説 教 「神からすべてをいただいて」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第29章15-16節
新 約 コリントの信徒への手紙一第4章6-13節
信仰者は愚か者
私が主日礼拝を担当するときには、コリントの信徒への手紙一を読み進めています。本日は4章6節から13節の御言葉に聞いていきます。
本日の箇所の10節にこのようにあります。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」。この手紙を書いたパウロは、主イエス・キリストを信じて生きる信仰者は「愚か者」であり、弱い者であり、侮辱されて生きている、と言っています。そんなことを言われると、今日、この礼拝に始めて出席された方や、礼拝に通い始めて間もない方は、引いてしまうかもしれません。イエス様を信じて生きると、愚か者となり、弱くなり、侮辱されてしまうなら、イエス様を信じる意味なんてない、いや信じないほうがマシだ、と思われるのではないでしょうか。では、主イエスを信じている信仰者はどうでしょうか。自分たちが愚か者で、弱い者で、侮辱されて生きている、と言われて、「その通りだ」と思えるでしょうか。なかなか思えないのではないでしょうか。むしろ、パウロ先生、それはちょっと言い過ぎではないですか、と言いたくなります。主イエスを信じて生きることが、愚か者となり、弱い者となり、侮辱されて生きることであるということは、信仰者にとっても受け入れにくいことなのです。
私たちがこのことを受け入れがたい、と思う根っこにあるのは、宗教というのは、それを信じることで、自分が賢い者となり、強い者となり、尊敬される者となるためにある、という考えではないでしょうか。多くの宗教は、それを信じることで、信じる前より賢くなり、心や体が強くなり、周りの人から尊敬されるようになる、と教えています。そのような感覚が私たちの信仰にも影響を及ぼしていると思うのです。私たちも主イエスを信じて生きることで、自分が賢くなり、強くなり、周りの人から尊敬されるようになる、と思っているところがある。そこまでは思っていなくても、信仰を持って生きることで、少しは立派な人間になれると思っているのです。
王様になっている
パウロがこの手紙で直接語りかけているコリント教会の人たちは、まさに、この感覚にとらわれていました。彼らは主イエスを信じて生きることで、自分たちが賢い者、強い者、ほかの人から尊敬される者となっている、要するに立派な人間になっている、と思っていたのです。そのようなコリント教会の人たちの姿に対して、パウロは、「王様になっている」と言います。8節にこのようにあります。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」。もちろん王様になっているというのは、どこかの国の王になっている、ということではありません。そうではなく、信仰において王様になっている、ということです。それは、別の言い方をすれば、彼ら彼女たちが自分たちはすでに救いの完成に到達していると思っていた、ということです。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており」とも言われています。コリント教会の人たちはすでに、自分の力で得たもの、持っているもので満足していました。「大金持ちになって」と訳されていますが、もともとの言葉は「富む」とか、「豊かになる」という意味で、必ずしも金銭的なことに限りません。彼ら彼女たちは、自分たちが立派な信仰者になり、救いの完成に到達し、すでに自分が得たもので、具体的には自分の賢さとか強さとか人からの尊敬とかで満足していて、豊かになっていると思って、王様になったかのように振る舞っていたのです。
私たちはさすがに自分が信仰において王様になっている、とは思っていないでしょう。そんな偉そうなことは言えない、と思っています。しかしそう思いながら、私たちが信仰者として生きることは、立派な人になることだという感覚を持っているなら、私たちも結局、王様になろうとしているのではないでしょうか。コリント教会の人たちほど自覚していなくても、私たちも自分の力で救いの完成に至り、王様になろうとしているのです。
いまだ救いは完成していない
8節の後半で、パウロは、「いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」と言っています。このパウロの言葉は、分かりにくい謎のような言葉です。この言葉を理解する鍵は、8節の前半で繰り返されている「既に」という言葉にあると思います。コリント教会の人たちは、「既に」自分たちが救いの完成に到達し、王になっているかのように振る舞っていました。パウロは、それは間違っている、と言っています。しかしだからといってパウロは、救いが完成し、信仰者が王となることそのものを否定したのではありません。「いまだ」救いは完成していないし、信仰者が王になっているのでもない。しかし終わりの日には、救いが完成し、信仰者は王になる。つまりキリストのご支配に共にあずかる者となる。それがパウロの確信だったからです。ですからこのパウロの謎のような言葉は、すでに終わりの日が来て、救いが完成し、あなたがたが王になっていてくれたら、私たちも一緒に救いの完成にあずかり、王になっているのだから、そうであれば良かったのに、と言っていることになります。つまり終わりの日の救いの完成を待ち望んでいる言葉なのです。しかし実際は、パウロとコリント教会の人たちの現実において、「いまだ」救いは完成していないし、信仰者が王になっているわけでもない。それなのにコリント教会の人たちは、自分の力で救いの完成に到達し、王になったかのように勘違いしている、とパウロは言っているのです。
「すでに」と「いまだ」の間
私たちが生きているのも、「いまだ」救いが完成していない現実です。確かに私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架と復活によって、すでに実現しました。しかしその救いは、いまだ完成していません。私たちはすでに救いが実現し、しかしいまだ完成していない、「すでに」と「いまだ」の間の時代に生きています。このことは、私たちの信仰の基本であり、土台でもあります。この土台が崩れると、私たちの信仰も崩れてしまうのです。「すでに」が失われても、「いまだ」が失われてもなりません。コリント教会の人たちは「いまだ」を見失っていました。その結果、彼らの生き方は、すでに救いの完成に到達し、王になったかのようであったのです。私たちも「いまだ」を見失ってはなりません。私たちが「いまだ」を見失うとき、私たちは王になったかのようには振る舞わなくても、人生に対して責任を持って生きなくなります。もう救いの完成にあずかっているのだから、好き勝手に生きてよい、ということになりかねないのです。実際、コリント教会にはそのような人たちがいました。それだけではありません。私たちが「いまだ」を見失うとき、私たちはこの世界と私たちの人生に溢れている苦しみや悲しみを軽んじ、侮ることになりかねません。もし救いが完成しているのなら、この世界に苦しみや悲しみがあることを説明できなくなるからです。そうなると、もう救われているのだから、自分たちが直面する苦しみや悲しみは大したことがない、と言ってみたり、思い込んでみたりします。しかし本当に、私たちが日々直面している苦しみや悲しみは大したことがないのでしょうか。そんなことはありません。私たちは日々、それぞれに理由は異なりますが、それぞれのキャパいっぱいに苦しみと悲しみを抱えて生きています。その自分に、その苦しみは大したことがない、と言い聞かせるのが私たちの信仰ではありません。あるいは苦しんでいる隣人に、大丈夫、あなたは救いにあずかっているのだから、その苦しみは大したことがない、と伝えるのが私たちの信仰でもありません。そのように考えるとき、そこでは「いまだ」が見失われているのです。「すでに」と「いまだ」の間には、なお苦しみや悲しみがある。そのことを私たちは軽んじて、侮ってはならないのです。
そうであれば、「いまだ」を見失わずに、「すでに」と「いまだ」の間で、私たちはどのように生きるのでしょうか。もし私たちが、「いまだ」救いが完成していない時代にあって、自分の力で救いの完成に至ろうとするならば、それは結局、コリント教会の人たちと変わりありません。自分の力で、自分が立派になることで、救いの完成を得ることができると考えていることになるのです。
聖書に書かれていることを超えない
そのように考えていたコリント教会の人たちがしていたのが、これまで語られてきたように分派争いでした。パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派などに分かれて、どの派がより優れているのか、あるいはどの派にくみすれば、より立派になれるのかを比べて、争っていたのです。この手紙でこれまでパウロは、そのような状況にあるコリント教会の人たちに向けて語ってきました。本日の箇所の冒頭6節にこのようにあります。「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」。パウロはこれまで、「パウロにつく」とか「アポロにつく」とか言っているコリント教会の人たちに対して、パウロやアポロとは何者なのかを語ってきました。「このように述べてきました」とは、そのことを指しています。そしてそれは、彼ら彼女たちが「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであった、と言われています。この「書かれているもの以上に出ない」とは、「聖書に書かれていること」を超えない、ということです。パウロはコリント教会の人たちが「聖書に書かれていること」を越えないことを学ぶために、これまで語ってきた、と言っているのです。
高ぶる
そのことを学ぶのは、それによって、「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするため」でした。「高ぶる」という言葉は、この手紙に繰り返し出てきます。コリント教会の人たちが陥っていたのは、まさに「高ぶる」という罪でした。分派争いですから、自分が属している派の指導者を持ち上げて、ほかの派の指導者たちをないがしろにする、ということが当然起こりました。そのことにおいて彼ら彼女たちは、指導者を比べて、どの指導者が優れているかを、どの指導者のグループに属すれば、自分がより立派になれるかを、判断していました。つまりコリント教会の人たちは、自分の知識や賢さで人を判断して、裁くことができると考えていたし、実際、互いに批判して、裁き合っていたのです。そこに彼ら彼女たちの「高ぶり」があります。直前の4節でパウロは「わたしを裁くのは主です」と言っていました。自分自身もほかの人も裁くのは、ただ主お一人です。それなのにほかの人を裁くのは、相手に対して高ぶっているだけでなく、実は主に対して、神様に対して高ぶっているのです。コリント教会の人たちの「高ぶり」は、なによりも神様に対する「高ぶり」でした。この「高ぶり」に陥らないために、「聖書に書かれていること」を超えないことが必要なのです。
私たちと神との関係について書かれている
「聖書に書かれていること」を超えないということも、私たちの信仰生活の基本です。しかしこのことを誤った仕方で受けとめてしまうことがあります。一つには、人生のあらゆることについて、私たちが聖書に書かれていることから判断できる、と考えるのは誤りです。極端な例かもしれませんが、私たちは自分の就職先を聖書に書かれていることから判断することはできません。自分で祈りの中で神様の御心を求めつつ、判断して、決めなくてはならないのです。聖書が根本的に語っているのは私たちの救いについてです。別の言い方をすれば、神様と私たちとの関係についてです。私たちの救いについて、私たちと神様との関係について、「聖書に書かれていること」を超えないというのが、私たちの信仰生活の要なのです。もう一つには、聖書のある特定の箇所だけを取り上げ、それだけで判断できる、と考えるのも誤りです。聖書はルールブックではありません。文脈の中で読んでいく必要があります。その章の文脈、その書物の文脈、新約聖書の文脈、旧新約聖書全体の文脈で読んでいく必要があるのです。それによってこそ、私たちの救いについて、私たちと神様との関係について、「聖書に書かれていること」を超えないで歩んでいくことができるのです。
神からすべてをいただいて
さて、少し話が逸れましたが、「聖書に書かれていること」として、パウロが具体的に見つめていることは、7節に語られています。パウロはそれを問いの形で語っています。まず、「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです」と問うています。この問いについては二つの読み方があります。一つは、パウロが「誰もいない」という答えを期待している、という読み方です。誰も、コリント教会の人たちをほかの者たちよりも優れた者としていない、つまりコリント教会の人たちは優れているのではなく、ほかの人たちと変わらない、ということです。彼ら彼女たちが人を裁けると高ぶっていたことを考えると、説得力のある読み方です。しかし別の読み方もできます。それは、パウロが「神です」という答えを期待している、という読み方です。神様が、コリント教会の人たちをほかの者たちよりも優れた者とした、ということです。もちろんパウロの強調は、コリント教会の人たちとほかの人たちを比べることにあるのではありません。そうではなく、彼ら彼女たちが豊かな賜物を、能力や才能を、あるいは個性を持っていることを認め、肯定していることにあります。つまりパウロは、彼らの高ぶりの原因は彼らが豊かな賜物を持っていることにある、とは言っていないのです。あるいは能力や才能を持っていても、自分は「大したことありません」と謙遜することが、高ぶらないことだ、とも言っていないのです。そうではなく、「あなたがたがほかの人たちより優れていると言えるほどに、豊かな賜物を与えられているのは、神様によってではないのですか」と問うているのです。だからパウロは続けてこのように問います。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」。この問いに対しては、当然パウロは「ありません」という答えを期待しています。「私たちが持っているもので、神様からいただかなかったものなど、一つもありません」という答えを期待しているのです。そうであればこの二つの問いは結びついています。パウロはコリント教会の人たちに、「あなたがたは確かに豊かな賜物を持っている。それぞれにすぐれた能力や才能や個性を持っている。しかしそれらはすべて、神様からいただいたものではないか。自分がもともと持っていたものではなくて、神様からいただいたものではないか」と語りかけているのです。
このパウロの言葉は、ここに集っている皆さん一人ひとりにも語りかけられている言葉です。皆さんはそれぞれに豊かな賜物を持っておられます。能力や才能、個性を持っておられます。「自分は大した賜物を持っていない」などと謙遜しなくてよいのです。そのような謙遜が、高ぶらないことではないからです。しかし皆さんが持っているものはすべて、もともと皆さん自身が持っていたものではなく、神様からいただいたものです。私たちが持っているものはすべて神様からいただいたものなのです。私たちの命も、能力や才能や個性も、あるいは家族や友人も、すべて神様からいただいたものであり、自分の力で得たものではありません。もちろん与えられた才能を、より磨いていくために努力するということはあるし、なくてはならないでしょう。しかし本来的に、私たちが持っているものはすべて、神様からいただいたものなのです。それなのに私たちが、神様からいただかなかったかのように生きるなら、それこそが、神様に対して高ぶって生きていることになるのです。
救いとその完成の約束を与えられている
「聖書に書かれていること」とは、私たちが神様からすべてをいただいている、ということです。そしてそれは賜物だけではありません。なによりも私たちは救いを与えられています。私たちは自分が頑張り、立派になることで、救いを得たのではありません。そうではなく神様が独り子イエス・キリストを十字架に架けて、死に渡してくださったことによって、私たちは救いを与えられたのです。その救いによって、私たちに終わりの日の復活と永遠の命が約束されています。この約束も私たちが自分の力で得たのでは決してない。独り子が十字架で死んでくださったことによって私たちに与えられているのです。
感謝して生きる
「すでに」と「いまだ」の間で、私たちはどのように生きるのか。私たちは、「聖書に書かれていること」を超えないで生きていきます。つまり、救いを、また救いの完成の約束を、そして持っているものをすべて、神様からいただいたことを弁え、そのことに感謝して生きていくのです。そのように生きるところに、神様と隣人とに対して高ぶることからの解放が与えられていきます。確かに私たちは「すでに」と「いまだ」の間で、それぞれのキャパいっぱいに苦しみと悲しみを抱えて生きています。そのことを軽んじることはできません。しかしそのように苦しみと悲しみを抱えて生きる私たちに、すでにキリストの十字架によって救いが与えられ、終わりの日の復活と永遠の命の約束が与えられ、そしてすべてのものが、賜物が、能力や才能や個性が与えられて、私たちは生かされているのです。そのことに気づかされ、そのことを信じて生きるならば、なお苦しみや悲しみを抱えつつも、私たちは神様からすべてをいただいたことに感謝して生きることができるのです。
愚か者となり、弱くなり、侮辱されて
そのように生きることが、私たちが愚か者となり、弱くなり、侮辱されて生きることです。「愚か者」となるというのは、勉強しなくてよいとか、知識は役に立たないとか、そのようなことではありません。そうではなく、ほかの人たちからは愚かにしか思えないキリストの十字架の死に、そこだけに私たちの救いがあると信じて生きる者となる、ということです。自分の持っているものは自分の力で得た、というのが当たり前の世界にあって、私たちの持っているものはすべて神様からいただいた、と信じて生きる者となることなのです。「弱くなる」というのも私たちが弱々しく振る舞うことではありません。私たちには確かに弱さがあり欠けがあり、罪があります。自分を振り返れば、自分はダメだなと思うことばかりです。しかしその弱い、ダメな自分を、神様が用いてくださり、力強いみ業を行ってくださるのです。私たちは弱くても、神様は強い。神様のみ業は力強い。そのことを信じて生きるのが、私たちが弱くなるということなのです。また、「すでに」と「いまだ」の間を生きる私たちは、確かに日々、苦しみに直面しています。しかしその苦しみは、意味のない苦しみではありません。その苦しみは、主イエス・キリストの苦しみにあずかることだからです。「すでに」と「いまだ」の間にあって、私たちが苦しみを味わうとき、私たちはほんの少しではあってもキリストの苦しみにあずからせていただいているのです。私たちが「侮辱されて生きる」とはそういうことです。単に侮辱されるだけなら、精々、我慢するしかありません。しかしそれがキリストの苦しみにあずかることであるなら、12、13節にあるように、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返して」生きていく歩みが、少しずつではあっても起こされていくのです。私たちはそのことを信じて良いのです。
私たちは御子キリストの十字架によって救いを与えられ、終わりの日の救いの完成にあずかる約束を与えられています。私たちは神様からすべてをいただいて生きています。そのことに感謝して私たちは、「すでに」と「いまだ」の間にあって、キリストの十字架による救いだけを頼みとし、自分が弱くても神様のみ業は力強いことを信じ、キリストの苦しみに僅かばかりであってもあずかって生きていくのです。そのように生きることこそが、神様からすべてをいただいている、私たちの生き方なのです。