「滅びと救い」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 箴言 第23章13―14節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第5章1-5節
・ 讃美歌 ; 55、117、449
みだらな行い
コリントの信徒への手紙は、使徒パウロが、コリントの教会に宛てて、信仰とそれに基づく生活の指導のために書き送った手紙です。先週も申しましたように、この教会はパウロの伝道によって生まれました。パウロはこの教会の生みの親として、そこに集っている人々をよく知っているのです。そういう関係のゆえにパウロはこの手紙でかなり踏み込んだことを語っています。この教会に今起っている問題、罪をはっきりと指摘しているのです。本日の箇所はその代表的な所です。彼はここで、コリント教会の人々の中で起っている「みだらな行い」について語っています。「みだらな行い」と訳されている言葉の原語は「ポルネイア」です。そこから「ポルノ」という言葉が生まれました。つまりこれは、男女の性的関係における不道徳行為です。コリント教会にそういう問題があることをはっきりと指摘しているのです。
性的不道徳行為と一言で言ってもいろいろな種類が考えられます。ここで指摘されているのは、「ある人が父の妻をわがものにしている」ということでした。これは直訳すれば「父の妻を持っている」となります。わざわざ「父の妻」と言っていることから、これは「母親」のことではなくて、父親の後妻か、あるいは内縁の妻のことだと思われます。父親の死後、息子がその女性と関係を持っているのです。これは旧約聖書の律法において禁じられていたことでした。それだけでなく、性的な事柄について比較的寛大だった当時のギリシャ、ローマの人々においても、忌み嫌われていたことだったのです。「異邦人の間にもないほどのみだらな行いで」とあることがそれを示しています。ギリシャ、ローマの人々の間ですら見られないようなみだらな行いが、コリント教会において行われていたのです。
よく確かめた上で
パウロがこのこととどう取り組み、それをどのようにして解決しようとしているのかを私たちはここから学びたいと思います。最初に1節の「現に聞くところによると」という言葉に注目したいと思います。パウロはコリント教会の中にこのような問題が起っているということを、人づてに聞いたのです。それでそのことをこの手紙に書いているのです。しかしここで「現に」と訳されている言葉が大事です。これは「いたるところで、いつも」という言葉です。つまりパウロがコリント教会における「みだらな行い」について聞いたのはこれが初めてではなくて、それは既にいたるところに広まっていたのです。つまりパウロは、ちょっと小耳にはさんだうわさによって、憶測でこれを書いているのではないのです。準備をし、よく確かめた上でこの手紙を書いているのです。このことを私たちは忘れてはなりません。これは、人の罪を指摘し、それを問題としていく時に、まず第一に大切なことです。
公の礼拝で
そのように慎重に確かめた上で、パウロがこのことを問題としてはっきりと明るみに出している、ということを学ばなければなりません。これは教会あての公の書簡であって、誰かある個人あての私信ではありません。この手紙は、コリントの教会の人々の前で朗読されるのです。それが当時の礼拝における説教だったとも考えられます。礼拝においてみんなが聞く説教の中で、このような問題が指摘されているのです。これは私たちの感覚からすると驚くべきことです。性的不道徳の罪に陥っている人がいる、ということが、公の礼拝において、具体的に指摘され、問題とされているのです。このようなことが起った時に私たちの間でよくなされる対応は、事を公にはせず、しかるべき人が個人的にその人と話をして、事情を聞き、忠告する、ということです。私たちはそのように事を公にせず、内密に処理しようとすることが多いのではないでしょうか。しかしそれはここでパウロがしていることとは大きく違っています。この違いは何によって生じているのでしょうか。
私たちがこのような事柄をなるべく公にしたがらない理由の一つには、このような不道徳が教会の中でも起っていることが世間の人々に知れたら、教会のイメージが損なわれる、ということがあるでしょう。そこには「伝道の妨げになる」という尤もらしい理屈がつけられますが、それははっきり言って私たちの見栄や体面に過ぎません。そのように上辺を繕うことが伝道のためになる、などという思いは捨てるべきです。もう一つの、もっと深い理由としては、「キリストの福音の中心は罪の赦しだ。その福音に生きる教会において、人の罪を公に断罪するようなことはよくない。どうしてもそれをしなければならないなら、公の場ではなく、内密にして、本人の、また周囲の人々のつまずきを防ぐべきだ」ということがあります。このようなことはしばしば「牧会的配慮」と呼ばれ、それによって事を内密に処理しようとすることが多いのです。
悔い改めを求める
パウロはどのように考えているのでしょうか。彼が最も大事にしているのは、教会を、主イエス・キリストの救いの恵みを受け、それに応えて生きる者の群れとして整えることです。そのために彼がコリント教会の人々に求めているのは、2節の後半にあるように「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」ということです。このような罪を犯している者を、自分たちの間から、つまり教会から、除外する、これはいわゆる戒規を執行するということです。そのことを彼は求めているのです。戒規は、罪を犯した者を教会から追い出すことによって教会を清く保とうとすることではありません。彼を除外するというのは、教会が、毅然たる態度でその人に悔い改めを求めるということです。あなたのしていることは罪だ、だから悔い改めなければならない、そうしなければ、教会の一員であることはできない、とはっきり語ることです。そしてそれによって彼が自分の罪に気づき、悔い改めるなら、教会は再び彼を仲間として迎え入れるのです。戒規はそのことを目指しています。つまり、罪を犯した人を切り捨てることが目的なのではなくて、彼を本当の仲間として再び獲得することが目的なのです。パウロが求めているのはそういうことです。そのようにして教会が、彼をも含めてもう一度、主イエス・キリストの福音によって生きる群れとなることを彼は願っているのです。キリストの福音の中心は確かに罪の赦しです。しかしそれは、罪を大目に見ることではないし、見て見ぬふりをして蔽い隠すことでもありません。主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しを受ける者は、自らの罪を悔い改めるのです。教会は、悔い改めた者の群れです。悔い改めをないがしろにするところに、本当の罪の赦しはありません。罪の赦しを大事にするとは、悔い改めを大事にすることです。罪の赦しに生きる教会とは、悔い改めた、また日々悔い改め続ける罪人の群れとして生きる教会です。そこにおいては、罪を犯した人は、切り捨てられるのではなくて、悔い改めを求められ、悔い改めることによって、交わりへと回復されるのです。それが教会の本来のあり方です。それに対して罪を公にせず、内密に処理しようとする所では、罪を犯した人は暗黙の内に裁かれ、群れから追い出されてしまう、つまり結局切り捨てられてしまうのではないでしょうか。そのようなことが起るのは、教会の人々の中に、罪を犯した者が悔い改めることによって交わりへと回復されることを喜び、そのことを待つという姿勢がないからです。どうしてそういう姿勢がないのか。それは、その人々自身が悔い改めていないからです。自分が悔い改めなければならない罪人であることが分かっておらず、口では自分はどうしようもない罪人ですなどと言いながら、本音においては自分は正しいと思い、罪人を裁いているのです。自らが悔い改めに生きている者のみが、悔い改めた人を受け入れることができるし、また人に悔い改めを求めることができるのです。つまり、悔い改めが信仰の中心に据えられていないならば、罪の赦しの恵みに生きることはできないのです。
高ぶり
コリント教会の問題に戻りたいと思います。パウロはこの教会で起っているみだらな行いをはっきりと指摘しました。しかしそれは、そのような罪を犯している人を批判するためではなかったのです。2節をもう一度最初から読んでみます。「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」。これは、「みだらな行い」をしている人に対するというよりも、コリント教会の全ての人々に対する批判です。自分たちの中でこのような罪が行われているのに、あなたがたは高ぶっている、と厳しく批判されているのです。これはどういうことなのでしょうか。みだらな行いがあるのに高ぶっている、それは、2節後半とのつながりで言うならば、そのような人に悔い改めを求めようとしない、ということです。父の妻をわがものとしている人がいるのを誰もが知っているのに、問題にせず、見て見ぬふりをしているのです。いや、これは実はもっと積極的に、そういうことを肯定しているということだったようです。コリント教会は、当時起ってきていたグノーシス主義の影響を受けていました。グノーシス主義は、人間を霊と肉に分けて、霊のみを尊び、肉体はいやしいもの、無価値なもの、霊にとって牢獄のようなものと考えていました。その考え方とキリストによる救いが結びつけられて、キリストによって人間の霊が救われ、肉体の束縛からの自由を得た、救われた者はもはや肉体に関する掟から自由に生きることができる、という教えが生まれたのです。その教えでは、性に関する道徳などは肉体に関する掟の代表のようなもので、もはや無意味です。だからこの「父の妻をわがものにしている」ということも、従来の掟においては「みだらな行い」だが、キリストによる自由を得た者にとっては、むしろその自由の表れ、掟からの解放の印として肯定されるのです。そういうわけでコリント教会には、このことを信仰によって自由に生きていることの印としてむしろ誇っている人々がいたのです。パウロが「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっている」と言ったのはそういうことを指してなのです。
これは私たちにはあまりピンと来ない、別の世界の話のように思うかもしれません。しかし似たようなことは私たちの身近な所にもあるのです。例えば先週行われた神奈川教区の常置委員会に、今度の2月の教区総会にある議案を出したいという提案がありました。それは「同性愛者やその他の性的少数者への差別をなくすための取り組みを進める件」という議案です。それが出されたきっかけは、昨年秋の日本基督教団の総会において、「同性愛者である人を自分の教会の牧師には迎えたくない」という発言があったことです。そのような発言は「差別発言」だ、そのような発言がなくなるように取り組みを進めよう、というわけです。この主張は要するに、同性愛も人間の自由と権利の一つであって、同性愛者は牧師になるにはふさわしくないとするのは人権の侵害、差別だ、ということです。同性愛については、医学的にもいろいろな議論があり、本人の責任と言うよりも先天的な問題なのだとも言われていますから、なかなか難しい問題であることは確かです。しかし聖書においては、旧約の律法でも罪とされており、ローマの信徒への手紙の第1章においてパウロもこれを人間の罪の表れの一つとしています。少なくともそれが伝統的な聖書解釈です。ですから、聖書を信仰の規範とする教会において、聖書を教える立場である牧師になる人が同性愛者であることには相当の矛盾が生じるはずなのです。しかしそのようなことを言うと「差別発言だ」と糾弾されてしまうという現実があります。ここにも、聖書よりも自分たちの考えを上位に置いて、聖書が「みだらな行い」と言っていることをむしろ積極的に肯定し、誇っていく高ぶりがあると言えるのではないでしょうか。
悔い改めを失う
こういう高ぶりはしかし私たち一人一人の中にもあります。私たちが、人から自分の罪を指摘された時に、腹を立て、反発し、弁明し、言い訳をする、そこにはやはり、この高ぶりの思いが働いていると言わなければならないでしょう。罪を犯しながらなお高ぶっているのは私たちの皆の姿なのです。パウロがコリント教会の最大の問題として見つめているのもこの高ぶりでした。これまでのところに語られてきた、教会の中での党派争いの根にも、この高ぶりがあるのです。自分を正しいとする高ぶりから党派が生まれ、党派間の争いが生じるのです。高ぶりに捕えられてしまうと、人は悔い改めを失います。自分の罪を悔い改めることができなくなり、悔い改めた人を許して迎え入れることもできなくなるのです。そこにおいては、罪は内密の内に切り捨てられるか、見て見ぬふりをされるか、あるいは、ひたすら非難し合い対立し合うことになるのです。悔い改めを失った教会はそのようになっていきます。パウロが批判しているのは、「みだらな行い」をしている人個人よりも、このようなコリント教会全体のあり方なのです。
サタンに引き渡す
パウロは3節で「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」と言っています。自分は体は離れているが、霊においてはあなたがたの所に飛んで行って、罪を犯している者の裁きを行っている、つまり悔い改めを求めている、パウロはそういう思いでいるのです。そのことがさらに4、5節ではこのように語られています。「つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」。パウロはここで、このような者をサタンに引き渡したと言っています。それはどういうことなのでしょうか。少なくともこれは、悪いやつをサタンの餌食にしてやった、ということではありません。パウロは、みだらな行いの罪に陥っている人を、こんな悪人は滅ぼしてやれ、と言っているのではありません。そのことは5節の後半に、「それは主の日に彼の霊が救われるためです」とあることから明らかです。サタンに引き渡したのは、彼が最終的に救われるためなのです。「サタンに引き渡した」というのは具体的には、2節にあった、教会から除外すること、つまりもはや教会の仲間として認めないという戒規のことを言っているのでしょう。教会は、主イエス・キリストのご支配の下にある群れです。そこから除外されるとは、キリストのご支配の外へ、即ちサタンの支配下に移されるということです。「サタンに引き渡した」とはそういうことです。それによって彼の肉は滅ぼされるのです。なぜなら、キリストのご支配からサタンの支配下に移された者は、この世を生きる中で襲ってくる様々な苦しみや誘惑を、キリストの支えなしに一人で受けなければならないからです。それはまさに滅びです。けれどもそのような肉の滅びを通して、主の日に彼の霊が救われるようになることが見つめられています。主の日というのは、この世の終わりの日、主イエス・キリストがもう一度来られ、神様のご支配が完成する日です。その時には、彼の霊が救われる。それは彼が最終的には悔い改めて救いにあずかる者となる、ということです。教会から除外する戒規は、悔い改めを促すためになされます。それはすぐには効果を表さないかもしれません。人間の高ぶりは生易しいものではありませんから、かえって反発し、悔い改めるどころか教会を批判攻撃するようになることもあるのです。けれども、最終的にはその人も悔い改めて主イエスの救いに入れられる、という希望をパウロは抱いているのです。そういう希望を抱いているからこそ、今、その人の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めることができるのです。
ここでパウロが言っている一つ一つの言葉を、すっきりと説明してしまうことはできないと思います。あるいはこれは、人間を霊と肉に分けて考え、肉体を軽視している人々に対して、彼らの言い方を用いて、霊が本当に救われるためには、今、肉において彼が犯している罪をちゃんと問題にして、悔い改めを求めなければならないのだ、ということを言おうとしているのかもしれません。いずれにしても確かなことは、パウロが、みだらな行いに陥っている人の救いを、つまりその人が悔い改めて罪の赦しにあずかることを、希望をもって見つめている、ということです。その希望は、主イエス・キリストが、私たちの罪の全てを背負って十字架にかかって死んで下さったことによって与えられているものです。その主イエスが、復活して天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる。つまり、この主イエス・キリストの勝利とそのご支配が既に確立しているのです。サタンも、そのご支配を打ち破ることはできません。サタンに引き渡された者も、だから滅びてしまうのではなくて、むしろサタンも、主イエスによる救いの完成のために用いられていくのだということが見つめられているのです。
悔い改めに生きる群れを
パウロは、教会が、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しの恵みにあずかり、この救いに生きる者の群れとして整えられていくために労しています。その救いにあずかるために何よりも大切なのは悔い改めです。自らの罪を認めて悔い改めることなしに、主イエスの十字架による罪の赦しの恵みにあずかることはできないのです。教会は、悔い改めに生きる群れでなければ、主イエスの十字架の救いに生きる群れであることはできないのです。悔い改めを忘れ、高ぶりに陥った信仰は、もはや単なる人間の自己主張です。それは、信仰という衣をまとっているがゆえに、なおさらたちの悪い自己主張です。そこでは、人を裁き、切り捨て、党派を結んで対立していくことが起っていくばかりなのです。本当の救いにあずかるためには、そのような高ぶり、自己主張はサタンに引き渡されて滅ぼされなければなりません。日々悔い改めに生き、悔い改めによってこそあずかることができる罪の赦しの恵みに生き、罪赦されたことによってこそ結び合う兄弟姉妹の交わりを築き、罪を犯す者があっても、悔い改めによって交わりが回復されることを心から喜ぶ私たちでありたいのです。