夕礼拝

ソロモンの罪

説教題「ソロモンの罪」
旧約聖書 列王記上第11章1-43節
新約聖書 ルカによる福音書第12章13-21節

ソロモンの栄華
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書を読み進めていて、今は列王記上からみ言葉に聞いています。列王記は、ダビデの子ソロモンが父のあとを継いでイスラエルの王となったことから語り始められています。このソロモンの時代が、イスラエル王国が最も繁栄した時代、「ソロモンの栄華」と呼ばれる時代でした。その豊かさ、繁栄の様が、10章14節以下に語られているのですが、その21節にはこのようにあります。「ソロモン王の杯はすべて金、『レバノンの森の家』の器もすべて純金で出来ていた。銀製のものはなかった。ソロモンの時代には、銀は値打ちのないものと見なされていた」。また23節以下にはこうあります。「ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた」。このようにソロモンは富のみでなく、類い稀れな知恵に満ちた人だったのです。その知恵を聞くために多くの人が訪ねて来た、その一人が10章1節以下に出て来る「シェバの女王」です。シェバという国は今のアラビア半島の南の方だろうと言われますが、その女王が、難問をもってソロモンを試そうとやって来たが、ソロモンに答えられないことは何一つなく、女王はソロモンの知恵に脱帽したと語られています。このようにソロモンは、富のみでなく知恵、賢明さ、賢さにおいても、これ以上ない豊かさを得たのです。
このソロモンの栄華は、主なる神の恵みによって与えられたものだったことを、私たちは既に第3章において読みました。主がソロモンに現れて「願うものは何でも与えよう」と言われた時、ソロモンは、王として国を正しく治めることのできる知恵を求めたのです。主はその求めを喜び、願い通りの知恵を与えると共に、富、豊かさをも与えると約束されました。この神の祝福によってソロモンはあの繁栄、栄華を得ることができたのです。そしてソロモンの様々な業績の中で最も大きなことは、主なる神を礼拝するための神殿を建設したことでした。私たちはそのことを先月、第8章において読みました。そこに語られているソロモンの神殿奉献の祈りには、主なる神こそが天におられて世界とイスラエルを守り導いておられる方であり、民の罪に対しては懲らしめ、罰を与えられるけれども、悔い改めて神に立ち帰る者を豊かに赦して下さり、恵みを与えて下さる方であるという信仰が語られていました。この信仰こそが、ソロモンの統治の土台であり、そこに彼の優れた知恵と、そして経済的繁栄が結びついて、イスラエルの黄金時代が訪れたことを列王記は語っているのです。

ソロモンの罪
しかしその黄金時代は10章までで、本日の11章からは、その崩壊が語られ始めます。イスラエル王国は、ソロモンの子レハブアムの時代になると、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂してしまうのですが、そのことの種を、ソロモン自身が蒔いてしまったのだということがこの11章に語られているのです。それは、彼が多くの王妃や側室を抱えたことによってでした。3節によれば、ソロモンには七百人の王妃と三百人の側室がいたとあります。一日に一人を相手にしても三年ぐらいかかっちゃうというものすごい数ですが、沢山の女性を妻や妾にしたことが罪だ、とされているのではありません。問題だったのは、1、2節にあるように、その中に多くの外国人の女性がいたことです。エジプトの王ファラオの娘を筆頭に、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人などの女性を妻としたのです。主なる神が以前からそういうことを戒めておられたことが2節に語られています。そこには「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」とあります。異邦人との交わりが、イスラエルの人々の心を、主なる神から離れさせ、彼らの神々に向かわせる原因となると警告されていたのです。まさにそのことがソロモンに起りました。それはソロモンが次第に年をとっていったこととも関係しています。4節にこうあります。「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」。年をとって弱っていくにつれて、ソロモンの心は妻たちに引きずられて他の神々の方に向いていってしまったのです。最初はおそらく、妻たちが、自分たちの拝んでいる神々に犠牲をささげることを許してくださいと願ったことから始まったのでしょう。7、8節はそのことを語っていると思われます。「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた」。自分が拝むためではなくて、妻たちのために、祭壇を築き、礼拝の場を与えてやったのです。しかしそういうことをしているうちに、いつのまにかソロモン自身の心も、主なる神から離れ、妻たちの拝む偶像の神々に向かうようになってしまったのです。そのようにして、主なる神に背き、他の神々、偶像の神々に心奪われてしまったことが、王国分裂の原因となったソロモンの罪なのです。
10章までに描かれている主に祝福されたソロモンの姿と、この11章の罪の姿との落差に私たちは愕然とします。あのソロモンがどうして、と思うのです。しかし列王記は、10章までの間にも、ソロモンの罪の萌芽を語っていました。彼がエジプト王ファラオの娘を妻としたことは既に3章の始めに語られていたのです。また7章の8節と9章の24節にも、ソロモンが彼女のために宮殿を建てたことが語られていました。それ自体は問題ではないにしても、それが11章で語られている、妻たちのために外国の神々の祭壇を築いたことへと繋がっていたことは確かでしょう。そのこと自体は罪とは言えないような些細なことの積み重ねが、次第に取り返しのつかない大きな罪へと膨れ上がっていってしまったのです。

神との平和な関係
しかしソロモンが罪に陥ったことを、妻や側室たちのせいにしてしまうのは間違いです。ソロモンの罪は、4節の後半に語られているように、彼の心が「自分の神、主と一つではなかった」ということにあるのです。このことこそが、彼が主なる神の祝福が失ってしまった原因だったのです。「主と一つではなかった」というところは、聖書協会共同訳では、「主に対して誠実ではなかった」と訳されています。「一つ」とか「誠実」と訳されている元の言葉は「シャーレーム」です。これは「完全な、十分な」という意味であり、それが人と神、あるいは人と人との関係にあてはめられると「完全に一つである、平和な」という意味になります。「シャーローム」という言葉が、旧約聖書の言葉であるヘブライ語において「平和」という意味であり、それが挨拶の言葉にもなっていることをご存知の方も多いと思いますが、それはこの「シャーレーム」と基本的に同じ言葉です。ですから「心が主と一つである」というのは、主なる神との間に平和な関係がある、ということです。その神との間の平和な関係をソロモンは失ってしまったのです。ここに、罪とは何か、あるいは罪がもたらす本当に深刻な問題とは何かが示されています。人間が、弱さのために、誘惑に負けて、あるいは憎しみや悲しみにかられて犯してしまういろいろなことは勿論罪ですが、しかし罪が本当に深刻な、人を滅ぼすものとなるのは、神との平和な関係が失われてしまうこと、心が主と一つでなくなってしまうことによってです。罪を犯すことがあっても、神との間に平和な関係が維持されているなら、悔い改めることができるのです。神様ごめんなさいと立ち帰ることができるのです。先月読んだあの神殿奉献の祈りにおいてソロモンは、自分が建てた神殿は、そういう神との関係に生きるための場であると語っていました。この民が罪の結果陥った苦しみの中で、その罪を悔いて神殿において神に祈る時、その罪を赦してくださいと願ったのです。つまり神殿は、罪を犯した民が悔い改めて神に立ち帰る場なのです。神を信じ、信仰をもって生きるとは、罪を犯さないで生きることではありません。人間は弱いものであり、罪に陥り、誘惑や衝動に負けることも多々あります。大切なことは、その時に悔い改めて神に立ち帰ることができるかどうかです。立ち帰ることができるような関係が神との間にあるかどうかです。主と心が一つであり、神との間に平和な関係があるというのはそういうことです。この4節には、ソロモンの心が、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかったと言われています。ダビデも、多くの罪を犯した人でした。部下であるウリヤを戦死させて、その妻バト・シェバを奪ったりもしたのです。このバト・シェバがソロモンの母です。しかしダビデは預言者によってその罪を指摘され、責められた時に、主なる神に自分の罪を告白し、神様どうぞ赦してくださいと願ったのです。つまり主なる神に向かって悔い改めたのです。それが、彼の心が主なる神と一つだった、平和な関係がそこにあったということです。しかしソロモンは、主なる神から離れて他の神々に心を向けてしまった。それは、弱さや誘惑に負けて何か悪いことをしてしまったというのとは根本的に違うことです。彼は、悔い改めて立ち帰ることができる神を見失い、神との平和な関係を失ったのです。

悔い改めを求める神
ここに、生きておられるまことの神である主と、他の神々、人間が造り出した偶像の神々との根本的な違いを見て取ることができます。まことの神である主は、私たちに悔い改めを求め、そして悔い改める者を赦して下さる方です。主なる神を信じるとは、悔い改めつつ生きることなのです。悔い改めるとは、それまでの歩みを変えられ、方向転換をすることです。まことの神は私たちに方向転換を、変えられることを求めるのです。それを受け入れて、神の方に心の向きを変えて歩み出すことが信仰です。それに対して、人間が造り出した偶像の神々は、悔い改めを求めることはしません。偶像の神々は、人間の歩みをどこまでも肯定して、それを助けてくれるのです。それはその神々が、自分が願っているような助けが欲しいという人間の思いが作り出したものだからです。人間が造り出した神々は決して「悔い改めよ」とは言わないのです。「あなたは変えられなければならない」とは言わないのです。主なる神と偶像の神々のこの違いを私たちは覚えていなければなりません。そしてそこから、さらに二つのことを考えさせられます。その第一は、私たちが主なる神を信じているつもりでいても、もしもその神によって悔い改めを求められていないなら、自分の歩みの向きを変えて神のもとに立ち帰ることが求められているということを意識していないなら、私たちが信じているのは実は主なる神ではなくて、私たちが勝手に作り上げた偶像に過ぎないのだ、ということです。そして第二は、主なる神から心が離れ、他の神々、偶像に心を向けるというのは、単に別の神に鞍替えするということではなくて、悔い改める道を失うこと、立ち帰るところを失うことなのだ、ということです。ソロモンが陥った罪とはそういうことだったのです。

愚かな金持ちのたとえ
それにしてもソロモンは何故このような罪に陥ってしまったのでしょうか。先ほど申しましたように、それを妻たちのせいにすることはできません。罪の本質は神との間の平和な関係を失ってしまうことだという先ほどのことからすれば、罪の原因は自分の外にはないのです。人のせいにはできないのです。外のことがきっかけになることはあっても、根本的には罪は自分の心の中から生れてくるのです。ソロモンの心にどういう思いが生まれたのか、そのヒントとなるであろう箇所として、本日共に読んだ新約聖書、ルカによる福音書第12章13節以下を選びました。ここは主イエスが語られた「愚かな金持ちのたとえ」です。倉に収まり切れないほどの豊作を得た金持ちが、倉をもっと大きなものに建て直してそこに財産を仕舞い込むことによって、「自分の人生はもう安心だ、大丈夫だ」と思ったという話です。神は彼に、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。彼は「愚かな者」になってしまったのです。その「愚かさ」とは、財産があれば人生が支えられると思ったことです。さらに言えば、自分の人生を本当に支え、導いておられる神を見失ったことです。もう一言加えれば、その神が自分の命を終わらせることができる方であることを忘れてしまったことです。つまり彼は、自分に方向転換を求め、変わることを求め、悔い改めを求める神を見失ったのです。そして自分の得た財産に拠り所を求めていった、つまり神に心を向けるのでなく、財産という偶像に心を向けたのです。ソロモンも栄華の中でそういう思いに陥ったのでしょう。しかし人間の人生を、命を本当に支えるのは、財産に代表される、自分が持っているもの、蓄えているものではありません。命が取り去られるという本当の危機の時には、それらも全て失われるのです。自分のものとしてどんなに豊かなものを持っていても、そこでは何の支えにも力にもならないのです。私たちの人生を、命を、本当に支えるのは、それを与えて下さり、み心によってそれを取り去られる主なる神との関係です。主なる神は私たちの思い通りにはなりません。時として私たちの歩みにストップをかけ、方向転換を求めるのです。しかしその主なる神との交わりに生きている者は、全てが失われてしまうような危機の時にも、主のもとに立ち帰ることができるのです。そしてその神による赦しと慰めと本当の支えを得ることができるのです。ですから、私たちに悔い改めを求める、生けるまことの神と共に生きることができるのは本当に幸いなことです。主なる神から心が離れて偶像に心を向けてしまうというのは、いけないことだと言うよりも、人生を本当に支えてくれる神との関係を失ってしまうという悲劇なのです。

神の怒り
ソロモンの罪に対して主なる神はお怒りになられます。11節以下には、神がその怒りのゆえに、王国をソロモンの手から裂いて取り、家臣に渡すということ、つまりイスラエル王国の分裂が予告されています。さらに14節以下には、ソロモンに敵対する何人かの者たちによって王国が脅かされていくことが告げられています。一人はエドム人ハダド、彼はエドムからエジプトに亡命していた人ですが、ダビデの死後エドムに戻り、イスラエルを南東方面から脅かす存在となりました。もう一人はエルヤダの子レゾン、彼はダマスコで支配者となったとありますから、イスラエルの北東、シリヤ方面からの脅威となりました。そして三人目がネバトの子ヤロブアムです。前の二人が外国人であるのに対して、この人はイスラエルの人、エフライム族の出身であり、ソロモンに仕える家臣でした。28節にあるように、なかなか有能な人物で、ソロモンは彼をヨセフ族、つまりヨセフの子から出たマナセ族とエフライム族全体の労役の監督に任命したのです。このヤロブアムがある時、アヒヤという預言者と出会いました。アヒヤは自分の着ていた真新しい外套を十二切れに引き裂き、ヤロブアムに、この内の十切れを取るように言います。これは、「預言者の象徴的行為」と呼ばれるもので、ある具体的な行動によって、そこに象徴的に示されている神のみ心を伝えるというものです。ここに示されている神のみ心とは、イスラエルの十二の部族の内の十部族が、ソロモンの手から引き裂かれて、ヤロブアムに与えられるということです。このヤロブアムが、次の12章で、北王国イスラエルの最初の王となるのです。11節で主が、「あなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す」と言われたその家臣とはこのヤロブアムのことだったのです。

神の救いの約束
このようにここには、12章に語られていくイスラエル王国の分裂が主なる神の怒りによって引き起こされていくことが予告されているわけですが、しかしここで主なる神が繰り返し語っておられるもう一つのことは、ソロモンが生きている間はそれをしないということです。また、王国を分裂させて、十二の部族の内の十までも他人に渡すけれども、ソロモンの子孫に一つの部族を残すということも繰り返し語られています。ここには十二引く十は一という不思議な計算があります。南ユダ王国はユダ族とベニヤミン族との二部族によって構成されていくのですが、ベニヤミン族のことは数に入れられていないのです。しかしいずれにせよ、ソロモンの子孫の王国も存続していくことが語られています。それはすべて、彼の父ダビデのゆえです。主なる神と一つの心で歩んだダビデのゆえに、その血筋が絶えてしまうことのないために神が計らって下さることが繰り返し語られているのです。それは単にダビデとその子孫への同情ということではありません。神は、このダビデの子孫として、本当の王、救い主を遣わして下さるという約束を既に与えて下さっているのです。ソロモンの罪によっても、その神の約束、救いの約束は決して取り消されることはないのです。ソロモンの罪によって王国は分裂し、その二つの王国もその後の人々の罪によって結局滅んでいくわけですが、主なる神は、そういう人間の罪の中で、ご自分の救いの約束を貫いて下さるのです。その約束は主イエス・キリストによって実現しました。神の独り子である主イエスが、ダビデの子孫としてこの世に生まれ、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪は赦され、罪によって失われた神との間の平和な関係が回復されたのです。それは、神に立ち帰り、悔い改める道が開かれたということです。主イエス・キリストによる救いを受け、神を信じて生きる私たちは、罪を犯さない者になるのではありません。弱い人間である私たちは、これからも、様々な罪を重ねていくのです。しかし神の独り子イエス・キリストが、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは、主イエスの父である神のもとに、立ち帰ることができるのです。悔い改めて神と共に生きていくことができるのです。主イエス・キリストによって私たちは、このまことの幸いを与えられているのです。

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