主日礼拝

収穫のための働き手

2024年9月1日   
説教題「収穫のための働き手」 牧師 藤掛順一

エゼキエル書 第34章1~31節
マタイによる福音書 第9章35~10章4節

深い憐れみによって
 本日は、マタイによる福音書の9章35節以下からみ言葉に聞くのですが、前回マタイ福音書からの説教をした8月11日の礼拝では、35節までを読みました。その時に申しましたが、この35節、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という文章は、マタイ福音書の5~9章全体のまとめとなっています。「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」というところは、主イエスがお語りになった教えを集めた5~7章のいわゆる「山上の説教」を受けており、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」というところは、8章9章の、主イエスのなさった数々の奇跡、癒しのみ業を受けているのです。このように35節は、5~9章のまとめ、しめくくりとなっています。しかし35節は直ちに切れ目なく36節に続いています。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。この36節は、「御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という主イエスのお働き、つまり5〜9章に語られていたことを、主イエスがどのようなみ心によってなされたのかを語っています。主イエスは、人々が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になって、深く憐れんで、「御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」のです。この「深く憐れむ」という言葉は、「内臓」という言葉から来ています。内臓が揺り動かされるような、日本語的に表現すれば、「はらわたがよじれるような」憐れみを主イエスは覚えたのです。「憐れむ」という言葉ではそのニュアンスを充分に表すことができません。これは、自分は無関係な高い所にいて、苦しんでいる人々を「かわいそうに」と見下ろしているような「憐れみ」ではないのです。自分自身のおなかが痛むような、そういう真剣な同情をもって主イエスは人々の様子をご覧になったのです。その深い憐れみの思いによって主イエスは、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。

飼い主のいない羊
 主イエスは人々が、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」のをご覧になりました。イスラエルの民を羊の群れに譬えることは、旧約聖書以来、しばしばなされてきました。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と始まる詩編23編に代表されるように、イスラエルの人々は、自分たちを、主なる神という羊飼いに守られ、導かれている羊の群れとして意識してきたのです。羊は、群れとして、羊飼いに導かれなければ、自分で餌を得ることも、狼などの猛獣から身を守ることもできません。そういう羊の姿が、主なる神の民であるイスラエルを譬えるのに最もふさわしいのです。つまり、自分たちは羊の群れだと意識するということは、自分たちを守り導いてくれる羊飼いがおられる、ということが前提なのです。だから「飼い主のいない羊」というのは、異常な、そして悲惨な状態です。飼い主なしには羊たちは生きていくことができず、弱り果て、打ちひしがれてしまうのです。

自分自身を養う牧者たち
 イスラエルの人々が「飼い主のいない羊」のようになってしまっていることが、旧約聖書においても語られていました。それが本日共に読まれたエゼキエル書第34章です。その1~6節をもう一度読んでみます。「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない』」。ここで「イスラエルの牧者たち」と呼ばれているのは、主なる神が、ご自分の民であるイスラエルの牧者、羊飼いとして立てた指導者たちです。民の牧者、羊飼いとして、群れを養い、弱っている者を介抱し、傷ついた者を癒し、また野獣から守るべきである彼らがその働きをせず、自分自身を養っている、自分のために群れを食い物にしている、そのために人々は飼い主のいない羊のように散らされ、弱り、獣の餌食になっているのです。人々が「飼い主のいない羊」のようになってしまっていることの一つの原因がここに示されています。指導者たちがその勤めをきちんと果さず、群れを養うのではなくて自分のために群れを利用しているのです。その指導者とはこの当時のイスラエルにおいては、律法学者やファリサイ派と呼ばれている人々のことでしょう。彼らはイスラエルの民の宗教的指導者として、神がお授けになった律法を人々に教え、それに基づく生活を指導していました。しかしそれは本当に神のみ言葉によって人々を養うことになっておらず、イスラエルの民は彼らの下で、命の糧を得ることができずに弱り果て、うちひしがれていたのです。このことを私たちにあてはめて考えるならば、教会において、牧者としての務めに立てられている牧師が、また牧師と共に牧会の務めを負っている長老たちが、羊飼いとしての働きをきちんとしていない、ということです。それを国家に当てはめれば、政治の任を負っている者たちが、私利私欲に走り、人々のための政治を行なっていない、ということになります。教会であれ、国家であれ、指導者たちがしっかり務めを果たしていないと、そこに連なる者たちは「飼い主のいない羊」のようになり、弱り果て、打ちひしがれてしまうのです。

群れから迷い出てしまう羊
 しかし、人々が飼い主のいない羊のようになってしまうことには、もう一つの原因があります。主イエスは、失われた一匹の羊を捜し求めて群れに連れ戻す羊飼いのたとえを語られました。その話をもとにした「ちいさいひつじが」という讃美歌があります。讃美歌21の200番です。その1節の歌詞はこうなっています。「小さいひつじがいえをはなれ、ある日とおくへあそびにいき、花さく野はらのおもしろさに、かえるみちさえわすれました」。つまりこの羊は、飼い主が務めを果たさなかったから迷子になったのではなくて、自分で群れを離れ、遊びに行ってしまったのです。私たちが飼い主のいない羊になってしまう時には、こういうこともしばしば起こっているのではないでしょうか。つまり私たちは、自分から、羊飼いのもとを離れていってしまうのです。神の下で、その群れに留まって生きることを窮屈に思い、もっと自由に、自分の思い通りに生きたい、束縛されずに、自分が主人になって歩みたいと思って飛び出していくのです。私たちはそうやって、飼い主のいない羊となり、そしてその結果、弱り果て、打ちひしがれてしまうのです。いや、私たちは、自分が飼い主のいない羊となって弱り果て、打ちひしがれていることに気づいてすらいないのではないでしょうか。私には羊飼いなどいらない、私は一人で自由に生きているし、生きていける、と思っている。主イエスの当時の人々もそうだったのだと思います。飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている、というのは、主イエスが彼らのことをそうご覧になったということであって、彼ら自身は、「いや私はそこそこにやってますよ。まあまあの人生を送っているつもりです」と思っていたのではないでしょうか。しかし主イエスの目からご覧になると、その人々は皆、「飼い主のいない羊」であり、「弱り果て、打ちひしがれている」のです。

飼い主を失った群れに起こること
 飼い主を失った羊の群れにどのようなことが起こるか。それを先ほどのエゼキエル書34章の17節以下がこのように語っています。「お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる」。これは、羊どうしの間でのことです。「良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回す」。先に牧草や水にあずかった羊たちが、自分たちのことしか考えず、他の羊たちへの思いやりを持っていないのです。そのために、弱い羊たちは押しのけられ、踏み荒らされた後の草を食べ、濁った水を飲まなければならないのです。これが、飼い主のいない羊の群れの姿です。飼い主のいない羊は、自分が弱り打ちひしがれていくだけではありません。羊どうしの関係が、愛を失ったものとなり、自分勝手な思いが支配するようになり、互いに押しのけ、傷つけ合うようになっていくのです。私たちが、まことの羊飼いを失って、飼い主のいない羊のように弱り衰えていくところには、そういうことが起こるのです。

まことの羊飼い、主イエス
 エゼキエル書34章11節には、そのように飼い主を失った羊の群れとなっているイスラエルの民を、主なる神ご自身が羊飼いとなって養って下さることが語られています。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」。指導者たちがその務めを果たさないために飼い主のいない羊のようになってしまっているイスラエルの人々を、主なる神ご自身が羊飼いとして守り、養い、導いて下さるのです。さらに23節にはこうあります。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである」。主ご自身がこの民を牧するために、ダビデを牧者として遣わして下さる、という約束です。ダビデ王はもともと羊飼いでした。ダビデこそ、イスラエルの民にとっての理想の羊飼いなのです。主なる神のこの約束は、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエス・キリストにおいて実現しました。主イエス・キリストこそ、神ご自身が私たちを養い導いて下さるために遣わされたまことの牧者、羊飼いです。この牧者は、群れを飛び出し、失われてしまった羊である私たちのあとをたずね、遠くの山々、谷底まで、どこまでも捜し求め、見つけ出して連れ帰って下さる、なさけの深い羊飼いです。私たちはこのまことの羊飼いである主イエスによって、探し出され、牧場へと、神のみもとへと連れ帰られたのです。私たちが今こうして主なる神を礼拝することができているのは、この主イエスのおかげです。礼拝において私たちは、主イエス・キリストというまことの羊飼いの下に養われる羊となるのです。それが、主イエスの弟子となる、ということです。弟子たちも、以前は群衆たちと同じように、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていました。しかし今は、主イエスというまことの羊飼いに見出され、その下に養われる羊の群れとして生かされているのです。

収穫は多いが、働き手が少ない
 その弟子たちに、つまり信仰者たちに、主イエスはこうおっしゃいます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。この収穫とは、神がまことの羊飼いとして人々をご自分のもとに集め、養い、導いて下さることです。その収穫は「多い」と主イエスはおっしゃるのです。今よりもっともっと多くの人々が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているところから、主イエスによって神のもとに連れ帰られ、主なる神の牧場で養われ、導かれ、守られる羊となるのだと、主は約束して下さっているのです。しかしそのためには「働き手」が必要です。もっと多くの働き手が立てられることによってこそ、多くの人々がまことの羊飼いである主イエスのもとに集められるのです。だから、その働き手を送ってくださるように、収穫の主である神に祈れと主イエスは言われます。私たちに求められているのもこの祈りです。「収穫は多い」という主イエスの約束を信じて、神がもっと多くの人々を、主イエス・キリストの救いにあずからせ、主に養われる羊の群れに加えて下さるように、そのための働き手が起されることを私たちも祈っていくのです。

収穫のための働き手が立てられる
 そのように祈っていた弟子たちに主イエスがして下さったことが、10章の始めに語られています。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」。弟子たちの中から十二人が選び出され、汚れた霊をも従わせるような権威と力が与えられたのです。つまりこの十二人が、「収穫のための働き手」として立てられたのです。「収穫のために働き手を送ってくださるように」という祈りは、このようにしてかなえられていったのです。つまり神は、「収穫のために働き手を送ってくださるように」と祈っている者たちの中から、収穫のための働き手をお立てになり、お遣わしになるのです。「神さまあなたは『収穫は多い』と言って下さっています。どうかその収穫のための働き手を起し、遣わして下さい」と祈っている中で、その人自身が、「わたしはあなたを選んで遣わす」という神のみ言葉を聞く、ということが起るのです。伝道者はそのようにして立てられていきます。本日まで、竹村恭一神学生がこの教会で夏期伝道実習をしています。また私たちの教会から献身した佐藤潤神学生も、最終学年を過ごしていて、いよいよ来年には任地へと遣わされようとしています。竹村さんにしても佐藤さんにしても、そして先に遣わされた私も川嶋牧師も、「私が収穫のための働き手となります。私を遣わしてください」と祈ったわけではありません。そんな大それたことは誰も祈れないのです。しかし、「収穫のために働き手を送ってください」と祈る中で、「私はあなたを選び、遣わす」というみ言葉を聞いたのです。「収穫のために働き手を送ってください」と祈っていく中で私たちは、もし神が自分をお用いになるなら、何もできない者だけれどもそのみ心に従います、という信仰を養われていくのです。だから、「収穫のために働き手を送ってください」と祈ることが求められているのです。そのように祈っている者の中から、収穫のための働き手が立てられていくのです。その神の選び、声かけは、いつ誰に与えられるかわからないのです。

主イエスの深い憐れみのみ心に仕える
 しかし、神学校に行って牧師になることだけが、収穫のための働き手となることなのではありません。十二人の弟子たちが選ばれたのは、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とあります。それはとてつもなく大きな使命ではありますが、しかしこれらのことは、主イエスご自身がなさってきた働きです。主イエスは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々を見て、深く憐れみ、汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒されたのです。私たちはその主イエスの深い憐れみによるみ業に仕えるために用いられていくのです。それは神学校へ行って牧師にならなければできないことではありません。むしろ牧師になるというのは、一番まわりくどい、遠回りな道です。主イエスの深い憐れみのみ心に仕える道は、もっと身近な所にいくらでもあるのです。苦しんでいる人、悲しんでいる人に支えや慰めの言葉をかけていくこともそうです。先ほどのエゼキエル書の話との関連で言えば、群れの中の自分よりも弱い羊のことを配慮して、その人たちがきちんと牧草にあずかり、きれいな水を飲むことができるようにすることもそうです。自分がおいしい牧草にあずかり、水浴びして気持ちよくなることしか考えていないと、牧草は踏み荒らされ、水は濁ってしまうのです。それは要するに他の人のために自分の願いや欲望をがまんすることです。そしてそれはさらに言えば、人の罪や過ち、それによって自分が傷つけられたことを赦すということでもあります。そういう具体的な行動によって、私たちは主イエス・キリストの深い憐れみのみ心に仕える者となり、収穫のための働き手となるのです。そういう歩みへと、私たち一人一人が、それぞれの生きている場で招かれているのです。

選ばれて使徒となった人々
主イエスによって選ばれて十二使徒となった人々の名前がここに記されています。彼らは特別に立派な、優れた人たちだったのではありません。最初の四人、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネはガリラヤ湖の漁師でした。当時の人々から罪人の代表として忌み嫌われていた徴税人であったマタイの名もここにあります。さらには、主イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダの名もあげられています。彼らは、収穫のための働き手としての優れた資質を見込まれて使徒となったのではありません。彼らは皆、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていたのです。その彼らを、まことの羊飼いであられる主イエス・キリストが、深い憐れみのみ心によって探し出し、彼らの牧者となって下さったのです。羊のために命を捨て、十字架にかかって死んで下さる主イエスの、はらわたのよじれるような憐れみのみ心によって彼らは新しく生かされたのです。そして主が自分たちに続いてさらに多くの人々を呼び集めて下さる、その収穫のための働き手が送られることを祈る者となったのです。その祈りの中で彼らは、「私はあなたを選び、遣わす」というみ心を示されたのです。同じことが私たちにも起こります。大事なのは、自分に何が出来るかではありません。憐れみに満ちたまことの羊飼いである主イエスに見出された、その喜びの中で私たちも、収穫のための働き手として遣わされていくのです。

関連記事

TOP