「この世の知恵と神の知恵」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; イザヤ書 第64章1-4節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第2章6-9節
・ 讃美歌 ; 19、169、355
知恵によってではなく
本日は、コリントの信徒への手紙一の第2章6節以下からみ言葉に聞きたいと思います。6節にこうあります。「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」。この手紙を書いたパウロは、これまでのところで、「知恵によってではなく」ということを繰り返し語ってきました。すぐ前の4、5節にも「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」とありました。2章1節にも「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」とあります。自分は、主イエス・キリストのことを宣べ伝えるのに、知恵を、知恵にあふれた言葉を用いないのだ、ということをパウロは強調してきたのです。それは、知恵というものに対する否定的な評価、判断によることです。その評価は、1章21節にこのように語られています。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」。この世の知恵、人間の知恵は神を知ることができない。知恵によって信仰に到達することはできないのです。信仰は、即ち神様の救いは、人間の知恵によって獲得されるものではなく、神様の恵みによって与えられるものなのです。そのことが1章26、27節に語られていました。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」。このように、人間の知恵は、神様を知り、信仰を得て、救いにあずかるために何の役にも立たない、むしろ妨げになるものとして退けられてきたのです。
知恵を語る
しかし本日のこの2章6節に入るとパウロは、今度は、「われわれも知恵を語るのだ」と言っています。信仰は知恵によらない。しかし、信仰は知恵を放棄することではないのです。信仰に即した知恵というものがあるのです。この場合の「知恵」という言葉は、「論理」と言い換えてもよいでしょう。イエス・キリストを信じる信仰には、論理があるのです。論理は、学んで理解しなければならないものです。論理や学びを放棄することが信仰ではないのです。信仰は知恵によらないというのは、いわゆる「鰯の頭も信心から」というような、ただやみくもに言われた通りに信じていればよい、ということではありません。私たちは、信仰において、ただ知恵を放棄し、知恵に対して敵対するのではなくて、信仰に即した本当の知恵を追い求めて努力していかなければなりません。信仰は私たちに、本当に知恵ある生き方を与えるものなのです。
成熟した者
パウロはここで「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語る」と言っています。しかしここの原文には「信仰に」という言葉はありません。原文に用いられているのは「完成した者」とか「大人」という意味の言葉です。「大人の間では知恵を語る」と言っているのです。聖書には、「幼な子のようになれ」という教えと、「ものの考え方では大人になれ」という教えと、両方出てきます。ここは後者の、「大人になれ」という系統の教えだと言えるでしょう。その場合の大人であることの印とは、知恵を語り合うことができる、ということです。その知恵は6節後半に「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」と言われているように、人間の知恵、この世の知恵ではありません。7節前半に「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり」とあるように、それは「神の知恵」です。人間の、この世の知恵とは違う、神の知恵を理解し、語り合うことができるようになる、それが大人になることなのです。人間の知恵と神の知恵との違いがわかるようになることが、人間の本当の意味での成熟なのです。パウロはコリントの教会の人々に、本当の意味で成熟した人となることを求めています。人間の知恵と神の知恵の違いを見極めて、神の知恵をこそ求めていく、そういう大人になって欲しいと言っているのです。
人間の知恵と神の知恵
人間の知恵と神の知恵の違いは何なのでしょうか。それはどのようにして見分けることができるのでしょうか。今読んだ7節前半には、神の知恵が「隠されていた、神秘としての神の知恵」と言われています。神の知恵は、隠されている、神秘なのです。この「神秘」という言葉は、原語では「ミュステーリオン」という言葉です。英語のミステリーのもとになった言葉です。つまりそれは「謎、秘密」とも訳せる言葉です。そしてその言葉が、実は1節にも用いられていて、そこでは「神の秘められた計画」と訳されていたのです。パウロは「神の秘められた計画」を宣べ伝えていた、つまり、隠されていた神秘としての神の知恵を宣べ伝えていたのです。
神の知恵とは、隠されていた神秘、あるいは神の秘められた計画です。「隠されていた」とか「秘められた」とあるように、これは私たちが自分の力で知ることができない、理解し、分かってしまうことのできないものです。そこに、人間の知恵と神の知恵の根本的な違いがあります。人間の知恵は、私たちが知ることができ、理解し、自分のものにしてしまうことができるものです。つまり、人間の知恵は私たちが所有することができるものなのです。所有することができるから、お互いの持っている知恵を比較し合うこともできます。自分の持ち物と人の持ち物を比較するように、自分の知恵と人の知恵とを比べて、誇ったり、劣等感を抱いたりすることが起るのです。そういう優越感や劣等感を生むものは全て人間の知恵です。たとえそれが信仰という名で呼ばれていても、信仰に基づく奉仕と呼ばれていても、私たちが、自分のしていることと人のしていることとを比較して優劣を考えているならば、それは全て人間の知恵なのであって、神の知恵ではありません。パウロがこの手紙を書いた時、コリント教会で起っていたのは、人々がいくつかの党派を結び、それぞれが、自分たちの持っている知恵を誇り、互いの優劣を主張して対立していた、ということでした。そのようなことが起っているのは、あなたがたが人間の知恵しか知らず、神の知恵を知らないからだ、あなたがたは、人間の知恵と神の知恵の違いがまだ分かっていない、つまり、本当の意味で大人になっていない、成熟していない、人間の知恵と神の知恵の違いを見極めて、神の知恵をこそ求めていく本当の大人になってほしい、とパウロは言っているのです。
神の恵みのみ業
人間の知恵とは違って神の知恵は、隠されている神秘であって、私たちが自分のものにしてしまうことのできないものです。自分のものでないということは、人のものでもないわけで、だから比較したり優劣を競うことはできないのです。しかしそれでは、それはどうして知恵と呼べるのでしょうか。知恵というからには、それが私たちにとって役に立つ、良いものであることが前提とされています。そうでなければ知恵とは呼べないのです。しかし私たちのものになってしまうことのない神の知恵が、私たちにとって何の役に立つ、どんな良いものなのでしょうか。神の知恵は、確かに、私たちが自分のものとして誇ったり、楽しんだりできるものではありません。しかしそこには、神様が私たちの救いのために行なって下さったたぐいまれな恵みのみ業が示されているのです。つまり、神の知恵とは、神様の恵みのみ業です。ですからそれを「神の秘められた計画」と言うこともできるのです。神様がなさる、神様のみ業なのですから、私たちがそれをつぶさに知り、理解し、自分のものにしてしまうことはできません。私たちはむしろ、その恵みのみ業を受けるのです。そしてその恵みのみ業によって生かされていくのです。それゆえに、神の知恵は私たちにとって役に立つ、良いものなのです。私たちのものにはならない、私たちが理解してしまうことのできない神の知恵が、しかし私たちを生かすのです。7節の後半に、神の知恵は、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」とあるのはそのことを言っていると言えるでしょう。私たちには理解できない、隠された、神秘としての神の知恵が、しかし私たちのために、私たちに栄光を与えるために、神様によって、世界の始まる前から、つまり私たちがそもそも存在するようになるよりも前から、定められていたのです。この神の知恵によってこの世界は創られ、私たちもこの神の知恵によって生かされ、今日まで導かれ、この神の知恵によって栄光を与えられるのです。私たちが知り尽くすことのできない神の知恵が、私たちを取り囲み、支えている、その神様の恵みが分かるようになり、その恵みを受け、それに支えられ生かされていくことこそが、神の知恵を知るということなのです。
神が知っていて下さる
私たちの信仰の大先輩である竹森満佐一牧師が、本日のところの「隠された神秘としての神の知恵」ということについて語られた説教の一部をここでご紹介したいと思います。われわれの信仰には、あまり神秘らしいものはないように見える、と語った後でこう言っておられるのです。
「それはまた、われわれの信仰の態度かもしれません。信仰のことも、何でも知りたがって、しかも、知ったつもりになっているのではないでしょうか。どんなことでも知ることができると思っているところがあるのではないかと思います。それは、神に対しても、同じことであります。神についても、どんなことでも知ることができると考え、神に対して畏れを持つということがないのではないかと思います。そのために、神について、何でも知ることの貧しさを知らないのではないかと思います。知ることに満足しているのは、自分を頼みとすることであります。知るべきでないことがあることを知っていないのではないでしょうか。自分は十分に知ることができない。しかし、神がすべてを知っておられる、ということの安心さ、その喜びを知らなくなってしまうのであります。信仰は、自分が知ることではありません。神が、一切を、知っていて下さることであります。人間の知恵には限りがあります。しかし、神の知恵は、永遠であり、絶対であります」。
「神について、何でも知ることの貧しさ」。これはとても含蓄の深い言葉です。神様について、自分が何でも知ろうとすればする程、私たちは貧しくなってしまうのです。恵みが分からなくなってしまうのです。自分の知識や知恵の範囲の中だけの、まことに貧しい神様しか見出すことができなくなってしまうのです。それに対して、「自分は十分に知ることができない。しかし、神がすべてを知っておられる」、ということにこそ、本当の豊かさが、安心が、喜びがあるのです。このことをわきまえ、この豊かさを、安心を、喜びを求めていくことが、人間の知恵とは違う神の知恵をわきまえ、それを求めて生きることなのです。
神の知恵はキリストの十字架に
神様が全てを知っていて下さる、そこに、神の知恵がある。それは、神様は何でもお見通しだ、ということではありません。神様は、私たちの全てを天から見下ろして、「ばかなことをしているなあ」とあきれたり、嘆いたりしておられる方ではないのです。神の知恵とはそういうことではなくて、先程も申しましたように、神様が私たちの救いのためにして下さった、たぐいまれな恵みのみ業です。それは具体的には、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって、私たちの罪を赦して下さったということです。つまり主イエス・キリストの十字架の死にこそ、神の知恵が表わされているのです。そのことが、8節に語られています。「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」。この世の支配者たちは、神の知恵を理解していなかったから栄光の主であるイエスを十字架につけた、ここに、神の知恵と主イエス・キリストの十字架との結びつきが語られています。しかしそれがどう結びついているのかは、そう簡単ではありません。私たちは普通ここを読むと、「この世の支配者たち」とは、ローマの総督ピラトを始めとする主イエスを十字架につけた権力者たちのことだと思います。彼らが、主イエスこそ神の知恵であることを理解しなかったために十字架につけてしまったのだ、と考えます。その場合には、主イエスこそ神の独り子、救い主であるという「主イエスの正体」を知ることが神の知恵を理解することだ、ということになります。ところが、この8節の「この世の支配者たち」の意味については、別の、興味深い解釈があるのです。それによれば、「この世の支配者たち」とは、この世を支配している人間を超えた力、神様に敵対する悪魔たちのことであるというのです。悪魔たちは、神様が、独り子イエス・キリストの十字架の死によって人間の罪を赦し、救いに入れようとしておられるという神の知恵を悟ることができませんでした。それゆえに彼らは、ピラトらを動かして、イエスを十字架につけさせたのです。ところが神様は、まさにそのことによって、彼らの支配、悪魔の支配を打ち砕き、私たちを彼らのもとから解放して下さったのです。キリストの十字架の死にこそ、罪人を救おうとする神の知恵がある、ということに気づかなかったことが、悪魔たちの不覚だった。もしそれを知っていたら、主イエスを十字架につけたりはしなかっただろう。いつまでも生かしておいて、天寿を全うさせただろう。そうなったら、神様の救いのご計画は潰え、私たちの罪の赦し、救いはなかった。だから栄光の主を十字架につけたのは、この世の支配者たちが、神の知恵を理解しなかったために犯した失敗だったのだ。そのようにこの箇所を読むこともできるのです。この読み方においては、神の知恵とは、主イエスこそ神の子、救い主であられる、という「主イエスの正体」を知ることではなくて、神様が、ご自身の独り子主イエスを十字架につけることによって、その苦しみと死によって、罪人を赦し、救いに入れようとしておられる、そのご計画です。この神様の秘められたご計画を、悪魔たちは全く理解できなかった。それは、そのような、自らを犠牲にして人を救う愛は、悪魔とは無縁なものだからです。悪魔には、愛は分からないのです。しかし神様は、何の罪もない独り子が、私たちの全ての罪を身に負って、身代わりとなって、この世で最も悲惨な、十字架の死刑を受けて下さることによって、私たちを救って下さいました。そこに、たぐいまれな、驚くべき神様の恵みの御業がある、それこそが神の知恵なのです。この解釈には反論もあって、それが定説になっているわけではありません。しかしこの解釈は、主イエスの十字架の上での死にこそ神の知恵が示され、実現している、ということを明確に示す、その意味で捨てがたい解釈だと思います。
神の知恵に生かされる
要するにパウロがここで語っている神の知恵は、私たちが考えたり、思い付くことのできる、そして自分のものとすることができる人間の知恵とは全く違うものなのです。9節が語っているのはそのことです。「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです」。「こう書いてあるとおりです」というのは、これが旧約聖書の引用である、ということですが、パウロが引用として語っている言葉は、そのままの形では旧約聖書の中に見当たりません。もとになっている箇所の一つは、本日共に読まれたイザヤ書64章の3節であると思われます。その他のいくつかの箇所が混ぜこぜにされて引用されているようです。語られていることは要するに、神様が、私たちを心から愛して下さって、これまで誰も聞いたことも考えたこともないような驚くべきことを、私たちの救いのために備えて下さったということです。それが、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いのみ業なのです。神様は私たちのために、驚くべき、とうてい考え得ないような恵みのみ業を行なって下さいました。それは私たちに栄光を与えるためだったと先程の7節にありました。その栄光とは、私たちが輝かしい力や権力を持つことではありません。そういうことは人間の知恵が求めていることです。この栄光は、主イエス・キリストが、十字架の苦しみと死を経て、復活によって今や私たちのために獲得して下さっているものです。私たちは、その主イエスの栄光にあずかり、それによって生かされる者となるのです。洗礼を受けるということは、主イエスの十字架の苦しみと死による罪の赦しの恵みにあずかり、また主イエスの復活の栄光にあずかる約束に生きる者となることです。その栄光は、今は隠されていますが、世の終わりに、主イエスがもう一度来て下さり、そのご支配が完成する時に、顕になるのです。神様は、世の始まる前から、このような秘められたご計画の中に私たちを置いて下さり、そのご計画によって、しかるべき時に私たちをこの世に生まれさせ、しかるべき時に主イエス・キリストを信じる信仰を与え、そしてしかるべき時に私たちの人生を終わらせられるのです。それが神の知恵です。私たちはその神の知恵を理解し尽くしてしまうことはできません。分かってしまい、自分のものにしてしまうことはできません。「私はこんな知恵を持っているんだ」と人に見せびらかして優越感にひたることはできません。しかしその神の知恵を示され、主イエス・キリストによって成し遂げられた神様の大いなる恵みのみ業の中で生きることはできるのです。自分は十分に知らないけれども、神様が全てを知っておられ、自分の救いのために生きて働いていて下さる、その恵みに身を委ねて生きることはできるのです。そこに、人間の知恵とは違う神の知恵をわきまえて生きる、本当に成熟した、大人としての歩みが与えられるのです。