主日礼拝

新しい皮袋

2024年7月7日  
説教題「新しい革袋」 牧師 藤掛順一

ゼカリヤ書 第8章18~23節
マタイによる福音書 第9章14~17節

新しい酒は新しい革袋に
 マタイによる福音書第9章の17節には、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」という主イエスのお言葉が記されています。ここから「新しい酒は新しい革袋に」という言葉が生まれました。この当時、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れて熟成させつつ保存されていました。その過程で革袋とぶどう酒がなじんでいって安定するのです。新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、袋が酒の変化について行けずに破れてしまったようです。また主イエスは16節で、織りたての布で古い服に継ぎを当てたりはしない、というたとえも語られました。これも当時の人々の生活の知恵です。新しい布は洗濯をすると縮む、当時はその縮み方がひどかったので、新しい布で継ぎを当てると、洗濯した時にそこだけ縮んでかえってひどいことになるのです。このように、これら二つのたとえは、古いものと新しいものとは相入れないことを語っているのです。

古い革袋
 継ぎ当てのたとえは、古い服を守るために、という話ですが、ぶどう酒と革袋のたとえは、「新しい酒は新しい革袋に」、つまり中身が新しくなるなら入れ物も新しくならなければならない、ということです。主イエスが語っておられるのもそのことです。それはこの教えが語られた文脈から分かります。事は、ヨハネの弟子たちが主イエスのもとに来て言った言葉から始まったのです。彼らは、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うたのです。このヨハネとは、洗礼者ヨハネです。彼のことは3章に語られていました。荒れ野に住み、らくだの毛衣を着て革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていた、つまり非常に質素な生活をしていたのです。そして「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り、悔い改めの印として洗礼を授けていました。そのヨハネの弟子たちは、しばしば断食をしていたのです。彼らにとって断食は、自らの罪を嘆き悲しみ、悔い改めることの印でした。しばしば断食することで、彼らは自分の罪を深く悔いて、神に赦しを求めて祈っていたのです。またここには、ファリサイ派の人々もよく断食をしていると語られています。ファリサイ派の人々は、罪の悔い改めのためではなくて、神に従う敬虔さを表すために断食をしていました。ルカによる福音書の18章9節以下に出てくるファリサイ派の人は、週に二度断食していることを祈りにおいて誇らしく語っていました。ファリサイ派の人にとって断食は、良い行いの一つなのです。このようにヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々では、断食の意味は全く違っていました。しかし彼らは、断食して祈ることを大事にしていたことにおいては、イスラエルの古い信仰的伝統に立っていたのです。

新しい革袋
 それに対して主イエスの弟子たちは断食をしていなかった、そこに主イエスの新しさが現れています。もっとも主イエスご自身は、四十日間昼も夜も断食をしたと4章に語られています。主イエスご自身は断食をなさったのです。しかし弟子たちにそれを求めることはなさいませんでした。断食することを信仰においてなすべきこととはお考えにならなかったのです。これは旧約聖書以来のイスラエルの信仰的伝統からすれば驚くべきことでした。主イエスは全く新しい信仰のあり方を創り出されたのです。つまり革袋を新しくなさったのです。それは革袋だけが新しくなったのではありません。新しい革袋は新しい酒を入れるために用意されたのです。中身の酒が新しいから、そのための新しい革袋が必要になったのです。その新しい酒、新しい信仰の中身とは何でしょうか。それを語っているのが15節のみ言葉なのです。

婚礼の客
 主イエスはここで、ご自分の弟子たちが断食をしない理由をこう語られました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」。断食は本来、悲しみの表現です。ヨハネの弟子たちは、自分たちの罪を嘆き悲しみ、悔い改めの印として断食をしていました。そういう悲しみの表現はしかし、婚礼の宴席には相応しくありません。婚礼の席で、花婿を前にして悲しみを表すのは相応しくないし、失礼なことです。婚礼の席では、花婿と喜びを分かち合うべきなのです。だから私の弟子たちは断食をしないのだ、と主イエスはおっしゃいました。つまり弟子たちは今、婚礼の席にいる、花婿を前にしているのだ、ということです。その花婿とは、他ならぬ主イエスのことです。主イエスがこの世に来られたのは、花婿が到着した、ということです。花婿を迎えた客たちは、喜びの宴席に連なるのです。主イエスの弟子たち、主イエスを信じ従う信仰者たちはその客です。婚礼の客に相応しいのは、喜びと祝いの思いを表すことであって、悲しみを表す断食はその場に相応しくないのです。

徴税人や罪人たちと食事を共にしておられた主イエス
 主イエスの弟子たちは、悲しみと嘆きに生きているのではなくて、喜びと祝いに生きている。それが主イエスによる新しい酒、新しい信仰の中身です。信仰がそのように新しくなったのだから、それを入れる入れ物、信仰の生活も新しくなるのです。その新しい信仰の生活は、ただ断食をしない、ということではありません。14節の初めに「そのころ」とあります。ここは新しい聖書協会共同訳では「その時」と訳されています。こちらの方が訳としては正確です。つまりここは、13節までのところと同じ時、同じ場での出来事なのです。そこには、主イエスが多くの徴税人や罪人たちと食事を共にしていたことが語られていました。主イエスは、罪人と言われていた、言われていただけではなくて本当に罪人だった多くの人々と食事を共にしていたのです。食事を共にするというのは、自分はこの人たちと仲間だ、ということを表すことでした。だから、徴税人や罪人たちと食事を共にしようとする人はいなかったのです。しかし主イエスは、彼らと楽しく談笑しながら食べ、飲み、あるいは歌っておられたのです。楽しく宴会をしておられたのです。その時そこにヨハネの弟子たちが来て「私たちはよく断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちはしないのか」と言ったのです。これは、楽しい宴会の席に水をさし、白けさせるふるまいです。そこには、弟子たちに対してと言うよりも主イエスご自身に対するある批判が込められています。神の教えを説いている人がこんな宴会をしていていいのか、もっと真剣に自分の罪を嘆き悲しむことを教え、悔い改めを勧めるべきではないのか、という批判です。

私たちの覚える葛藤
 私たちも、こういうことで葛藤を覚えることがあります。私たちは、主イエス・キリストによる罪の赦しにあずかっています。それは自分が罪人であることを認めて悔い改めることです。主イエスもヨハネと同じく、「悔い改めよ、天の国は近づいた」とお語りになりました。信仰者として生きるとは、自分の罪をしっかり見つめて、それを嘆き悲しみ、神による赦しを求め、主イエスによって与えられた赦しの恵みをいただくことです。私たちはそのことを大切にしていますが、その一方で、そのようにいつも自分の罪を見つめ、悔い改めて生きるというのは、堅苦しい、息の詰まるような生活だ、と感じることがあります。自分は罪人です、自分には罪があります、とばかり言っているのは、陰気な、喜びのない生活ではないか、そこでは喜んだり楽しんだりして生きることは否定され、例えば楽しい宴会の席に連なることには後ろめたい思いを抱かなければならなくなるように感じるのです。私たちはこの二つの思いの間で板挟みになっているのではないでしょうか。そしてそこでの軸足の置き方が人によって違っていて、ある人は、教会は礼拝と祈りの場なのであって、楽しみや娯楽のようなもの、ましてや宴会などは相応しくないと考え、ある人は、そのようないわゆるピューリタン的な生き方に反発して、キリスト信者はもっと人間らしく大らかに生きるべきだと主張する、という対立が起るのです。しかし私たちは、本日の箇所で主イエスがお示しになった新しい信仰のあり方をしっかり受け止めなければなりません。主イエスは罪人たちを招いて、楽しく宴会をなさったのです。悲しみの印である断食よりも、このような宴会の方が、主イエスの弟子たちに相応しいとおっしゃったのです。それこそが、主イエスによってもたらされた新しい信仰のあり方です。主イエスの弟子として、主イエスを信じ従う者として生きるとは、このような喜びと祝いに生きることなのであって、悲しみや嘆きの中で暗い陰気な顔をして生きることではないのです。

主イエスが招いて下さっている宴席
 しかしそこで同時に見つめなければならないのは、この宴会は、それに相応しくない者たちが恵みによって招かれた宴会だった、ということです。主イエスは徴税人や罪人たちと共に宴会の席に着き、彼らと楽しい食事の時を過ごされたのです。この喜び、祝いの席は、罪の悔い改めから生まれたのです。徴税人であったマタイが主イエスの弟子となったことを私たちはこの前のところで読みました。罪の中に座り込んでいたマタイが、立ち上がって主イエスによる赦しにあずかり、新しく生かされていった、そういう人生の大転換が、つまり悔い改めが、主イエスの語りかけによって起ったのです。そのマタイが、自分と同じ徴税人や罪人たちを招いてこの宴席を設け、主イエスもそこに連なっておられたのです。それは主イエスも彼らを招いて下さったということです。つまり主イエスがこの宴会の席に着いておられるのは、決して、罪の悔い改めをないがしろにしたということではありません。人間の罪を見つめることをやめたのではないし、いつもそんなことばかり見つめていると暗くなるから、たまには楽しくパーっとやろう、ということでもありません。主イエス・キリストは、私たち人間の罪を深く見つめておられ、私たちがその罪の中から立ち上がり、悔い改めて新しく生きることを心の底から願っておられるのです。その私たちの救いのために、ご自分の命をも献げようとしておられるのです。そのような思いによって主イエスはご自分の宴席へと私たちを招いて下さっているのです。この後あずかる聖餐は、主イエスがそのようにして私たちを招いて下さっている喜びの宴を表しているものです。私たちには、主イエスの宴席に連なる資格など全くありません。しかし主イエスは、ただ恵みによって私たちの罪を赦し、この宴へと招いて、「私と共に喜び楽しもう」と言って下さっているのです。それゆえに私たちは心から感謝して、この喜びの宴に連なるのです。洗礼を受けて、聖餐にあずかる者となるとはそういうことです。主イエスの恵みによる招きに応えて、主イエスが設けて下さった喜びと祝いの宴に加わって生きる、それが、主イエスが十字架の死と復活によってもたらして下さった新しい信仰の生活なのです。

新しさを失うなら
 もしも私たちが、この主イエスの恵みによる招きを見失って、自分の清さや正しさによって、あるいは自分の罪を悔い改めによって信仰の生活を築こうとするならば、私たちはたちまちこの喜びと祝いを失います。主イエスがもたらして下さった新しさを失って、古い、断食の世界に逆戻りしてしまうのです。それはファリサイ派の人々のように、自分はこれだけ断食をしている、ということを誇りとして、自分のように断食をしていない人を裁いていくことかもしれません。あるいはヨハネの弟子たちのように、自分の罪を真剣に見つめ、悔い改める思いで断食に励む中で、真剣に悔い改めていない、と思う人々を裁き、批判するようになることかもしれません。断食によってであれ、何か他のことによってであれ、自分のしていることによって神の前に正しい者として立とうとする、立てると思う、というのが古い信仰のあり方、古い革袋なのです。そういう歩みをしていると、ファリサイ派の人々のように、徴税人や罪人と同席するなどまっぴらご免だ、となるのです。あるいはヨハネの弟子たちのように、信仰者が宴会のようなこの世の喜びや楽しみに興じているのはよろしくない、と批判することになるのです。しかし主イエスによってもたらされた新しさは、全く相応しくない罪人が、ただ神の恵みによって招かれて、花婿主イエスのもとで祝宴にあずかることができる、ということです。この新しい酒に相応しいのは、悲しみや嘆きを表す断食ではなくて、喜びと祝いなのです。そしてこの喜びと祝いの宴は、主イエスが招いて下さった徴税人や罪人たちが、感謝のうちに喜び楽しむものです。主イエスによって招かれた罪人どうしが、お互いに裁き合ったり批判し合ったりするのではなくて、感謝と喜びを共有する交わりを築き、共に生きていくことの土台がここにあるのです。

花婿が奪い取られる時
 花婿主イエスのもとでの祝宴に招かれている信仰者は、このように喜びと祝いに生きるのです。しかし15節後半には謎のような言葉があります。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」。これはどういうことなのでしょうか。「花婿が奪い取られる時」とはいつのことなのでしょうか。単純に考えればそれは、主イエスが弟子たちから奪い取られて逮捕され、十字架につけられて殺される時、ということになるでしょう。しかしそれだと、主イエスの逮捕から復活までの数日間は断食をする時だ、ということになり、私たちとは関係ない話になります。ですからこの「花婿が奪い取られる時」は、復活した主イエスが天に昇ってから、この世の終わりにもう一度来られる時まで、と考えた方がよいと思います。ということは、私たちは今まさに「花婿が奪い取られている時」を生きているのです。その「奪い取られる」というのは、目に見えるお姿としては、ということです。今私たちは、主イエスをこの目で見ることはできません。主イエスと共に食事の席に着くこともできません。目に見えるお姿としては、私たちは主イエスを奪い取られているのです。しかしそれは主イエスが私たちと共におられないということではありません。この福音書の最後の28章20節で、復活した主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さっています。目には見えないけれども、主イエスはいつも私たちと共にいて下さるのです。しかしそれは誰が見ても明らかなことではありません。信じるしかないことです。そこには疑いも生じます。様々な苦しみや悲しみによって信仰が動揺してしまうことも起ります。私たちはそういう試練の中を忍耐して歩んでいかなければならないのです。その試練の中で信仰における忍耐を養うために、断食をすることには意味があるのです。断食は、ただ食を断つことが目的ではなくて、祈るためです。真剣に祈るために断食をすることは、教会の歴史においてある位置づけを持ってきました。私たちは断食して祈るという習慣を受け継いではいませんが、私たちなりの仕方で、祈りに生きるための、目には見えないけれども共にいて下さる主イエスとの交わりに生きるための努力をすることは必要なのです。そういう努力を通してこそ、花婿主イエスが共にいて下さる喜びと祝いに生きることができるのです。

神があなたたたちと共におられる
 先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所、ゼカリヤ書8章18節以下には、イスラエルにおいて、悲しみ、嘆き、悔い改めの印であった断食が、喜び祝う楽しい祝祭の時に変わる、という預言が語られています。断食が祝祭に変わるのは、最後の23節にあるように「神があなたたちと共におられる」ということが明らかになることによってです。神が本当に共にいて下さるなら、私たちの歩みは、喜び祝う楽しい祝祭となるのです。主イエス・キリストがこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、この預言は実現しています。「神があなたたちと共におられる」ことが、主イエスによって実現しているのです。それゆえに私たちの歩みは、もはや悲しみや嘆きの歩みではなく、喜びと祝いの歩みです。主イエスによって与えられたこの新しさを、私たちは信仰と生活においてしっかりと身に着けていきたいのです。そのためには、主イエスが罪人である自分を招いて喜びの宴席に着かせて下さっていることをしっかり受け止めなければなりません。そのためには、この喜びの宴に、自分が赦せないと思っているあの人も、主イエスによって赦されて共に招かれていることを受け止めなければなりません。それを受け止めることによって、私たちは新しい革袋となるのです。そしてそこにこそ「神があなたたちと共におられる」ということが明らかになっていくのです。23節には「その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ』」とあります。あらゆる言葉の国々の人とは、イスラエルの民でない外国人、つまりまだ神を信じていない人々です。その人々十人が一人の信仰者に「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ」と言う。そういう素晴らしい伝道がなされていくというこれは約束です。私たちが、主イエスによって与えられる新しさに本当に生きていくなら、新しい酒に相応しい新しい革袋となるなら、そういうことが起るのです。 

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