「十字架の言葉」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第29章13-16節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一第1章18-25節
キリストの十字架が空しくならないように
月に一回、私が主日礼拝の説教を担当するときには、コリントの信徒への手紙一を読む進めています。本日は1章18節以下を読み進めていきます。その冒頭18節には、翻訳にはありませんが、原文には「なぜなら」という言葉があります。つまり直前の17節を受けて、その理由を18節で語っているのです。17節では、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、福音を告げ知らせるためにパウロが遣わされた、ということが語られていました。
「キリストの十字架が空しくならないように」。コリントの信徒への手紙一は、読み進めていくと分かるように、一貫した主題を扱っているというより、コリント教会で起こっていた様々な問題について扱っています。パウロはそれらの様々な問題について、コリント教会の人たちに対して戒め、勧め、励ましているのです。しかしどの問題を扱っているときも、パウロの心にあったのは、「キリストの十字架が空しくならないように」、ということであったのではないでしょうか。この手紙に限ったこと、パウロに限ったことではありません。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、聖書全体が、「キリストの十字架が空しくならないように」と告げている、と言っても良いと思います。あるいは、ほかならぬ主イエス・キリストご自身が、キリストの十字架が空しくならないことを願っておられる、そのように言うこともできます。そのキリストご自身の願いをどれほど受けとめることができているのか、私たちは自らを省みないわけにはいかないのです。
十字架の言葉
キリストの十字架を空しいものとしてはならない、その理由が18節でこのように言われています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。十字架の言葉が、救われる者には神の力であるから、キリストの十字架を空しいものとしてはならないのです。ここで「十字架の言葉」とは、キリストの十字架の出来事の内容、そしてその意味のことです。キリストの十字架の出来事とは何であったのか、そしてそれは何を意味しているのか。このことを告げる言葉が、十字架の言葉なのです。
少し話が逸れますが、私が神学生時代に、神学生が集まって話している時に、よく話題に上ったのが、「説教でキリストの十字架(と復活)ばかりを語っていてはいけないよね」、ということでした。キリストの十字架はもちろん語るけれど、それだけでは十分ではない。もっとほかのことも語らなければならない。そういう議論です。必ずしも間違っているわけではないかもしれません。しかしその後、私が教会に遣わされ、5年間の歩みの中で強く思わされたのは、むしろもっと「キリストの十字架」を語らなければならない、もっと「十字架の言葉」を語らなければならない、ということでした。言うまでもなく、指路教会では説教で「十字架の言葉」が語られ続けています。しかし私たちが属している日本基督教団のどの教会でも「十字架の言葉」が語られているかというと、必ずしもそうではない、という現実があります。そのような現実の中で、私たちの教会は揺らぐことなく「十字架の言葉」を語り続けなければならないのです。
しかしそれだけが理由ではありません。もっと根本的な理由があります。それは、「十字架の言葉」が私たちの普通の感覚と合わないということです。そのために主の日の礼拝で「十字架の言葉」を聞いても、一週間の歩みの中で、自分の普通の感覚、自分の当たり前のほうが、「十字架の言葉」にまさってしまう、時には「十字架の言葉」を追いやってしまう、そういうことが起こります。だからこそ私たちは毎週の礼拝で、「十字架の言葉」を聞かなくてはならない。いつのまにか自分の当たり前に支配されてしまっている私たちは、「十字架の言葉」によって打ち砕かれなくてはならないのです。「十字架の言葉」がもっと語られなければならない根本的な理由は、このことにあると思うのです。
知恵や賢さ
本日の箇所でも、いかに「十字架の言葉」が、世の人々の普通の感覚と相容れないものであるか、世の人々が求めているものと異なるものであるかが語られています。この箇所では、人々の求めているものが「知恵」や「賢さ」と言われています。パウロは19節で、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」と言っています。これは、共にお読みした旧約聖書イザヤ書29章14節後半からの引用ですが、言葉が異なっているのは、ギリシア語訳の旧約聖書からの引用だからです。ここでパウロがイザヤ書のみ言葉を引用しているのは、単に「知恵」や「賢さ」は意味のないものだ、と言うためではありません。私たちにとって、知恵や賢さを求め、それらを身につけていくことは、決して無駄なことでも無意味なことでもないからです。ここでパウロが言わんとしていることは、引用されたイザヤ書29章14節の前後を読むと分かります。13節には、「主は言われた。『この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている』」とあり、15節には、「災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は」とあります。つまり人々の心が神から遠く離れていたことが、とりわけこの預言の歴史的背景を考えるなら、エルサレムの指導者たちが、神に信頼せず、自分たちの知恵や賢さに頼って、神に隠して大国アッシリアからエルサレムを守る謀をめぐらしていたことが語られているのです。そして16節では、「造られた者が、造った者に言いうるのか 『彼がわたしを造ったのではない』と。陶器が、陶工に言いうるのか 『彼には分別がない』と」と言われていて、人間をお造りになり、陶工である神に向かって、神に造られた者であり、陶器であるに過ぎない人間が、「神には分別がない」と、神を査定する姿が見つめられているのです。ですからこの箇所で言われている人々が求めている知恵や賢さとは、神に頼らずに、自分の知恵や賢さに頼ろうとする、そのような知恵や賢さであり、またこの箇所で見つめられている人々の姿とは、そのような知恵や賢さによって、神を知ることができる、神を認めるに至ることができる、そして神をも査定することができると思っている人々の姿なのです。
世の知恵で神を知ることはできない
続く20節には、「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」とあります。この「学者」とは、聖書の学者ではないか、と考えられています。当時、まだ新約聖書はありませんから旧約聖書の学者です。聖書の学者は、聖書についての知識を身につけることで、聖書を研究することで、神を知ることができると思っていました。また「この世の論客」とは、世の中について色々と論じる人たちのことですが、神についても色々と論じることを好んだのだと思います。自分の知識や知恵を頼みとして、神は存在するのかしないのかとか、存在するならその神はどんな神なのかとか、そのようなことを論じることを通して、神を知ることができると思っていました。しかしそのような自分の知恵によって神を知り、神を認めるに至り、神を信じることができると考えるのは、愚かなことです。だからパウロは、「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」と言います。それは、世の知恵はどれもこれも愚かなもので意味がないということではなく、世の知恵によって神を知ろうとする、その世の知恵を愚かなものとされた、ということであり、世の知恵によって神を知ろうとするのが愚かなことである、ということです。それ故に、続く21節で「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」と言われているのです。世の知恵、自分の知恵によって、神を知ることはできないのです。
十字架の言葉を宣べ伝えることの愚かさ
神を知り、神を認めるに至り、神を信じるとは、要するに「救われる」ということです。知恵を身につけることによって救われるのは、世の人々の普通の感覚に、コリント教会の人たちの、そして私たちの普通の感覚に合っています。しかしパウロは、それで救われるのではない、と言っているのです。21節の半ばで、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言われています。「宣教」とは「説教」とも訳せる言葉ですから、説教が「愚かな手段」と言われているように思えます。しかし原文には「手段」という言葉はなく、直訳すれば、「神は、宣教という愚かさによって信じる者を救おうと」、となります。ですから説教が「愚かな手段」と言われているのではなく、十字架の言葉を宣べ伝えることの愚かさ、つまりキリストの十字架の出来事の意味を宣べ伝えることの愚かさを言っているのです。それは、世の人々にとっては、キリストの十字架の出来事が愚かなことにしか思えない、ということであり、十字架の言葉が私たちの普通の感覚や当たり前と相容れない、ということにほかなりません。このことが22、23節でさらに展開されてこのように言われています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」。十字架の言葉を宣べ伝えるとは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることであり、十字架につけられたイエスが神の独り子であり、キリストであると、つまり救い主であると宣べ伝えることです。しかしそれは、しるしを求めるユダヤ人にとってはつまずかせるものであり、知恵を探すギリシア人にとっては愚かなものであったのです。
つまずかせるもの、愚かなもの
ユダヤ人は「しるしを求め」る、と言われています。それは証拠を求める、ということです。ユダヤ人にとって自分たちが神の民である証拠は、自分たちが律法を守っていることにありました。その律法に「木にかけられた者は、神に呪われたもの」(申命記21章23節)と記されています。そうであるならば、木にかけられて死なれたイエスは、神に呪われたものであり、救い主であるはずがないのです。だからしるしを求め、証拠を求めるユダヤ人にとって、十字架につけられたキリストは、つまずきでしかなかったのです。その一方で、ギリシア人は「知恵を探」す、と言われています。哲学はギリシア人によって生まれたと考えられていますが、哲学(フィロソフィア)とは、知恵(ソフィア)を愛する(フィレオー)という意味の言葉です。知恵を愛し、知恵を探し求めることで、より真理に近づくことができる、平たく言えば、より高みに至ることができる、と考えていたのです。そうであれば、知恵を探し、高みを求めるギリシア人にとって、軽蔑すべき犯罪者を処刑するための、最も残酷な処刑方法である十字架刑で死なれたイエスが、神の独り子であり、救い主であるということは、愚かなことでしかなかったのです。ユダヤ人にとってもギリシア人にとっても、十字架につけられたキリスト(救い主)というのは、神に呪われた者が救い主、軽蔑すべき犯罪者が救い主、ということであり、矛盾でしかなかったのです。
証拠を求める
私たちはユダヤ人とギリシア人の両方の傾向を持っていると思います。一方で私たちは、ユダヤ人のように神を信じるための証拠を求めることがあります。奇跡を信じないと言っているのに、奇跡を見ないと神を信じないと言ったりします。証拠がないと、納得できないと、神を信じられない、と思ったりもします。もちろん神を信じるというのは、納得して信じる、という面があるのも確かです。納得もしていないのに闇雲に信じるのが信仰ではありません。しかし納得できないと神を信じられないという思いには、しばしば私たちの期待通りでないと神を信じない、という思いが隠れているのです。私たちの思いに沿うような神なら信じても良いけれど、そうでないなら信じない、という思いがあるのです。先ほど、共に読まれたイザヤ書29章16節で、「陶器が、陶工に言いうるのか 『彼には分別がない』と」と言われていたのを見ました。神に造られた者であり、陶器であるにもかかわらず、私たちは自分の期待通りでないと、陶工である神を査定して、「神には分別がない」とか、「このような神は信じるに値しない」とか思ってしまうのです。
救いへと上昇していくことを求める
その一方で私たちは、ギリシア人のように知恵であれ何であれ、より多く求めることに、より高みに上ることに、つまり上昇することに価値があると思っています。それが私たちの当たり前、私たちの社会の当たり前だからです。だから救いにおいても、自分の行いや努力によって救いを得るほうが、私たちの感覚に合っているし、自分が上昇していくことによって救いを得るほうが、私たちは満足感を得ることができるのです。自分の知恵や行いや努力によって神を知ることができ、救いへと至ることができるなら、私たちは自分自身を誇ることができるからです。しかし神の独り子であり、まことの神であるお方が、人となって私たちのところに降って来てくださり、最も残酷で、低さの極みである十字架で死んでくださった、そのことによって私たちが救われたというのは、私たちに満足感を与えません。私たちは何一つ誇ることができないからです。だから私たちは、自分たちのほうが神へと、救いへと上昇していくことを求め、神が私たちのところへ降り、十字架の死まで低くなられたことを愚かなことのように思ってしまうのです。
十字架の言葉は神の力
そのように私たちが思うのは、私たちが自分たちの罪の深刻さに気づけていないからです。冒頭18節に、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです」とありました。「滅んでいく者」とは、「滅びつつある者」という意味です。私たちは皆、自分の罪によって滅びつつあります。私たちは誰もが、この地上の生涯で死を迎えるだけでなく、神の審きによって滅ぼされて当然の者なのです。「滅んでいく者」とは、自分が罪によって滅びつつあるということを受けとめていない者であり、そのような者にとって、「十字架の言葉」は愚かなものでしかありません。しかし私たちが、自分は罪によって滅びつつあり、死と滅びへの恐れと不安にさらされていることを、そして自分の知恵や行いや努力によっては、決してその滅びから救われないことを受けとめるならば、十字架の言葉は、私たちにとって「神の力」にほかなりません。なぜなら十字架の言葉が告げているのは、主イエス・キリストが私たちの代わりに、私たちの罪のために十字架で死んでくださり、私たちを救ってくださった、ということだからです。これこそ「神の力」です。この「力」という言葉は、ダイナマイトの語源になった言葉です。神の力である十字架の言葉は、私たちの罪を、死と滅びへの恐れと不安をなにもかも吹っ飛ばして、私たちに救いを与え、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えるのです。25節に「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」とあります。十字架につけられたキリストは、私たちの感覚からすれば愚かなように、弱いように見えます。しかし十字架につけられたキリストこそ、どんな人間の賢さよりも賢く、どんな人間の強さよりも強いのであり、私たちを本当に救い、私たちの罪を、死と滅びへの恐れと不安を吹き飛ばすことができるのです。
召された者に
このことを十字架の言葉は告げています。そして私たちはこの十字架の言葉を信じて、十字架につけられたイエスが私たちの救い主(キリスト)であると信じて救われました。しかし私たちの信じるという決断が先にあったのではありません。私たちの決断に先立って神の召し、神の招きがあったのです。そのことが24節で、「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」と言われています。神の一方的な恵みによって「召された者に」、「神の力、神の知恵であるキリスト」が宣べ伝えられているのです。そこには神に召されたということ以外に、なんの隔てもありません。ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、その他の異邦人であろうが、なんの隔てもありません。能力があるかどうか、家柄が良いかどうかも隔てとはならないのです。ただ神によって召された者に、宣べ伝えられている神の力、神の知恵であるキリストを信じ、受け入れることによって、私たちは救われるのです。
救いは神からのプレゼント
本日の箇所でパウロは、コリント教会に分派争いがあったことを念頭に置いて語っています。前回見たように、パウロ派、アポロ派、ケファ派というような分派争いがあり、その分派争いによって教会の一致が崩れかけていたのです。その根本的な原因は、コリント教会の人たちが、自分たちとほかの人たちを比べて、自分たちを誇ろうとしていたことにあります。神が自分たちのところに降って来てくださったことに救いがあると信じるのではなく、自分たちの知恵や行いや努力によって救いを獲得できるという勘違いが、互いに比べ合い、誇り合い、争い合うことを生じさせ、教会の一致を破壊していたのです。私たちもしばしば、救いについてもこの上昇志向にとらわれます。あのバベルの塔を建てた人たちのように、より高いところを目指そうとするのです。しかし神はバベルの塔を建てた人たちの言葉を混乱させられ、彼らは互いの言葉が聞き分けられなくなり、意思の疎通ができなくなりました。それは、互いに交わりを持つことができなくなった、ということです。同じように、私たちが上昇志向にとらわれ、互いに比べ合い、誇り合うことの先にあるのは、教会の一致の破壊であり、交わりの破壊にほかならないのです。
しかし私たちは、自分たちの知恵によって神を発見するのでも、神を知ることができるのでもありません。神が、私たちにご自分を知らせてくださるのです。私たちの感覚では愚かにしか思えないような、低さの極みである十字架でキリストが死んでくださったことにおいて、神はご自分を私たちに知らせてくださったのです。罪を、死と滅びへの恐れと不安を吹き飛ばすほどの愛を知らせてくださったのです。私たちは自分たちの力や行いや努力によって救いに至るのではありません。主イエス・キリストが私たちの代わりに、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことによって、私たちは救われたのです。救いは、私たちの力や行いや努力によって獲得するものではなく、神からのプレゼントなのです。
十字架の言葉を宣べ伝える
先ほど申したように当時、十字架は最も残酷な処刑方法でした。しかし今、人々は十字架に対して残酷なイメージを抱いてはいないでしょう。むしろアクセサリーになるほど、良いイメージが持たれています。そのことはキリスト教会の働きによるのかもしれません。しかし十字架のイメージが良くなったことよりも、もっと大切なことは、もっと問われるべきことは、「十字架の言葉」が人々に届いているか、ということです。主イエス・キリストが私たちの代わりに、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことに救いがある、という十字架の言葉を、私たちの教会が世の人々に届けているか、ということなのです。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」と言われていました。この神が「お考えになった」とは、神が「喜んで決意された」という意味です。神は十字架の言葉で人々を救おうと喜んで決意されました。私たちの教会はその神のご決意をしっかりと受けとめ、「十字架の言葉」を語り続けていくのです。
この礼拝の後に4月定期教会総会が行われます。昨年度の歩みに神が与えてくださった恵みに感謝すると共に、とりわけ創立150周年を迎える今年度、私たちの教会が、「十字架の言葉」で人々を救おうという神のご決意をしっかりと受けとめ、「十字架の言葉」を力強く宣べ伝えていくことへの想いを新たにしたいのです。