主日礼拝

マラナ・タ

「マラナ・タ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第96編1ー13節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第16章21ー24節
・ 讃美歌; 344、346、239

 
パウロの自筆の挨拶
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエスの弟子たちに聖霊が降り、彼らが力を与えられてキリストの福音を宣べ伝え始めた、それによって教会が誕生したことを記念し覚える日です。そのペンテコステを覚える本日の礼拝において読む聖書箇所をどこにしようかと考えまして、今読み進めており、いよいよ最後の16章に入ったところであるコリントの信徒への手紙一のしめくくりの所を選びました。先週は16章の1~4節を読みましたので、順番から言うと本日は5節以下ということになるのですが、そこは後に回させていただき、パウロが最後に自分の手で記している挨拶の部分、21節以下を先に読みたいと思います。「自分の手で挨拶を記します」と21節にあるのは、パウロは手紙を基本的には口述筆記によって書いているからです。パウロの書簡はどれも、語ったことを誰かに書き留めてもらうという仕方で書かれたのです。しかしそのように人に書いてもらった手紙のしめくくりの所で、自分で筆を取って挨拶を記すことがありました。コリントの教会は彼にとって特に親しく覚えている教会であり、まただからこそとても心配している、気にかかっている教会です。そこに送る手紙の最後に、自分自身で挨拶を語っているのです。その自筆の挨拶において、彼は一つの祈りの言葉を記しています。それが、本日の説教の題となっている「マラナ・タ」という言葉です。本日は、この言葉を中心に、み言葉に聞きたいと思います。この祈りの言葉がペンテコステの出来事とどのように関わるのか、それは後で述べます。

初代の教会の祈り
 「マラナ・タ」というのはアラム語の言葉です。アラム語は、旧約聖書の大部分が書かれたヘブライ語にごく近い親戚のような言葉で、主イエスの当時のユダヤの人々はこのアラム語を使っていたと言われます。そのアラム語の言葉がその発音のまま、ギリシャ語で書かれた新約聖書の中に残ったのです。それは、この言葉がそれだけよく皆の耳になじんでいたということでしょう。旧約聖書の言葉で、そのまま新約聖書の言葉になり、私たちも知っている言葉は他にもいくつかあります。「アーメン」「ハレルヤ」「インマヌエル」などがそうです。これらは旧約聖書に出てくるものですが、「マラナ・タ」はそうではありません。これは、初代の教会において生まれた祈りの言葉です。ペンテコステの出来事によって誕生した、アラム語を話すユダヤ人たちの群れである最初の教会で祈られていた祈りの言葉が、そのまま新約聖書の言葉となったのです。そういう意味でこの言葉は、初代の教会の信仰をよく表わしたものであると言うことができるでしょう。 主よ、来てください  「マラナ・タ」の意味は、その後の括弧にあるように「主よ、来てください」ということです。もっと正確に言うと「わたしたちの主よ、来てください」となります。ちなみにこの括弧は翻訳の時に説明のためにつけられたので、聖書の原文にはありません。口語訳聖書ではただ「マラナ・タ」とあるだけでした。聖書が書かれた当時の人々はそれだけで十分意味が通じたのです。しかし今日の私たちには説明が必要ですから、括弧がつけられたのです。  「主よ、来てください」という意味である「マラナ・タ」が初代の教会においてしばしば祈られた大切な祈りだったことは何を意味するのでしょうか。この「主」とは主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストに「来てください」と祈ることが、教会の信仰の中心だったのです。それは主イエスご自身の約束に基づくことでした。マルコによる福音書第13章24節以下に、主イエスが、この世の終わりについて語られたこのような言葉があります。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。「人の子」とは主イエスがご自分のことを言われた言葉です。世の終わりに、主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られ、選ばれた人たち、救いにあずかる者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さったのです。また、使徒言行録の第1章11節には、復活された主イエスが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使が「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と告げたことが語られています。主イエスがもう一度この世においでになることがこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会は、主がもう一度来て下さること、即ち主の再臨を待ち望みつつ歩みました。パウロも、最も早くに書かれたとされるテサロニケの信徒への手紙一の1章10節でこのように語っています。9節の途中から読みます。「すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。「御子が天から来られるのを待ち望む」、それが教会の信仰なのです。その信仰から生まれた祈りが「マラナ・タ(主よ、来てください)」なのです。

究極的な希望
 従って「マラナ・タ」とは、キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りです。「主よ、来てください」と言うと、「イエス様ちょっとここへ来て私を助けて下さい。今困っているこの問題を解決して下さい」という意味にとられるかもしれませんが、そういうことではないのです。勿論私たちは日々の生活の中で、主イエス・キリストが、聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さることを信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈ることができるし、主イエスはそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さるのです。しかし「マラナ・タ」という祈りは、主イエスの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りです。その救いについて私たちはこれまで、この手紙の15章において読んできました。15章22節以下を振り返ってみたいと思います。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。」。ここには、キリストの再臨によってこの世が終わり、キリストはすべての支配、権威、勢力を滅ぼして、父なる神様に国を引き渡されるということが語られています。「国」とは「支配」という意味の言葉です。つまり再臨によって、キリストのご支配が確立し、その支配する王国が父なる神様のものとなる、神の国、神のご支配が完成するのです。それが私たちの究極的な救いです。私たちが現在味わっているいろいろな苦しみ、困難、問題は、目に見える現実において、神様の恵みの力とは別の、様々なこの世の力が支配していることによって生じています。神様の恵みを見えなくする様々なこの世の力に私たちの人生は振り回され、翻弄されているのです。その中にあって、信仰を与えられた私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様の恵みのご支配が既に確立していることを信じて生きるのです。しかしその神様のご支配は信仰によってしか分からない、隠されたご支配です。そこに、信仰をもってこの世を生きる私たちの苦しみがあります。私たちはその苦しみに負けて、神様の恵みのご支配を見失ってしまうこともあります。しかし、世の終わりのキリストの再臨において、今は隠されている神様のご支配が顕わになり、誰の目にも明らかな仕方で確立するのです。そのようにして神の国が完成するのです。その時に、私たちの苦しみは終わるのです。その時、最後の敵として死が滅ぼされる、とあります。死は、私たちの人生を脅かす最後最大の敵です。肉体をもって生きるこの人生は、最後にはこの死の力に屈服せざるを得ません。死こそが、私たちを最終的に支配する力であるように見えます。しかしキリストの再臨において、その死の力が滅ぼされ、私たちにも復活の命と体が与えられるのです。死んで朽ちていくこの体が、新しい、朽ちない体へと変えられるのです。私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなく、主イエス・キリストにおけるこの神の恵みの力であることが、主イエスの再臨において明らかになるのです。「マラナ・タ(主よ、来てください)」という祈りは、このことを見つめ、待ち望む祈りです。私たちは、この祈りを祈りつつ、この究極的な希望をもって生きることを許されているのです。そしてそれゆえにこそ、日々の様々な具体的な歩みにおいて、聖霊のお働きによって主イエスが共にいて下さり、守り助けて下さることを信じて、祈り求めることができるのです。「マラナ・タ」の祈りこそ、私たちの日々の全ての祈りと、信仰による生活とを支えている土台であると言うことができるのです。

主のみ国が来ますように
 「マラナ・タ」という言葉は、聖書の中でここにだけ出てきます。しかし同じ意味の祈りは、新約聖書の一番最後のところ、ヨハネの黙示録の22章20節にもあります。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」。この「主イエスよ、来てください」は「マラナ・タ」をギリシャ語に訳した言葉です。新約聖書はこの祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言ってもよいのです。そしてさらにもう一つ、主イエスが「このように祈りなさい」と教えて下さった、私たちの祈りの根本である「主の祈り」の中に、「み国を来らせたまえ」とあります。神様のみ国は、主イエスの再臨によってもたらされるのです。み国の到来を待つというのは、主イエスの再臨を待つことなのです。勿論今私たちは既に、主イエスを信じる信仰において、神の国、神様のご支配の下で生き始めています。しかしそれは信仰によることで、先ほども申しましたように目に見えない、隠されたことです。だからこそ「み国を来らせたまえ」と祈るのです。その神の国が、主イエスの再臨によって顕わになり、完成する。「マラナ・タ」はそのことを待ち望む祈りです。ですから私たちは主の祈りを祈るごとに、「マラナ・タ」と祈っていると言うことができます。この後、聖餐にあずかり、そして讃美歌81番を歌います。「マラナ・タ」の祈りを歌う讃美歌です。この讃美歌においても、「マラナ・タ」と並んで「主のみ国がきますように」と歌うのです。

主の食卓を囲み
 ところでこの81番は、聖餐において歌われる讃美歌です。「主の食卓を囲み」という最初の言葉がそれを表わしています。マラナ・タの祈りは、教会の初めから、聖餐が祝われる時に祈られてきました。この祈りが、アラム語の形のままで教会の中に定着していったのは、聖餐を守るたびにこれが祈られていたからです。本日の箇所は特に聖餐のことを語っているわけではありませんが、パウロはここで、教会がいつも聖餐にあずかる時に祈っている祈りを自ら記して手紙の結びとしたのです。この祈りと聖餐とはどう結びつくのでしょうか。その結びつきを示している言葉が、この手紙の11章26節にありました。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。これは聖餐において「制定のみ言葉」としていつも読まれる箇所の一部です。主の食卓を囲み、聖餐のパンと杯にあずかることによって、私たちはどのような者として生きるのかが語られています。聖餐にあずかる私たちは、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」のです。主が来られること、即ち主イエスの再臨が聖餐において意識されるのです。聖餐は、パンと杯をいただくことによって、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して死んで下さったその恵みを思い起こしてそれにあずかるためのものです。その意味ではそれは主イエスの十字架の死という過去の救いの出来事へと心を向けさせるものであると言うことができます。それは聖餐の大切な意味の一つです。しかしその意味のみを見つめているのでは不十分なのです。この26節は、聖餐が同時に、主イエスの再臨を意識させ、私たちの心を将来の救いの完成へと向けさせるものでもあることを語っています。「主が来られるときまで」という言葉の重点は、「まで」というところにあるのではありません。そもそも聖餐は、私たちが今、主イエスを直接この目で見たり手で触れたりすることができない地上の歩みにおいて、復活して天に昇られた目には見えない主イエスとの交わりに生きるために備えられているものです。主イエスがもう一度来られた時に、私たちは主イエスと直接顔と顔を合わせてまみえるのですから、そこでは聖餐はもはや必要なくなるのです。ですから、聖餐が行われるのは主が来られる時までだというのは、考えてみれば当たり前です。その当たり前のことが敢えて語られているのは、聖餐が常に主イエスの再臨を覚えつつ祝われるべきであることを示すためです。聖餐にあずかる時に私たちは、主イエス・キリストの十字架の死を思い起し、その恵みを確認します。神様の独り子主イエスが、私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを、自分自身にも、また世の人々に向かっても、宣言するのです。「主の死を告げ知らせる」とはそういうことです。しかしそれだけではなく、私たちはそこで、その主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、そのご支配が顕わになり、神の国が完成する、そのことをも覚え、その確信と希望を新たにするのです。主の食卓、聖餐は、希望の食事でもあります。今私たちは、パンと杯という象徴的な印によって、主イエス・キリストとの交わりを与えられています。それは主イエスのご支配がそうであるように、隠されていること、信仰によってしか分からないことです。信仰なしには、ここにあるのは小さなパンの一切れと、おちょこ一杯にもならないぶどうジュースです。そんなものは腹の足しにもならないし、これを食べたからって何かいいことがあるわけではないのです。しかし信仰によって私たちはそこに、主イエス・キリストの十字架の恵みを見ます。信仰によってその恵みを味わいます。信仰によってそれを味わいつつ、私たちは、その恵みが、主イエスの再臨において顕わになり、目に見えるものとなり、誰の目にも明らかな現実となることを待ち望むのです。「マラナ・タ」の祈りはそこで聖餐と結びつきます。この祈りを祈りつつあずかることによって、聖餐は希望の食事となるのです。

聖霊の働きによって
 本日はペンテコステ、聖霊が降って教会が誕生した日です。今まで述べてきたことの全ては、聖霊のお働きによって私たちに与えられているものです。つまり私たちが主イエス・キリストの再臨を信じて、「マラナ・タ」と祈りつつ生きるのも、聖霊が私たち一人一人に注がれ、主イエスの十字架と復活による救いを信じる信仰を与えて下さっているからです。私たちの信仰は、私たちが何かを知ったり理解することによって私たちの心の中から生まれて来るものではありません。それは私たちの外から、神様から注がれる聖霊のみ業によって与えられるものです。聖霊によって信仰を与えられた者は、それを告白して、救いにあずかる者の群れである教会に加えられる印である洗礼を受けます。洗礼も、単なる私たちの決意表明の儀式ではありません。むしろそこで聖霊が、私たちを生まれ変わらせ、主イエスによる救いにあずかる者として新しく生かして下さるのです。本日も、この礼拝において一人の兄弟が洗礼の恵みにあずかろうとしています。ペンテコステに弟子たちに降った聖霊が、この兄弟にも注がれて、キリストの体である教会の枝として生まれ変わらせて下さるのです。そして聖霊のみ業によって洗礼の恵みにあずかった者たちは、主が用意して下さる聖餐の食卓へと導かれ、それにあずかります。そこでいただくのは、先ほども申しましたように小さなパンと一口のぶどうジュースです。しかしそこに聖霊が働いて下さることによって私たちは、復活して今も生きておられる主イエス・キリストとの交わりを与えられ、主イエスの十字架と復活による救いの恵みによって豊かに養われ育まれ力づけられ、主の死による救いの恵みを証しし、宣べ伝えていく者とされるのです。さらに聖霊は、今は天にいて全能の父なる神様の右の座についておられる主イエスが、そこからもう一度来て下さり、私たちの救いを完成し、復活の命と体を与えて下さる、その終わりの日を信じて待ち望む信仰を私たちに与えて下さいます。「マラナ・タ」(主よ、来てください)と祈りつつ生きる者として下さるのです。ペンテコステの日以来、聖霊なる神様はこの地上に主イエス・キリストの体である教会を結集し、それを生かし、守り、導き、常に新たな人々をそこへと呼び集め、加えてきて下さいました。そのみ業が、今私たちにも豊かに注がれているのです。私たちはこれから、その聖霊が働いて下さる洗礼と聖餐を目の当たりにし、また味わおうとしています。キリストの体である教会が、私たちの力によってではなく、聖霊のお働きによって築かれ、建て上げられていくことを、私たちはここで目撃し、体験させられるのです。この聖霊の恵みの中で私たちは、「マラナ・タ、主のみ国が来ますように」と、声高らかに歌い、祈るのです。

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