説 教 「人間の言い伝えと神の言」牧師 藤掛順一
旧 約 イザヤ書第29章13-14節
新 約 マタイによる福音書第15章1-20節
汚れ、罪は私たちの内側にある
先週に続いて、マタイによる福音書第15章1~20節より、み言葉に聞きたいと思います。ここには、エルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者が、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗っていないことについて、主イエスを責めたことが語られています。先週申しましたように、ファリサイ派の人々は、神の民としての清さを保つために、食事の前に念入りに手を洗っていたのです。しかし主イエスとその弟子たちはそういうことをしていませんでした。そのことを彼らは批判したのです。先週は、この批判に対する主イエスのお応えの中から、本当に人を汚すものは何なのか、についてのみ言葉を聞きました。人を本当に汚すのは、口に入るものではなくて、口から出るものだ。つまり、汚れ、罪は外から入って来るのではなくて、私たちの内側、心に生れ、それが言葉や行いとなって外に現れてくるのだ、と主イエスはお語りになったのです。本日は、それ以外のことについて主イエスがここでお語りになったことを読みたいと思います。
昔の人の言い伝えと自分の言い伝え
食事の前には手を洗って汚れを落とせ、というのは、「昔の人の言い伝え」でした。つまりそれは旧約聖書に書かれている律法ではなくて、後から、言い伝えとして生れてきた教えです。ユダヤ人たちは、律法の教え、戒めを守って生活するために、その周囲に、様々な言い伝えの教えをはりめぐらして、それに従っていれば、律法そのものに違反してしまうことが起らないようにしていたのです。そしてファリサイ派はその言い伝えの教えも、書かれた律法と同じようにしっかり守るように人々に教えていたのです。
主イエスは先ずこのことについて、彼らを逆に批判なさいました。3節「そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか』」。彼らが「昔の人の言い伝え」と言っているものを、主イエスは「自分の言い伝え」と言い換えておられます。つまり、それらは実際には神の戒めではなくて自分の言い伝え、つまり自分の思いに過ぎない、ということです。そしてさらに問題なのは、そういう人間の言い伝え、自分の思いによって、彼らが神の掟を破っているということです。
年老いた父母を支える
そのことの実例として4~6節が語られています。「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」。ここの意味は分かりにくいですし、学者の間でもいろいろ説が分かれています。「父と母を敬え」は、律法の中心である十戒の第五の戒めです。十戒は主なる神がイスラエルの民に直接お与えになった掟でありみ言葉ですから、それを破ることは死に価する大きな罪であると考えられていました。ところが、言い伝えの教えの中には、「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい」というものがある。その言い伝えによって、あなたがたは十戒を、神の言葉を無にしている、というのです。この言い伝えの教えをどう理解するかが難しいところです。その前提として知っておくべきことは、「父と母を敬え」という十戒の戒めは、「父母の言うことを尊重し、それに従え」ということだけでなく、年老いた父母をちゃんと支えなさい、ということを意味している、ということです。「あなたに差し上げるべきもの」とは、年老いた両親を支え養うためのものです。それによって父と母を養うことが、「父と母を敬え」という戒めにおいて神が命じておられることなのです。しかし言い伝えの教えによれば、それを「神への供え物にする」と言えば、もう父母のために用いなくてもよくなる。「神への供え物にする」と言う、とは、神に誓うということです。神に誓ったことは必ず果たさなければなりませんから、そのように誓ったものは父母に与えなくてもよい、与えることができない、というのがこの教えの論理です。
「父母を敬え」は私たちにとって切実な問題
しかしそもそも、そのようにして年老いた父母をないがしろにするということが本当になされていたのだろうか、あるいは認められていたのだろうか、と疑問に思います。このことはむしろ今日の私たちにおいてこそ深刻な問題だと言えると思います。超高齢化社会の中で、年老いた両親を、これまた年老いた子供たちが支えている、という事態が生じています。それはしばしば大きな負担、ストレスとなることです。そういう中で、老人への、肉体的また精神的な虐待ということも起こり得るのです。私たちはそれを自分とは無縁なことだと言ってはいられないでしょう。つまり、年老いた親をどう支えるか、ということは、今日の私たちにおいて、かつてなかった大きな問題となっているのです。「父と母を敬え」という戒めをどう守るかは、私たちにおいてこそ、難しい切実な課題だと言わなければならないのです。
そして公平を期すために述べておくと、ファリサイ派の教えにおいても、十戒と矛盾するような誓いは無効だ、と語られていたことが伝えられています。律法を守ることに命をかけていたファリサイ派ですから、「父と母を敬え」という十戒を無にするような誓いが認められていたとは考えにくい、とも思われるのです。
律法の根本精神に立っておられる主イエス
そういうわけで、ここに語られていることが当時実際にどうだったのかはよく分かりません。しかしファリサイ派の人々と主イエスとのこの問答から、次のことだけは分かると思います。それは、主イエスは神の律法つまりみ言葉の根本的な精神に立って語っておられるのに対して、ファリサイ派の人々は、十戒にせよ言い伝えの教えにせよ、その言葉の上での意味にこだわり、それを規則として守ることを大事にしているということです。そしてそのように教えを規則として言葉通りに守ることを第一とすることによって、彼らの中では、「父と母を敬え」という教えと、「神に対して誓ったことは必ず果たせ」という教えとの板挟みが起っているのです。そこでどういう結論を出すにせよ、二つの掟、規則をどうしたら共に守ることができるか、で頭を悩ませることになるのです。しかし主イエスは、そのようなことで頭を悩ませてはおられません。主イエスは、律法の根本精神に立っておられるのです。神は、ご自分の民が父母を敬い、年老いた親をきちんと支えることを望んでおられます。そこに立っている主イエスにとっては、なすべきことは明らかなのです。
神の子としての権威をもって
このように、ここに現れているのは、主イエスとファリサイ派の人々との間の、神の律法つまり神のみ言葉の受け止め方、それに対する立ち位置の違いです。このことは、この福音書の5~7章のいわゆる「山上の説教」で主イエスがお語りになったことと重なります。主イエスはそこで、律法のいろいろな教えを取り上げて、「律法にはこう書かれているが、しかし私は言っておく」という仕方で、ご自分の教えを語られました。つまり、神の子としての権威をもって、律法をお与えになった神の本当のみ心をお示しになったのです。7章28、29節には、そのような主イエスの教えを聞いた人々の驚きが語られています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。律法学者とはファリサイ派のことですが、彼らは個々の律法の意味を説明し、これを守るためにはこうしなさい、と教えていたのです。それに対して主イエスは、「権威ある者」、神の子として、律法の本当の意味、その言葉の背後にある神のみ心をお示しになったのです。本日のところにおけるファリサイ派の人々と主イエスの対立も、律法に対するこのような立ち位置の違いから生じているのです。
律法を規則、戒律として守ろうとすることによって
そこで注目すべきことは、律法を規則として守ろうとしているファリサイ派の人々において、「自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」ということが起っている、ということです。最初に申しましたように、言い伝えの教えというのは、十戒を始めとする律法に違反してしまわないためにその周囲に付け加えられた教えでした。神の律法を規則として守ろうとする思いによって彼らは、「自分の言い伝え」、つまり人間の思いによる教えを付け加えていったのです。しかし彼らが付け加えた「自分の言い伝え」、人間の思いによる教えは、表面的には律法に基づいた教えのように見えて、実は律法の根本精神、そこに示されている神のみ心とは全く違うものとなっていたのです。「食事の前に手を洗え」という教えがまさにそうでした。それは一見、神がご自分の民に求めておられる清さを保つための教えのように見えます。しかし実際には、先週申しましたように、自分の内側にあり、自分の心から生れてくる人間の本当の汚れ、罪から目をそらさせ、汚れや罪は自分の外にあるもので、それが入って来ることを防げば自分は清くあることができる、という思いを植え付けるものとなっていたのです。つまり、人間の思いによる教えが付け加えられたことによって、律法の根本的な精神が見失われて、この規則、戒律を守れば自分は正しい者となれる、という思いが生まれていたのです。しかし神が律法をお与えになったのは、神が私たち人間に求めておられることを知ることによって、私たちが自らの内にある罪を自覚し、常に悔い改めて神に赦しと憐れみを祈り求めつつ、神のもとで生きていくためです。律法を守べき規則と捉えて、そこに人間の教えを付け加え、それを守ることによって清く正しい者となることができると考えることは、律法をお与えになった神のみ心とはかけ離れたことなのです。主イエスはそのことを7節で、イザヤ書29章13節を引用してこうお語りになりました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」。神の律法を人間の戒め、規則、戒律にしてしまうことによって、神のみ心から遠く離れてしまっている者の姿がこのように語られているのです。
自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている
これは、ファリサイ派の人々だけの問題ではないでしょう。私たちの信仰も、これと同じになっていることはないでしょうか。つまり、神を信じ、従うことを、何かの掟や戒律を守って正しく生きることだと勘違いしてはいないでしょうか。自分の言い伝え、人間の思いによる教えを律法に付け加えて、それを守ることによって自分は正しい者として生きていると思い込んではいないでしょうか。そこには、自分の正しさによって人を裁き、批判するようなことが起こります。しかし神が私たちに本当に求めておられることは、私たちが、自分自身の中にこそ生まれて来る汚れ、罪をしっかり見つめることです。それが外に現れてきて、自分が汚れた者、罪人となり、人を傷つけるものとなっていることに気づくことです。それゆえに神のみ前にへりくだって、憐れみと赦しを求め、人を批判したり攻撃したりするのでなく、お互いの弱さや欠けを赦し合い、支え合って生きる者となることです。また、例えば「父と母を敬え」という戒めによって神が本当に求めておられることは、年老いて、弱っていく父母を大切にし、支える、そういう愛に生きるために、自分に与えられているものを用いていくことです。つまり、自分の罪を見つめ、悔い改めて神と共に歩み、人を愛して生きること、それが神のみ心であり、神が私たちに求めておられることなのです。ところが私たちは、自分が清く正しい者であろうとすることによって、人の罪を責めることに熱心です。神への信仰を口実にして、人を裁いていくのです。また、自分が本当に愛し、慈しみ、養わなければならないはずの人のことをないがしろにしながら、自分は神に仕えていると錯覚してしまうのです。つまり、本来神のみ言葉と真剣に向き合い、み心を求めて生きることであるはずの信仰が、自分の思い、自己主張になってしまう、そういうことが私たちにも起こっているのではないでしょうか。「自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」というのはそういうことです。ファリサイ派の人々に対して語られたこの主イエスのみ言葉を私たちは、自分自身に対する語りかけとして聞かなければならないのです。
主イエスにつまずく
これは私たちにとって大変厳しいみ言葉です。あなたがたは神を信じ、従って生きていると思っているが、実は自分の思いによって生きているに過ぎないのではないか、と主イエスが私たちに問いかけておられるのです。ファリサイ派の人々も、主イエスのみ言葉をそういう厳しい問いとして聞きました。そして彼らは主イエスにつまずいたのです。12節に、「そのとき、弟子たちが近寄って来て、『ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか』と言った」とあります。主イエスのお言葉によってファリサイ派の人々はつまずいたのです。ある人は、主イエスにつまずくとは、「こんなやつの言葉など二度と聞くものか」とかんかんになって怒ることだと言っています。そのように怒るのは、その言葉が当っているからです。自分が一番触れてほしくないと思っているところをぐさりとついているからです。主イエスのみ言葉は私たちの心を突き刺します。それは決して私たちをやさしく包み込み、よしよしとあやしてくれるだけのものではありません。先週読んだ、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」というみ言葉もそうでした。あのみ言葉によって私たちは、自分の罪を自分の外の何かのせいにする道を断たれ、自分の中から生じてくる罪を見つめざるを得なくされるのです。だから私たちも、ファリサイ派の人々と同様に、主イエスにつまずき、怒って去って行っても少しも不思議ではないのです。
天の父が植えて下さった木
主イエスは、ファリサイ派の人々がつまずいたことを聞いて、13、14節でこうおっしゃいました。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」。ファリサイ派の人々は、神の民イスラエルの道案内をもって任じています。しかし主イエスにつまずき、去って行った彼らは、ものが見えていません。見つめるべきことが見えていないのです。そういう彼らには、神の民の道案内はできないのです。しかしここでむしろ注目したいのは、主イエスが、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」と言っておられることです。ファリサイ派の人々がつまずいたのは、主イエスの天の父がお植えになった木ではなかったからだ、というのです。これはどういうことなのでしょうか。ファリサイ派の人々は、もともと神が植えた木ではなかったのだから、つまずくのは当然だ、ということでしょうか。確かにこれは、ファリサイ派の人々に対する厳しい批判の言葉ですが、その裏に、とても大事なことが語られていると思います。それは、主イエスにつまずくかつまずかないかは、その人がどんな人か、どれだけ素直で信仰深い良い人か、あるいはどれだけ努力をしているか、とは関係がない、天の父なる神が植えてくださった木であるかどうかにそれはかかっているのだ、ということです。もっと一般的な言い方をすれば、主イエスにつまずくか否かは、神の選びによるのだ、ということです。私たちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている、という主イエスの厳しい言葉を受け、つまずいて去って行っても不思議はない者です。しかしその私たちが、その痛い言葉、心を突き刺されるような言葉を受け止めて、「おっしゃる通りです。私はみ言葉に聞き従うよりも自分の思いを主張することに熱心であり、自分の罪を見つめるよりも人の罪を責めることに忙しく、いろいろと言い訳をして、愛さなければならない人を愛そうとしていない者です」と認めて、主イエスの前にひれ伏して救いを求めるとしたら、そのことは、主イエスの天の父が私たちを植えて下さったからこそ起っているのです。天の父が私たちを選んで、救いにあずからせ、罪の赦しの恵みを与えて下さろうとしておられるから、私たちはつまずくことなくみ言葉を聞くことができるのです。私たちが主イエスにつまずかないとしたら、それは私たちの信仰の深さによることでも、善良さによることでもありません。ただ神の選びの恵みによることです。私たちの信仰は、私たちが神の前にどれだけ清く正しい者であることができるか、にかかっているのではありません。そういう思いこそがむしろ、人間の言い伝えを生んでいくのです。私たちの信仰は、神の選びによります。神が私たちを選んで、ご自分のもとへと導き、信仰を与えて下さるのです。その信仰は、掟や戒律を守ることではなくて、神のみ言葉に耳を傾け、神の本当のみ心を求めていくことです。その神の本当のみ心を私たちに示して下さったのは主イエス・キリストです。神の子としての権威を持っておられる主イエスが、神の本当のみ心を示して下さったのです。神の本当のみ心とは、主イエスの十字架の苦しみと死とによって、神が罪人である私たちを赦し、主イエスの復活によって私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるということです。主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪人を救って下さることこそ、神の本当のみ心なのです。主イエスにつまずいて去って行くしかない罪人である私たちを、天の父なる神は恵みによって選んで下さり、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いにあずかって生きる者として植えて下さり、恵みによって養い育てて下さっているのです。そのことに感謝して生きるところに、人間の言い伝えではなく神の言に聞き従うまことの信仰があるのです。