2024年7月14日
説教題「誇る者は主を誇れ」 副牧師 川嶋章弘
エレミヤ書 第9章22-23節
コリントの信徒への手紙一 第1章26-31節
神の愚かさ
私が主日礼拝の説教を担当するときには、コリントの信徒への手紙一を読み進めています。本日は1章26-31節を読み進めていきます。これまで見てきたように、1章10節以下ではコリント教会に党派争いが起こっていたことが語られていました。「『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』」(12節)などと言っていた人たちがいたのです。そのような党派争いの背後には、コリント教会の人たちが知恵を求めていたことがありました。彼ら彼女たちは知恵を求め、より高みにのぼることによって救いへと上昇していこうとしていたのです。しかしそのような上昇志向の救いを求めるところでは、自分とほかの人を比べることが起こり、指導者同士をも比べることが起こってくるのです。もちろん上昇志向は必ずしも悪いものではありません。より良いもの、より高みを目指すことによって科学や技術や社会は発展してきた、と言えるでしょう。しかし救いに関しては、そうではない。私たちは救いへと上昇していくことによって、救いにあずかるのではありません。そうではなく神様の独り子イエス・キリストが私たちのところまで降って来てくださり、十字架で死んでくださったことによって、私たちの救いは実現したのです。このことは私たちには愚かなことのように思えます。なぜなら十字架刑は、ローマ帝国において軽蔑すべき犯罪者を処刑するための最も残酷な方法であったからです。その十字架刑でキリストが死なれたことに救いがあるとは、愚かなことのようにしか思えないのです。しかし23節にあるように、パウロはまさにこの「十字架につけられたキリストを宣べ伝えて」いました。十字架につけられたキリストによって神様が救いのみ業を行ってくださったことを宣べ伝えていたのです。本日の箇所の直前の25節で、パウロはこの神様の救いのみ業を「神の愚かさ」と言い表しています。愚かなことのようにしか思えない十字架につけられたキリストに、私たちの救いがあるのです。
コリント教会の姿
「神の愚かさ」と言い表わされている神様の救いのみ業は、私たちが他人事として受けとめることではなく、自分のこととして受けとめることです。だからパウロは、本日の箇所の冒頭26節で、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」と語りかけています。「あなたがたが召され、救いにあずかったときのことを思い起こしてみなさい」と語りかけているのです。そして続けてこのように言っています。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」。神様によって召され、救いにあずかったとき、コリント教会のメンバーの中には、知恵のある者や能力のある者や家柄のよい者は多かったわけではなかったのです。「能力のある者」は、聖書協会共同訳では「有力な者」と訳されています。政治的に有力な者を意味しているようです。そうであれば「能力のある者」は政治的に有力な人、「家柄のよい者」は社会的に有力な人を意味していると言えるでしょう。コリント教会のメンバーの中には、知恵のある人や政治的、社会的に有力な人は少なかったのです。これはパウロがコリント教会の人たちについて控え目に語っているということではありません。そうではなくコリント教会の現実でした。最初の説教でお話ししたように、当時のコリントには奴隷がいました。コリントの人口の三分の二が奴隷であったようです。つまり大部分の人が貧しく、ごく少数の人だけが富んでいるというのがコリントの状況でした。ごく少数の知恵のある人たちや政治的、社会的に有力な人たちが豊かで、大多数の奴隷は貧しかったのです。コリント社会は、少数の富んでいる人たちの階層と多数の貧しい人たちの階層に分かれていた、と言ってよいと思います。そしてキリスト教が広まったのは、圧倒的に貧しい人たちの階層でした。コリント教会に奴隷の身分の人がいたことは、7章21節で、「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません」と言われていることからも分かります。
知恵や能力や身分がなかったにもかかわらず
このように神様によってコリント教会のメンバーとして召されたのは、知恵のある者や能力のある者や家柄のよい者が多かったわけではありませんでした。さらにパウロは27、28節でこのように言っています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。くどくどと説明していて、分かりにくく感じられるかもしれませんが、パウロは神様がコリント教会のメンバーとして、「世の無学な者」を選び、「世の無力な者」を選び、「身分の卑しい者や見下げられている者」を選ばれた、と言っているのです。それは、知恵や能力や身分が、神様によって選ばれ、召され、救われるための条件ではないということです。「知恵ある者に恥をかかせるため」とか、「力ある者に恥をかかせるため」とは、自分の知恵によって救われると思っている知恵ある者に、あるいは自分の力によって救われると思っている力ある者に、「世の無学な者」や「世の無力な者」を選ぶことを通して、そうではないことを突きつけ、恥をかかせるためであった、ということなのです。コリント教会の人たちの多くは、知恵や能力や身分があったから神様に選ばれ、救われたのではなく、知恵や能力や身分がなかったにもかかわらず神様に選ばれ、救われたのです。
私たちの教会の姿
このような「世の無学な者」や「世の無力な者」、そして「身分の卑しい者や見下げられている者」が大多数であるコリント教会の姿は、私たちの教会の姿とは随分違っていると言わざるを得ません。私たちの教会は、むしろ知識がある人、能力がある人、社会的な地位のある人が多いのではないでしょうか。言うまでもなくそれ自体は悪いことではありません。しかし私たちが自分の知識や能力や身分によって救われると考えるなら、私たちはコリント教会の姿を突きつけられることを通して、打ち砕かれなくてはならないのです。
存在しない者
さて28節は、聖書協会共同訳ではこのように訳されています。新共同訳とは大分異なりますが、原文に近いのは聖書協会共同訳です。「また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです」。神様は、「無に等しい者」を選ばれたと言われています。そしてこの「無に等しい者」は、聖書協会共同訳の脚注にあるように、原文を直訳すれば「存在しない者」となります。「無に等しい者」と「存在しない者」では、近いようで大きな隔たりがあります。なぜなら「無に等しい」とは、無に限りなく近いけれど「無ではない」ということであり、それに対して「存在しない者」とは「無である」ということだからです。少しは存在するのと、まったく存在しないのとでは決定的に違います。そして原文で使われているのは「存在しない者」という言葉なのです。神様が「存在しない者」を選ばれた、とはどういうことでしょうか。それは、救いが神様と私たちの共同作業ではない、ということではないでしょうか。私たちは無いのも同然だけど、ほんの僅かばかり神様と共同作業をして救いを得たというのではありません。神様がいて、私たちが存在して、そして神様と私たちが協力して私たちの救いを実現したのではなく、神様が一方的に、あたかも「存在しない者」である私たちを選び、召してくださることによって、私たちを救ってくださったのです。天地創造が「無からの創造」であるように、救いも「存在しない者」である私たちを新しく創造してくださることです。洗礼を受け、救いにあずかるとは、キリストに結ばれて古い自分に死に、復活のキリストの新しい命に生き始めることであり、新しく創造されることにほかならないのです。
知恵や能力や身分があろうとなかろうと
このことをしっかり受けとめるとき、この箇所を誤って読むことからも逃れることができます。これまで見てきたように、この箇所では、神様が知恵や能力や身分のある者を選ばれたのではなく、むしろ「無学な者」や「無力な者」、「身分の卑しい者や見下げられている者」を選ばれた、と言われていました。しかしそのように言われると、今度は無学であり無力であり、身分が卑しく、見下げられていることが救いの条件であるように思えてきます。神様はそのような人たちに心を寄り添わせてくださり、選んでくださったのではないかと思うのです。知恵や能力や身分がないことが選ばれ、召され、救われることの条件になるのでしょうか。そうではありません。そうであれば私たちは救いにおいて「存在しない者」ではなくなります。自分の知恵や能力や身分がないことで、神様と協力して救いを得ることになるからです。私たちが救いにおいて「存在しない者」であるとは、知恵や能力や身分があろうとなかろうと、私たちは救いのために何かできるわけではないということです。知恵や能力や身分があろうとなかろうと、神様と私たちの共同作業で救いを得るのではまったくない、ということなのです。そして実際、コリント教会の現実がそうでした。26節の後半を改めて読みます。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」。パウロは慎重に、「…多かったわけではなく…多かったわけでもありません」と語っています。それは、コリント教会のすべての人が知恵や能力や身分のない者であったわけではない、ということです。教会のメンバーの中に、知恵のある人たちや政治的、社会的に有力な人たちが少しはいたのです。例えば、使徒言行録には、コリントにあった会堂の会堂長が「一家をあげて主を信じるようになった」(18章8節)と記されています。会堂長ですから、この人とその家族は社会的な身分のあった人に違いありません。そのような人たちもコリント教会のメンバーであったのです。
神の選びと召し
そうであれば、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」とは、単に自分が召されたときの身分を思い起こしなさい、ということではありません。「無学な者」や「無力な者」、「身分の卑しい者や見下げられている者」であった自分が選ばれ、召されたことだけを思い起こすのではないのです。この一文は直訳すれば、「あなたがたの召しを思い起こしなさい」となります。神様によってコリント教会の人たちが召されたことそのものを思い起せ、と言われているのです。それは、この神様による召しが社会の階層によるものでも、知恵や能力や身分のあるなしによるのでもなく、ただ神様の一方的な恵みによるものである、と思い起こすことです。神様が「存在しない者」を選んでくださったことをこそ思い起こすのです。コリント教会の人たちが、何か条件を満たしたからではなく、ただ神様が一方的な恵みによって選び、召してくださったから、彼ら彼女たちは救われたのです。神様の選びと召しは、社会の階層や人間的などんな分類をも越えているのです。神様の独り子が私たちのところにまで降って来てくださり、十字架で死んでくださったことによって実現した救いは、私たちが何か条件を満たすことによってではなく、ただ神様の一方的な恵みによる選びと召しによって与えられるものなのです。
だれ一人、神の前で誇れない
だから29節で、そのように神様が「存在しない者」を選ばれたのは、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」と言われています。知恵や能力や身分があるからといって、神様の前で誇ることはできません。知恵や能力や身分があることによって神様は選び、召され、救われるのではないからです。同時に、「無学な者」や「無力な者」、「身分の卑しい者や見下げられている者」だからといって、神様の前で誇ることもできません。知恵や能力や身分がないことによって神様は選び、召され、救われるのでもないからです。私たちの側に選ばれ、救われるに値する何かがあるわけではありません。持っていることも持っていないことも、救われるに値するのではありません。私たちの側には救われるに値するものは何もないけれど、まことに不思議なことに神様の一方的な恵みによって、コリント教会の人たちは、そして私たちは選ばれ、召され、救われたのです。神様が「存在しない者」を選んで、救ってくださったことに気づかされるとき、私たちは誰一人として、神様の前で誇ることはできないのです。
キリスト・イエスに結ばれ
その神様の一方的な恵みによる救いに、私たちはイエス・キリストに結ばれることによってあずかります。このことが、30節の前半で、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ」と言われています。コリント教会の人たちが、そして私たちがイエス・キリストに結ばれたのは、神様によってであり、自分たちによるのではありません。だから「神によって」イエス・キリストに結ばれた、と言われているのです。神様はイエス・キリストにおいて私たちに関わりを持ってくださり、「存在しない者」であった私たちを、イエス・キリストに結ばれて「存在する者」としてくださり、新しく創造してくださったのです。
義と聖と贖い
続く30節の後半では、「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」と言われています。キリストが神様の知恵となられたとは、キリストが私たちに神様を知ることのできる知恵を与えてくださった、ということです。なぜなら神様はご自分をキリストにおいて明らかにされたからです。とりわけキリストの十字架の死において、神様はご自分の救いのご計画を明らかにされました。その神様の救いのご計画を私たちは神様の知恵となられたキリストによって知ることができるのです。キリストは私たちの義となってくださいました。「義」とは、神様の前に立つことができる正しさのことです。私たちは罪人であり、神様の前に立つことができる正しさを持っていません。自分の力で自分の義を獲得することができない私たちの代わりに、キリストは十字架で死んでくださり、義となってくださいました。私たちはキリストと結ばれることによって、キリストの義をまとい、神様の前に立つことができるようになるのです。またキリストは私たちの聖となってくださいました。「聖」とは、神様に近づくことができる清さのことです。私たちは罪人であり、神様に近づくことができる清さを持っていません。自分の力で自分の聖性を獲得することができない私たちの代わりに、キリストは十字架で死んでくださり、聖となってくださいました。私たちはキリストと結ばれることによって、キリストの聖性にあずかることができるのです。そしてキリストは私たちの贖いとなってくださいました。「贖い」とは、身代金を支払って捕らわれている人を解放することを意味します。私たちは罪人であり、その贖いなしに、救いにあずかることはできません。自分の力で自分の贖いを得ることができない私たちのために、キリストは十字架でご自分の命を身代金として差し出してくださり、罪と死の力に捕らわれていた私たちを解放し、救い出してくださったのです。このようにキリストは私たちの代わりに十字架で死なれることによって、私たちの義と聖と贖いとなってくださいました。私たちはこのキリストと結ばれることによって、神様の一方的な恵みによる救いにあずかるのです。
誇る者は主を誇れ
最後の31節には、「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」とあります。「『誇る者は主を誇れ』と書いてある」とは、旧約聖書にそのように書いてある、ということです。それが共に読まれたエレミヤ書9章22-23節です。このように言われています。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主」。エレミヤ書では、「誇る者は、主を知ることを誇れ」と言われていますが、パウロはそれを、「誇る者は主を誇れ」と言い換えています。主とは主イエス・キリストのことですから、パウロは主イエス・キリストを誇ることに、エレミヤの預言の成就を見ていたのです。
それにしても私たちは何を誇って生きているでしょうか。何を誇って生きるかとは、何を信頼して生きるかということです。私たちは誰もが生きるために誇りを、頼りとすべきものを、支えとすべきものを必要としています。それをどこに見いだすかが、問われているのです。「誇る者は主を誇れ、「主イエス・キリストを誇れ」と言われています。その通りだと思っていても、私たちはどこかでキリスト以外のものを誇りとしてはいないでしょうか。自分の知恵や力や富を誇って、それを頼りとして生きていることがあるのではないでしょうか。あるいは少々屈折した形ではありますが、知恵や力や富がないことを誇って、それを支えとして生きていることがあるかもしれません。また自分の経験を誇り、それに信頼して生きているということもあり得ます。成功した経験だけが誇りとなるのではなく、苦しみや悲しみの経験が誇りとなることもあるのです。自分の知恵や力や富や経験を誇りとし、それに頼って生きようとしてしまうのが、私たちの偽りのない姿なのではないでしょうか。それでももしかすると、そのような自分の知恵や力や富や経験は、地上の生涯においては私たちを支えてくれるかもしれません。しかしそれらは地上の生涯を越えて、つまり死を越えて私たちの支えとなることは決してありません。私たちは死を迎えるとき、自分の知恵や力や富や経験のすべてを手放すことになるからです。かつてパウロは、自分が生粋のヘブライ人であり、熱心なファリサイ派の一員であり、律法をしっかり守っていたことを誇りとして生きていました。しかしその彼が、今、「誇る者は主を誇れ」と言います。そのように言うことができるのは、パウロが主イエス・キリストに出会ったからです。主イエス・キリストを知り、その復活の力を知ったからです。それまで自分が誇っていたものは、決して死を越えて自分の支えとなることはない。しかしキリストの復活は、死を越えて自分の支えとなる、と知ったからなのです。同じように私たちも、自分の知恵や力や富や経験に誇りや支えを見いだすのではなく、死を越えた復活と永遠の命を与えてくださるキリストにこそ、誇りと支えを見いだすのです。私たちもキリストと出会い、キリストを知り、その復活の力を知らされているからです。キリストが十字架に架かって死んでくださり、復活してくださったことによって、私たちに死を越えた、終わりの日の復活と永遠の命の約束が与えられています。この約束を私たちに与えてくださるキリストだけを私たちは誇りとし、支えとして生きていくのです。
十字架につけられたキリストを誇る
キリストを誇るとは、十字架につけられたキリストを誇ることにほかなりません。私たちは自分の知恵や力や富や経験を誇るのではなく、十字架につけられたキリストだけを誇ります。神様は私たちが何か条件を満たしたからではなく、ただ一方的な恵みによって私たちを選び、招き、十字架につけられたキリストによって実現した救いにあずからせてくださるからです。私たちは人々には愚かなことのようにしか思えない十字架につけられたキリストだけを誇りとし、支えとするのです。そのことによって私たちは、死に至るまで、いえ、死を越えて、慰めと支えと守りを与えられて歩むことができるのです。