主日礼拝

コリントにある神の教会へ

説教題「コリントにある神の教会へ」
旧約聖書 申命記第2章16-19節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一第1章1-3節

ペトロの手紙一とコリントの信徒への手紙一
 先月ペトロの手紙一を読み終えて、本日からコリントの信徒への手紙一を読み始めます。どちらも書簡(手紙)であるという点では同じですが、両者にはかなり違いもあります。そもそも前者は、「ペトロの」手紙とあるように、手紙の差出人が書簡の名前に入っているのに対して、後者は「コリントの信徒への」手紙とあるように、手紙の受取人が書簡の名前に入っています。またペトロの手紙一は書簡の名前に手紙の差出人が入っていると言っても、この手紙を書いたのは使徒ペトロではなく、おそらく使徒ペトロの名を借りた著者と考えられています。それに対してコリントの信徒への手紙一を書いたのは間違いなく使徒パウロです。さらにペトロの手紙一が小アジアの各地に立てられた諸教会に宛てて書かれた手紙であるのに対して、コリントの信徒への手紙一は、一つの教会、つまりコリント教会に宛てて書かれた手紙です。このように本日から読み始めるコリントの信徒への手紙一は先月読み終えたペトロの手紙一とは違い、手紙の差出人と受取人がはっきりしているのです。そのこととも関係しますが、この手紙はペトロの手紙一よりも具体的な問題を取り扱っています。これから読み進めていくと分かるように、コリント教会ならではの問題が多く扱われているのです。そのため扱われている問題によっては、私たちの教会とはあまり関係がないように思えることがあります。コリント教会だからそのような問題が起こるのであって、私たちの教会では同じ問題は起こらないと思うのです。しかしそのように考えるのは、一方では正しいのですが、しかし他方では間違っています。私たちはこのことを本日の箇所、手紙の初めの部分からも受けとめていきたいのです。しかしまずはコリントという都市について、またコリント教会が立てられた経緯とこの手紙が書かれた経緯について確認しておきたいと思います。

コリント
 コリントはアテネの西、ペロポネソス半島のつけ根の部分に位置する都市です。ペロポネソス半島はそこで大きくくびれて、コリントス地峡によってギリシア本土とつながっていますが、このコリントス地峡にコリントはあります。聖書の後ろにある付録の聖書地図8では、コリントは左右から湾に迫られていて、ギリシア本土とペロポネソス半島がつながっていないように見えます。しかし実際は、幅約6キロメートルの地峡で結ばれているのです。ギリシア本土とペロポネソス半島を陸路で行き来するときは必ずコリントス地峡を通るため、コリントは南北の交通の要所でした。また船を陸に揚げてコリントス地峡を運んだので、コリントは東のエーゲ海と西のイオニア海を結ぶ東西の交通の要所でもありました。このように東西南北の交通の要所であったコリントは、人と物が集まる商業の中心地であったのです。コリントは紀元前146年にローマによって滅ぼされますが、紀元前44年にユリウス・カエサルによって植民都市として再建されました。以来コリントはローマ属州アカイアの首都であり(紀元15-44年を除く)、商業都市として大いに繁栄しました。しかし経済的繁栄には負の側面もあります。貧富の格差が生じたのです。当時、コリントの人口の三分の二が奴隷であったようです。つまり大部分の人が貧しく、ごく少数の人だけが富んでいるというのがコリントの状況でした。また経済的繁栄は人心の荒廃をも招きました。コリントの町の背後にそびえ立つアクロコリントスと呼ばれた丘には、ギリシア神話の女神アフロディーテ―の神殿がありましたが、その神殿には約千人もの神殿娼婦がいたようです。当時、「コリント風に生きること」という言葉は、「性的不道徳をなす生き方」を意味したほど、この町には性的な乱れがはびこっていたのです。パウロがこの手紙で性的な乱れについて取り上げているのも、このようなコリントの状況が背景にあります。またコリントス地峡では隔年でイストミア大競技祭が開かれていました。この手紙が書かれた時代も、この競技祭は大いに盛んであったようです。このようにコリントは東西南北の交通の要所であり、人の往来も激しく、経済的な繁栄を享受する一方で、貧富の格差が大きく、また性的な乱れを始めとする人心の荒廃が進んでいたのです。二年に一度の大競技祭は、色々な矛盾が生じている現実から人々の目を逸らす役割をも担っていたのかもしれません。
 このコリントの町の状況は、2000年の隔たりを超えて、私たちの社会の状況と重なる部分が多いのではないでしょうか。私たちの社会でも経済的な繁栄が貧富の格差を拡大させています。人々の心に余裕がなくなり、荒れすさんでいると感じることも少なくありません。矛盾に満ちた社会の現実から目を逸らすために、色々なイベントが催されているのも似ていると思います。私たちの教会を取り囲んでいる社会の状況は、本質的にはコリント教会を取り囲んでいる社会の状況と大きく違わないのです。

コリント教会設立の経緯
 さてパウロがコリントに教会を立てたのは、いわゆるパウロの「第二伝道旅行」においてでした。この「第二伝道旅行」については使徒言行録15章から18章に記されています。パウロは第二伝道旅行で初めて小アジアからマケドニア州(ギリシア)に渡り、フィリピ、テサロニケ、アテネで伝道した後、コリントへ行きました。コリントでの伝道については18章1節以下に記されています。その8節には「会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた」とあります。ここにコリント教会が誕生しました。立派な教会堂が建ったのではありません。まだ建物としての教会はありませんでした。おそらくこのとき洗礼を受けた人たちの中の誰かの家に集まっていたのではないかと思います。パウロの言葉を通して、主イエスは救い主であると信じ、洗礼を受けた人たちの群れが起こされたときコリント教会は誕生したのです。18章11節に「一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」とあるように、パウロは一年半の長きに亘ってコリントで伝道し、コリント教会を立て、教会の歩みを導いた後、コリントを去りました。12節に「ガリオンがアカイア州の地方総督であった」とありますが、これを手掛かりにパウロのコリント滞在は紀元50年から52年頃と考えられています。

この手紙の執筆の経緯
 この手紙が書かれた経緯ですが、パウロはコリントを去ると、エフェソ経由でエルサレムへ向かい、エルサレムからアンティオキアに戻り、その後、いわゆる「第三伝道旅行」に出発しました。この第三伝道旅行で、パウロはエフェソにおよそ三年間滞在しますが、そのときこの手紙を書きました(16章8節参照)。おそらく54年頃です。つまりパウロがコリントを去ってからおよそ二年後にこの手紙は書かれたのです。パウロがコリントを去ってから約二年の間に、コリント教会には色々な問題が起こっていました。コリントを去ってからもパウロは、コリント教会と手紙や人を通しての交流を持ち続けていました。その中でコリント教会に問題が起こっていることを知ったパウロは、コリント教会の状況を気にかけ、この手紙を書く前にも手紙を送っています。またコリント教会からも、パウロに具体的な問題についての質問が届いていました。パウロは多くの問題を抱えるコリント教会に向けて、またコリント教会からの質問にも答える形で、エフェソでこの手紙を書いたのです。
コリント教会だけに向けて書かれたのか?
 このように手紙の執筆の経緯からも、この手紙が具体的な問題に直面しているコリント教会へ向けて書かれた手紙であることが分かります。それゆえこの手紙ではコリント教会ならではの問題が扱われているのです。コリントという都市が、私たちの暮らす社会と本質的に重なるところがあるとしても、当時と今とでは生活や文化や価値観がかなり違うため、具体的な問題になれば、なおさら私たちには馴染みのない、分かりにくい問題であることもあります。しかしそうであるとしても、そもそもパウロはこの手紙をコリント教会だけに向けて書いたのでしょうか。言い換えるならば、この手紙で語られていることはコリント教会にしか関係がない、とパウロ自身が考えていたのでしょうか。そうではないと思います。なぜならパウロ自身が、そうではないことをこの手紙の初めの部分で示しているからです。パウロはこの手紙でも、ほかの手紙と同じように、手紙の初めに手紙の差出人、受取人、挨拶の言葉を記しています。当時の手紙の定型の形に沿ったものです。しかし定型の形に沿いつつも、パウロは自分の思いを込めた言葉を記しているのです。私たちはそのことに目を向けたいのです。

神の御心によって召されて使徒となった
 1節では手紙の差出人について、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから」と記されています。原文では「パウロ」という名前が最初にあり、そのパウロを説明して、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となった」と続きます。パウロは自分が使徒となったと言いますが、それは自分の能力や熱心さによって使徒となったということではありません。「神の御心によって召されて」使徒となったのです。パウロは自分が「しなければならない」と決心して使徒となったのでも、あるいは自分に使徒となるのにふさわしい資格があったから使徒になったのでもありません。ただ神が御心によってパウロを召してくださったから、彼は使徒とされたのです。かつてパウロはユダヤ教徒として教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。そこには彼の信仰の熱心さと、その熱心さから生じる「しなければならない」という決意がありました。しかしあのダマスコ途上の出来事において、主イエスがパウロに出会ってくださり、救ってくださり、使徒として選び、召してくださったのです。教会を迫害していたパウロに、使徒となるのにふさわしい資格は何もありませんでした。それにもかかわらず主イエスは彼を使徒として召してくださいました。それが神の御心であったからです。神の一方的な恵みの御心によってパウロは使徒として選ばれ召されたのです。かつてパウロは自分の「熱心さ」や「しなければならない」という決意によって生きていました。しかし今や、神の御心によって生かされ、神の御心によって与えられた使徒という務めに生きているのです。それは、自分の熱心さや「しなければならない」という決意によって生きることから解放され、神の御心によって召され、用いられて生きるようになった、ということにほかなりません。この手紙を読み進めていくと分かるように、パウロとコリント教会の関係には軋轢がありました。その中でもパウロがコリント教会の人たちに語り続けることができたのは、パウロが神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒とされた、ということに立ち続け、またそのことによって支えられ続けていたからに違いないのです。

コリントにある神の教会へ
 2節には手紙の受取人についてこのように記されています。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」。受取人について長々と記されているので分かりにくいのですが、原文の順序では、「コリントにある神の教会へ、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」が最初に来ています。まずこの部分を見ていきましょう。この手紙の受取人は、単に「コリントにある教会」ではなく、「コリントにある神の教会」と言われています。教会と訳された言葉はギリシア語でエクレシアと言い、呼び集められた者の集まりを意味し、通常「集会」という意味で使われました。当時、ごく普通に使われていた言葉です。ですからコリント市民が、「コリントにあるエクレシアへ」と聞けば、コリントの町のどこかの集会に向けて書かれた手紙だな、と思ったに違いありません。権力者や指導者たちによって呼び集められた人たちの集会、エクレシアへの手紙だと思ったに違いないのです。パウロはそうではないことをはっきりさせるために、「神の教会へ」、「神のエクレシアへ」と記したのではないでしょうか。教会も呼び集められた者の集まりであることに違いはありません。しかし大切なのは誰によって呼び集められたかということです。それは神によってです。教会とは、神によって召し集められた者の群れです。神によって召し集められたことが神のエクレシアとほかのエクレシアを決定的に区別しているのです。

神によって召し集められた者の群れ
 私たちはこのことをよく弁えていなくてはなりません。カリスマ的な指導者が人を集めれば教会になるのではありません。また一人で信仰生活を送るのは寂しいから一緒に集まって信仰生活を送れば、教会になるのでもありません。あるいは立派な教会堂を建てれば、それが教会なのでもありません。そうではなく神によって召し集められた者の群れが教会です。このことを日本基督教団信仰告白は「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり」と告白しています。神の恵みによって召された者の集いが神のエクレシアであり、神の教会です。ですから教会は世の中のサークルとはまったく違います。サークルは同じ志を持つ人たちが集まって作るものです。自分が入りたいときに入り、辞めたいときに辞めることができます。自分に合わないと思えば、あるいは嫌なことがあれば、サークルを辞めれば良いのです。しかし教会は同じ志を持った人たちの集まりではなく、神によって召し集められた者の群れであり、私たちではなく神にこそ主導権があるのです。ですから自分が入りたいときに入り、辞めたいときに辞めるのではありません。それでは神の主導権をないがしろにしています。私たちは自分で決断して教会に来て、洗礼を受け教会のメンバーとなった、と思っているかもしれません。しかしそうではないのです。神が私たちを召してくださったから、私たちは教会に招かれ、洗礼を受けて救いに与り、神によって召し集められた者の群れに加えられ、教会のメンバーとされているのです。

神のものとされた人たちの群れ
 教会が神によって召し集められた者の群れであるとは、教会が神のものとされた人たちの群れである、ということでもあります。このことが、「コリントにある神の教会へ」に続けて、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と言われています。「聖なる者」や「聖なる人々」とは清く正しい人という意味ではありません。聖書において「聖なる」とは「神のものとされた」という意味です。ですからコリントにある神の教会とは、キリスト・イエスによって神のものとされた人たちの群れ、召されて神のものとされた人たちの群れなのです。私たちは自分の力や善い行いを積み重ねることによって、神のものとされたのではありません。ただ主イエス・キリストの十字架による救いによって神のもの、聖なる者とされたのです。神に背いてばかりいる私たちは救われるにまったく値しない者です。それにもかかわらず神は私たちを救うために独り子を遣わしてくださり、その独り子を十字架に架けて私たちの罪を赦すことによって、私たちをご自分のもの、聖なる者としてくださったのです。

召された使徒から召された聖なる者たちへ
 ここでも「召されて」という言葉が使われています。パウロが召されて使徒とされたように、コリント教会の人たちも召されて聖なる者とされました。ですからこの手紙は召された使徒から、召された聖なる者たちへの手紙です。パウロもコリント教会の人たちも、自分の力や善い行いによって召されたのではありません。神の御心によって、恵みによって選ばれ、召されたことによって、パウロは使徒とされ、コリント教会の人たちは聖なる者とされたのです。共に神の恵みの御心によって召された者であることこそ、パウロがコリント教会の人たちに語りかけるための共通基盤でした。だからパウロはこのことを確認せずには、この手紙を書き始めることができなかったのです。

主の名を呼び求めているすべての人々への手紙
 最後に、後回しにしていた、「すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」に目を向けたいと思います。ただ新共同訳では「すべての人と共に」の意味がよく分かりません。「すべての人」が誰と「共に」なのでしょうか。この部分を明確に訳しているのが聖書協会共同訳です。このように訳しています。「コリントにある神の教会と、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者たち、ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々へ」。つまり聖書協会共同訳に従うなら、パウロはこの手紙を「コリントにある神の教会」と、「ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めている人々へ」書き送った、ということになるのです。パウロはこの手紙の受取人として、コリント教会だけでなく、「至るところで」「主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々」をも含めているのです。それは、時間と場所に制約されない、あらゆる時代のあらゆる場所の教会に向けて、この手紙が書かれたということにほかなりません。確かにこの手紙は直接的にはコリント教会に向けて書かれています。しかし間接的にはすべての教会に向けて書かれているのです。このことは2節の最後で「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります」と言われていることにも示されています。イエス・キリストは、コリント教会の人たちだけの主ではありません。そうではなく、「至るところで」「主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々」の主であられるのです。この手紙は、まさにイエス・キリストを主と告白するすべての教会へ向けて書かれているのです。
 この手紙ではコリント教会ならではの問題が扱われ、その問題は必ずしも私たちの教会と関わりがあるわけではないかもしれません。しかしパウロがコリント教会ならではの問題を扱うこの手紙を、あらゆる時代のあらゆる場所の教会に向けて書いているのは、具体的な問題そのものではなく、その問題の根本にある信仰の事柄が、主の名を呼び求めているすべての人たちに関わるからにほかなりません。ですから私たちはこの手紙をパウロがコリント教会へ送った手紙として読んで終わらせてはなりません。私たちはこの手紙をこの指路教会へ送られた手紙として読むのです。コロナ後の歩みが本格化し、今年教会創立150周年を迎える指路教会に向かって、そこに連なる私たちに向かって語られている神の言葉として読むのです。

恵みと平和
 3節でパウロは「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と言います。むろんこの挨拶の言葉、祈りの言葉も、コリントの人たちだけでなく、主の名を呼び求めるすべての人たちに告げられています。コリントの町のように、この横浜の地も、経済的な繁栄による貧富の格差があり、人心の荒廃にさらされ、矛盾に満ちた社会の現実から目を逸らすための様々なもので溢れています。しかし主イエス・キリストの十字架によって神のもの、聖なる者とされた人たちの群れであり、神によって召し集められた者の群れであり、主の名を呼び求めている者の群れである指路教会に、横浜にある神の教会である指路教会に、父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が豊かに注がれているのです。

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