主日礼拝

赦されて、赦す

説 教 「赦されて、赦す」 牧師 藤掛順一
旧 約 ネヘミヤ記第9章26-31節
新 約 マタイによる福音書第18章21-35節

七回までですか
 本日は、マタイによる福音書第18章の最後のところで主イエスがお語りになったたとえ話をご一緒に読みます。「仲間を赦さない家来のたとえ」です。たとえ話そのものは23節から始まっていますが、その前の21節以下に、それが語られるきっかけとなったペトロと主イエスの問答があります。ペトロが主イエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と質問したのです。この問いは先週読んだ15節以下の主イエスの教えを受けてのことです。そこで主イエスは、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」、という教えをお語りになりました。きょうだい、つまり共に主イエスを信じている信仰の仲間が、自分に罪を犯し、それによって傷つけられる。そういう事態にどう対処したらよいかということです。主イエスの教えは、自分に罪を犯した人を、きょうだいとして再び得るために、つまり罪によって破れてしまった関係を修復して、きょうだいとしての交わりを回復するために、最大限の努力をしなさい、ということでした。それは言い代えれば、きょうだいの罪を赦す努力をしなさい、ということです。自分に罪を犯し、傷つけたきょうだいを責め立てて仕返しをするのではなくて、その人を赦して再びきょうだいとなることをこそ求めなさい、と主イエスはおっしゃったのです。本日の箇所のペトロの問いは明らかに、主イエスのこの教えを意識しています。主イエスは、自分に罪を犯したきょうだいを赦せとおっしゃった。どれくらいまで赦すべきなのだろうか。自分は果たして何回まできょうだいの罪を赦すことができるだろうか。ペトロはそのように真剣に考えて、「七回までですか」と言ったのです。これは勿論、同じ人が自分に対して罪を犯し、悔い改めて謝ってきたら、ということです。そういうことを何回まで受け入れて赦すことができるだろうか。私たちならどうでしょう。「仏の顔も三度」と言います。三回ぐらいまでなら、なんとか大目に見て赦してやることができるかもしれません。しかしそれ以上になったら、いいかげんにしろ、もう赦せない、ということになるのではないでしょうか。だからペトロがここで「七回までですか」と言ったのは相当の決意だと思います。彼は主イエスの「きょうだいの罪を赦す努力をしなさい」という教えに精一杯応えて、よし、自分は七回までもきょうだいの罪を赦す、そういう寛容な人間になろう、と思ったのです。主イエスはきっと喜んで、「よく言った、それでこそ私の弟子だ」と褒めて下さるに違いない、と彼は思っていたのだと思います。

七の七十倍まで赦しなさい
 ところが主イエスの答えはペトロの期待とは全く違うものでした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。七の七十倍までも赦しなさいというのは、490回までは赦して、491回目になったらもう赦さなくてよい、ということではないことは明らかです。主イエスは、きょうだいの罪を、無限に、どこまでも赦せとおっしゃったのです。ペトロは大きな決意をして、七回までも赦そうという思いを語ったけれども、主イエスはそれに対して、そういう限りのある赦しではなくて、無限に、どこまでも赦しなさいとおっしゃった。この主イエスのお言葉はそのように説明されることがあります。でもそれは正しいでしょうか。ペトロが「七回まで」と言ったのは、七回目までは赦すけれども八回目になったらもう赦さない、ということではないでしょう。ペトロだって、限りなく赦そうとしていたのだと思います。私たちにしても、同じ人の罪を七回赦すなんていうことはそもそも不可能です。そういう意味では、七回も七の七十倍も、私たちにとっては同じ「無限に」という意味になるのです。だから、ペトロが語った赦しには限りがあったが、主イエスは無限に赦すようにとお語りになった、という理解は間違っています。ペトロの七回と、主イエスの七の七十倍は、赦しに限りを設けるかどうかを語っているのではありません。そこには、「赦し」の持っている根本的な意味の違いが表現されているのです。そのことを明らかにするために主イエスは、「仲間を赦さない家来のたとえ」をお語りになったのです。

仲間を赦さない家来
 このたとえ話の筋自体は難しいものではありません。ある王に借金をしていた家来がいた。その額は一万タラントン。それがどのくらいの額かは、聖書の後ろの付録の「度量衡及び通貨」の表を見れば分かります。一タラントンは六千デナリオンです。一デナリオンが一人の労働者の一日の賃金の相場でした。ですから一タラントンは六千日分の賃金です。一年に三百日働くとして、それは二十年分の賃金ということになります。一タラントン稼ぐには二十年かかるのです。一万タラントンはその一万倍ですから、一人の人が一万タラントンを稼ぐには二十万年が必要なのです。つまり一万タラントンというのは天文学的数字です。この家来は、どんなに頑張っても絶対に返すことのできない額の借金を負っていたのです。その返済を求められた彼は王の前にひれ伏して「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願いました。そんなこと出来ないのは目に見えています。しかし必死に願う彼を王は憐れに思って、その借金を帳消しにしてやった。この人は一万タラントンという、一生かかっても返せない借金を、突然免除され、チャラにしてもらったのです。それがどんなに晴れ晴れとした解放、喜びであるかは、ローンの返済に苦しんでいる方は身にしみて分かるでしょう。彼は背負っていたとてつもない重荷から突然すっかり解放されて王のもとから出て来たのです。すると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間と出会った。百デナリオンは、先程申しましたように、百日分の賃金です。一年に三百日働くという先程の計算でいけば、年収の三分の一です。ですからこれは決してはした金ではありません。私たちの感覚で言えば、何十万円から何百万円です。彼はその仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。その人は「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼みました。ついさっき、彼が王の前でしたのと同じです。しかし彼は赦さず、借金を返せない者が入れられる債務監獄にその仲間を引っ張って行きました。それを見た者たちが王に事の次第を告げると、王は彼を呼びつけ、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、借金の帳消しをとりやめにし、彼を牢に入れました。ということは、もう彼は一生そこから出ることはできないのです。

「何故」赦すべきなのか
 これはとても分かりやすい、面白い話です。仲間を赦さない家来の姿は、人間の身勝手さ、自分が人に損害や迷惑を与えたことはすぐに忘れてしまって、人が自分に与えた損害や迷惑ばかりに目が行く、という姿をよく現しています。与えられている神の恵みをすぐに忘れて、自分の欲望を追い求めてしまう姿が描かれているとも言えます。私たちはこの家来の姿にまさに自分自身を見出し、悔い改めを促されるのです。けれどもこの話を、「きょうだいの罪を七の七十倍までも赦しなさい」という教えと結びつけて読もうとすると、必ずしも分かりやすいとは言えません。何故ならこの話には、「きょうだいの罪をどこまで赦すべきか」ということは語られていないからです。このたとえ話が語っているのは、「どこまで」赦すべきか、ではなくて、「何故」赦すべきかです。自分に罪を犯したきょうだいをどこまでも赦しなさい、という主イエスの教えの根拠をこのたとえ話は語っているのです。

「赦し」の持つ意味の違い
 きょうだいの罪を赦さなければならないのは何故でしょうか。それは、私たち自身が、無限に大きな罪を赦していただいたからです。一万タラントンという、一生かけても決して返すことのできない借金、罪を、私たちは免除され、赦されたのです。その私たちが、自分に百デナリオンの借金のある仲間を赦すのは人間として当然のことだ、もしそうしないとしたら、この家来のような、とんでもない恩知らずの振る舞いをすることになる、とこの話は語っているのです。私たちがきょうだいの罪を赦すのは、自分自身が罪を赦されているからだ。赦されたから赦す、それは当然のこと、自然なことだ。だからきょうだいの罪を赦すことは、何も特別なことではないし、素晴しい良い行いでもない、人間としてごく当然のことなのだ。主イエスはこのたとえ話によってそういうことを語っておられるのです。そしてそこにこそ、ペトロが「七回までですか」と言ったのに対して主イエスが「七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃったことの意味があります。ペトロは、七回までもきょうだいの罪を赦すことができる寛容で立派な人間になるために努力しよう、と決意して「七回までですか」と言ったのです。ペトロにとって、きょうだいの罪を赦すことは、決意と努力をもってする良い行いだったのです。主イエスがそれに対して、七の七十倍まで赦しなさいとおっしゃったのは、あなたの努力はまだ足りない、今より七十倍努力しなければだめだ、ということではありません。主イエスは、きょうだいを赦すことは、決意や努力によってすることではないし、特別な良い行いでもない、むしろ当たり前のことなのだ、とおっしゃったのです。なぜなら、あなたはきょうだいが自分に犯した罪とは比べものにならない大きな罪を、神に赦していただいたからだ。そのことを自覚するならば、七の七十倍までも赦すことが当たり前になるのだ、と主イエスは言っておられるのです。先ほど、ペトロの七回と主イエスの七の七十倍との違いには、「赦し」の持っている根本的な意味の違いが表現されている、と申しました。ペトロの「七回」には、彼が、きょうだいの罪を赦すことを、自分の決意と努力による良い行いとして捉えていることが表れていました。それに対して主イエスが「七の七十倍」とおっしゃったのは、神によって一万タラントンの罪を赦されたという恵みに応えて生きるところでは、きょうだいの百デナリオンの罪を赦すことは、決意や努力によってする良い行いではなくて、むしろ当り前のことなのだ、ということを表していたのです。

一万タラントンを赦されたことが分かるかどうか
 そうすると主イエスの教えの全ては、私たちが、一万タラントンの借金を赦してもらったこの家来とは自分のことだ、ということが分かるかどうかにかかっています。それが分からなければ、このたとえ話は、人間の身勝手さを描いている面白い教訓話ではあっても、自分への語りかけにはなりません。仏の顔も三度というあたりでうろうろしている私たちにとっては、七回までも七の七十倍までも大した違いはありません。自分が一万タラントンを赦されたことが分からなければ、きょうだいを赦すことは、私たちが努力して達成すべき寛容という美徳でしかないのです。私たちはできるだけ寛容であろうと努力しますけれども、でもこれはやっぱり赦せない、ということになり、結局「赦せない」という思いに満たされていってしまうのです。そこでは、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」というみ言葉を、自分に語られているみ言葉として聞くことはできないのです。

百デナリオンの借金しか分からない私たち
 私たちは、一万タラントンの借金、罪を負っており、しかもそれを神さまの恵みと憐れみによって赦していただいたのです。そのことはどうしたら分かるのでしょうか。結論から言って、それは私たちには分からないのだと思います。私たちが分かり、感じ取ることができるのは、百デナリオンの借金だけです。仲間があの家来に借りていたあの百デナリオンです。それは、私たちがきょうだいとの間で借りたり貸したりしている、つまり人間どうしの間で犯したり犯されたりしている罪を表しています。私たちは、お互いどうしの間で、百デナリオンを借りたり貸したりしながら生きているのです。自分が罪を犯して傷つけてしまったきょうだいには百デナリオンの借りがあるし、また逆に自分に罪を犯したきょうだいには百デナリオンの貸しがある。いろいろな人との間にそういう借りや貸しがある中で私たちは、あの人は自分に百デナリオンを返すべきだ、でもこの人には自分が百デナリオン返さなければならない、こっちの人とはまあお互いさまだから貸し借りなしかな、でもあっちの人には七、三で自分の方が返さなければならない額が多いかな、などと考えています。そのように私たちはいつも、人との間の百デナリオンの貸し借りのことばかりを見つめているのです。でも主イエスはこの話において、あなたがたは神に対して一万タラントンの借金がある、と言っておられます。私たちだって、自分が神さまに対して罪を犯していることを感じていないわけではありません。神さまをちゃんと信じて従っておらず、むしろ逆らってばかりいる罪が自分にあることを感じてはいるのです。でも私たちが神さまに対して感じている罪、借金は、やっぱり百デナリオンぐらいのものなのではないでしょうか。しかし主イエスは、それは一万タラントンだとおっしゃるのです。それは人間どうしの間の百デナリオンとは全く次元が違うものです。それはもう私たちには考えても分からないし、感じ取ることもできません。私たちが分かり、感じ取ることができるのは、人間どうしの百デナリオンの借金だけです。神さまに対して一万タラントンの借金を負っていることは、私たちには分からないのです。

主イエスによって既に赦されている
 そもそも神さまに対して借金つまり罪があることは、神さまと出会い、交わりに生きていく中で初めて見えるようになります。神さまに対して負っている借金は、神さまと関係をもって生きるようになるところに見えてくるのです。では私たちはどのようにして神さまと関係をもって生きるようになるのでしょうか。それは私たちの側から出来ることではなくて、神さまの方から、私たちとの関係を築いて下さっているのです。そのために神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。私たちは、主イエス・キリストによって、神と交わりをもって生きる者とされたのです。その主イエス・キリストは、私たちの罪を全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さいました。神は主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さったのです。そのことは既に起っています。私たちは、主イエスによって神さまとの交わりに生き始める時に、自分が神さまに借金があること、つまり罪を犯している者であることを示されます。しかしそれと同時に、その罪がもう赦され、借金が全て帳消しにされていることをも示されるのです。主イエスによって神さまと出会い、神さまとの交わりに生きる信仰者となった私たちは、自分が、借金を全て帳消しにしてもらって王の前から外に出たあの家来なのだ、ということを見出すのです。

主イエスの十字架の死を見つめることによって
 神が赦して下さった私たちの罪、帳消しにして下さった借金はどれほどのものだったのか。そのことは、神がその赦しのために何をして下さったのか、によって見えてきます。その赦しは、主イエス・キリストの十字架の死によって与えられたのです。私たちが罪を赦され、借金を帳消しにしていただいて、神の子とされて新しく生きるために、神はその独り子の命を犠牲にして下さったのです。神の独り子の命、それはお金に換算できるものではありません。一万タラントンという天文学的数字はそれを示しているのです。神さまは私たちを赦して下さるためにそのようにとてつもない犠牲を払って下さったのです。私たちが神さまに一万タラントンの借金を負っていることは、自分にはこんな罪がある、あんな罪もある、と自分の罪を数え上げていくことによっては分かりません。そこに見えてくるのはせいぜい、百デナリオンかそころです。私たちの罪を赦すために、神の独り子であるイエス・キリストが十字架にかかって死んで下さった、そのことを見つめることによってのみ、一万タラントンの借金は見えてくるし、主イエスの十字架の死によってそれが既に赦され、帳消しにされていることも分かるのです。あの王は、「憐れに思って、彼を赦し」と27節にあります。「憐れに思って」という言葉は、主イエスが私たちを憐れんで下さることを語るところに用いられる特別な言葉です。「はらわたがよじれるような憐れみ」と説明されたりします。主イエスがその深い憐れみによって、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、ご自分の命を与えて、私たちの罪の赦しを実現して下さった、そこに、一万タラントンの赦しがあるのです。

新しい赦しの世界に生きる者へと
 私たちは、自分はきょうだいの罪をどれだけ赦すことができるだろうか、と考えます。きょうだいの罪を赦すことができれば、それだけ寛容で立派な、良い人間になれるから、そのために努力しようと思うのです。それが、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問うたペトロの思いでした。しかし主イエス・キリストは、きょうだいの罪を赦すことについて、それとは全く違う世界を私たちに示して下さっています。神が、独り子イエス・キリストの命という一万タラントンの犠牲を払って私たちの罪を赦して下さった、その恵みの中で生きる新しい世界です。主イエスがすでに実現して下さっている赦しの恵みを信じて生きるなら、私たちはその新しい世界を生きることができます。そしてそれによって、人を赦すことができるようになっていくのです。赦さなければならないのではありません。特別に寛容な人間になるのために努力するのでもありません。主イエスの十字架の死によって自分が赦された、その恵みの中で感謝して生きるのです。赦されて生きているのだから、赦すことが自然になるのです。そこに、七の七十倍までの赦しが実現していきます。それは、我慢に我慢を重ねて生きることではありません。我慢はどこかで限界となって、かえって爆発するでしょう。そういう無理のある赦しではない、本物の赦し、自分に罪を犯したきょうだいをきょうだいとして再び得ていくことができる赦しがそこにこそ実現していきます。主イエス・キリストは私たちを、そのような新しい赦しの世界に生きる者として下さるのです。

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