説 教「ヨナのしるし」牧師 藤掛順一
旧 約 ヨナ書第2章1-11節
新 約 マタイによる福音書第12章38-45節
しるし、証拠を求める
マタイによる福音書第12章38節以下には、何人かの律法学者とファリサイ派の人々が、主イエスに、「先生、しるしを見せてください」と言ったことが語られています。主イエスが神から遣わされた救い主であることがはっきりわかるしるしを見せてほしい、ということです。それは私たちの言葉で言い直すならば、証拠を見せてほしい、ということです。イエスが神の子であり、救い主であるというはっきりとした証拠を示せ、証拠もなしに信じることはできない、という思いです。そのような思いは、私たちも抱くのではないでしょうか。ヨハネによる福音書20章に出てくるトマスという弟子は、他の弟子たちから主イエスが復活されたことを聞かされても信じないで、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。自分の目と手で確かめてみなければ信じられない、というトマスの思いは私たち皆が持っています。しるし、証拠を求めているのは、律法学者やファリサイ派の人々だけではない、私たちみんながそう思っているのです。
よこしまで神に背いた時代
しかし主イエスはこの求めに対してこうお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。しるしを欲しがるのは、「よこしまで神に背いた時代の者たち」だと主イエスはおっしゃるのです。そうであれば、私たちも「よこしまで神に背いた時代」を生きているということです。「時代」という言葉を私たちは、「今はこういう時代だ」というように、自分の外で、自分とは関係なく流れているもののように思いがちですが、しかしこの「時代」という言葉は、「生まれる」という言葉から来たもので、「世代」とも訳せます。世代とは、一人の人が生まれて生きている間の期間です。つまり「時代」というのは、人間と関係なく流れているものではなくて、人間そのものなのです。だから「今はこういう時代だ」と言う時に、その時代を造っているのは今生きている私たちです。ですから、今が「よこしまで神に背いた時代」であるとすれば、それは私たちがよこしまで神に背いているということです。「今はこういう時代だから」と言って時代のせいにすることはできないのです。
不義=姦淫の罪を犯している私たち
しるし、証拠を求める者は、よこしまで神に背いている、と主イエスは言われました。それは、しるしを求めたりせずに、聞かされたことを何でもそのまま、疑うことなく信じなさい、ということでしょうか。しかしそのように何でも鵜呑みにするところに生じるのは、自分で考えることをしない、いわゆるマインド・コントロールではないでしょうか。主イエスは私たちを、マインド・コントロールによって支配しようとしているのでしょうか。
「よこしまで神に背いた」と訳されているところは、聖書協会共同訳では、「邪悪で不義の」となっています。この「神に背いた」あるいは「不義の」と訳されているのは、「姦淫を犯している」という意味の言葉です。ただ「神に背く罪を犯している」というのではなくて、姦淫の罪を犯している、夫婦の関係を裏切っている、ということを示す言葉が用いられているのです。「不義」という日本語にはそういう意味もありますから、「不義の」と訳すのは正しいと言えます。しかしその言葉は今はもうほとんど死語になっていて、姦淫とか不義ということを問題にすること自体がむしろ人権の侵害だとすら言われてしまうような時代です。そのような中で教会が十戒の第七の戒めである「あなたは姦淫してはならない」を掲げて歩むことは大事なことだと思います。しかし私たちはここで、現在の世の中の風潮を嘆かわしく思っているだけでは済みません。しるしを求めているこの時代は「よこしまで神に背いた」あるいは「邪悪で不義の」時代だということは、しるし、証拠を求めている私たち自身が不義を、姦淫の罪を犯している、ということです。他人の話ではないのです。それはどういうことでしょうか。私たちの誰もが皆浮気をしている、というわけでは勿論ありません。この姦淫は、神と人間の間におけることです。神の民イスラエルと主なる神との関係は、しばしば結婚になぞらえられてきました。神がイスラエルの民を選び、彼らと特別の関係を結んで下さった、彼らをご自分の民とし、彼らの神となって下さった、その契約の恵みは、結婚の誓約と重なり合うのです。それゆえに、イスラエルの民が神に背き、他の神々、偶像の神々を拝むようになったことを、旧約聖書の預言者たちは姦淫の罪として厳しく責めたのです。妻が夫を裏切って他の男と関係を持つのと同じことをイスラエルの民はしていると言ったのです。それと同じことを、今の時代の人々も、また私たちもしていると主イエスは言っておられるのです。
しかしそれは本当でしょうか。ここに出て来る律法学者やファリサイ派の人々は、主なる神を裏切って他の神々を拝んでいたわけではありません。彼らはむしろ、主なる神がイスラエルにお与えになった律法を一生懸命に学び、それを実践していたのです。彼らは決して主なる神を裏切っているわけではありません。また私たちだって、主イエスを信じるための証拠を求めることが姦淫の罪だと言われることには納得できないでしょう。彼らも私たちも、他の神々を拝もうとしているわけではなくて、主イエスが神の子であり救い主であられることを確信をもって信じるためのしるしを求めているのです。それがなぜ神への裏切りになるのでしょうか。
自分の願いを叶えてくれる神を求める
このことを考えるためには、旧約聖書の民が、なぜ主なる神を捨てて、他の神々を拝むようになったのかを知らなければなりません。彼らが拝むようになったのは、バアルに代表される、カナンの地の農耕の神です。つまり、豊かな収穫を約束する神です。イスラエルの民は、カナンの地に定住し、畑を耕して生活するようになると共に、この神々を拝むようになっていったのです。何故そうなったのか。その理由は簡単です。これらの神々の方が、自分たちの必要としている作物の豊作という目に見えるしるしを与えてくれると思ったからです。要するに彼らは、人間のニーズに応え、求めているご利益を与えてくれる神へと走ったのです。ここに、「しるしを求める」ことの本質があります。しるし、証拠を見たら信じる、と言う時に、私たちが求めているしるしや証拠は、自分が求めていることが叶えられることです。自分の求めや願いを叶えてくれるなら、それを神であるしるしとして、証拠として採用するのです。ですから神にしるしを求めていくことにおいて私たちは、神が自分の願いを聞いてくれるかどうか、自分の願っているような神なのかどうか、を確かめようとしているのです。イスラエルの民は主なる神とカナンの神々を比べて、カナンの神々の方が自分たちの願いをきいてくれそうだ、と思ったのでそちらを拝むようになった。それが彼らの姦淫の罪でした。つまりしるしを求めることと姦淫の罪とは、一見全く違うことのように見えて、実は不可分に結びついているのです。人間の夫婦においてもそれは言えるでしょう。夫婦がいつもお互いに、相手が自分の願いをどれだけ聞いてくれるか、自分が期待しているような妻あるいは夫であるか、と確かめようとしているならば、つまり相手に対してしるしを求めているならば、そこには一体となった信頼関係はないのであって、より自分の願いに適う人が現れればそちらに心が向くのはむしろ当然のことです。自分の思い通りになることを求めていつも相手のことを値踏みしているなら、実際に浮気はしていなくても、心においては同じことをしていると言わなければならないでしょう。しるしを求めることは、そういう意味で、姦淫の罪を犯すのと同じ、「よこしまで神に背いた」「邪悪で不義な」ことなのです。ですから、主イエスはこの教えによって決して私たちをマインド・コントロールによって、自分の頭で考えることができないようにしようとしておられるのではありません。主イエスが私たちとの間に打ち立てようとしておられるのは、しるしによるのではない、愛と信頼の関係です。相手が自分の期待にどれだけ応えてくれるか、によるのではない、もっと深い交わりです。その交わりが築かれるために与えられるただ一つのしるしが「ヨナのしるし」だ、と主イエスは言っておられるのです。
ヨナのしるし
「ヨナのしるし」とは、40節にあるように、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」ということです。預言者ヨナは、ニネベの町に神の怒りによる滅びが迫っていることを告げることを主なる神に命じられましたが、その命令に従わずに船に乗って逃げ出しました。しかし嵐に遭い、海に投げ込まれて大魚に呑み込まれ、三日三晩その腹の中にいて、陸地に吐き出されたのです。それと同じように、人の子、つまり主イエスも、三日三晩大地の中にいることになる、それは、主イエスが十字架につけられて殺され、墓に葬られて、三日目に復活することを指しています。つまり、ヨナのしるしとは、主イエスの十字架の死と復活のことです。このしるしのほかには、しるしは与えられない、と主イエスは言われました。このしるしはしかし、人々が自分の願いによって求めているしるしとは全く違うものです。それは神が自分の願いを適えてくれる方であるかどうかを人間が確認するためのしるしではなくて、神がご自身をお示しになるために人間にお与えになるしるしです。つまりこのヨナのしるしには、神が、私たちとどのような交わり、関係を結ぼうとしておられるのかが示されているのです。
ヨナのしるしによって示されていることは、先ず第一に、主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さったことです。神の独り子である主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、それによって私たちの罪が赦されている、その罪の赦しの恵みによって神は私たちとの交わり、関係を結ぼうとしておられるのだ、ということを、「ヨナのしるし」は示しているのです。そして第二に、その主イエスが死者の中から復活したことです。それは神の恵みが死の力に勝利したということです。死の力に勝利した主イエス・キリストが、今生きておられる方として私たちと共にいて下さる、ということを「ヨナのしるし」は示しているのです。神が私たちに与えようとしておられる交わりは、復活のキリストと共に生きる交わりです。その交わりに生きる時に私たちは、いつか必ず訪れる肉体の死が、自分の歩みの終わりではないことを知らされ、その死に打ち勝つ神の恵みを信じて、希望をもって生き、希望の内に死ぬことができるのです。このように、罪の赦しと、死に対する勝利こそ、「ヨナのしるし」であるキリストの十字架と復活が私たちに示していることです。神は、この恵みによって、私たちとの間の交わりをる交わりを築こうとしておられるのです。それは、私たちが、神は自分の願いや期待にどれだけ応えてくれるか、という思いでしるしを求め、証拠を求めていくところに生まれる交わりとは全く違う交わりです。ご利益を与える偶像の神々の方が、私たちの目前の願いや期待、ニーズに応えてくれるかもしれません。しかし主イエスの父である神は、それとは違う、もっと深い恵みを与えて下さるのです。罪の赦しと死に対する勝利という、私たちの根本的な、本当のニード、必要を、主イエス・キリストの十字架と復活によって満たして下さるのです。
ヨナにまさるもの、ソロモンにまさるもの
41節以下には、「ヨナのしるし」を与えて下さる主イエス・キリストにしっかりと聞くことの大切さが語られています。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたのです。また、南の国の女王、通称シバの女王と呼ばれている人も、ソロモン王の知恵を聞くために、はるばる旅をして来たのです。これらの人々は、神が遣わした人々の言葉をしっかりと聞き、それを受け入れたのです。しかし今や、そのヨナにまさる者、ソロモンにまさる者である主イエス・キリストが来られ、語っておられます。その言葉をしっかりと聞き、受け入れること、そして主イエスの示して下さる「ヨナのしるし」を、神からのしるしとして受け止めること、それこそが、罪の赦しと死に対する勝利にあずかるために私たちに求められていることなのです。
汚れた霊が戻って来る
43節以下には別の話が語られています。汚れた霊が一旦ある人から出て行って、また戻って来るという話です。この話は、しるしを求める人々の話と一見関係がない、全く別の話のようにも見えますが、実はそこには密接なつながりがあるのです。そのつながりを示しているのは、45節の終わりの、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」という言葉です。「この悪い時代」と言われています。つまりここでも、「よこしまで神に背いた時代」のことが見つめられているのです。自分の願いや期待に神がどれだけ応えてくれるか、という思いでしるしを求めている人々の姿が、ここでも見つめられているのです。しかしこの戻って来る悪霊の話と、しるしを求めることとはどのように結びついているのでしょうか。
空き家になっているなら
汚れた霊が人から出て行くというのは、22節に語られていたように、主イエスによって追い出されてと考えてもよいし、あるいは私たちが自分で悪霊と戦ってそれを自分の心から追い出すと考えてもよいでしょう。いずれにせよ、悪霊が一旦私たちの心から出て行く。その悪霊は休むところを求めてさまよいますが、見つからないので、「出てきたわが家に戻ろう」と言って戻って来る。するとその家は、つまり私たちの心は、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで悪霊は、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、一緒に住み着いてしまう。そうすると私たちは、悪霊が退散する前よりももっと悪い状態になってしまう、という話です。この話で最も大事なポイントは、私たちの心が、「空き家になり、掃除をして整えられていた」ということです。悪霊がようやく出て行ったので、私たちは自分の心をきれいに掃除して整えるのです。それは律法学者やファリサイ派の人々が、神の律法を学び、それをしっかり守って生きようとしていたことともつながります。彼らは決して、罪にまみれた生活をしていたのではありません。自分の心をきれいに掃除してきちんと整えることに熱心だったのです。私たちも、彼らと同じように、様々な仕方で自分の心を掃除し、整えようとしています。しかしそこには一つ、大きな問題があるのです。それは、そのように掃除され、整えられた私たちの心が「空き家」であるということです。きれいに掃除がなされ、部屋も整えられているけれども、そこに住んでいる人がいないのです。いやそんなことはない、と私たちは思うかもしれません。私が自分の心を掃除し、整えて、自分でそこに住んでいるのだ…。しかしまさにそこに、この話と、先ほどのしるしを求めることとの結びつきがあるのです。しるしを求めるというのは、神が自分の願いを聞いてくれるのかどうか、自分の願っているような方なのかどうか、と値踏みをしていくことだと申しました。そこでは、私たちが主人なのです。神もそこでは、店に並べられている商品と同じで、私たちがこれは役に立つとか立たないとか、価値があるとかないとかを判断して、これを買うか買わないかを決める、そういう存在なのです。しるしを求め、証拠を見たら信じようという思いの背後には、このように、自分が主人として、神のことも自分で判断して、採用するかしないかを決める、という思いがあるのです。自分の心という家の主人は自分だ、この家は私が自分で掃除して、整え、自分が主人として住んでいるのだ、という思いと、しるしを求める思いとは、このように、自分が主人である、という点で一つなのです。そして問題は、そのように自分が自分の心の主人となっていることによって、悪霊の侵入を防ぐことができるのか、ということです。出て行った悪霊が戻って来た時に、ああここにはもう自分の入る余地はない、もうここには戻る隙はない、ということになっているのだろうか。主イエスが語っておられるのは、自分が主人になり、自分で自分の心を掃除して整えているだけでは、その家は悪霊の目から見たら、隙だらけの空き家だということです。悪霊たちが住み着くのに、これほどよいところはないのです。実際、自分で自分の心をきれいにし、整えて、これで自分はよい人間になった、立派な者になった、私は自分の力で結構立派に生きている、などと思っている心こそ、悪霊にとって最も好ましい住まいなのです。律法学者、ファリサイ派の人々がまさにそうでした。彼らは、律法を一生懸命守っている自分たちは神の前に正しい、立派な者だと思っていたのです。しかしその彼らが実際にしていたことは、自分の思いに基づいて主イエスを値踏みし、神が遣わして下さった独り子主イエスを拒絶するという大きな罪だったのです。
主イエスを自分の家の主人として迎えることによって
自分で自分の心をきれいにして整えるだけでは、私たちは悪霊に打ち勝つことはできません。むしろ悪霊の餌食となり、ますます悪くなっていってしまうのです。そうならないために必要なことは、自分の心という家を、空き家にしないことです。そこに住んで、家を守り、悪霊の侵入を防いでくれる方を迎え入れて、その方に、自分の心の主人になっていただくことです。そのためには、自分が主人であることをやめなければなりません。自分が主人であろうとしている間は、この家は、悪霊にとって都合のよい空き家なのです。私たちの心の家に住んで、悪霊の侵入を防ぎ、守って下さる方、それは、「ヨナのしるし」によって示されている主イエス・キリストです。主イエスは、十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって死の力に勝利して下さった方です。この方を私たちの心にお迎えして、この家の主人になっていただくことによって、もはや私たちの心は空き家ではなくなります。悪霊が入り込む隙はなくなるのです。しかしそうなるためには、私たちは、主イエスが自分の願いや期待にどれだけ応えてくれるか、というような、しるしを求める思いを捨てなければなりません。そして、神が与えて下さったただ一つのしるしである「ヨナのしるし」によって、神が主イエス・キリストによって与えて下さった救いを信じるのです。そこにこそ、罪の赦しと、死に対する勝利という、私たちにとっての本当の必要が満たされ、私たちを神の恵みから引き離そうとする悪霊の攻撃に負けない歩みが与えられるのです。本日これからあずかる聖餐は、私たちが「ヨナのしるし」によって示された主イエスの十字架の死と復活による救いにあずかり、主イエスこそが私たちの主人となって下さっていることを目に見える仕方で表しています。聖餐にあずかる私たちはもはや空き家ではありません。悪霊はこの家に手出しはできないのです。