「赦されて共に歩む」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書: エレミヤ書 第33章1-11節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章1-6節
・ 讃美歌:312、459
ヨハネの手紙一の2章は「わたしの子たちよ」という呼びかけのことばで始まっています。この「わたしの子たちよ」と言われているのは、この手紙を渡された読み手だけでなく、今この手紙を聞いている、わたしたちも含まれています。信仰の先達である、ヨハネおじいちゃんがわたしたちに、「孫たちよ、わしのいうことを聞いとくれ」といってここで呼びかけているようです。
では彼が何をわたしたちに教えているのかといいますと「これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」とここで言っています。いきなりですが、気になる点があります。それは初めに、「罪を犯さないようになるためです」と言っていてすぐ後に「たとえ罪を犯しても」というように、前に言った言葉のすぐ後で、意味がひっくり返っている言葉を使う。「罪を犯さないようこれを伝える」というけど、やっぱり「罪を犯すだろう」とあきらめているのではないかとヨハネは思っているのか、とそのように、わたしたちにとってここは真意が気になる所です。 しかしやはりヨハネの真意は、「罪を犯さないようになるためです」とこの手紙を書きながら、どうかこれを読む人たちが罪を犯さないようになってもらいたい。そういう願いを持ってヨハネは書いているとおもいます。
しかし、この「罪を犯さないようになる」ということは、今の時点で絶対罪を犯さない者になる、ということではありません。ここで使われている言葉を見ますと、継続をあらわす動詞が使われています。1つの行為とか出来事を強調する言い方ではなく、長く続いている状態とか、習慣的な行為とか、それらを表す言葉が使われています。 ヨハネの仲間の中で、神様の恵みによって赦され正しいものとされたから、何をしたっていいのだといって罪を犯し、そのような考えで罪のなかにとどまっている人たちがいました。そのような人たちに対して、ヨハネが「そうではない。『罪を犯さない者になる』ということを『この私たちの切なる願いとして、祈りとして、新しい生活を始める。いつでも私たちの歩みの先には罪をおかさない者になるという、そういうしるしが、ゴールがある』そういう生活をしてもらいたい」とここで表現しています。
しかしわたしたちにはそのような願いを持って生きていても、現実にわたしたちは罪を犯します。毎日生きる時に、罪を犯す。 罪を犯す、罪を犯すと繰り返し言っておりますが、罪を犯すとは一体どういうことでしょうか。ある神学者は、罪というものは状態ではなくて関係であると言っています。これは罪というものを理解する上で大変役に立つと思います。私たちが罪というと自分の状態を考えます。自分が何かをしてしまった、してしまっている、またはしてしまう状態にあるかということ、これを罪だと考えます。けれども、罪というのはそういう私たちの状態というよりも関係であると言っている。関係というと、じゃ誰と誰の関係なのかと疑問を持ちます。その答えは神様と私たちとの関係です。神様と私たちとの関係が切れていればそれは罪なのです。私たちが神様を信じない。私たちは神様を忘れている。神様と私たちの関係が切れている。その切れている関係が罪なのです。
もちろん、うそついたり盗みをしたりすることも罪ですけれども、それはいわば罪の結果です。もっと根本的なところに、そういう盗んだりうそをついたり人を殺したり、そんなことはしなくても、わたしたちは神様から離れてしまい、神様から離れて生活をしてしまう。そこにこの罪の1番の根があります。ヨハネがここで言っている「罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても」ということは、ここではやはり神様との関係を言っています。神様から離れた生活をしないように、いつでも神様と正しい関係でつながっている。そのような関係の中にある人になるために、私はこの手紙を書いていると、ヨハネは言っているのです。
それでも私たちは、いつも神様とちゃんとつながった生活をしているかというと、なかなかそううまくはいきません。そういう願いを持って生きているけれども、いつでもそうなっているとは言えない。苦しみのために、取り乱してしまう。苦しみで何も見えなくなって、先が真っ暗になってしまう。そういうことは私たちにはあります。そういう時は、神様を信じているはずだけれども、信仰がどっかへ行ってしまっているのではないかと思ってしまいます。そうして私たちの目に見えるものは、自分の不幸ばかり、私たちの心を占領しているのは絶望と不安ばかりにだと思ってしまう。 どんなことがあっても神様にそむくことはないと、そう信じられていたヨブでも、次から次と襲いかかってくるあの苦しみのために、ついに神様が見えなくなってしまいます。それがわたしたちの現実だと思います。それが罪を犯しているということです。その時に「自分の力で努力してがんばって罪に勝て」と言われても、そのように自分たちの力で罪を克服することはわたしたちにはできません。どうにもならない。そういうことを考えながらこのヨハネの手紙を読みますと、実はそこには大変慰めに満ちた言葉が書かれています。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」とそう書いてあります。「わたしたちが罪を克服するために頑張るのだ」とここでいっているのではなくて、私たちのために助け主がおられるという、私たちが自分でどうすることもできないから、助け主がいるといっています。助け主は、人からは見離され非難されるような状態の者も、見捨てないで助けて下さる、その御方が父なる神様の御許に今おられる。神様と私たちとの関係が切れてしまったと思われる時に、それをちゃんとつないで下さる方がそこにおられる。「弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」とヨハネはそのように言いました。 「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」ここでの「罪を償ういけにえ」というものは、私たちが正しいことをしている時に献げるものではありません。神様に献げる献げ物はいろいろあります。感謝の献げ物であったり和解の献げ物であったりと色々あります。けれども、「罪を償ういけにえ」というのは、私たちが罪を犯したという、神様の前に出ることができないようになった時に、その破れた関係をもう一度結ぶために、買い戻すための代価となるもの、それが「罪を償ういけにえ」です。主イエスキリストは私たちが罪を犯して神様の前に出ることができない、神様との関係が破れてしまった、そういう私たちのための「罪を償ういけにえ」です。主イエスキリストが十字架の上で血を流し、命を捨てることによって、私たちの罪が赦される。また神様との交わりに帰ることができるのです。ただ私たちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためであるといっています。パウロはローマ信徒への手紙のなかで書いています。「わたしたちが義人であった時にキリストはわたしたちのために死なれたのではない。わたしたちが神の敵であった時に、わたしたちのためにキリストは死んで下さった」「神の敵のためにキリストが死なれた」この言葉が真実であるならば、全世界は神の敵でしょう。その神の敵である、全世界のために、キリストは「罪を償ういけにえ」となられたのです。そして、全世界の罪のために父の前で助け主として、神様と世界とが、破れてしまったこの関係を、なんとかして回復しようとして下さっている御方、その御方その助け主が私たちのために今いてくださるということ、私たちが罪を犯す今も、父の御許でその方が執り成してくださっていることをわたしたちは今日再び覚えたいと思います。
この主イエスキリストは、十字架の上で私たちのために贖いの死をとげて下さいました。十字架を見る時に、それはともすれば、もう過去のことだ。そういうふうに思ってしまいます。しかしヨハネはここで「その十字架につけられたキリストが、あの十字架において私たちの罪を贖って下さいました」という、そのような過去のこととして語っているのではなくて、今、毎日毎日生きて罪を犯していく私たちの助け主としていてくださる。そういう言い方をしています。主イエスキリストは、私たちの羊飼いとして今ここで、私たちを牧していて下さる。『わたしはよい羊飼いであって、よい羊飼いは羊のために命を捨てる』と主イエスキリストは言われました。確かに主イエスキリストは十字架において命をお捨てになりました。しかし、もまた、私たちのために重荷を負い、私たちの罪を背負って苦労していて下さっている、そのような助け主であるのです。 その助け主であるキリスト、私たちのよい牧者であるキリストが、私たちに向かって何をなさるでしょうか。神様に向かっては、主イエスキリストは執り成しをして下さいます。では私たちに向かっては何をなさるでしょうか。それは、聖書を通して私たちに「こう歩きなさい」という「道」を教えて下さっています。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」と詩編の119編105節に、うたわれています。「わたしの歩みを照らす灯。」とありますが、昔ユダヤの人はよる外を歩くときに、足にともしびをつけていました。歩いている姿を想像してみると、足元だけが照らされて、1歩1歩その足の先は明るくなる。けれどもまわりは闇です。1歩進めば一歩先の部分が明るく見えてくる。わたしたちの歩みはそのような歩みだと思います。
わたしたちは人生の歩みにおいて、普段の生活なかでも、どこにいけばいいのか、何を選ぶのがいいのかと、途方にくれることが多い。しかし、その時に、私たちのために助け主がおられる。正しい方である主イエスキリストがおられる。その主イエスキリストは、黙って、私たちが、道に迷ったりつまずいたり倒れたりしている時に、知らん顔をして見ておられる助け主ではありません。助け主は、掟、言い換えると戒めを与えて下さいます。間違った道を行こうとしたら「そっちは違う」と言われる。途方にくれていたら「こっちへ来なさい」と言われる。そのようなわたしたちの助け主なのです。
3節「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。」その掟、戒めに従って生きていくと「ああ、主イエスキリストは本当に私の助け主だなぁ」ということを、自分の生活を通して知らされます。 「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。」「私は主イエスキリストを信じている」と言いながら、主イエスキリストのおっしゃることを聞かないで、自分の勝手なことしているのでは、それは「主イエスキリストを知っている」と言っていることを、ごまかしています。人にうそをつき、ごまかしているだけじゃなくて、その人は自分に嘘をつき、ごまかしています。 「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」 主イエスキリストの御言葉を守って、生きる。主イエスキリストの御言葉通りに生きていく。思い悩み、苦しむときには、主イエスキリストに、「どうぞ平安を与えてください。わたしの思い悩みをあなたにお委ねします。」と祈ります。そしてわたしたちは、主イエスキリストにお委ねして生きていくなかで、主イエスキリストから実際に助けと導き与えられているということを実感していきます、「あぁ本当にわたしたちのために生きて働かれておられるのだなぁ」ということを知らされます。主イエスキリストの御言葉に従って生きていくと「ああ神様がおられた」ということが、その生きることのなかで、実を結んでいく。神様は、主イエス・キリストをこの世にお送りになって十字架の上で私たちの罪を贖って下さった。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とはっきり書かれています。この言葉だけを頭で知っているだけではそれは、交わりではありません。神様の愛を、私たちが本当に神様の恵みを通して知り、感謝して自分を神様にすべて委ねて、神様を讃美する、そこで初めてその一連の交わりが完了する。そしてそれを繰り返しながら生きていく。交わりのある生活、それが、光の中を歩むことであり、主イエスキリストと共に歩むということなのです。
5節後半「これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」このことは1章の3節でも「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」この、父なる神様と御子キリストとが交わっておられる、その交わりのなかへ、私たちも入れていただく。そのために私はこの手紙を書いている、とこう言っているのですが、そのことが今日ここで起きている。またわたしたちの生活全体で起こっていることを知る。そして「ああ本当に自分はこの交わりに入れていただいている」ということを知る。 「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」主イエスキリストが「こう歩きなさい」と言って下さる、その通りに歩く。主イエスキリストは私たちと信仰の鎖で共につながっています。主イエスキリストと私たちは、1本の鎖でつながっています。主イエスキリストが「こっちへ来なさい」と言うとそっちへ行かなくてなりません。「私はいやだ。こっちへ行く」言うのであれば、鎖でつながれていますから、もうそれこそ苦しいことになります。しかし逆から見れば、主イエスも鎖で引っ張られていて苦しんでおられます。主イエスキリストは死の道へ私たちを連れていこうとはしておられません。命の道へ連れていこうとしておられます。それを私たちが「いや、そっちはいやだ。こっちがいい」と踏んばったその先は、それは死の道の方向ですし、踏ん張っているわたしたちも苦しみ、主イエスも苦しまれます。しかし、主の歩まれる方向にわたしたちが従って歩むとき、そこにわたしたちの平安があります。私たちには、そういう生活のなかで鎖を共に負って下さり、ことあるごとに私たちを導き、御言葉をかけて下さり、戒めを与えて下さる助け主がいてくださいます。その助け主に従って生きていく。それが罪を犯さないようになるということであると、ヨハネはここで今日私たちに伝えくれました。
祈りましょう。
父なる神様。私たちは罪を犯さないようになろうという願いをもって、信仰生活をしておりますけれども、現実には、絶えずつまずき、あなたの御許から離れて、罪に落ち込んでしまいます。今こうして、御前に召し集められて、礼拝を守る群れのなかに加えて、いていただきますことは、主イエス・キリストのお導きです。 私たちの助け主として、私たちと鎖を共に負って下さり、私たち1人ひとりの生活のなかに、共に生きていてくださいますイエス・キリストを覚えて、感謝をいたします。どうぞ1人ひとりが、この主イエスキリストの戒めの言葉を聞き、それに従うことができますように。そして、主にある自由を本当に知ることができますように導いて下さい。 1人苦しみのなかにあって、あなたを見上げることができなくなっております者を、あなたが憐れんで御言葉をかけて下さいますようにお願いをいたします。 この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。