「良い種は御国の子ら」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第13章34―43節
・ 讃美歌 : 401、53
隠されていること
本日はマタイによる福音書第13章34節から43節の御言葉に聞きたいと思います。マタイによる福音書第13章というのは主イエスのたとえ話が集められている箇所です。 マタイによる福音書というのは、同じ性質をもった事件や同じ題材、テーマや同じ種類の主イエスの言葉を一箇所に集めて書いております。主イエスの教えを集めて書き、また主イエスの奇跡を並べて書いておりました。同じように13章は主イエスの「譬え」を並べて記しております。 本日の箇所の小見出しには34節からの「たとえを用いて語る」と36節から「毒麦のたとえの説明」とあります。主イエスは「毒麦のたとえ」は少し前の24~30節で話しております。「毒麦のたとえ」とその説明とが少し離れており、その間には「からし種」と「パン種」のたとえという別の話しが挿入されています。そして、本日の箇所では主イエスが群衆たちにたとえを用いて話された理由が記されております。 34、35節には、主イエスが譬えを用いて話された理由を「預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」と記しております。そして、「わたしは口を開いて たとえを用い、 天地創造の時から隠されていたことを告げる。」とあります。普通、譬え話しを用いるというのは話を分かりやすく、理解するためであると思います。しかし、ここでは譬えで語るのは、難しいことを分かりやすく説明するためではありません。譬え話自体が、事柄を明らかにする働きと隠す働きを同時にしています。天の国のことがそのようなたとえ話によって語られるのは、天の国自体が、隠されたものだからです。それは説明されれば誰でもわかるものではないし、証拠をあげて証明してみせることができるものでもありません。隠されているものを、隠されているものとして語るしかないのです。本日のところの34節以下に語られているのはそういうことでしょう。「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる』」。「天地創造の時から隠されていたこと」とは天の国、神様のご支配です。
弟子と群衆の区別
主イエスは34節以下にあるように「たとえを用いて群衆に語られ」ました。そして群衆と別れた後に主イエスの弟子たちは主イエスのそばに寄って来て「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言いました。主イエスは弟子たちの求めに応じてお答えになりました。たとえそのものは群衆に対して語られましたが、本日の箇所でのたとえの説明は弟子たちに対してなされています。ここで、群衆と弟子たちの区別がなされています。そして、たとえと説明との間に挿入された部分には、その弟子と群衆の区別が語られています。普通、たとえ話というのは話を分かりやすくするためのものですが、主イエスのたとえ話は、わかりやすくするための話ではありません。しかし、弟子たちは主イエスの譬えの説明を受け、理解していきます。弟子たちは主イエスに招かれ、従っていく者となり、主イエスと共に歩み、その御言葉を側近くで聞いていく者たちです。
両方が存在する
毒麦のたとえをもう一度見てみたいと思います。24節から30節にあります。27節までお読みします。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』」(24-27節)この後の主イエス御自身の解説によりますと、37節では。「良い種を蒔く者は人の子」とあります。この「人の子」というのは、「イエス・キリストの」のことです。更に38節では「畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。」とあります。そうしますと、この譬えはこのように見ることができます。「イエス・キリストはこの世界の中で御国の子らを呼び集められました。しかし、キリストのもとに集まって来た者たちの中には、気がついてみると、悪い者が混じっている」ということです。このような状況を見て、弟子たちは驚きます。戸惑います。弟子たちはどうして、このようなことが起こったのか、その理由を主イエスに尋ねます。27節をもう一度お読みします。「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』」(27節)僕たちが不思議に思ったのも無理はありません。理解出来なかったのは無理もありません。蒔いたのは良い種であったのに、どうして蒔きもしない毒麦が一緒に生えるのかということです。両方が一緒に芽を出しましたのです。
この世の現実
そのような事態に対して主人は答えます。28節の前半には『敵の仕業だ』と言っております。「敵」とは逆らう者、他人のしたことを台無しにしてしまおうとする者のことです。主イエスが神の国の福音を宣べ伝え、人々を神の国に招かれると、それに応えて「神の国の子ら」となる者が現れると同時に、神の国の到来に逆らう者がまた現れるのです。神の国の到来に逆らう、「悪い者の子ら」(38節)です。良い麦が蒔かれたのに、毒麦が生えている。神が働かれているのに、それに逆らう者が立ちはだかる。それは不可解なことではなないでしょうか。このような問題は、直接的にはこの地上の教会の現実に関わっていますが、広く考えますと、神様が造られたこの良い世界の中に、どうして「悪」が存在するのか、「罪」が蔓延しているのか、ということにもなります。人間がものを考えるようになったその時から、人間が悩んできた問題と根本は同じであります。神様が造られた世界、この良い世界に悪や罪、死があるのはどうしてか、なぜなのかということです。悪や罪、死は一体どこから来たのか、その正体は何であるのかという問題であります。良い種から芽生えた麦の中に、毒麦が生えているのは、本日の箇所の譬えによりますと「敵の仕業」なのです。しかも、この敵は25節の「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。」のです。それですから、人々はこの麦がどこから、どのようにして生えて来たのか知りません。「敵」は人々が眠っている間に、麦の中に毒麦を蒔いて行ったのです。 良い麦が蒔かれた畑の中に毒麦が存在するということです。それは不可解なことではありますが、厳然とした事実なのです。世界の現実を言い表しています。神の造られた良い世界に悪が存在する。否定することのできない事実なのです。神の良い世界の中にある悪の存在は、実に謎めいています。今この世界には、良い麦と毒麦が共存しているということです。両方とも同じように生え育っています。必ずしも御国の子らは繁栄し栄えていくが、悪い者の子らは没落し衰えていく、ということではありません。むしろ悪い者、つまずきとなるものや不法を行う者の方が富み栄えていくような事実も多々あります。教会においても同じです。教会も、この世の一部であり、そこには良い麦と毒麦が混在しています。神様の裁きに信頼して、委ねているということです。この説明は、弟子たちにのみ与えられたのです。弟子たちのみが、主イエスのこの説明を聞くことができたのです。弟子たち、それは主イエスを信じ、従う者です。そして、そのような者たちは、たとえ話に隠されている天の国の秘密を知らされるのです。
悪の存在
しかし、この譬えのこれまでのところからでも、1つのことだけは確かです。それは「毒麦」に現されている悪や罪や死は、本質的に「空しいもの」であるということです。毒麦は主人によって蒔かれたものではありません。神様は悪の存在を望んでおられたことではありません。悪や罪は神が意思されたのではないもの、神が望まれなかったもの、神が意思されなかったものです。神の意思に逆らって存在しているものです。ある説教者はこの「悪の存在」についてこのように言います。悪の存在とは「今、ここにある『ある』けれども「ある」ことの根拠を持っていないもの、存在する根拠を欠いているもの、それどころか、存在の根拠が否定されているもの、存在の根拠が奪われているものが存在している。」と言っております。そのように深い意味において、悪や罪の存在は不可解なものです。不条理です。その不条理なものが事実として存在しているのです。存在の根拠が既に奪われているものは、いずれ何時かは存在することはなくなります。しかし、現実には、この世界には悪が存在し、罪の力が猛威をふるっている。良い麦と毒麦が共に生え育っているこの畑は、まさにこの世そのものなのです。そしてこの状態は、世の終わりまで続くのです。
僕たちの言動
しかし、このことを見抜くことができなかった「僕たち」は平静さを失いました。不条理はあるべきではない。敵の仕業は粉砕しなければならない。僕たちはそのように考えて主人に言いました。28節です。僕たちが、「では、行って抜き集めておきましょうか」と言いました。僕たちは不条理、不可解な者の存在を力づくで解決しょうとします。主人は悪の秘密、全てを御存知です。僕たちは焦りを覚え、性急な、しかし同時に善意に満ちた思いから、主人に提案をしました。しかし、主人は叱ることはしません。主人は不条理、悪の存在を前にして少しも動揺せず、平然と答えます。主人は蒔くことをしなかった毒麦が混ざっているのは「敵の仕業」であることを知っています。先ほども申しましたが「敵」とは、逆らう者、人のしたことを無駄にしてしまうとする者です。毒麦を植えた者は、神の御業に逆らう者です。存在の根拠を持たないままで、事実この世に存在する悪や罪は神様の御心と御業に逆らって存在します。悪や罪そして死の力は私たちを攻撃します。私たちを痛めつけます。そのことを通して神様の御心に逆らっているのです。このようにして、悪、罪は私たちだけではなく神様を攻撃するのです。神様を悲しませるのです。悪や罪はその存在が不条理に満ちているだけではなく、その行為も不条理に神に向けられています。ですから神様はご自身のこととして、悪や罪の力に立ち向かわれます。神様が立ち向かって下さっているのですから、私たちは悪や罪の力を恐れる必要はありません。
主イエスの十字架によって
この悪や罪や死に対する「神の立ち向かい」は悪や罪が蔓延しているこの地上、この歴史の中ではイエス・キリストにおいてなされました。イエス・キリストが、イエス・キリストの十字架が悪や罪に対する「神の立ち向かい」の現実です。悪や罪が不条理な現実ですから、それに立ち向かわれる神様の御業も一見すると不条理な様相を呈してします。神様は、主イエス・キリストにおいて悪と罪との攻撃に御自身の身を現しました。主イエス・キリストの十字架によって悪と罪の力を取り除かれました。主イエス・キリストは御自身の死によって死を滅ぼされました。悪に撃たれることによって悪を滅ぼされました。罪の呪いを御自身の身に受けられることによって、罪に打ち勝たられました。この神の勝利は十字架の陰に覆われています。信仰だけが、神のこの勝利を見て取り、悪と罪の敗北を看て取ります。したがって、それは未だ誰の目にも明らかなに分かるようには起こっていません。しかし、キリストの十字架において、悪と罪の敗北は既に起こっているのです。
神の勝利
譬えの中に出てくる主人は、良い麦の中に混ざっているのは「敵の仕業」と言って、次のように言います。29節から30節です。主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」39節の主イエスの説明によりますと「刈り入れは世の終わりのこと」であります。 この世の終わりの神様による裁きのことです。裁きとは、良い麦と毒麦をはっきりと区別することです。世の終わりには毒麦は集められて「火で焼かれる」のです。世の終わりには御国の子らと悪い者の子らを分るのです。救われる者と滅びる者とが神様によって分けられます。41節から42節の前半には「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。」とあります。毒麦は最後の審判のときに、火で焼かれるのです。悪や罪や死はその存在を完全に否定されるのです。奪い取られるのです。神様は、最後には悪魔の業の痕跡も残さず、焼き捨てるのです。そのように、たとえ今、この世界に悪の力が猛威をふるい、神様に従おうとする者をも圧倒しているように見えるとしても、この世界を御支配なさるのは神様であり、最終的には神の勝利の力があるのです。
神の国の子の成長
それに対して、キリストが蒔かれた種、麦は「神の国の子ら」は神が蒔かれたのです。ですから、必ず成長するのです。いかなる妨げが「敵」によって企てられ、実際に行なわれても、必ず成長する。そして、神の国がやってくるのです。そして、その時には、すべての不条理は終わりを告げます。神の国が到来するときには、神に逆らう者、逆らう力、はもはや存在することは出来ません。神の国が来るときには、ももはや死も涙もなくなってしまうのです。既に存在の根拠を奪われている力は、すべて何人にも明らかなようにその存在を失うのです。それが毒麦の行方です。罪の結果です。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の中でこのように言いました。6章7、8節です。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」「神の国の子ら」は成長をします。やがて、神の国が確実に到来する。その時に、一切の毒麦は焼き払われます。神の約束に対する堅い、強い信頼が、この譬えの中の「僕たち」の毒麦は毒麦だから、「では、行って抜き集めておきましょうか」(28節)という性急さ、焦りからキリストを解放します。主イエスという主人は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と忍耐されました。主イエス・キリストの忍耐であり、寛容であります。主イエスはそのような忍耐と寛容を与えます。ここで示される毒麦に対するキリストの平静さ忍耐と寛容は、ただこのような神の約束への信頼、信仰から生まれます。
神の御手に委ねて
僕たちはこれまで、何度も畑で麦の収穫を経験してきました。麦も毒麦も最初のうちはどちらがどちらかわからないくらい良く似ているけれども、自分たちの経験から、成長し成熟した麦と毒麦の見分けくらいはできると考えたいたのでしょう。人間の限られた知識と経験に頼って、万が一にも毒麦を抜いてしまうこと、「神の国の子ら」が一人でも失われることがあってはなりません。毒麦の根は麦も根よりも強いこともあります。更に麦と毒麦の根は絡み合っているかもしれません。もしそうであれば、毒麦と一緒に麦を抜いてしまうことだってあるかもしれません。しかし、そのようなことは決してあってはなりません。時に先立ち、早まって、人間の限られた知識と経験に頼って裁いてはなりません。裁くことは神の御手に委ねられております。天に変わって不義を撃つような思い上がりはやめて、裁くことは人の思いをはるかに超えた神の御手に委ねるのです。時が良くても、悪くても畑に「良い種を蒔かれた」神様です。「神の国の子ら」を今日まで育てられ守られております。そして守って下さる神様の御業を証しするのです。