主日礼拝

神の平和

「神の平和」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第85編9-14節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第4章4-9節
・ 讃美歌:3、11、512

平和はどこに
「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
「平和の神はあなたがたと共におられます。」  

本日の聖書箇所には「平和」という言葉が繰り返されます。
今、わたしたちは「平和」という言葉に、とても敏感になっているのではないでしょうか。
 まず一つ思うのは、国家間の「平和」です。今、国際関係は緊迫しています。今まで以上に、危機感を感じます。実際に、世界の各地では、今も戦争やテロがあり、多くの人が傷ついています。そしてそれは今や、遠い場所だけの話ではなく、自分たちだって、いつ巻き込まれるか分からない。そんな恐れと不安を感じます。
 また一方で、もっと身近な生活においても、わたしたちは「平和」ということを求めています。家族の中でも、友人関係の中でも、職場でも、学校でも、わたしたちの人間関係の中に争いが起こることは多くあります。傷つけられたり、傷つけてしまったり、分裂が起こり、和解できない。心の安らぐところがない。
 わたしたちが「平和」を求めなければならないのは、反対にわたしたちが、争いや、不安や、分裂の中にいるということでしょう。

 パウロは、フィリピの教会の人々に、「神の平和がある」と語ります。神の平和があなたがたを守るのだと。平和の神が、共におられるのだと語ります。
 でも、わたしたちは思わず、「本当に?」と問いかけたくなるかも知れません。
 神がすべてを支配しておられる。平和の神が共におられる。そう教えられているのに、わたしたちの世界には戦いが溢れているではないですか。わたしたちは家族の間でさえも、平和を得られないではないですか。そのように言いたくなるのです。
 この世にあって、パウロが言っている「神の平和」とは、一体どこにあるのでしょうか。

 しかし、わたしたちは、パウロが当時置かれていた状況を、今一度思い起こしてみましょう。パウロはこの「フィリピの信徒への手紙」を、牢獄の中から書いています。キリストの福音を宣べ伝えているがために、迫害に遭い、暴力を受け、自由を奪われています。わたしたちが思い描く「平和」とは程遠いところに、このパウロもいるのです。フィリピの教会も、反対者にあったり、内部で分裂したり、混乱や問題を抱えています。
 しかしパウロは、そこに、キリストによる「神の平和」を確信しています。わたしたちの目に見える現実を超えて、そこに確かにある神の平和を、しっかりと見つめているのです。

神の国、神の平和  
 聖書で「神の平和」と言われる時、その「平和」という言葉は、わたしたちがすぐに思い浮かぶ、単に戦争が無いことや、世が安泰であること、人生に波風が立たないことを指しているのではありません。  
 この平和は、神との関係において与えられる平和です。ヘブライ語で言うなら「シャローム」、平安とも訳される言葉です。まずわたしたちが求めるべきは、神との間の平和、神との和解です。  

 わたしたち人間は、造り主である神を忘れ、神の御声を聞こうとせず、自分の思いに従って生きてしまいます。罪の虜になっているのです。そうしてそれぞれが自分の思いや、自分の従いたいものに従って歩む時、人はぶつかり、互いに一致することが出来ず、分裂や争いが起きていきます。そうして悪の誘惑に流され、神からますます離れて、本来あるべき神との関係を破壊し、滅びへと向かっていくのです。  

 神の平和を語るパウロも、かつては神に逆らう者でした。パウロはキリスト教の迫害者でした。自分の正しさを信じ、主イエス・キリストを信じる者を迫害し、傷つけ、死に追いやりました。しかも、それは神が喜ばれることだと思っていたのです。しかし、それは神の御心に逆らうものであり、神に対して大きな罪を犯すことでした。人はそれほどに、罪に捕らわれているのです。  

 しかし神は、それでもパウロを、そして、罪を犯したわたしたちすべての人間を、愛して下さり、憐れんで下さり、御自分と和解させようとご計画なさいました。
 そのために、御自分の独り子イエス・キリストを、世に遣わして下さったのです。和解と言っても、罪を犯したわたしたちが、神に何かを差し出したり、償ったりすることは出来ません。わたしたちが神に対して犯した罪は、自分の命を差し出しても足りないくらい、あまりに大きすぎるのです。
 ですからその罪を、神の御子主イエスが、低くへりくだってわたしたちと同じ人となって下さり、すべて引き受けて下さいました。わたしたちの罪を代わりに負って、十字架で死んで下さったのです。  

 そして神は、御子を死人の中から復活させられました。今、復活の主イエス・キリストは天にあげられ、天と地を支配する全権を担っておられます。
 神はそのようにして、わたしたちの罪を赦して下さり、復活の主イエスの新しい命を与えて下さり、終わりの日にわたしたちも復活することを約束して下さったのです。
 このように、一方的に、神の御業によって、神の御子の犠牲によって、神はわたしたちに和解を得させて下さいました。
 神の平和は、そのように神から、ただただ与えられるものであり、またすべてを支配しておられるキリストのもとにあります。

 このように、神に赦され、神と共に生きる者となることは、投獄や、数多くの苦難や、命の危機においてさえも、パウロを支え、守り、世に何ものによっても奪われることのない、希望を与えるのです。神のもとには、まことの平和があるのです。
 ですからパウロは、キリストに一つに結ばれた群れであるフィリピの教会の人々に、困難の中にあったとしても、この「神の平和」が確かにある、と言うことができます。
 そして今、同じ神に召し集められた群れである、このわたしたちのもとにも、神の平和はあるのです。

パウロに倣うこと  
 ですからパウロは、9節で「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」。そうすれば、平和の神はあなたがたと共にいるのだと言います。  
 パウロがフィリピの人々に教え、与えたこととは、この神との和解を告げ知らせる、キリストの福音です。そしてパウロについて聞いたこと、見たこととは、パウロが罪赦され、キリストによって立たされ、生かされ、喜んでいる姿です。迫害者であったパウロが、キリストの伝道者となって命をかけている姿です。  
 これは、決して、パウロのように命をかけて伝道しろとか、辛い中でも喜ばなければならない、ということではありません。  
 見つめるべきことは、牢獄に捕らわれ、苦難の中にある状況でも、命の危機に瀕していても、パウロに希望と喜びを与え続ける福音であり、迫害者パウロを伝道者パウロに変えた、パウロをまったく新しく造り変えた、主イエス・キリストというお方を見るということなのです。  
 この福音に生きるならば、キリストのご支配に自分を委ねるならば、平和の神はあなたがたと共におられる。神の平和が、いつもあなたたちをキリストによって守って下さる、ということなのです。

具体的な生活の中で  
 しかし、そのように、一人のキリスト者が、キリストによって神との和解を与えられ、神の平和に生きている。この世にあって、神のご支配を見つめている。それが神の平和だと言うのなら、それは、信じている者だけのことで、実際に争いが絶えないこの世とは、直接は関係のないことなのでしょうか。また、わたしたちの周囲の人間関係や生活の中での平和とは、結び付かないのでしょうか。

 そうではありません。
 神の国、神のご支配は、主イエスが再び来られる日まで、まだ隠されています。しかし、それはキリストによって確かに到来しています。信仰によって目を開かれ、神のご支配を見つめる者は、神のご支配の中に生きる者として、神の国の市民として、今のこの時代、この世の中を、実際に生活し、生きるのです。そうして、神を知らない人々や世界と、福音との接点となることが出来ます。神の平和を証しする者とされるのです。

 キリストを信じ、神のご支配を見つめて生きるということ、神の平和の中を歩まされているということは、「人生の考え方」や、「哲学、思想」などではありません。神と共に生きることは、わたしたちの人生、命そのものです。目覚めて、活動して、夜眠る、その具体的な日々の生活を、神の平和の中で生きるということです。

 信仰を持つ生活とは、浮世離れしたようなことではなく、わたしたちの普段の生活のことです。特別に聖人君主のような生活であるとか、ストイックで厳格な毎日とか、そのようなものを求められているのではありません。

 今日の聖書箇所の8節で、パウロがフィリピの人々に、主と共に生きる中で、勧めている生き方について見てみましょう。
 「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や、称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」

 ここに並べられていることは、わたしたちが今読むと「やっぱり聖人君主じゃないか」と思うかも知れませんが、これを聞いた当時のフィリピの人々が思ったことは、おそらく「当たり前のことだな」ということです。
 ここに書かれていることは、一説には、彼らが住んでいるギリシャ・ローマ世界の中で、当時の人々が生活において一般的に守るべきもの、常識的に求めるべきものとして挙げられていたものだと言われています。つまり、キリスト者でない人も、誰でもこの社会で生きる上で、求められることであり、当たり前に目指すべきこととして言われていたことなのです。

 このことの背景には、当時のフィリピの教会の中に、自分はもう救いを完全に得ているから、世俗的なことからは解放されている、だから道徳的なことも、倫理的なことも、もう関係ない、別に守らなくていいんだと、誤った考えを持った人があったようなのです。
 しかし、信仰があるから、神との平和がもう自分に与えられているから、世のことや生活に無関心になって良いのではありません。むしろ、この当たり前のことを、神の恵みを根拠として、心に留めていきなさいと、パウロは勧めているのです。

 もしキリスト者がこれらのことを、本当にしっかりと心に留めていくならば、それらは単なる常識的な善い行いには留まらないでしょう。
 普通なら、「すべて真実なこと」という言葉は、単に「嘘ではない」とか、「本当である」ということを意味しますが、キリスト者が「真実」を語ろうとするならば、そこには主イエス・キリストというお方の真実を抜きに語ることは出来ないでしょう。
 一つ一つの項目が、主イエスに基づいて考えられる時、真実も、気高さも、正しさも、清さも、愛も、名誉も、徳も、称賛も、すべてキリストの十字架において心に留めていく時、誰にとっても当然とされている善い行いも、それは決して人のためではなくて、神の栄光のためになされる業となるのです。
 そうなるならば、まったく神を知らない人々と共に、普段の生活をする中でも、キリスト者として、すべてのことを心に留めつつ生活していくならば、そこに神の栄光を輝かせる、キリストの香りを放っていく、そのような日常の生活が営まれていくのではないでしょうか。

 このことは当然、このような徳目を守る善い生活をするからキリスト者なのだ、ということにはなりません。
 キリスト者だからこそ、キリストに生かされ、キリストに結ばれ、喜びと感謝を与えられているからこそ、日々の生活において、当たり前とされる行ないの中でも、まことの信仰の善い実を結んでいくことが出来るのだ、ということです。
 ですから、これらの心に留めるべきことは、9節でパウロが言っているように、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」、つまり、キリストの福音に生き、キリストと共に歩んでいく、ということを前提として、しっかりと結び付いているのです。  

 「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」とパウロは言います。また、平和の神が共におられるからこそ、わたしたちはそのように出来る、と言うことが出来るでしょう。  
 このように、福音によって生かされるキリスト者の具体的な日々の歩みが、信仰がもたらす喜びと感謝の善い実りが、神の平和を世において証しし、指し示していくのです。

平和の使者  
 神の国は、まだ世において隠されています。世にはまだ、罪と悪が力を持ち、我が物顔で振る舞っているように見えます。  
 しかし、わたしたちは、信仰の目で、まことの神のご支配を見つめます。十字架によって罪を赦して下さり、復活して死に打ち勝ち、天ですべてを支配しておられるキリストが、聖霊によって、いつも共にいて下さるということを知っています。
 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と、主が言って下さったことを聞いています。
 わたしたちの苦しみも、悲しみも、嘆きもすべてご存知であり、わたしたちが最も圧倒される死にさえも勝利された方が、わたしたちのすぐ近くにおられます。
 わたしたちは、その方と共に生き、その方を証しするように、召されているのです。     

 キリスト者たちは、教会は、「み国を来たらせたまえ」と祈ります。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。神のご支配が、この地上に、すべての者に、はっきりと示されるように。神の御心が、この地上になるようにと祈るのです。  
 この世に争いが全く無くなるのは、終わりの日が来なければ実現しないかも知れません。しかし、それはわたしたちが諦めたり、祈りをやめることではありません。
 神の御心を携えて、わたしたちは、まだ神を知らない世に遣わされているのです。神の御心とは、すべての者がこのキリストによる神の平和にあずかること。救いにあずかり、神に立ち帰って、神と共に生きる者となることです。
 この神の平和にあずからなければ、わたしたちは互いの和解も、争いをやめることも、表面的なことに留まってしまうでしょう。神は御自分の平和へと招いておられます。神は、争いの中、罪の中にあるわたしたちを、傍観しておられるのではありません。わたしたちが神のことを問う時、わたしたちはいつでも、キリストの十字架に、神の御心を求めなければなりません。神は既に、御自分の愛する御子を、わたしたちのために与えて下さったのです。  

 この世に対する、神のそのような愛と憐れみの御心を知りながら、自分がその愛を受けながら、わたしたちがこの世や他の人々に無関心でいるということは出来ないでしょう。  
 「キリストによって、神と和解させていただきなさい。神の平和にあずかりなさい。」
 罪に捕らわれ、死を恐れ、悪に支配されている人々に、この福音を、告げずにおれるでしょうか。神は皆が悔い改めるようにと、忍耐しておられるのです。

 ところが一方で、わたしたちにとって、福音を大胆に告げ知らせることに、困難が伴うのも事実です。まったく一方的に与えられる、この神の恵み、キリストの十字架と復活による救いは、世の常識では考えられないことだからです。
 そこには疑いがあり、反発があり、無視があります。そこに迫害も起こり、キリストを宣べ伝えるゆえの苦しみ悩みも起こってくるのです。人の思いや想像を遥かに超える神の福音を宣べ伝えることは、少なからず、困難を伴い、勇気がいることです。わたしたちはそのために賜物を祈り求めなければなりません。賜物が与えられ、そのことが出来るならば、それはとても幸いなことです。

 しかし直接福音を語ることだけが伝道ではありません。
 今日の8~9節で述べられていたように、キリスト者が世の日々の生活の中で、当たり前の毎日の中で、信仰に基づいた善い実を結ぶということ。神の御心を携えて、一つ一つを心に留め、神の真実を持ってそこにいるということ。祈りをもって、その場所にいるということ。それが、とても大切なことです。  
 家庭に一人、学校に一人、職場に一人、町に一人、国に一人でも、キリストを信じている者が遣わされているということは、素晴らしいことです。そこにはキリストが、平和の神が、共におられるからです。
 その人は、執り成し手として、そこにいる人々のために祈るように、仕えるように、平和の使いとして、神に派遣されているのです。わたしたちはこの礼拝で受けた祝福を、そして神の御心を、それぞれの遣わされた生活の中に、家に、学校に、職場に、社会に、持ち運んでいくことが出来るのです。  

 わたしたちが、この世に神の平和を実現させるのではありません。わたしたちが神の国を地上に引き下ろすのではありません。わたしたちが、周りの人々を変えることが出来るのではありません。
 しかし、キリストの救いに与ったわたしたち自身は、キリストによって新しくされ、変えられました。罪と死に捕らわれ、悪と親しみ、分裂を好む、そのようなわたしは、十字架の主イエスと共に死にました。神は、キリストを信じる者を、新しく造り変えて下さいました。神がこのことを成して下さいます。神が救いを完成させて下さいます。神にはそれがお出来になるのです。ですからわたしたちは、自分の思いではなく、望みではなく、神の御心がなるように祈り、そして仕えるのです。
 わたしたちのために、ご自身がへりくだって下さった、このキリストの御前で、わたしたちも互いにへりくだった者となり、主にあって思いを一つにして、御言葉を聞き、共に主に仕えましょう。一人に神の平和が与えられるために、そして、この世に神の平和が実現するために、福音を告げ、祈る務めが与えられています。そして、福音に生かされる、日々の生活で感謝と喜びの実りが与えられるように、主を証しすることが出来るように、日々の生活の一つ一つを主にあって心に留めたいと思います。
 平和の神が、わたしたちと共におられます。

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