主日礼拝

兄弟、協力者、戦友

「兄弟、協力者、戦友」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第133編1-3節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章25-30節
・ 讃美歌:145、534、90

<喜びに生きるとは>  
 パウロという伝道者は、キリストの福音を伝えているために迫害に遭い、牢獄に捕えられました。その獄中から、フィリピという地にある教会の人々に宛てて書かれた手紙が、このフィリピの信徒への手紙です。   
 この手紙は、「喜びの手紙」と呼ばれることがあります。それは、単に嬉しいとか、良い気分だとか、普段感じる喜びではなくて、キリストのためにパウロが血を流すことになっても、死ぬことになっても喜ぶ、というような、自分の苦しみや死ということさえも乗り越えていく、大きな喜びを語っています。それは、キリストにある喜びです。パウロの喜びは、自分をも救った、キリストの福音、十字架と復活の救いの知らせが、宣べ伝えられていくこと、福音が前進することです。そして、このキリストにあって、キリストに救われた者として、教会の人々が互いにへりくだって思いを一つにして、キリストに従っていくことです。キリストについて、喜びについて、パウロはこの手紙の1章から丁寧に語ってきました。      

 しかし、2:19から突然、テモテと、エパフロディトという二人の人物を教会に送ります、という具体的な用件を書いた内容になっているのです。うっかり、他の箇所よりも軽く読んでしまいそうなところです。しかしこれは、パウロの信仰や、喜びについて語っていることが、理想や頭でっかちな理論なのではなくて、日常の歩みの中に具体的に結びついている様子を知ることが出来るものです。本当に信仰に生き、喜ぶとはどういうことかを知ることが出来るのです。   
 先月は2:19~24までの、テモテを教会に遣わそうと思っている、というところを共にお読みしました。今回は、その続きにある、エパフロディトをフィリピの教会に帰そうと思っている、というところから、信仰生活の歩み、教会が共にキリストを喜んで生きる、ということがどういうことかを、聞いてまいりましょう。   

<エパフロディト>   
 さて、エパフロディトのことを、パウロは「わたしの兄弟、協力者、戦友」と呼んでいます。以前の口語訳聖書では、「わたしの同労者で戦友である兄弟」と書かれていました。「協力者」より「同労者」の方が、よく状況を現していると思います。兄弟は、共に同じキリストを信じ、同じ父なる神の子とされた、神の家族である兄弟。同労者は、キリストの福音のために同じ労を担う者。そして戦友は、キリストの福音のために共に命をかけて戦っている者、ということです。パウロのエパフロディトへの信頼と、また彼の働きをとても重んじていることが伝わる言い方です。   
 しかし、この時パウロはわざわざ教会宛の手紙に彼のことを書いて、急いで帰してやらなければならないと考えていました。25節には「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています」、28節には「大急ぎで彼を送ります」と書かれています。そのようにしなければならない、特別な事情があったのです。   
 その前に、まず状況を知っておく必要があります。      

 フィリピの教会は、パウロに度々贈り物を届け、その伝道活動を助けていました。それは4:15以下にも詳しく出てきます。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」   
 そして、パウロが牢獄に入れられた時も、フィリピの教会は彼を助けるために贈り物を届けていました。その使いに選ばれたのがエパフロディトだったのです。パウロは4:18で「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」と書いています。今日の箇所でも2:25で「あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」とあります。牢獄では十分な食料や必要なものが提供されないので、このように援助者が物を持って来て助けるということはよくなされたことのようです。そして、フィリピ教会からの使者に選ばれたエパフロディトは、贈り物を届けるだけではなく、パウロのもとに留まって、身の回りの世話もしていたようなのです。

<責める気持ち>   
 ところが、このエパフロディトが、パウロの許にいる時に瀕死の重病にかかってしまいました。パウロを助けるどころか、むしろ厄介になり、看病されなければならない状態になったのです。しかし、彼は生死をさまようような重病から何とか回復しました。   
 そして、エパフロディトは26節に「しきりにあなたがた一同と会いたがって」いるとあるように、教会の人々を恋しく思っていました。旅先で死にかけ、心細くなり、仲間や家族と会いたいと思う気持ちは当然のことです。しかしそれと同時に「自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っている」、とあります。つまり、エパフロディトは自分の病を知られたくないとも思っていたのです。   
 ところが、フィリピの教会の人たちに、パウロのもとにいるエパフロディトが瀕死の重病になったということが伝わり、また向こうからも、すでに教会の人たちに病気のことは知られているよ、という情報が返ってきたのだと思われます。   

 エパフロディト自身は、キリストの福音のために、パウロを助けるという教会から託された使命に大きな責任を感じていたでしょう。精一杯務めたいと思っていたはずです。しかし、病によってその務めを十分に果たすことが出来なかった。むしろ迷惑をかけ、お荷物になってしまった。せっかく自分を選んで送り出してくれた教会の人々の期待にも十分応えられなかった。計画を頓挫させてしまった、失敗してしまったと言ってもいいのです。瀕死になり、心細くなって、フィリピの教会に帰りたいという切実な思いを持ったと共に、教会に対する申し訳なさ、情けなさもあり、彼が感じていた心苦しさは大変なものだったでしょう。      

 また、フィリピの教会の人々も、最初は心から心配したに違いありません。   
 しかし同時に、おそらく、批判や非難があったことも考えられるのです。それは、パウロが大急ぎで彼をフィリピの教会に帰さねばならないと考えたことや、手紙でわざわざ配慮をして、教会の人々に「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい」と言わなければならなかったことからも分かります。   
 パウロを助けるために、せっかく贈り物を用意して、エパフロディトを送ったのに、自分が助けられて厄介になるなんて、元も子もないじゃないか。病気は仕方ないけれど、残念な結果になってしまったなぁと、責めるような、咎めるような気持ちが起こってきたのかも知れません。手紙で配慮を必要とするほどに、パウロは手放しでエパフロディトに「教会の人は誰もあなたを責めないから、このまま帰りなさい」とは言えない状況だったということです。      

 そうだとすると、教会なのに、何だか冷たいなと思います。しかし、このような冷たい思いは、わたしたちの間でも、すぐ簡単に生じてくるのではないでしょうか。特に自分も協力したり、献げものをしたり、関わったりしたことであれば尚更です。誰かのせいで計画が狂ってしまった。予定通りにいかなかった。自分には落ち度はないけれど、あの人の失敗のせいで、あの人の弱さのせいで、あの人が足りなかったから、上手くいかなかった。無駄になってしまった。   
 そのように、問題が起こったり、何か失敗したり、自分の思い通りにいかないと、わたしたちの中には、すぐに人を批判する気持ちや、人を裁いてしまう思いが生まれてきてしまうのです。

<神の憐れみの中で>  
 しかし、パウロは、今回のことをどのように受け止めていたでしょうか。   
 パウロはすべての出来事を、「神の憐れみ」の中で受け止めました。27節にあるように、「神は彼を憐れんでくださった。彼だけでなく、わたしをも憐れんで」くださったのだと、言います。これは、悲しみに悲しみを重ねずに済んだ、とあるように、エパフロディトが死ぬかもしれない病から癒された。まさにそこに神のみ業が現れ、憐れみを見ることが出来た、ということもあるでしょう。しかし、パウロはその病の癒しのことだけを「神の憐み」と言っているのではないと思うのです。  

 これは、エパフロディトの病も、奉仕も、働きも、彼のすべての上に神の憐れみがあった、ということです。もっと言うならば、エパフロディトの人生、命そのものが、神の憐れみによって支えられているということです。  
 このエパフロディト一人の救いのためにも、キリストは神の御子でありながら、御自分を無にして人となり、低く低くへりくだり、十字架の死に至るまで、従順になられたのでした。このキリストの十字架と復活によって罪を赦され、支えられているエパフロディトの命です。これだけ、神が愛され、憐れんでおられるエパフロディトです。  

 こうしてキリストの救いを信じたエパフロディトは、キリストの福音の前進のために仕えようとして働きました。この彼の神の恵みへの応答を、病になったからと言って、失敗したからと言って、神が、批判したり、咎めたりなさるでしょうか。人の目には失敗に映っても、神の目にはそのように映っていません。   

 30節でパウロがエパフロディトの働きについて述べていることは、神ご自身がどのようにエパフロディトの働きを見て下さっているか、ということでしょう。それは、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭った」ということです。   
 死にかけても、そうでなかったとしても、とにかく彼はまず「キリストの業に命をかけ」たのです。彼は自分の命を、すべてを神のために、キリストの業のために献げ、奉仕していたのです。彼が神に仕えようとしなければ、選ばれてパウロのところに来ることもなかったし、病になって死にかけることもなかったでしょう。しかし、彼はキリストに自分を献げた。命をかけた。そこで病になってしまったけれど、そのような彼の献身があったからこそ、この時、神はこの病さえも、ご自分の憐れみを示すものとしてお用いになりました。      

 わたしたちは、キリストの業に仕えようとする時でも、つい目の前にあらわれる結果に心を捕らわれてしまいます。計画を立て、実行して、成功だったり、失敗だったり、そのことを気にしますし、また自分に責任を感じたり、人を責めたりします。でも、大切なことは、出来た、出来なかった、ということではありません。また、役に立つ、立たないではありません。   
 大切なのは、キリストの業、つまり神がなさって下さるみ業に、わたしたちは命をかけて、全身で仕えているか、ということです。救っていただいた自分のすべてを、感謝して献げ、受けた神の恵みに応えようとしているか、ということです。神は憐れみによってわたしたちを救い、生かして下さった方です。またいつも、どんな時も憐れんで下さり、どのような失敗をしても、弱っても、上手くいかなくても、心からキリストの御業に仕えようとする、そのことを喜んで下さる方なのです。   
 そこには多く働くことが出来る人もいますし、少しの力しか与えられていない人もいます。それこそ病や、弱って直接的な働きが出来ない人もいるかも知れない。   
 しかし、福音を前進させ、救いの業を成し遂げるのは、わたしたちではありません。これは神ご自身がなさる、キリストの業であり、完成させて下さるのも神ご自身です。しかし、神はそのみ業に、わたしたちを召されます。救いにあずかった者を共に働かせて下さり、そのことを通して、ますます大きな喜びを、恵みを、わたしたちに与えようとしておられるのです。キリストのみ業に心から仕え、自分を献げていく時、神はそのことを喜んで下さり、弱さも、失敗も、成功も、それぞれに与えられた仕方で、神の憐れみを現すものとして下さるのです。   

<自分も憐れまれた者として>  
 さて、パウロが、このようにエパフロディトのことを、批判したり、文句を言ったりせず、神の憐れみの中にある者として受け止めることが出来るのは、なぜでしょうか。   
 それは、パウロ自身も、神に憐れまれた者だからです。27節では、神は、「彼だけでなく、わたしをも憐れんでくださった」と言っています。エパフロディトともに、神はパウロをも憐れんでくださった。パウロ自身も神の憐れみを必要している者なのです。  

 これまでのパウロの歩みも、神の憐れみなくしては出来ないことばかりだったでしょう。パウロは、元々キリストを迫害していた者であり、神に逆らい、滅びに至るような罪人でした。しかし、神はパウロを憐れみ、救い出して下さいました。キリストの十字架の死によって、パウロの罪を赦して下さいました。キリストの復活の命にあずからせ、永遠の命と、復活の約束を与えて下さいました。パウロは復活の主イエスに出会って、キリストのために生き、キリストのために死ぬ者に変えられたのです。   
 パウロの伝道の働きにおいて、人の目で見れば、失敗もしくじりもあったでしょう。しかし、神はパウロを憐れんで下さり、パウロに消えることのない永遠の喜びを与えて下さっている。そして神ご自身が福音を前進させて下さっている。パウロはその恵みにお応えして、キリストに仕え、キリストのために命をかける者とされているのです。     

 そのように、同じキリストに生かされている者として、同じ神の憐れみを受けた者として、共に神の恵みに応えようとする者として、パウロはエパフロディトを、「兄弟、協力者、戦友」と呼ぶのです。それは働いてなしたことの結果の大きさや、業績の立派さはまったく関係ありません。ただ、共に神の憐れみを受けた者として、自分も、人も見るのです。神が彼を、そして自分を、憐れんで下さり、批判したり、裁いたり、咎めたりしておられないのに、人がどうして、他人の失敗や弱さをあげつらって、批判したり裁いたり出来るでしょうか。  
 そのように神の憐みの中でエパフロディトを見たならば、むしろ彼は、失敗した人、弱い人というどころか、神に生かされる恵みを受け、憐れみを受け、そしてキリストの業に命をかけた、「敬うべき人である」ということが見えてくるのです。  

 この、計画の失敗やマイナスの結果になってしまったかのような出来事は、却ってこのエパフロディトへの神の憐み、恵みを明らかにし、フィリピの教会の喜びを増し加えるものとされます。このようなキリストの業に命をかける、「敬うべき人」が自分たちの兄弟の中にいるということ。そして何より、エパフロディトをそのように憐れんで下さる神が共におられるということ。その恵みと喜びを、彼を通して教会全体で分かち合うことが出来るのです。  

 ですからパウロはフィリピの教会の人々に、彼のことを「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。」と言います。口語訳聖書では、「こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えて欲しい」と訳されていました。こちらの方がもとのギリシャ語に忠実かも知れません。   
 大いに喜んで、主にあって彼を迎えて欲しい。これは単なる再開の喜びに留まりません。「主にあって」与えられる喜びです。主が、エパフロディトを憐れみ、喜んでおられるのだから、教会の人々も喜んで、彼を受け入れて、敬って欲しい。また、フィリピの教会の人々一人一人が、自分も神の憐みを受けた者として、神の憐れみに生かされている彼を迎えて欲しい、ということです。

<わたしたちも神の憐れみの中で>   
 そしてこれらのことは、わたしたちの教会においても同じです。わたしたちは、自分のことも、人のことも、神の憐みのまなざしの中で、互いに見つめることが出来ます。自分が、主にあって、受け入れられているから、主にあって、人を受け入れることも出来るのです。そして、神の前で互いにへりくだり、謙遜になることが出来ます。   
 共に神に憐れまれた者として、キリストの十字架によって救われた者として、共に心からキリストの業に仕えるなら、誰も誇ることはありませんし、そこで生じる目先の結果や、起こった問題に対して、自分を責めたり、人を裁いたりすることもありません。もし誰かが失敗してしまっても、重荷を負いきれなくなっても、誰もそのことを咎めたり、裁いたりすることは出来ません。自分自身も、赦されながら歩んでいるし、今自分自身が負いきれない重荷も、他の兄弟の誰かが担ってくれているのです。   
 そして、わたしたちは神のもとで、隣人を受け入れ、祈り合い、重荷を分かち合うのです。キリストにあって、苦しみや困難を分かち合うところには、恵みと喜びの分かち合いも起こります。そうして、主にあって共に喜ぶキリストの教会が造り上げられていくのです。そうして、福音は前進していくのです。      

 これらすべての根底には、わたしたちの罪を、弱さを、すべてご自分が負って下さり、赦して下さった、十字架のキリストがおられます。復活し、死に打ち勝ち、すべての支配者となられた、キリストがおられます。キリストが支えて下さり、負って下さり、導いて下さっています。わたしたちは、神の憐れみのもとで、共に生きているのです。   
 この方にあって、皆が思いを一つにして、真心を込めて全力で仕えるなら、どんなに困難な時も、苦しみがある時も、弱さにあっても、教会にはいつも主にある喜びが生まれるのです。

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