説 教 「きょうだいを得るために」 牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第85編1-14節
新 約 マタイによる福音書第18章15-20節
教会について語られているマタイ18章
クリスマス前の12月14日の礼拝においても、本日と同じ「きょうだいを得るために」という説教題で、マタイによる福音書第18章15節以下からみ言葉に聞きました。その時には、20節の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」というみ言葉から始めて、だんだん前に戻って来る仕方でこの箇所を読みました。本日は逆に、15節から読み進めていく仕方でこの箇所を読みたいと思います。
これまでにも繰り返し申してきましたが、この18章は、教会とはどのような群れであるのか、また教会はどのように築かれていくのか、ということを語っています。マタイによる福音書の中で、「教会」という言葉が出てくるのは、16章18節と、本日の箇所である18章17節の二箇所のみです。16章の方では、弟子のペトロが主イエスに、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰の告白をしたことに対して、主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。「わたしの教会」、主イエス・キリストの教会は、ペトロが弟子たちを代表して語った「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白という岩、土台の上に築かれるのだ、ということが教えられたのです。それに対してこの18章には、その教会とはどのような群れなのか、それはどのようにして築かれていくのか、が教えられています。20節の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」というみ言葉も、教会とは何かを語っています。教会は、二人または三人が、主イエス・キリストのみ名によって、つまり主イエスを神の子、救い主と信じる信仰において集まる群れであり、そこに、主イエス・キリストが共にいて下さるのです。
教会はこの世の天国ではない
このようにこの18章は、主イエス・キリストのもとに、信仰によって集まる群れである教会を見つめているわけですが、その教会は、何の問題もない、この世の天国のような所なのではありません。18章の冒頭には、弟子たちが主イエスに、「いったいだれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問したことが語られています。ここからして既に、弟子たちの間にも、自分たちの中で一番偉いのは誰か、という言い争い、仲間割れがあったことが示されているのです。さらに6節には、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」と言われています。「わたしを信じる」者、つまり教会における仲間たちの間で、小さな者の一人をつまずかせてしまう、その人を傷つけ、教会の仲間として共に歩めなくしてしまうようなことが起ることが見つめられているのです。それを受けて10節には「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われています。教会の交わりの中で、弱い、小さな一人を軽んじてしまって、その人を傷つけ、つまずかせてしまうことが起こることを主イエスは見つめておられ、そうないようによく気をつけなさい、と言っておられるのです。
きょうだいが自分に罪を犯したなら
ここまでは、自分が誰かを軽んじたり、つまずかせてしまわないように、という教えですが、本日の15節になると今度は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と語られています。教会の兄弟姉妹の中の誰かが、自分に対して罪を犯す、自分を傷つけ、苦しめ、いろいろな意味での損害を与える、自分がその被害者になることが見つめられているのです。これらのことから、マタイ福音書が、主イエス・キリストのみ名によって、信仰によって教会に共に集まっている者たちの間で、人を軽んじたり、つまずかせたり、また誰かの罪によって自分が傷つけられてしまうことが起ることをはっきりと見つめていることが分かります。教会は決して地上の天国などではない、むしろ他の様々な人間の集団、共同体と同じように、人間の罪とそれによってもたらされる問題に満ちている所なのです。大切なことは、その罪の現実に、共同体としてどう立ち向かうかです。そのことは、きょうだいが自分に対して罪を犯し、自分が被害、損害を被った時に、その相手に対してどうすることが教えられているか、という所に最もはっきりと示されます。その共同体の質がそこに現れるのです。本日の箇所はまさにそのことについての教えであり、主イエスのもとに集う教会とはどのような共同体なのかがここに示されているのです。
二人だけのところで
きょうだいが自分に対して罪を犯した時に、主イエスが私たちに先ずしなさいと言っておられるのは、「行って二人だけのところで忠告しなさい」ということです。自分に罪を犯している人と二人きりのところで忠告をする、つまり、相手と直接に、率直に語り合って、あなたが私にしたことは罪だ、と指摘をし、悔い改めを求めるのです。このような語り合いはとても難しいことです。相手の罪によって被害を受けている自分にはどうしても怒りがあり、それを相手にぶつけたい、仕返しをしてやりたい、という思いがあります。そういう中で、冷静に忠告をし、相手の悔い改めを求めるというのは難しいことです。そこには、相手が悔い改めるなら赦す用意がなければなりません。ただ相手を責めるだけでは、忠告にはならず、喧嘩になるだけです。また、私たちの人間関係の現実においては、一方的に相手の方が悪い、ということはむしろ稀であると言わなければならないでしょう。相手が自分に罪を犯したことは確かだけれども、自分の方にも落ち度がないわけではない、という場合の方が多いのです。だからこの話し合いは現実には複雑なものとならざるを得ません。ただ相手に忠告するだけではすまないのです。そういう意味では、主イエスが言っておられることはいささか単純過ぎるようにも思えます。けれども、ここで私たちがしっかり聞き取るべきなのは、主イエスの次のお言葉、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」ということです。「言うことを聞き入れる」とは、その人が忠告を受け入れて、罪を認め、悔い改めて「悪かった」と謝ることです。そして自分もその人を赦す。そのようにして、お互いの間に生じていた敵意が乗り越えられて、よい関係が回復するのです。それが「兄弟を得る」ということです。相手も自分も、元々教会に共に連なる仲間なのです。罪によってその間が引き裂かれ、きょうだいとして歩めなくなってしまっている、その関係が修復されて、再びきょうだいとして歩むことができるようになる、そのことこそ、二人きりの話し合いの目指すところなのです。この目的をしっかりと見据えておくことが何よりも大事です。つまり自分に罪を犯したきょうだいと話しをするのは、怒りをぶつけて相手の罪を徹底的に責め、復讐するためではなくて、相手と和解し、きょうだいとしての良い交わりを回復するためなのです。そのことをしっかりと見定めておくことによって、この話し合いに臨む私たちの足場がしっかり定まるのです。先程申しましたように、この話し合いは現実には複雑なものにならざるを得ません。しかしそれがどんなに複雑な錯綜したものとなっても、「相手をきょうだいとして得る」という目的をしっかり見つめているならば、この話し合いの中で自分を見失ってしまうことはないでしょう。
ほかに一人か二人を連れて行って
けれども、そのように二人だけで話をしても、うまくいかずに結局言い争いになってしまうこともあります。相手をきょうだいとして得ることができず、良い関係を回復することができないことも多いのです。その時には、次の16節に、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と教えられています。一人か二人の人に共に行ってもらって、二人または三人で相手の説得に当るのです。その理由は、「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」と語られています。これは、旧約聖書にある、裁判の公正を期すための掟です。人に有罪の判決を下すことは、一人の証言のみでしてはならない、と定められています。必ず、二人または三人の証言が一致しなければならない、そうなって初めて、そのことが事実であると認定できるのです。兄弟との間のトラブル、罪においても、当事者どうしの間で解決がつかない場合にはそれと同じことが必要になってきます。一対一では水掛論になってしまうので、二人または三人が共にその人の罪を指摘することによって、それは被害者一人の主観的な思いではなく、客観性を持ったことだということが示され、より強力に悔い改めを求めていくことができるのです。しかしこの二人または三人による説得というのも、大変難しい面があります。下手をすればそれは、二人または三人がよってたかってその人を責めたてるようなことになってしまいます。被害者が、仲間の力を借りて復讐をする、ということにもなりかねないのです。しかしそれは主イエスがここで教えておられることとは全く違います。ここでも、先ほどの「きょうだいを得るため」という目的がしっかりと見つめられていなければなりません。被害者である自分も、共に行く一人二人も、罪による関係の破れが癒されて、きょうだいとしての良い交わりが回復されることを目指してこの話合いをするのだということを肝に銘じておかなければならないのです。
教会に申し出る
さてしかし、そのように二人または三人で説得に当っても、なお「聞き入れない」、悔い改めがなされず、きょうだいの交わりを回復することができない、ということも起ります。その場合にはどうするか、それが17節です。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」。ここに「教会」という言葉が出て来るのです。
「きょうだいが自分に罪を犯した」という問題を、最終的ににせよ「教会に申し出る」ということに私たちは違和感を覚えるかもしれません。きょうだいと自分との問題、トラブル、それは個人的な事柄です。それを教会に申し出て、教会の問題にするなんて、そんな必要があるのか、とも思うし、そんな恥ずかしいことはしたくない、という思いもあります。この「教会に申し出る」ということの持つ意味を私たちはじっくり考えなければならないでしょう。
「教会に申し出なさい」という教えにおいて主イエスが語っておられる最も大事なことは、共に教会に連なる仲間の間で罪が犯され、それによって傷ついたり、つまずきが起ったりするという問題は、個人的な事柄ではなくて教会の問題なのだ、ということです。それは、こういう問題の全てに教会が関わらなければならない、ということではありません。これまで見てきたように、当事者どうしの間で、あるいは他の二人または三人の人々の努力によってそれが解決されるなら、それが望ましいのです。しかし、それでもどうしても解決されずに、罪が残り続け、それによる関係の破れが癒されず、きょうだいとしての交わりが失われたままであるなら、それは教会の問題となるのです。なぜなら、主イエス・キリストのもとに共に集い、信仰によって結び合って共に生きている教会という群れが、この罪によって破壊されているからです。そのことを教会は、「あれは個人の問題だ」と言って放っておくことはできない。それを放っておくことは、先程の10節で主イエスが戒めておられた、「これらの小さな者の一人を軽んじる」ことになってしまうからです。軽んじられるのは、きょうだいに対して罪を犯しているその人でもあるし、その罪によって傷つけられている人のどちらでもあります。教会が「あれは個人の問題だ」と言って、兄弟姉妹の間に起る罪によるトラブルを解決するための努力をせず、結局その二人が絶交状態になって終わるなら、それは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」を軽んじ、つまずかせることになってしまうのです。
戒規
罪によるトラブルが教会に申し出られたら、教会はどうするのでしょうか。そこでもすることは、あの二人または三人の場合と同じです。罪を犯している者を説得し、悔い改めを求めるのです。そして当事者どうしが赦し合ってきょうだいの関係を回復することを求めるのです。きょうだいを得るための三度目の努力が、今度は教会によってなされていくということです。そしてそれでもどうしても解決が得られず、悔い改めと赦しが実現しないなら、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われています。異邦人や徴税人は当時のユダヤ人たちの社会において、神に背く罪人として忌み嫌われ、神の民の仲間とされていませんでした。その人々と同様に見なすとは、その人をもう教会の仲間、兄弟姉妹として扱わず、教会の交わりから追放するということです。このことは後に「破門」とか「除名」という形で制度化されていきました。それらの制度の全体を「戒規」と言います。「戒め」という字と「規則」の「規」で「戒規」です。「戒告」から始まり、「陪餐停止」つまり聖餐にあずかってはならないということ、そして最も重くは「除名」に至る段階を踏む戒規が教会の歴史の中で整えられていったのです。これは教会における懲罰規定のように思われるかもしれませんが、そうではありません。これは、きょうだいの関係を損ない、教会の交わりを傷つける罪を見過ごしにすることなく、悔い改めがなされてお互いが赦し合い、きょうだいの関係が回復されるために教会が行う処置です。その目的は、罪を犯した人を罰することでも、被害者に代わって復讐することでもなくて、「きょうだいを得る」ことです。それゆえに、その人が悔い改めてきょうだいの関係が回復されるならば、その処置は解除されるのです。このような戒規の聖書における根拠がこの17節にあるのです。
しかし今日の教会において、この戒規はほとんど行われていません。それには現実的ないくつかの理由があります。一つは、先程から申しているように、きょうだいの間の罪というのはそう単純なものではない、ということです。どちらかが一方的に悪い、とうことはほとんどない中では、どちらかの人に戒規を行って悔い改めを求めるということになりにくいのです。また、戒規が有効であるのは、教会の戒規を受けることによって悔い改めが求められている、ということが皆の共通理解となっている場合ですが、今日の、特に日本の社会においてはそういう理解は全くありません。そういう中で戒規を行っても、悔い改めを促すことにならず、むしろその人が教会に来なくなってしまうだけ、ということにもなりかねません。それでは、戒規の目的が達せられないのです。このように戒規を具体的に執行することには様々な困難があります。しかしそれを具体的に行なうかどうかは別として、教会は、そこに共に連なる者たちの間で起る罪と向き合い、それを全体の問題として受け止め、きょうだいを得るために努力する群れなのです。それが、私たちがここから受け止めるべき大切な教えなのです。
群れ全体の問題として
もう一つそこで考えなければならないのは、「教会に申し出なさい」という時の「教会」とは何か、です。福音書が書かれた当時には、教会の制度はまだ整えられていませんでした。牧師や長老がいたわけではなく、後に教会員への戒規を決定するようになる長老会があったわけでもありません。ですから「教会」とは、信仰者の群れ全体のことです。その教会に、きょうだいの間の罪の問題が申し出られるのです。ということは、誰かが誰かに罪を犯してトラブルが生じ、きょうだいとしての関係が失われているという問題を、教会に連なる者は誰も、「自分とは関係ない」と言ってはならないのです。それではどうすればよいのでしょうか。もめている人たちの間に首をつっこんで、どっちが悪いとか、反省しなさいとか、いやあんたの方にも悪いところがあるからお互いに赦しあわなければとか、そういうことをみんなで寄ってたかって言うことが求められているのでしょうか。そういうことはかえって事態を混乱させるばかりでしょう。私たちがそこで本当になすべきことは何かを教えているのが18節以下なのです。
きょうだいを得るために祈る
18節に、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあります。これは前回の説教で申しましたように、私たちがこの地上で人を罪につなぎ、その罪をあくまでも断罪するのか、それともその人を罪から解き、赦すのか、ということであり、そのことが、天上で、神ご自身がその人の罪を断罪するか赦すかと繋がっている、ということです。私たちにそういう重大な責任を委ねることによって、神が私たちに期待し、望んでおられるのは、きょうだいを罪から解くこと、赦すこと、それによってきょうだいをきょうだいとして再び得ることです。「あなたがたが地上の歩みにおいて、自分に罪を犯したきょうだいを赦すなら、私も天上でその人を赦すことができる、そうなって欲しい」という神の願い、期待を主イエスは語っておられるのです。そしてそれに続く19節で主イエスは、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言っておられます。私たちの二人が地上で心を一つにして願い求めるのは、自分に罪を犯したきょうだいを、神の願いと期待に応えて、地上で赦すことができるように、ということです。天の父なる神はその願いを必ずかなえて下さるのです。私たちが、教会の仲間たちの間で起る罪による傷つけ合いを見る時に、本当になすべきことは、この神への祈り願いです。傷つけ合ってしまっている者たちのことを覚えて、彼らがお互いに悔い改めて相手の罪を赦し、お互いをきょうだいとして得ることができるように、私たちは心を合わせて共に祈るのです。そのようなとりなしの祈りがなされていく群れこそが教会です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という20節のみ言葉はこの流れの中で語られています。二人または三人が、主イエスのみ名によって集まって何をするのか。自分に罪を犯したきょうだいとの間に、真実の悔い改めと赦しが実現して、お互いがお互いをきょうだいとして再び得ることができるようにと祈るのです。また、罪によって良い関係を失ってしまっている者たちの間に、真実な悔い改めと赦しが実現して、きょうだいとしての交わりが回復するためにとりなし祈るのです。そのような祈りを二人または三人が心を合わせて祈るところに、十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さった主イエス・キリストが共にいて下さり、私たちの祈りをかなえて下さるのです。わたしの教会はそのようにして築かれていくのだ、と主イエスはここで教えて下さっているのです。