が、レハブアムのもとから分離して別の王国となったのです。それが北王国イスラエルで、その王となったのがヤロブアムという人でした。ダビデ王の出身部族であるユダと、ベニヤミンの二部族のみが、レハブアム王のもとに残りました。それが南王国ユダです。この王国分裂の根本的な原因は、ソロモン王が、外国から迎えた妻たちの影響によって、他の神々を拝むようになったことにある、と列王記は語っています。つまり、人間の罪に対する神の怒りによって、イスラエル王国は分裂したのです。

ヤロブアムの罪
ヤロブアムが北王国イスラエルの王となったのは、このように主なる神のみ心によることでした。しかし北王国イスラエルの初代の王となったヤロブアムは、国の土台を据えることにおいて大きな罪を犯しました。彼は北王国に、エルサレムに代わる礼拝の場を作ろうとして、金の子牛の像を造り、それをベテルという所に安置して祭壇を築き、北王国イスラエルの人々のための礼拝の場所としたのです。それは、十戒の第一の戒め、「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」に反することでしたし、第二の戒めである、「自分のために刻んだ像を造ってはならない」にも反することでした。前回、10月に読んだ列王記上第13章には、主なる神がそのことをお怒りになり、ベテルの祭壇が徹底的に破壊される日が来ることを預言者を通してお告げになったことが語られていました。そして13章の最後のところには、この罪のゆえに、ヤロブアムの家は長続きしない、つまり彼の王朝はすぐに断絶することが告げられていました。その預言の通り、ヤロブアムの子であるナダブは、二年間王であっただけで、バシャという人の謀反によって殺され、ヤロブアムの王朝は二代で滅亡したのです。代って王となったバシャの王朝も二代しか続かず、やはり謀反によって滅ぼされました。北王国イスラエルにおいてはそういうことが繰り返されていき、次々に王朝が代っていきました。中には七日間だけ王だった人もいます。他方南王国ユダにおいては、ダビデの子孫が代々王位を受け継ぎ、ダビデ王朝がずっと続いていました。北王国イスラエルと南王国ユダでは、このように王位継承の歴史がかなり違っていたのです。列王記はこの両国で誰が王として即位して何年王位にあり、どのように歩んだか、を語っています。北王国イスラエルの王の話と、南王国ユダの王の話とが並行して語られているので、注意深く読まないと、今どちらの話なのかが分からなくなります。その点小見出しがつけられているのは大変便利です。それによって見ていくと、15章の後半から16章は全て、北王国イスラエルの王の話です。そうなっているのは、南王国ユダでは王朝が安定していて、一人の王の治世も長かったのに対して、北王国イスラエルでは、今言ったように短期間にめまぐるしく王が変わっていったからです。16章の終わりのところで北王国イスラエルの王となったのはアハブという人でした。この人がイスラエルの王となった時、南王国ユダの王だったのはアサという人ですが、この人はレハブアムから数えて三代目、つまりレハブアムの孫です。しかしアハブは、ヤロブアムから数えてもう七代目の王となるのです。勿論、ヤロブアムと血の繋がりは全くありません。

最悪の王アハブ
さて列王記は、北王国イスラエルの王たちが皆、最初の王ヤロブアムの犯した罪を受け継いで、主の目に悪とされる事を行った、と語っています。つまりヤロブアムがベテルに築いた金の子牛の像の祭壇を礼拝の場として、偶像礼拝によって国をまとめようとしていたのです。それが、最初の王ヤロブアムによって据えられた、北王国イスラエルの基本的なあり方で、王朝が代ってもそのことは受け継がれてきたのです。しかし、アハブ王については、16章31節以下でこう語られています。「彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」。つまりアハブは、妻イゼベルと一緒になって、イゼベルの出身地シドンで拝まれていたバアルという神をイスラエル王国に持ち込んだのです。「サマリアにさえバアルの神殿を建て」とあります。サマリアは、アハブの父オムリが北王国イスラエルの首都とした町です。アハブはその首都に、バアルの神殿を築いたのです。またアシェラ像を造ったともあります。バアルは男の神、アシェラは女の神で、その両者によって豊かな実りがもたらされるとされていたのです。つまりバアルとアシェラは豊穣の神です。アハブとイゼベルは、夫婦で、北王国イスラエルに、この豊穣の神を持ち込み、偶像礼拝を行なっていったのです。さらに、これはこの後の18章に語られていることですが、イゼベルは、主なる神の預言者たちを多数切り殺したのです。つまり、アハブとイゼベルは、イスラエルから主なる神への信仰を根絶やしにし、バアルとアシェラを拝む国にしようとしたのです。というわけで、この二人は、イスラエル史上最悪の王と王妃として、列王記にその名を記されているのです。

アハブと対決するエリヤ
このアハブ王の時代に現れて、アハブ王と対峙した主の預言者がエリヤです。主なる神は、イスラエル史上最悪の王であるアハブと対決させるために、エリヤを預言者として遣わしたのです。そのアハブ、イゼベル夫妻とエリヤの対決が、17章から21章にかけて語られていきます。本日の17章はその始まりのところです。
さて、17章1節に、エリヤがアハブ王に告げた言葉が記されています。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」。これが、エリヤとアハブの対決の始まりを告げる言葉です。エリヤは、これから数年の間、露も降りず、雨も降らない、と言いました。それは、お天気の長期予報をしたのではなくて、「わたしの仕えているイスラエルの神、主」がなさろうとしていることを告げたのです。主こそが、生きておられる、イスラエルの神である、と彼は語っています。バアルやアシェラではなく、ということです。その主なる神が、イスラエルに雨を降らせない、というみ業を行われるのです。このことが、バアルとアシェラに対する言わば宣戦布告です。バアルとアシェラは豊穣の神です。つまり適度な雨を降らせ、適度な日差しをもたらすことによって穀物を豊かに実らせる、そういうご利益をもたらす神として拝まれているのです。しかし主なる神が雨を止められる。それは、雨を降らせて穀物の実りを与えておられるのは、本当は主なる神なのだ、ということです。つまりエリヤは、この世界を本当に支配し、私たちに実りを与えて下さっているのは、バアルやアシェラではなくて主なる神なのだ、ということをアハブに対して宣言したのです。こうして、エリヤとアハブの対決が、いや根本的には主なる神とバアルやアシェラとの対決が始まったのです。

主なる神に養われるエリヤ
この対決がどうなったかは、18章に語られています。そこには非常に劇的な物語が語られているのですが、本日の17章は、そこに至るまでのいわば備えの話です。雨が降らなくなることによって、当然飢饉が起こります。それによって、全ての人々が苦しみ、命の危機に直面するのです。エリヤ自身もそれは同じです。それと同時に、アハブ王とイゼベルに真っ向から対決しているエリヤは、お尋ね者となり、身を隠さなければならなくなったのです。そのエリヤを主なる神が守って下さったことがこの17章に語られています。主は先ずエリヤに「東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ」と命じます。聖書の後ろの付録の中にある地図の「南北王国時代」というのを見ていただくと、真ん中あたりに、ヨルダン川の支流として「ケリトの川」があります。その近くに、エリヤの出身地とされているティシュべがあります。おそらくこのあたりにケリトの川というのがあったのだろう、と推測されているわけですが、エリヤはそこに身を隠し、その川の水を飲んだのです。しかし川の水を飲むだけでは生きていけません。6節には、「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た」とあります。烏が運んで来るパンと肉によってエリヤは養われ、命を守られたのです。しかししばらくすると、雨が降らないためにケリトの川も涸れてしまいました。すると主の新たな言葉が彼に臨みました。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め、わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。シドンのサレプタとはどこでしょうか。先ほどの「南北王国時代」の地図を見ていただくと、その一番上つまり北の地中海沿岸にシドンがあり、その南にサレプタがあります。主はエリヤに、今度はそこに行くようにお命じになったのです。

シドンのサレプタのやもめ
エリヤがサレプタの町の入り口に着くと、一人のやもめが薪を拾っていました。エリヤは彼女に、水を飲ませ、パンを食べさせてくれるように頼みました。するとやもめはこう答えたのです。12節です。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に、一握りの小麦粉と、瓶(かめ)の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」。つまり彼女は、最後に残った小麦粉と油で息子と自分の最後の食事を作ろうとしていたのです。食料はそれで尽き、後は飢え死にするのを待つしかないのです。つまり、イスラエルの地から遠く離れた異邦人の地であるシドンのサレプタにおいても、雨が降らないための飢饉が起こっており、やもめに代表される貧しい人々が飢え死にしようとしていたのです。このシドンは、イゼベルの出身地です。つまりバアルやアシェラへの信仰の盛んな地です。その地においても、バアルは雨を降らせることができず、日照りによる飢饉が起こっていたのです。主なる神のご支配は、イスラエルの地だけでなく、異邦人の地にも、つまり全世界に及んでいることがこのことによって示されているのです。
エリヤは彼女に言いました。「恐れてはならい。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい」。ずいぶんひどいことを言うものだと思います。最後に残った粉でパンを焼こうとしているのです。それを自分に先によこせというのですから。しかしこのエリヤの言葉には、主なる神の約束が伴っています。「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない」。やもめはこの約束の言葉を信じて、エリヤの言った通りにしました。すると、幾日たっても、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかったのです。このようにして、雨が降らないことによる飢饉の中で、エリヤも、やもめとその息子も、主なる神によって養われ、支えられたのです。

主こそが養って下さる
これらの話は、私たちに何を語りかけているのでしょうか。それは先ず第一には、主なる神こそが私たちを養って下さるのだ、ということです。この世界には、バアルやアシェラのように、私たちに豊かさをもたらしてくれるように見える、またそのような豊かさを約束するものがいろいろあって、それに頼りたくなります。あるいは私たちは、自分の中に豊かな蓄えを持つことによって、これだけあれば安心できる、と思いたくなります。しかし、この世界と私たちの歩みを本当に支配し、導いておられるのは主なる神です。主こそが私たちを養い、必要なものを与えて下さるのです。その主に信頼して、主の助けを求めていくことこそが、私たちのなすべきことです。それは安心してしまえるようなことではありません。毎日朝と夕に、烏がパンと肉を運んで来てくれるなど、何の保証もないことです。今日はそれが与えられても、明日も与えられるとは限りません。最後に残った粉と油は、今日尽きてしまうかもしれない、明日尽きてしまうかもしれないのです。しかしそのように先の保証が何もない中で、主が養い、支えて下さることを信じて歩むことによって、まことに不思議なことに、今日も、明日も、必要なものが与えられていくことを、私たちは体験していくのです。自分の持っている蓄えによって安心を得ようとしていると、そのことを体験することはできません。私たちの信仰の歩みは、この世の何かに、あるいは自分の持っているものに頼ろうとする思いを捨てて、主なる神にこそ信頼し、依り頼んでいく、その戦いです。その戦いの中でこそ、主の豊かな養いと支えを体験していくことができるのです。この17章の、エリヤの烏の話と、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」話は、私たちの信仰の戦いを励ましてくれるのです。

主の救いが異邦人にも及んでいく
サレプタのやもめの話によって示されているもう一つのことは、異邦人であり、主なる神の民では全くなかった彼女が、主なる神の預言者であるエリヤを迎え入れ、エリヤを支えたことによって、彼女とその息子も主なる神の養いと守りを与えらえた、ということです。主なる神に仕える者を支えることによって、主なる神の恵みが、主の民でなかった人にも及んでいくのです。そのようにして、主なる神の救いが、異邦人にも与えられていくのです。主イエスも先ほど共に読んだルカによる福音書第4章の25節以下において、エリヤが、この時イスラエルにも多くのやもめがいたのに、シドンのサレプタのやもめのところに主によって遣わされたことを語っておられます。主なる神の救いがそのようにして、主を信じていない人々にも伝えられていくことを主イエスは見つめておられるのです。このことは、信仰を持っていない家族と共に生きている私たちに希望を与えます。主を信じて生きている私たちを家族が何らかの形で支えてくれるなら、その家族にも主の恵みが及んでいくことを信じることができるのです。

信仰のゆえに責められる
さてエリヤはこのように、飢饉の中でサレプタのやもめのもとに身を寄せて守られました。ところが17節以下には、このやもめの息子が病気になり、死んでしまったことが語られています。その時やもめはこう言いました。18節です。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」。つまり彼女は、神の人であるエリヤが自分のところに来たために息子は死んだ、あなたのせいだ、と言っているのです。彼女も息子も、エリヤが来たことによって、もう飢え死にするしかない、という状態だったのを救われ、養われていたのです。そのことを彼女は喜んでいたでしょう。ところが、ひとたび息子の病気と死という苦しみ悲しみが起ってくると、その思いは大きく変わってしまうのです。彼女はエリヤを通して神の奇跡が起っていることを知っています。だからエリヤのことを「神の人」と呼んでいるのです。しかしそういう神と関わりを持っている神の人が身近なところにいることによって、罪を思い起こさせられ、そして息子が死んだ、と思っている。それは、「触らぬ神に祟りなし」というのと同じような感覚です。神と関わりを持ってしまったがためにバチが当たってしまった、ということです。私たちは周囲の人々からこのような反応を受けることもあります。主なる神さまを信じて生きている私たちを支えてくれていた家族が、何か悪いこと、不幸が起こると、手のひらを返したように、お前が神などと関わっているからこんなことになったのだ、と言ってきたりします。そこまでではなくても、神を信じているのになぜこんなことが起こるのか、と責められたりするのです。

死者をも生き返らせて下さる神の恵みの力
エリヤは主に向かって祈りました。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」、「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」。するとその子は生き返ったのです。このことは、エリヤが死んだ人を生き返らせる力を持っていたということではありません。それをなさることができるのは主なる神のみです。主は、信仰のゆえに責められたり、批判されたりしている私たちの祈りに答えて、死者をも生き返らせることのできる力をもって支え、助けて下さるのです。だから私たちは、このような苦しみを受ける中で、エリヤがしたように、「主よ、わが神よ」と呼びかけ、主の助けを祈り求めていきたいのです。その祈りの中でこそ、死者をも復活させて下さる神の恵みの力を体験させられていくのです。

厳しい対決への備え
息子を生き返らせてもらったやもめは、24節でこう言いました。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」。これはこのやもめの信仰告白ですが、それは息子を生き返らせてもらったという喜びの中で語られたもので、また別の苦しみが襲ってきたらどうなるか分かりません。この言葉はむしろ、エリヤのために語られたと言うことができると思います。エリヤはこれから、アハブとイゼベルとの厳しい対決に臨もうとしているのです。それを前にして、この17章において主は、主こそが彼を養い、守っておられることを示して下さり、主に信頼して歩む信仰の戦いへの励ましを与えて下さいました。そして、「主よ、わが神よ」と呼びかけて祈る時に、死者をも生き返らせる力をもってみ業を行なって下さることを体験させて下さいました。そしてやもめの口を通して、彼が主から与えらえて語る言葉は真実であることを示して下さったのです。これらのことによってエリヤは、アハブ王とイゼベルそしてバアルの預言者たちとの厳しい対決に向けて整えられ、備えを与えられたのです。

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