主日礼拝

信仰は聞くことによる

「信仰は聞くことによる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第65章1-2節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第10章14-21節
・ 讃美歌:317(1-4)、58、317(5-7)

ユダヤ人たちの間違い
 本日はローマの信徒への手紙第10章14節以下をご一緒に読むのですが、ここは先週まで数回にわたって読んできた1-13節と密接に結びついています。そこからの流れをつかんでおかないとここに語られていることを理解することができないので、先週までのところを少し振り返ることから始めたいと思います。この部分は、9章の30節から始まっています。これまでに何度も申してきましたが、この手紙の9章から11章は、神に選ばれた民であるはずのユダヤ人たちが今、神がお遣わしになった救い主イエス・キリストを受け入れずに敵対しているという現実について、パウロが深い嘆きの中で、同胞である彼らの救いを祈り願いつつ語っているところです。パウロは9章29節までのところでは、ユダヤ人たちが今キリストに敵対しているのは、根本的には「神の自由な選び」によることであり、神ご自身のご計画がその背後にある、と語っています。けれどもそれは、ユダヤ人たちの側に責任がないということではありません。ユダヤ人たち自身が、やはり大きな間違いに陥っているのです。そのことを指摘しているのが9章30節以下の、今読んでいる部分です。ユダヤ人たちの間違いとは、9章32節の言葉で言えば「信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えた」ということであり、10章3節の言葉で言えば、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった」ということです。ユダヤ人たちは神に対して熱心であり、神が与えて下さった律法を熱心に守っていました。しかしその熱心は正しい認識に基づいていなかったのです。彼らは律法を守ることによって自分の義を、自分の正しさを立てようとして、そのために熱心だったのです。それに対してパウロは、律法の目標、目指すところはキリストである、キリストを信じて義とされることへと導くことこそ律法の目指しているところなのだ、と4節で語りました。そしてその裏付けとして、旧約聖書申命記30章12節以下を引用したのです。その引用の意味については先週の説教でも申しましたが、結論だけをまとめるならば、律法は、人間が自分の力で努力して、天に上っていくように自分を高めなければ到達できないようなものではない、それはむしろ恵みとして与えられている御言葉であって、神が私たちの近くに、私たちの口や心にそれを置いて下さっているのだ、ということです。つまり律法とは根本的には神の恵みの御言葉であり、その恵みのみ心は今や主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現しているのです。それゆえにキリストこそが律法の目標であり、キリストによって与えられている救いの恵みを受け入れて、それを心で信じ、口で公に言い表すことによって、私たちは救われるのです。9節に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がキリストを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」と語られているのはそのことです。そしてこの「イエスは主である」と口で公に言い表すというのは、即ち主イエス・キリストの御名を信じて呼び求め、そのみ名によって祈ることです。そのように主の名を呼び求める者はだれでも救われる、それが13節のヨエル書からの引用です。神の救いは、自分の義、自分の善い行いによる義を立てることによってではなくて、罪人である私たちのところに来て下さって救いのみ業を行って下さった主イエス・キリストを信じて、そのみ名を呼び求める信仰によってこそ与えられるのです。そこには人間的ないかなる資格も必要ではありません。どのような者でも、どんな罪人でも、主の名を呼び求める者は「だれでも」救われるのです。このことを理解しておらず、自分の義、自分の善い行いによって救いを得ようとしているところに、ユダヤ人たちの間違いがあるのです。

主の名を呼び求める
 本日の14節以下は、この13節を受けて語られています。主の名を呼び求めることによってこそ救われるなら、その「主の名を呼び求める」ことはどのようにして起るのか、そしてユダヤ人たちにはどうしてそれが起っていないのか、ということがここで見つめられているのです。パウロは14、15節でこう言っています。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」。13節の「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」を受けて、では「呼び求める」ことは何によって起るのか。それは「信じる」ことによってだ。ではその「信じる」ことは何によって起るか。それは「聞く」ことによってだ。ではその「聞く」ことは何によって起るか。それは「宣べ伝える人」がいるからだ。ではその「宣べ伝える人」はどうしているのか。それはその人が「遣わされた」からだ。「呼び求める」ことから遡ってこういう筋道が見つめられているのです。もう一度、今度はそれを源の方から下って来る順序で言い直すと、「遣わされたことによって宣べ伝える人が存在し、その人が宣べ伝えることによって聞くことが起り、聞いたことによって信じることが起り、信じたことによって呼び求めることが起る」ということです。この最後の「信じたことによって呼び求めることが起る」というのは、10節で「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と語られていたことです。キリストによる救いを心で信じた者は、口で「イエスは主である」と言い表すのです。つまり主イエスのみ名を呼び求める者となるのです。それが信仰を告白するということです。信仰の告白とは、自分の信仰的確信を述べることではなくて、主イエスの名を呼び求め、主イエスのみ名によって祈ることなのです。

神のみ業による信仰
 パウロがこのように「主の名を呼び求める」ことがどのようにして起るのかを語っているのは、一つには、「主の名を呼び求める」ことは人間の決意や意志によるのではなくて、神の恵みとして与えられることだ、ということを明らかにするためです。私たちが主イエス・キリストを信じてそのみ名を呼び求める者となるのは、自分の意志や努力によることではありません。「一念発起してイエス・キリストを信じよう」などということではないのです。8節における申命記の引用の言葉においても語られていたように、神が御言葉を私たちの近くに、私たちの口と心とに置いて下さることによってこそ、私たちは心で信じ、口で言い表すことができるのです。そのように主のみ名を呼び求める私たちの信仰は、神からの語りかけ、働きかけによってこそ生じ、与えられているのです。パウロはそのことをここで明らかにしようとしているのです。呼び求めることは信じることにより、信じることは聞くことにより、聞くことは宣べ伝える人の存在により、宣べ伝える人の存在は神が遣わして下さったことによる、つまり私たちが主の名を呼び求めていることを遡っていくとその源には、神が御言葉を私たちに語る者を遣わして下さったという恵みのみ業があるのです。私たちが心で信じて義とされ、口で言い表して救われることは、つまり私たちの信仰とそれによる救いは、私たちの決意や努力によって実現しているのではなくて、神の恵みのみ業によって始められ、与えられているのです。

信仰は聞くことによる
 このように、私たちの信仰の源には、神がみ言葉を宣べ伝える人を遣わして下さるという恵みのみ業がある、パウロがここで語っていることの一つはそのことです。しかしそれと同時に彼はここでもう一つのことを見つめています。それは16節に語られていることです。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています」。ここに語られているのは、宣べ伝える人を神が遣わして下さり、福音つまり神の恵みの言葉、救いの知らせが告げられても、全ての人がそれを信じて従ったわけではない、つまり、神のみ言葉が語られても信仰が起らず、呼び求めることも起らないという場合がある、ということです。いや、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」というイザヤ書53章1節の言葉が引用されているように、語られたみ言葉を信じる人の方がむしろ少ない、殆どいないぐらいで、大部分の人々はみ言葉を信じることなく、従って主の名を呼び求めてもいない、そういう現実が見つめられているのです。そしてこれが、パウロが直面している同胞ユダヤ人たちの姿です。ユダヤ人たちは、神に選ばれた民であったはずなのに、今その大部分の者たちが主イエス・キリストを信じようとせず、そのみ名を呼び求めていないのです。神がみ子イエス・キリストを遣わして下さり、主イエスによってみ言葉を宣べ伝えて下さったのに、信じて呼び求めることが起っていないのです。それは何故なのでしょうか。そのことをパウロは17節でこう語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。パウロがここで語っているのは、「聞く」ということが信仰において決定的に大事だということです。神が使者を遣わしてみ言葉を宣べ伝えて下さる、それは神の恵みのみ業です。しかし人間がそのみ言葉を信じて主の名を呼び求める者となるためには、「聞く」ということがなければならないのです。ユダヤ人たちが、彼らの中に主イエスが来てみ言葉を宣べ伝えて下さったのに、信じることなく、呼び求めていないのは、彼らが「聞く」ことができなかったからなのです。
 このことは私たちへの問いかけです。信仰の源には、神からの語りかけ、働きかけがあります。信仰は私たちが造り出すものではなくて、神の恵みのみ業から始まるのです。しかし私たちにも、そこでしなければならないことがあります。それは、善い行いをして自分の義、自分の正しさを立てることではなくて、神からの語りかけ、み言葉を聞くことです。み言葉を聞くことがなければ、そのことが疎かにされてしまうなら、私たちの中に信じることは起らず、主の名を呼び求めることも起らず、従って救いが起らないのです。ですから私たちは、信仰において「聞く」ことを何よりも大切にしなければなりません。「実に、信仰は聞くことによる」のです。

信仰の本質としての「聞く」こと
 「信仰は聞くことによる」ということを私たちは当然のことと思っているかもしれません。信仰のこと、聖書のこと、神のことは、最初から知っているわけではないのであって、教えてもらわなければ分からない、だから聞くことがどうしても必要だ、というのは誰もが思っていることです。しかしパウロがここで語っているのはそういうことではありません。「教えてもらわなければ分からない、だから聞くことが必要だ」ということならば、それを裏返して言えば、「分かってしまったらもう聞かなくてもよい」ということになります。つまり「分からないから聞く」のであれば、「聞く」ことは信仰において手段でしかないのです。信仰の目的は神のこと、救いのことが「分かる」ようになることで、「分かってしまったのでもう聞かなくてもよくなる」ことを目指す、ということになるのです。勿論そのように完全に分かってしまうことはあり得ませんから、実際にはずっと聞き続けることになるでしょうが、そこにおいて「聞く」ことは「分かっていない」こと、つまり信仰が未熟であることの印となるのです。本当は聞かないですむ者となれればよいのだが、まだ未熟だから、仕方なく聞き続けている、ということです。しかしパウロが言っている「信仰は聞くことによる」とはそういうことではありません。聞くことは信仰の手段ではなくて、むしろ信仰の本質に属することなのです。神が使者を遣わして宣べ伝えて下さるみ言葉を、私たちが聞いて、その聞いたみ言葉を信じて、主のみ名を呼び求めていく、それが私たちの信仰の根本的な構造です。従って、信仰において聞くことが無くなることはあり得ないのです。信仰が成長するとは、だんだん分かっていってあまり聞かなくてもよくなることではなくて、よりしっかりと聞くようになることです。信仰が成長すればする程、私たちはよりしっかりと、より深く、神の言葉を聞くようになるのです。私たちはこのことをしっかり弁えていなければなりません。み言葉を聞くことは常に信仰の源です。聞くことを失った信仰は、地下水が涌き出すことのなくなった井戸のようなもので、その水はすぐに澱み、腐っていくのです。私たちは、信仰の歩みの中で、「聞くこと」を失ってしまうことがあります。聞かなくてももう分かっていると思ってしまったり、聞くよりも自分の考えを語ることを求めたり、自分の思いや感覚に合うことだけを選んで聞いてしまったり、それらのことによって私たちの信仰から「聞く」ことが失われるのです。その時、信仰は澱み、腐っていくのです。

キリストの言葉を聞く
 「信仰は聞くことによる」というのはこのように信仰の本質に関わる重大なことです。それでは、私たちはいったい何を聞くのでしょうか。17節は「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と語っています。「始まるのです」という言葉は原文にはありません。ここは直訳すると「信仰は聞くことにより、聞くことはキリストの言葉による」となります。信仰において聞くべきなのは「キリストの言葉」です。これを「キリストが語られた言葉」と狭く捉える必要はないでしょう。むしろ、主イエス・キリストによる救いを語る言葉の全体が「キリストの言葉」と言われているのです。つまりそれは16節にあった「福音」のことであり、8節の「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉」、これも「キリストの言葉」を意味していると言えるでしょう。パウロが、そして教会が宣べ伝えている、イエス・キリストによる罪の赦しを告げる言葉、キリストを信じる信仰によって与えられる神の義、神の恵みによる救いを宣べ伝える言葉、それが「キリストの言葉」です。それが「キリストについての言葉」ではなく「キリストの言葉」と言われるのは、教会がこの言葉を宣べ伝えていくことによって、主イエス・キリストご自身がそこに働いて下さり、み言葉を語りかけて下さり、救いのみ業を行って下さるからです。神が遣わして下さった人が宣べ伝える言葉を聞くことによって私たちは、生きておられる主イエス・キリストご自身と出会い、主イエスの言葉を聞き、主イエスとの交わりに生きるのです。だから、信仰において「聞く」ことが決定的に大事なのです。

ユダヤ人への神の語りかけ、働きかけ
 ユダヤ人たちには、神からのそのような語りかけはなかったのでしょうか。彼らはみ言葉を聞いたことがなかったのでしょうか。そんなことはない、というのが18節以下です。「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです」。そしてパウロはいくつかの旧約聖書の言葉を引用しています。18節後半は詩編19編5節です。神の言葉は世界の果てにまで響き渡っているのだから、ユダヤ人たちは言い訳をすることはできない、彼らがちゃんと聞いていないことが問題なのだ、ということです。19節には今度は「それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか」という問いかけがなされています。そして引用されているのは申命記32章21節です。そこを読んでみます。「彼らは神ならぬものをもってわたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもってわたしの怒りを燃えたたせた。それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって彼らのねたみを引き起こし、愚かな国をもって彼らの怒りを燃えたたせる」。ここは、イスラエルの人々つまりユダヤ人が主なる神を捨てて偶像を拝んだことに対する神の怒りを語っているところです。「神ならぬものをもってわたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもってわたしの怒りを燃えたたせた」とは、彼らが偶像を拝んだことによって神のねたみ、怒りを引き起こしたことを言っています。それで神は「民ならぬ者をもって彼らのねたみを引き起こし、愚かな国をもって彼らの怒りを燃えたたせる」のです。「民ならぬ者」とは神の民ならぬ異邦人のことです。神はご自分の民であるイスラエルにではなく異邦人に恵みを与えることによってイスラエルにねたみを起こさせ、もう一度ご自分のもとに立ち帰らせようとしておられるのです。ここには、バビロン捕囚という苦しみの出来事の意味が語られています。イスラエルの民が主を捨てて偶像の神々を拝んだので、主はお怒りになり、異邦人であるバビロニアによって国を滅ぼさせ、民をバビロンに捕え移されたのです。それは、イスラエルの人々をもう一度主のもとに立ち帰らせるためでした、そのことをユダヤ人たちは過去のバビロン捕囚において体験したのです。今起っているのはこれと同じことだ、とパウロは言っています。神の民であるユダヤ人たちが主イエス・キリストによる救いから落ちており、異邦人たちにそれが与えられているのは、神がユダヤ人たちにねたみを起こさせてもう一度ご自分のもとへと立ち帰らせようとしておられるのです。申命記によってバビロン捕囚における主のみ心を知らされているユダヤ人たちはこのことが分かるはずだ、とパウロは言っているのです。
 そしてこれを受けてさらに20、21節で引用されているのは、本日共に読まれたイザヤ書65章1、2節です。そこももう一度読んでおきます。「わたしに尋ねようとしない者にもわたしは、尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも、見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」。この箇所が語っているのは、神がご自分に反抗しているイスラエルの民に対しても常に語りかけ、み手を差し伸べておられる、ということです。異邦人によってユダヤ人たちにねたみを起させ、立ち帰らせようとしている神は、ご自分の民であるユダヤ人たちを捨ててしまったのではなくて、いつも彼らに語りかけ、働きかけ、交わりの手を差し伸べておられるのです。

神の憐れみと慈しみによって
 パウロはこれらの引用によって、神がみ言葉を語って下さっているのにそれをちゃんと聞こうとしていないユダヤ人たちの間違いを指摘すると同時に、神がそのように反逆し、み言葉を聞こうとしない民に対しても常に語りかけ、み手を差し伸べておられる、その神の憐れみと慈しみをも語っています。「信仰は聞くことによる」ということが、ここでの中心的なメッセージです。私たちがキリストを信じてそのみ名を呼び求める者となり、救われるのは、キリストの言葉を聞くことによってです。み言葉をしっかりと聞くことこそが信仰の命であり、聞くことを失った信仰は信仰ではなくなってしまうのです。しかしそれは、神はご自分の言葉をしっかり聞く者だけを救って下さり、聞こうとしない者は滅ぼされる、ということではありません。み言葉を聞こうとしない、神に聞き従うよりも自分の思いや考えを先に立て、それに合うことしか聞こうとしない、そんな私たちに対して神は常にみ言葉を語りかけ、み手を差し伸べ、私たちをご自分のもとへ立ち帰らせようとしておられるのです。私たちがみ言葉に耳を開いて、しっかり聞く者となることを待っておられるのです。主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったのは、み言葉を聞こうとしない私たちの罪の赦しのためであり、その私たちがみ言葉を聞く者へと変えられ、それによって信じる者となり、主の名を呼び求める者となるためだったのです。主イエス・キリストの十字架において示されたこの神の恵み、憐れみ、慈しみの中でこそ私たちは、「キリストの言葉を聞く」者とされます。そしてこの後あずかる聖餐においてそのみ言葉を、キリストご自身を体全体で味わいながら、主のみ名を呼び求めつつ生きていくのです。

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