主日礼拝

信仰があなたを救う

2024年7月28日  
説教題「信仰があなたを救う」 牧師 藤掛順一

イザヤ書 第40章27~31節
マタイによる福音書 第9章18~26節

マタイにおけるこの話は、マルコ、ルカと違う
 マタイによる福音書第9章18節以下には、主イエスが、死んでしまった一人の娘を生き返らせたという奇跡と、その話にはさまれて、十二年間出血が止まらずに苦しんでいた女性を癒した奇跡とが語られています。この話は、マルコによる福音書の第5章にも、ルカによる福音書の第8章にもあって、二つ目の話が一つ目の話の間にはさみ込まれているという語り方も同じです。三つの福音書を読み比べてみると、マタイよりもマルコとルカの方がこの話をずっと詳しく語っています。例えばマタイには「ある指導者」とだけありますが、マルコとルカはその人が会堂長でヤイロという名前だったことを語っています。また、十二年間出血が続いていた女性についても、マルコとルカは彼女がその病気のゆえにどんなに苦しんできたかを語っていますが、マタイはそういうことを語っていません。またマルコとルカは、群衆に紛れて後ろからそっとご自分の服に触れたその人を主イエスが捜し出そうとしたことを語っていますが、マタイにはそれはありません。また、死んでしまった少女に主イエスが語りかけた言葉も、マルコとルカにはあるけれどもマタイはただ、「少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった」とだけ語っています。このように、マタイはこの話の「あらすじ」しか語っていません。それだけでなく、内容も大きく変えられています。マルコとルカの話では、会堂長ヤイロは、病気で死にかけている娘を癒して下さいと主イエスに願ったのです。主イエスが彼の家に向かう途中で、「お嬢さんは亡くなりました」という知らせが届いた、となっています。しかしマタイでは、指導者は、たったいま死んだ娘を生き返らせて下さい、と主イエスに願っています。娘はもう死んでいるのです。マルコとルカでは、会堂長ヤイロの、主イエスに一刻も早く来てほしいという思いが伝わってきます。主イエスが途中で立ち止まり、自分に触れた女性を探し出そうと振り返った時にも、「こんな所で立ち止まらないで、どうぞ先生、急いでください」と思っていただろうし、娘が死んだという知らせが届いた時には、「間に合わなかった」とがっくりしたでしょう。マルコとルカの話にはそういう緊迫感や臨場感があるのですが、マタイにはそれが感じられません。そのように読み比べてみると、マタイ福音書を書いた人は、この話をそんなに大事思っていなかったので、あらすじだけで済ませたのではないか。だからこの話は、マタイではなくてマルコかルカの方で読んだ方がよいのでは、と感じるかもしれません。しかしそれは違います。マタイもこの話を大事にしており、マタイ独自のメッセージをこの話に込めているのです。それをご一緒に読み取っていきたいと思います。

マタイにおける話の流れ
 マタイ福音書におけるこの話の意味を考えるために大事なヒントになるのは、この話が置かれている位置です。マルコとルカにおいてこの話は、主イエスがガリラヤ湖を渡って対岸のゲラサ人の地に行き、そこで悪霊に取り付かれた人を癒した、という出来事に続いて語られています。マタイ福音書においては8章の終わり、9章の始めがその位置に当ります。しかしマタイはそこではなくて、9章18節以下にこの話を置いたのです。つまりマタイはこの話の前に、9章1~17節を入れたのです。そして18節の冒頭に「イエスがこのようなことを話しておられると」と書くことによってマタイはこの話を17節に続けています。その17節に語られていたのは、「新しい酒は新しい革袋に」ということでした。その話の発端は、主イエスの弟子たちは何故断食をしていないのか、という問いでした。主イエスはそれに答えて、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」とおっしゃいました。つまり、弟子たちは今、主イエスという花婿を迎えた婚礼の喜びと祝いの中にいるのだから、断食という悲しみを表現する行為は相応しくない、とおっしゃったのです。そして、この断食についての問答は、主イエスが多くの徴税人や罪人たちと一緒に食事の席に着いておられた時になされています。主イエスという花婿を迎えた喜ばしい祝いの席には、神の救いに価しないと考えられていた徴税人や罪人たちが招かれていたのです。主イエスは13節で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃっています。罪人たちが、主イエスのもとに招かれて、喜びと祝いの席に着いている、それが、主イエスによってもたらされた新しい酒でした。その新しい酒を入れるのに相応しいのは、悲しみを表す断食という古い革袋ではなくて、喜びと祝いという新しい革袋なのです。主イエスがそういうことを話しておられるところに、この指導者がやって来て、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と願った、それがマタイ福音書9章の流れです。

死の悲しみ、絶望と、主イエスにおける喜び、祝い
 このような話の流れによってマタイが描いているのは、罪人たちが主イエスに招かれてあずかっている喜び、祝いと、指導者の娘の死という悲しみ、絶望の現実との大きなコントラストです。主イエスのもとには、罪人が招かれて喜び祝っている新しさがあります。しかしその周りには、死に支配された人間の古い現実があるのです。その下で嘆き悲しんでいる人々がいるのです。十二年間出血が止まらずに苦しんでいる女性も、その苦しみの中にいます。主イエスがもたらした新しさ、罪人が招かれてあずかる喜びと祝いは、このような人間の悲しみ、苦しみ、嘆きという古い現実のまっただ中にあるのです。この苦しみの現実の中で、主イエスによる喜びと祝いはその真価を問われています。主イエスのもたらした新しさは、苦しみと悲しみという人間の古い現実を打ち破って、人を本当に新しく生かし、喜びと祝いをもたらすのか、そのことが問われているのです。マタイ福音書はそういう問いを意識しつつこの話を語っているのです。

悲しみ、絶望の中に、喜び、祝いをもたらして下さる
 指導者の悲しみと絶望の中での願いを聞いた主イエスはどうなさったでしょうか。マタイはいろいろなことを省いて話を簡略化していると申しましたが、19節には、他の福音書にないマタイ独自の言葉があります。「イエスは立ち上がり、彼について行かれた」という言葉です。主イエスは立ち上がったのです。それは徴税人や罪人たちと共に着いておられるあの宴会の席からです。その喜びと祝いの宴から立ち上がり、彼について行かれたのです。「ついて行く」というのは「従う」という言葉です。9節で、徴税人マタイが、主イエスに招かれて、立ち上がってイエスに従った、その「従った」と同じ言葉です。罪人を招く喜びの宴席から立ち上がった主イエスは、死の支配の下で嘆き悲しんでいる彼についてきて下さるのです。弟子が師について行くように、ぴったりと寄り添って共に歩んで下さるのです。そしてその歩みの中で、「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言って、彼女を生き返らせて下さるのです。人間の力では打ち勝つことのできない死の力、その支配を打ち破って下さるのです。それは、あの罪人たちが招かれてあずかっている喜びと祝いを、死の力に支配され、悲しみと絶望の中にいる人のもとにもたらして下さった、ということです。主イエスは、ご自分が実現した新しさを、悲しみに支配されているこの家にももたらし、悲しみと嘆きを追い出して、喜びと祝いを与えて下さったのです。主イエスが彼の家に着いて、「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」、それは悲しみを大袈裟に表すことによって家族を失った人を慰めようとしていた人々ですが、その人々を「あちらへ行きなさい」と言って追い出したことにはそういう意味があります。主イエスは、この家を覆っている死の悲しみと絶望を追い出し、喜びと祝いという新しさをもたらして下さったのです。

元気になりなさい
 その悲しみの家へと向かう途中で、十二年間出血の続く病気で苦しんでいる女性との出会いがありました。彼女の苦しみは単に病の苦しみだけではありません。出血が止まらないというのは、その女性が宗教的にいつも汚れた状態にあることを意味していました。そのために彼女は人々と共に祭りを祝うことができなかったのです。晴れの場所に出ることができず、日陰者として生きてこなければならなかったのです。ですから社会における彼女の位置は、徴税人や罪人たちと似たようなものでした。神の祝福から遠く、神のもとでの祝いや喜びから閉め出されていたのです。そういう苦しみの中に十二年間生きてきた彼女が、後ろからそっと、主イエスの服の房に触れました。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったと書かれています。それは迷信的な思いです。服に触れるだけで病気が癒されるなんていうことはありません。それは医学的にあり得ないからではなくて、主イエスによる救いとはそういうものではないからです。マタイはここで注意深い書き方をしています。マルコとルカでは、彼女が主イエスの服に触れたとたんに病気が癒されたとなっているのです。しかしマタイはそうではなくて、主イエスが振り向いて彼女に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた、そのときに彼女は癒された、と語っています。彼女が癒されたのは主イエスの服の房に触れたことによってではなくて、主イエスが彼女と出会い、言葉をかけて下さったことによってだったことをマタイは強調しているのです。そしてその主イエスの言葉にマタイは、これまたマルコとルカにはない一言をつけ加えています。「元気になりなさい」という言葉です。何気ない言葉ですけれども、ここに、マタイの深い思いが込められています。この言葉は、9章2節にもありました。中風で寝たきりの人が、友人たちによって床に寝かされたまま連れて来られた。それを見て主イエスは、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。その「元気を出しなさい」と本日の箇所の「元気になりなさい」は全く同じ言葉です。それは、「私があなたの病気を癒してあげるから元気を出しなさい」と言っているのではありません。2節で主イエスが「元気を出しなさい」に続いて語られたのは「あなたの罪は赦される」ということでした。「元気を出しなさい」は「あなたの罪は赦される」という恵みへの導入の言葉だったのです。この人の病の癒しは、その後、主イエスが罪を赦す権威を持っていることを示すためになされたのです。主イエスが与えて下さる救いの中心は、この「罪の赦し」です。「元気を出しなさい」はその救いの宣言だったのです。その言葉が、この女性に対しても語られたのです。それは主イエスが、ただ彼女の病気を癒して苦しみを取り除こうとしておられるだけではないこと示しています。主イエスは彼女にも、「あなたの罪は赦される」という救いを与えようとしておられるのです。つまり彼女をも、罪人たちを招く主イエスの喜びと祝いの食卓に招いておられるのです。徴税人や罪人たちと同じように、神のもとでの喜びや祝いから閉め出されてきた彼女を、主イエスはご自分のもとでの喜びと祝いにあずからせようとしておられるのです。あの喜びの宴席から立ち上がった主イエスは、死の支配の下に悲しみ嘆いている人と共に出かけ、死の支配から娘を解放して新しく生かして下さいました。それと共に、病によって喜びや祝いから遠ざけられ、日陰者として生きていた人をも、ご自分のもとでの喜びと祝いに、その新しさにあずからせて下さるのです。その喜びと祝い、新しさとは、「あなたの罪は赦される」という喜びであり、新しさです。あの中風で寝たきりだった人は、「あなたの罪は赦される」と宣言して下さった主イエスの力によって立ち上がりました。収税所に座っていた徴税人マタイも、主イエスの招きによって、その罪の中から立ち上がって弟子になりました。それと同じように、死に支配されていたこの指導者とその娘が、また病気の苦しみに縛られていたこの女性が、主イエスによって新しく生かされたのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた主イエスが、彼らを招いて、喜びと祝いにあずからせて下さったのです。マタイ福音書はそういう出来事としてこの話を語っているのです。

あなたの信仰があなたを救った
 そうであるならば、「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスがおっしゃった、その「信仰」とは何でしょうか。指導者は、主イエスが手を置いてくだされば、死んだ娘は生き返るでしょうと言いました。彼は主イエスには死者を復活させる力があると信じていた、それが彼の信仰なのでしょうか。あの女性は、主イエスの服の房に触れさえすれば治してもらえると思った、主イエスの癒しの力へのそのような素朴な信頼が信仰なのでしょうか。彼らはそのように主イエスの力を疑わずに信じたので、その信仰が彼らを救った。だからあなたがたもそのように主イエスの力を信じて拠り頼みなさい、と言われているのでしょうか。しかし、この指導者にしてもあの女性にしても、果してそのような確固たる信仰を持っていたのでしょうか。主イエスが手を置けば死んだ娘が生き返る、彼はそれを信じていたと言うよりも、悲しみ、絶望の中でそこに一縷の望みを抱いていたのではないでしょうか。あの女性が主イエスの服の房に触れたのも、そうすれば病気が治ると確信していたというよりも、正に溺れる者が藁をもつかむ思いで、主イエスによる癒しを願った、ということなのではないでしょうか。彼らはいずれも、確固たる信仰を持った模範的な信仰者などではありません。むしろ彼らは、この世の様々な苦しみ悲しみ嘆きの中で翻弄され、ずたずたにされているのです。彼らはその中から、主イエスに「助けてください」と必死の思いで願ったのです。そういう彼らの切なる願いを、主イエスが受け止めて、それを「あなたの信仰」と呼んで下さったのです。「あなたの信仰があなたを救った」というのは、この人たちが立派な信仰を持っていたから、その信仰の力で救いを得ることができた、ということではありません。そもそも、私たちの信仰が私たちを救うのではありません。私たちを救うことができるのは、私たちの信仰ではなく、主イエスの恵みです。主イエスが私たちを、罪人を招く喜びと祝いの宴へと招いて下さり、それにあずからせて下さる、その恵みによって私たちは救われるのです。その救いにあずかることにおいて、私たちの信仰が何らかの力を持つことはありません。私たちにできることは、主イエスに救いを求めて叫び願うことだけです。この二人がしたのもそういうことでした。その彼らの思いを、主イエスが受け止めて下さり、彼らと共に歩んで下さり、あるいは振り向いて出会って下さり、彼らの思いを「信仰」と呼んで下さったのです。そして本当はご自身の恵みによって与えて下さる救いを、「あなたの信仰があなたを救った、あなたは私を信じる者だ、その信仰によってあなたは救いにあずかっているのだ」と語りかけて下さったのです。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、私たちの信仰の持っている力を語っているのではなくて、私たちを信仰者と呼んで下さる主イエスの恵みを語っているのです。

少女は死んだのではない。眠っているのだ
 この女性の癒しも、指導者の娘の死からの復活も、彼ら自身の信仰によってではなくて、罪人たちを招いて喜びと祝いにあずからせて下さる主イエスの恵みによって実現しました。主イエスはその恵みを与えるために、祝宴の席から立ち上がり、悲しみ苦しみ嘆きの中にいる人々のもとに来て下さったのです。神の独り子であられる主イエスが、人間となってこの世に来て下さったというのはそういうことです。そしてその主イエスの歩みの行き着く先は、十字架の死でした。罪人を招いて下さる主イエスの歩みは、その罪人の罪を背負って十字架にかかって死んで下さることにまで及んでいるのです。またそうでなければ、本当に罪人を招いているとは言えないでしょう。ご自身が十字架の死への道を歩んでおられるからこそ、主イエスはこれらの奇跡を行うことができたのです。死んでしまった少女について、主イエスは、「少女は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいました。これも、主イエスご自身の十字架と復活抜きには考えられないことです。主イエスが、十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活された、そのことによって、主イエスを信じ、従っていく信仰者たちにも、死は終りではなく、目覚める時を待つ眠りであるという希望が与えられたのです。この少女の復活は、信仰者に与えられているその希望の先取りです。その希望を与えて下さったのが、主イエス・キリストの復活なのです。「少女は死んだのではない。眠っているのだ」という言葉は、主イエスの復活のゆえに、死は眠りであって、必ずそこから目覚める時が来る、という希望を信仰者に与える言葉となったのです。

自分の信仰にではなく、主に望みを置く
 私たちは主イエスが招いて下さっているので、主イエスのもとに集い、こうして礼拝をしています。その私たちの信仰は決して確かなものではないし、主イエスへの信頼も、この世の様々な苦しみや悲しみ、また私たちの罪の現実の中ですぐに揺らいでしまいます。しかし主イエスは、そのような弱い信仰の私たちを受け止め、「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて下さるのです。あなたは私を信じており、その信仰による救いを得ている、と宣言して下さるのです。この主の宣言によって私たちは、主に望みを置いて生きることができます。イザヤ書40章31節に、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とあります。「あなたの信仰があなたを救った」というみ言葉は、私たちを、自分の信仰にではなく、主に望みを置く者とすることによって、走っても弱ることなく、歩いても疲れない者とするのです。

関連記事

TOP