2026年2月1日
説教題「神が結び合わせたもの」 牧師 藤掛順一
創世記 第2章18~24節
マタイによる福音書 第19章1~12節
ユダヤへの旅立ち
主日礼拝においてマタイによる福音書を読み進めて来て、本日から第19章に入ります。その冒頭の1節に、「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」とあります。主イエスのこれまでの活動の場は主にガリラヤでした。ガリラヤの湖周辺のこの地は、ユダヤからはサマリアを挟んだ飛び地であり、ユダヤ人たちにとっては辺境の地でした。19章に入って、主イエスはそのガリラヤを去り「ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方」に行かれたのです。この言い方は地理的には正確ではありませんが、語られているのは、ガリラヤから、すぐ南のサマリアを迂回してヨルダン川の東側を通ってユダヤ地方へと南下して行ったということです。その目的地はエルサレムです。この後21章で主イエスはエルサレムに入り、その週のうちに捕えられて十字架につけられ、殺されるのです。その十字架の死へと向かう直接の歩みが19章からいよいよ始まったのです。
離縁についての問い
その主イエスのもとに、ファリサイ派の人々がやってきて質問をした、と3節以下に語られています。彼らは、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と問いました。これは主イエスを試そうとしての、つまり悪意ある質問だと3節にありますが、この問いにはどのような悪意が込められているのでしょうか。それを理解するためには先ず、当時の結婚制度は男性、夫が圧倒的に優位なものだったことを知っておかなければなりません。女性は男性の保護の下でしか生きられず、娘は父親の、妻は夫のある意味では所有物のように位置付けられていたのです。ですから夫は妻を離縁できるが、妻の方から夫を離縁することは考えられませんでした。そういう現実の中で主イエスは既に5章31節以下で離婚についてお語りになりました。そこで主イエスは、夫が妻を離縁することに厳しい条件をつけておられます。5章32節にも、そして本日の9節にも、「不法な結婚でもないのに妻を離縁することは罪だ」と語られています。この「不法な結婚でもないのに」というところは、4月から用いる聖書協会共同訳では「淫らな行い以外の理由で」となっています。こちらの方が原文の意味を正しく現しています。ここの原語は「ポルネイア」という言葉で、そこから「ポルノ」という言葉が生まれました。つまりこれは「淫らな行い」という意味です。妻が淫らな行いをする、つまり他の男性と浮気をする、姦淫の罪を犯すということで、それ以外の理由で離縁してはならないと主イエスはおっしゃったのです。当時のユダヤの社会においては、これは離婚の条件を最も厳しく狭める教えでした。本日のところの7節でファリサイ派の人々が語っている離婚についての律法は、申命記24章1節ですが、そこにはこうあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。この「恥ずべきことを見出し」というのが離婚の条件となるわけですが、何がそれに当るかを、当時の律法学者たちは様々に議論していました。主イエスと同じように、それは妻が姦淫の罪を犯したこと以外ではないと解釈する人もいました。しかし、妻に何か気に入らないことを感じたらそれが即「恥ずべきこと」であって離婚の条件になる、というまことに緩やかな、夫の身勝手を許すような解釈をする人もいたのです。世の男性たちの多くはそちらの方の解釈を支持します。気に入らなくなった妻は離縁して新しい女を妻にする権利が夫にはある、という解釈の方が、人々の、というのは男性たちの、意に適うのです。しかし主イエスはそういう男の身勝手を認めず、離婚の条件を最も厳しく設定されたのです。ファリサイ派の人々は、主イエスにそのことをもう一度語らせるためにこの問いを発したのです。そして実際9節で主イエスは5章と同じことを語られました。それを聞いた人々に、「あの人の教えは厳し過ぎてついていけない」という思いを与え、人々の心が主イエスから離れるようにしよう、というのがファリサイ派の人々の目論見でしょう。そして彼らのその意図はある意味成功しています。10節で、主イエスの教えを聞いた他ならぬ弟子たちが、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言ったのです。「離縁できるのは、妻が浮気をした時だけだ」という主イエスの教えに対して弟子たちがこのように反応したことは、私たちにはちょっと理解できませんが、それは弟子たちもこの当時の社会の常識にどっぷりと浸かって生きていたということでしょう。人は皆その時代の子です。その時代の、その社会の常識や感覚から自由であることはできないのです。
結婚とは何か
このように主イエスは、当時のユダヤ人たちの結婚や離婚についての感覚や常識の中で、それに挑戦するような教えを語っておられたわけですが、私たちは今、それとは全く違う感覚や常識の中で生きています。その私たちには、この教えはもう意味がないのでしょうか。そんなことはありません。ファリサイ派の人々の問いは、正当な理由があれば夫は妻を離縁できるのか、ということでした。その問いに対して主イエスは、「こういう理由なら離縁できる」と答えたのではなくて、先ず4~6節をお語りになったのです。「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』」。これは、先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第2章18節以下に語られていることです。そこには、神が人間を男と女として造って下さったことの根本にあるみ心が示されています。18節の「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」ということです。人間が男と女であるのは、人は独りで生きるべきものではなく、彼に合う助ける者と向かい合って、助け合いながら共に生きるべきだという神のみ心によるのです。このみ心によって人は男と女であり、一人の男と一人の女が結婚して夫婦となるのです。そのことが創世記2章24節で「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言い表されており、それを主イエスは本日の箇所の5節で引用なさったのです。
神が結び合わせてくださったもの
主イエスはその創世記の言葉にさらに6節をつけ加えておられます。「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。結婚した二人は、もはや別々ではなく、一体なのです。一つの人生を共に生きているのです。だから離すことはできないのです。しかし彼らはどうしてそのように一体なのでしょうか。結婚すれば自動的に一体となるのでしょうか。あるいは愛し合って生きることによってだんだんに一体となっていくのでしょうか。主イエスはここで、二人が一体であることの決定的な根拠を示しておられます。それが「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というみ言葉です。夫婦が一体であるのは、愛し合っているからでもなければ、共に生活していくうちに自然になじんでいって一体になったのでもありません。神が結び合わせて下さった、そのことによって二人は一体となったのです。結婚は、神が二人を結び合わせて下さるという神のみ業である、そのことこそ、主イエスがここで教えようとしておられることの中心です。神が人間を男と女として造って下さったことから説き起こしておられるのもそのためです。一人の男と一人の女が結婚して夫婦となる、そこには、人間を男と女として造って下さり、向かい合って共に生きるべき相手を与え、結び合わせて下さった神のみ心とみ業があるのです。その神のみ心とみ業を見つめることこそが、結婚の正しい受け止め方なのです。そしてそれゆえに、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」のです。それは、第三者が夫婦の間を引き裂いてはならない、ということでもありますが、これはむしろ当の夫婦自身に対するみ言葉です。お互いの心の中に、一体であるはずの二人を離してしまおうとする思いが働くのです。それが最終的に離婚という事態を生むのです。主イエスはそのことを見据えつつ、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とおっしゃいました。つまり主イエスは基本的に離婚に反対しておられるのです。その理由は、お互いが傷つくとか、子供のためによくない、とかではありません。「神が結び合わせてくださった」ことを否定し、放棄してしまうことがそこで起るからです。離婚とは、神が二人を結び合わせて下さったことを否定することに他ならないのです。ですからここに語られているのは、離婚することがよいか悪いか、という倫理道徳の教えではありません。主イエスは私たちに、結婚を、神が二人を結び合わせて下さったこととして、つまり神のみ心とみ業によることとして受け止めるように教えておられるのです。つまり結婚を、神のみ心に従って生きる信仰の事柄として受け止めるように、ということです。そこにこそ、二人が本当に一体となり、向かい合って助け合いながら生きるための道があるのです。祝福された家庭を築く秘訣がそこにあるのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というみ言葉は、教会の結婚式において、新郎新婦の誓約の後、牧師がこの二人が夫婦であることを宣言する、その宣言の最後に語られます。それは二人が夫婦として歩んでいくための土台となる宣言です。神が結び合わせて下さったことをしっかり覚えることこそが、愛し合うとか、いたわり合うとか、支え合うという全てのことに増して、夫婦の歩みを支えるのです。
やむを得ない離婚
このように主イエスは、離婚の条件云々ではなくて、基本的に離婚そのものに反対しておられます。それに対してファリサイ派の人々は、しかしモーセは律法において、離縁する場合には離縁状を渡せと言っているではないかと言って、先程の申命記24章を引いたのです。それに対して主イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」とおっしゃいました。つまり律法に離婚についての規定があるのは、人間の頑固さ、言い換えれば罪の現実のゆえなのであって、それは神の本来のみ心ではない、ということです。神は、基本的に離婚を喜んではおられない。しかし、人間の罪のゆえに、どうしても夫婦としての関係を維持できなくなることがある。どうしても、お互いを神が結び合わせて下さった相手として受け入れることができなくなってしまうことが起る、その時には、やむを得ないこととして離婚ということもあり得るのです。そのやむを得ない事情としてここでは、淫らな行いつまり姦淫の罪があげられています。しかしこれを、離婚の条件として聖書が認めている唯一のことは姦淫の罪だ、と読んでしまうのは間違いです。今日においてはもっと別なこともあり得ます。ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)とか、ハラスメントなどもそうでしょう。そういうことは時代と共に様々に変わっていくのです。しかし主イエスはここで、どういう場合には離婚できるか、を教えようとしておられるのではなくて、結婚を「神が結び合わせて下さったもの」として受け止め、その神のみ心を受け入れ、それに従っていく信仰を教えておられるのです。
人間の権利か、神のみ心か
この主イエスのお言葉に対して、弟子たちが「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言ったのです。この反応は、男性優位の結婚理解にどっぷり浸かっていた当時の人々の思いによることだと先程申しました。しかし今見てきた主イエスの教えの本当の意味を前提として考えるならば、ここには、時代や社会の状況を越えて私たちが普遍的に持っている問題が見えてくると思います。つまり主イエスが教えておられるのは、結婚を神のみ心によることとして、神が二人を結び合わせて下さったことを受け止めなさい、ということであるのに対して、弟子たちの反応の背後には、結婚を、人間の思いによること、人間の権利として受け止めようとする思いがあるのです。当時の人々は、離婚の条件を厳しく理解するか緩やかに理解するかはともかく、基本的に、夫はある条件が整えば妻を離縁できる、妻を離縁して他の女と結婚することは男の権利だと思っていました。それはもっと一般的に言い直せば、結婚は人間が自分の意志ですることができるし、いやになったらやめることができる、そういう人間の権利だ、ということです。その権利を当時は男性だけが持っていましたが、今は男女が共にそれを持っています。ということは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」という弟子たちの言葉は、今や男女の両方が抱く思いになっているのです。自分の思い通りにならないなら、自分が我慢をしなければならないなら、やりたいこともできなくなるなら、結婚なんてやめればよい、という思いです。それは、神が自分たちを結び合わせて下さったということと真っ向からぶつかり合う思いです。主イエスの教えと弟子たちの反応とは、そのようにぶつかり合っているのです。これはそのまま私たちへの問いです。私たちは、結婚、夫婦について、主イエスが教えておられるように、神が結び合わせて下さったものと受け止め、神のみ心に従う思いでそれを大事にしていくのか、それとも、結婚は自分の思いでしたりやめたりできる自分の権利なのだと主張していくのか、この問いは、時代や社会の背景とは関係なく私たちに問われているのです。
信仰を与えられた者こそが
主イエスはそのような弟子たちの反応に対して、11節で、「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」とおっしゃいました。「恵まれた者」というと、恵まれた境遇の下にいる者、幸せに生きている者、ととられてしまうかもしれませんが、そういうことではありません。この「恵まれた者」という言葉は直訳すれば、「与えられた者」です。主イエスの結婚についてのみ言葉を受け入れるのは、神よって与えられた者だ、言われているのです。何が与えられているのか、それは主イエスを信じて従って行こうとする信仰です。信仰を与えられ、主イエスの弟子として生きている者たち、つまり教会に連なる信仰者たちだけが、この言葉を受け入れるのだ、と言われているのです。主イエスが、結婚とは何かを語り、そこから離婚についても教えられたこれらのみ言葉は、神に選ばれ、信仰を与えられて教会に連なっている者こそが受け入れることができるのだし、その者たちのみが、結婚は神が二人を結び合わせて下さったものであることを真剣に受け止めて生きることができるのです。そしてこれは、信仰を与えられていることはいかに恵まれたことであるか、ということでもあります。
赦し合って生きる
つまりこの箇所は、教会における兄弟姉妹の、信仰による交わりの中で結婚、夫婦の関係を見つめているのです。そういう意味でここは、先週まで読んできた18章と繋がっています。18章には、教会とはどのようなものか、教会における兄弟姉妹の交わりはどのように築かれていくのかが教えられていました。その締めくくりとなっていたのが、18章の最後のところの「仲間を赦さない家来のたとえ」でした。そこには、私たちは神によって一万タラントンの借金、罪を赦していただいたのだから、きょうだいが自分に対して犯す百デナリオンの罪を赦すことこそが教会の交わりの根本だ、と語られていました。このことは、本日のこの結婚、夫婦の関係にもそのまま当てはまります。お互いを、神が結び合わせて下さった相手として受け入れ、共に生きることは、相手の罪を赦すことなしにはあり得ません。18章に語られていた、私たちが受け入れるべき小さな者の一人、あるいは私たちが赦すことを求められている、自分に罪を犯すきょうだいとは、ここでは自分の妻であり夫なのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というみ言葉は、私たちに、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みのゆえに、自分の妻を、夫を、赦し、受け入れ、神が結び合わせて下さった相手として共に生きることを求めているのです。
神が与えて下さった人生を生きる
また12節以下には、いろいろな理由で結婚しない人、独身で生きる人のことが語られています。それは「結婚できないように生れついた」という場合もあるし、「人から結婚できないようにされた」ということもあります。この第二のことは分かり難いですが、もともとは、人為的に去勢された「宦官」と呼ばれる人のことを言っているのだとも言われます。しかし私たちが今このみ言葉を受け止めるとすれば、それは何らかの人間の事情で結婚できない者と理解することができるでしょう。そして第三に、「天の国のために結婚しない者」がいます。これは、神に専心仕えるために独身で生きる決心をした人のことです。そのようにいろいろな事情や思いによって、独身で生きるという場合もあるのです。その最後に、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」とあります。つまり、独身で生きることをもまた、神が自分に与えて下さったこととして受け入れること、それが信仰なのです。結婚して生きる場合にも、相手を神が与えて下さったパートナーとして、神が二人を結び合わせて下さったことを受け入れて歩み、独身で生きる場合にも、そのことを神から与えられている歩みとして受け入れる。いずれにおいても私たちは、主イエスの弟子として、主イエスに従っていくのです。結婚することも、独身で生きることも、いずれも私たちの権利ではなくて、神が与えて下さることです。自分の人生を神が与えて下さったものとして受け入れるところに、結婚して生きるにせよ、独身で生きるにせよ、救い主イエス・キリストの十字架の死と復活によって救われ、神の子とされて、神の愛の中を生きる祝福された人生が与えられるのです。そのために主イエスはこの19章から、エルサレムへと、十字架の死へと歩み出して下さったのです。そしてこれからあずかる聖餐によって私たちは、主イエスの十字架の死による救いの恵みを心と体をもって味わいつつ、神が与えて下さった人生を歩んでいくのです。