主日礼拝

神の召しによって

「神の召しによって」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨエル書 第3章1-5節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章26-30節
・ 讃美歌:235、202、463

アドベントに入る
 本日からアドベント、待降節に入ります。主イエス・キリストの誕生を喜び祝うクリスマスに備えていく時です。アドベントの期間は、12月25日、クリスマスの日の四回前の主の日から始まります。多くの年は、アドベントの第四主日にクリスマス礼拝が行われ、その後に24日の讃美夕礼拝が行われますが、今年は12月25日が主の日で、その日にクリスマス礼拝が行われますので、それ以前に四回のアドベントの礼拝を守ることになります。讃美夕礼拝の翌日にクリスマス礼拝がある、という特別な年です。今年は四回のアドベントの主の日の礼拝においてどの聖書個所を読もうかといろいろ考えましたが、本日までは、今続けておりますローマの信徒への手紙の連続講解とし、来週からアドベントを意識した箇所とすることにしました。11月13日に、ローマの信徒への手紙の第8章26?30節から二回目の説教をしました。本日は同じ箇所からの三回目の説教となります。この三回目をもって、この箇所を終わりますので、それを終わらせた上で、アドベントに関する箇所に進みたい、ということです。

神の救いのご計画
 前回の二回目においては、この箇所の28節に集中してみ言葉に聞きました。その28節をもう一度読んでみます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。このまことに力強い、慰めに満ちたみ言葉を前回味わったわけですが、その時申しましたようにここでパウロが「万事が益となる」と語っているのは、全てのことが自分の願い通りになる、ということではありません。彼は、神の私たちに対する救いのご計画が実現する、ということを見つめ、語っているのです。全てのことが私たちの思い通りになるのではなくて、神の思いが、神の救いのご計画が実現するのです。それこそが私たちにとって最大の益なのです。神の救いのご計画とはどのようなものなのでしょうか。それが次の29、30節に語られています。本日はこの29、30節を中心にこの箇所を読みたいと思います。29、30節をもう一度読みます。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」。ここに、私たちのための神の救いのご計画がどのように展開し、完成していくのかが順序立てて語られているのです。その順序を先ず見てみますと、「前もって知る」、つまり「予知」、これが神の救いのご計画の最初にあります。次に「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」とあります。「あらかじめ定める」つまり「予定」です。そして30節に入ると、その「あらかじめ定められた者たちを召し出し」とあります。神が召し出して下さる、それを、「召す」という字と「命」という字を合わせて「召命」と言います。それから「召し出した者たちを義とし」とあります。これは神が義として下さること、義と認めて下さることという意味で「義認」と言われます。そして最後が「義とされた者たちに栄光をお与えになった」、これを、栄光あるものと化する、という意味で「栄化」と言います。これらを順番に並べてみますと、「予知、予定、召命、義認、栄化」となります。これが、私たちのための神の救いのご計画の順序なのです。このご計画がどんな妨げがあっても必ず実現する、それが「万事が益となるように共に働く」ということです。私たちの人生には様々な苦しみ、悲しみ、不幸があるが、それらの全てを通して、神の救いのご計画はこのような順序で着実に進み、完成していくのだ、とパウロは語っているのです。

前もって知る=予知
 そのご計画をさらに詳しく見ていきます。先ず神が私たちを前もって知っておられるということです。「前もって」とは一つには、私たちが神を知り、信じるより前から、ということです。神と私たちの関わりは私たちが神を意識し、信じるようになったことによって始まるのではありません。私たちがまだ神を知らず、求めもせず、信仰とは関係なく生きていた時から、神は私たちを知っておられたのです。私たちの救いは、私たちが神を信じる決断をすることから始まるのではなくて、神が私たちを知って下さっていたことにおいて既に始まっていたのです。しかし「前もって」が意味しているのはそれだけではありません。エフェソの信徒への手紙の1章4節にこのようにあります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。ここには、神が天地創造の前から私たちを知って下さっていたことが語られています。「前もって」はこういう意味でもあるのです。つまりそれは私たちが意識するより前から、どころか、私たちがそもそも生まれる前から、いや、この世界全体が造られる前から、神が私たち一人一人を知っていて下さったということなのです。それは、今読んだところにあったように、私たちを愛し、選んで下さっていたということです。神が私たちを愛し、選んで下さったゆえに、私たちは命を与えられ、この世に生まれてきたのです。私たちは人生における様々なつらいこと、苦しいことの中で、自分がこの世に生きていることに意味が見出せない、生きていても仕方がない、早く死んでしまった方がいいのではないか、などと思ってしまうことがあります。しかし私たちが命を与えられ、生きているのは、神が私たちを知っていて下さり、愛していて下さり、選んで下さっているからなのです。だから、私たちがどのように感じていても、私たちの命は、この人生は、価値のあるものであり、生きる意味があるのです。人生は、自分で意味を見出し、価値あるものにできて初めて意味や価値があるものとなるのではありません。私たちが自分の人生に意味や価値を見出す前に、神が、愛と選びによって私たちの人生を生きる意味と価値のあるものとして下さっているのです。神が私たちを前もって知っておられるとはそういう恵みなのです。

あらかじめ定める=予定
 この「前もって知る」に続くのは「あらかじめ定める」「予定」です。神による予定というと、私たちの人生の歩みは全て神によって決められてしまっていて、自分で何を努力しても無駄だ、どうせ神の予定の通りにしかならないのだ、という教えだと思ってしまうかもしれません。しかしここで語られている「神の予定」はそういうことでは全くありません。この予定とは神の救いのご計画におけることです。神による予定というのは、私たちの人生のレールが既に敷かれていてその上を歩むことしかできないということではなくて、私たちを救いにあずからせて下さることを神がしっかりとご計画の内に定めて下さっている、ということです。「御子の姿に似たものとしようとあらかじめ定められた」と言われていることからそれが分かります。神が予定して下さっているのは、私たちが「御子の姿に似たものとされる」ことなのです。そこへと向かう神の救いのご計画の中に私たちは既に置かれているのです。

御子と同じ形になる
 御子の姿に似たものとされる、とはどういうことでしょうか。「似た者」と訳されていますが原文は「同じ形」という言葉です。御子イエス・キリストと同じ形にされるのです。自分が御子キリストと同じ形になるなどということはいくら頑張ってもあり得ない、と私たちは思います。しかしこれは私たちが努力してそうなるという話ではなくて、神がそうして下さるのです。それが神のご計画なのです。神が私たちを御子と同じ形にして下さるとはどういうことなのでしょうか。そのことが実はこの第8章で既に語られてきたのです。11節にこうありました。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。ここに、私たちが御子キリストと同じ形とされることが語られていました。それは、キリストを復活させた神の霊によって私たちも復活の体を与えられることです。また17節にはこのように語られていました。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。ここには、私たちがキリストと共に神の相続人となり、キリストが神の独り子として受け継ぐ栄光を私たちも共に受け継ぐ者となると語られています。このように、御子の姿に似たものとされるとは、私たちも主イエスの復活にあずかって新しい命を与えられ、主イエスの神の子としての栄光にあずかる者となるということなのです。一言で言えば、私たちも主イエスと同じ神の子とされるということです。神は私たちが、独り子主イエスと同じ神の子とされるという救いのご計画をあらかじめ定めて下さったのです。そのご計画は、この世の終わりに、私たちにも主イエスと同じ復活と永遠の命が与えられることにおいて実現します。この世の人生において私たちはそのご計画の実現を、つまり神の子とされることを待ち望んでいるのです。そのことが23節では、「被造物だけでなく〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と言い表されていました。神の子とされるとは「体の贖われること」です。この世を生きている私たちのこの死ぬべき体が、主イエスの復活の体と同じ形に変えられて、永遠の命を生きる者とされるのです。神はそういう救いの完成へと私たちをあらかじめ定めて下さっているのです。

神の家族とされる
 そして神のこのご計画は、「御子が多くの兄弟の中で長子となられるため」だと言われています。元々神の子であられるのは、独り子である主イエスのみです。私たちは元々は神に造られた被造物である人間であり、しかも神に背き逆らっている罪人、神の敵です。その私たちが、神の恵みによって選ばれ、御子イエス・キリストを信じる信仰へと導かれ、キリストに結び合わされる洗礼によって教会に加えられ、神の子とされる約束を与えられたのです。私たちはそのように、キリストによる救いにあずかることによって神の子とされ、主イエスの兄弟姉妹、父なる神の家族に加えられたのです。この家族においては、主イエスが長子、一番上の兄です。私たちは主イエスの弟、妹とされているのです。信仰によって私たちは、主イエスを長子とする多くの兄弟姉妹を与えられ、父なる神のもとでの家族とされるのです。この家族は、散り散りバラバラになってしまうことのない、永遠に失われることのない、また全世界に広がりを持つ家族です。その家族の交わりの場が教会です。教会において私たちはお互いを「兄弟姉妹」と呼びますがそれは、神が私たちを主イエス・キリストによって神の子として下さり、主イエスの弟、妹として下さっているからです。それによって、元々は何のつながりもなかった私たちが、兄弟姉妹、一つの家族とされているのです。

召し出す=召命
 このことが私たちの人生において具体的な現実となるのは、30節の「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し」ということにおいてです。私たちは神によって召し出されて、信仰を与えられ、教会に連なる者とされているのです。私たちがこうして礼拝に集っているのは、神に召し出されているからです。私たちは勿論自分の意志で今日も礼拝に来たわけですが、私たちにそういう意志を与えて下さったのは神なのです。先程の「前もって知る」において、私たちが神を知る前に神が私たちを知っていて下さったのだと申しましたのと同じように、私たちが教会に行こうと思うより前に、神が私たちを召し出して下さっていたのです。28節にも、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たち」と語られていました。信仰者とは、神を愛する者です。しかし信仰者が神を愛することができるのは、神が救いのご計画によって彼らを召して下さっているからなのです。私たちが教会の礼拝に通うようになった経緯はそれぞれに全く違っています。しかし神は私たちそれぞれを、それぞれの人生の然るべき時に、然るべき仕方で召し出し、教会へと導いて下さっているのです。そのようにして、神の救いのご計画が私たちの人生において具体化しているのです。

義とする=義認
 次に、「召し出した者たちを義とし」とあります。「義とする」とは、罪を赦し、神の前に正しい者として立たせて下さるということです。このことなしに私たちは神の子となることはできません。神に背き、自分を神として生きている生まれつきの私たちは、そのままでは神の子となれないし、神の家族の交わりに生きることはできないのです。そういう私たちの罪を赦して神の子とするために、神は独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さいました。私たちが正しい者、罪を犯さない者となることによって義となるのではなくて、神の独り子が人間となって下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪が赦され、義とされて神の子とされる、それが神の救いのご計画だったのです。主イエス・キリストがこの神のご計画によって人となって下さったことを喜び祝う時がクリスマスです。そしてクリスマスにお生まれになった主イエスは、私たち罪人を義とするために十字架の死への道を歩み通して下さったのです。私たちはこの主イエスによる救いへと召し出されました。召し出された私たちが義とされるとは、主イエスの十字架の死によって神が与えて下さる罪の赦しをいただくことです。私たちは主イエスによって義とされ、罪を赦され、もはや罪に定められることのない者とされるのです。8章1節に「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められることはありません」と語られていたのはそのことです。神に召し出されて義とされた私たちはもはや罪に定められることのない者とされたのです。

栄光を与える=栄化
 神の救いのご計画の最後に、「義とされた者たちに栄光をお与えになった」とあります。主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しにあずかり、義とされた信仰者は、主イエスの復活による栄光にもあずかるのです。主イエスは復活と昇天とによって、本来の、神の子としての栄光をお受けになりました。主イエスが今、天において全能の父なる神の右に坐しておられるという使徒信条の告白は、その主イエスの栄光を語っているのです。神はその救いのご計画において、私たちにも、この主イエスの神の子としての栄光を与えて下さるのです。それは私たちも主イエスの復活にあずかり、永遠の命を生きる新しい、朽ちることのない体を与えられるということです。この救いは、主イエスが天からもう一度来られる時、使徒信条が「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と語っているキリストの再臨の時に実現します。18節に「将来わたしたちに現されるはずの栄光」と言われていたのはこれです。神の救いのご計画は私たちに主イエスと同じ神の子としての栄光を与えることを最終的な目的としているのです。
 そのご計画の中で、私たちを「義とする」ことまではもう実現しています。「予知、予定、召命、義認、栄化」の「義認」までは既に実現しているのです。後は最後の「栄化」、栄光を与えて下さることが残っているのみです。私たちは、神の救いのご計画の最後の実現、神の子としての栄光を与えられることを待ち望みつつ、そこに希望を置いて、現在のこの世の人生における様々な苦しみと、忍耐しつつ戦っていくのです。

「アッバ、父よ」と祈ることができる
 神の子としての栄光を与えられることは、このように将来への約束、希望です。しかし30節は「義とされた者たちに栄光をお与えになった」と、それが既に与えられたものであるかのように語っています。このように語ることによってパウロは、私たちに与えられている栄光の約束が確実なものであることを示そうとしているのです。神の子としての栄光は、まだ与えられてはいない、約束に過ぎないものです。しかしそれは不確かな、実現するかどうか分からない約束ではありません。神の救いのご計画は、この世の何事によっても妨げられたり挫折したりはせずに必ず実現します。それが28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」という確信です。この確信のゆえにパウロは、まだ実現していない神の子としての栄光を、既に与えられたものであるかのように語ることができたのです。私たちも同じ信仰に生きることができます。私たちのこの体は、神の子としての栄光を帯びてはいません。この体は次第に衰えていき、いつか死を迎えます。私たちの思いや言葉や行いも、主イエスと同じ神の子である、などとはとても言えない、罪と弱さの中にあり、問題に満ちたものです。だから私たちはこの世の歩みにおいて、神の子としての栄光を与えられている、などとはとうてい言えません。しかしキリストを信じて生きる信仰者には、神の子としての栄光に既にあずかっていると言うことができることが一つだけあるのです。それは15節に語られていたことです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。神に「アッバ、父よ」と呼びかけて祈ることができる、このことこそ、私たちが神の子としての栄光を既に与えられていることの唯一の印です。どのような苦しみ悲しみの中にあっても、「アッバ、父よ」と祈ることができることこそ、神の救いのご計画の中に置かれている信仰者の幸いです。その祈りの中でこそ私たちは、「万事が益となるように共に働く」ことを信じて歩むことができるのです。
主の再臨を待ち望むアドベント
 私たちに「アッバ、父よ」という祈りを与えて下さるのは、私たちの内に宿って下さる神の霊、聖霊です。先程の15節には「神の子とする霊」と言われていました。聖霊は、今私たちの内に宿り、私たちを、この世の人生において神の子として生かして下さるのです。そして、終わりの日に神の子としての栄光を与えられ、永遠の命を生きる者とされる希望を確かにして下さるのです。この聖霊が、私たちの日々の歩みの中に神の救いのご計画を具体化していって下さるのです。本日は、共に読まれる旧約聖書の言葉として、ヨエル書第3章を選びました。神が終わりの時に神の霊を全ての人に注いで下さることを預言している箇所です。この預言は、弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したあのペンテコステの日に実現しました。ペンテコステに聖霊が降り、教会が誕生したことによって、私たちを神の子として下さる神の救いのご計画は今や最終的な完成の段階に入っているのです。その救いの完成は、先ほども申しましたように、主イエス・キリストがもう一度来られる世の終わりに与えられます。アドベントは、主イエスが最初にこの世に来られたことを祝うクリスマスに備える時であると同時に、主イエスの再臨を待ち望む信仰を養われる時でもあります。私たちは、聖霊に助けられて神に「父よ」と呼びかけて祈ることによって、主イエスがもう一度来て下さり、私たちに神の子としての栄光を与えて下さることを信じて待ち望みつつ人生を歩むことができるのです。

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