11月26日主日礼拝
説 教 「富は天に積め」 牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第40編1-12節
新 約 マタイによる福音書第6章19-21節
山上の説教の中心は「主の祈り」
マタイによる福音書の第5章から第7章の「山上の説教」を主日礼拝において読み進めています。山上の説教の中心は「主の祈り」だということを、これまでに何回かお話ししました。主の祈りを中心として、それを前後から包み込むように教えが語られているのです。主の祈りを直接包んでいるのは6章の1~18節です。そこには、施し、祈り、断食という、信仰に基づく善い行いとされていた三つのことについて、それらのことを「見てもらおうとして、人の前で」するな、と語られていました。善い行いを人の前で、人に見てもらおうとしてするとそれは偽善に陥る、隠れたことを見ておられる神のみ前でこそしなさい、と教えられていたのです。その二番目の「祈り」についての教えの中で、「このように祈りなさい」と語られたのが「主の祈り」でした。「主の祈り」を中心に、「施し、祈り、断食」についての教えが語られていたのが6章1〜18節であり、そこが「山上の説教」の中心部分なのです。]
主イエスに従う者たちの新しい生き方
この中心部分をさらに包んでいる部分がその前と後にあります。前の部分が5章の21~48節で、本日の6章19節以下が後の部分です。5章21~48節には、「律法にはこう教えられている、しかしわたしは言っておく」という形で、旧約聖書の律法を完成させる主イエスの教えが語られていました。主イエスによって天の父である神の子とされた者たちは、律法を自分の努力で守っている律法学者やファリサイ派の人々にまさる義、つまり正しさに生きることができるのだ、ということがそこには語られていました。つまり主イエスに従う弟子たちに与えられる新しい生き方がこの部分には語られていたのです。
本日の6章19節以下にも、主イエスに従う者たちに与えられる新しい生き方が語られています。つまりここは5章21~48節と対になっているのです。この19節からの部分は7章11節まで続いています。5章21〜48節と6章19〜7章11節が、「山上の説教」の中心部分である6章1〜18節を前と後ろから包み込んでおり、そこには、主イエスを信じる者に与えられる新しい生き方が教えられているのです。本日から、その部分の後半に入るのです。
周到に考えられた構造
ところでこの後半の部分は7章11節まで続くと申しました。7章11節と12節の間には段落がありませんが、そこには内容的に区切りがあるのです。そのことはそこへ来た時にお話しします。今日のところは、5章21〜48節と6章19〜7章11節とが前後から枠を作っており、山上の説教の中心部分を包み込んでいるのだ、ということを指摘しておきたいと思います。そして面白いことに、5章21〜48節と6章19〜7章11節は、長さが同じなのです。原文のギリシャ語の聖書で数えてみると、この二つの部分はぴったり同じ行数になっています。そのことからも、この二つの部分が対になっており、枠を作っていることが分かります。山上の説教の中心は主の祈りであり、それを直接包み込んでいるのが6章1〜18節であり、その前後に、それぞれ同じ長さの部分があって、主イエスを信じる者に与えられる新しい生き方がそこに語られている。山上の説教にはこのように周到に考えられた構造があるのです。
富は地上にではなく天に積め
分かり難い話をしてきましたが、ここまでの話は忘れていただいて構いません。大事なことは、本日の19節から、主イエスを信じる者に与えられる新しい生き方を語っている部分の後半に入る、ということです。その最初に語られているのは、「地上に富を積んではならない」という教えです。「富」というのは、私たちが持っている有形無形の財産ですが、さらに深く見つめるならばそれは、私たちが拠り所としているもの、これがあれば人生は支えられると思っているもの、これを失うまいと大切に守っているものです。その富をどこに積むか、どこにそれを蓄えるか、が問われているのです。
主イエスは「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」とおっしゃいました。確かに、地上に蓄えられた富は失われたり、目減りすることがあります。銀行や証券会社だって破綻する時代です。地上に積んだ富は失われてしまうことがある、ということを私たちは知っているのです。
だから主イエスは、「富は、天に積みなさい」と言われます。「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」。天に積んだ富は失われることも目減りすることも盗まれることもない。地上の銀行は破綻することがあるが、天の銀行は決して破綻しない、そこに預けたものはしっかりと守られ、必ず、豊かな利息がついて戻ってくる、ということでしょうか。しかしいったいどうしたら、天の銀行に口座を持ち、そこに預金をすることができるのでしょうか。
自分の持ち物を売り払って施す
ルカによる福音書の第12章に、ここと同じようなことが語られています。33節です。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。ここには、擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積むためにはどうすればよいかが示されています。それは、「自分の持ち物を売り払って施す」ことです。自分の富、財産を売り払って貧しい人に施すことによって、富を天に積むことができる、と主イエスは言っておられるのです。
自分の持っているものを売り払って貧しい人、困っている人に施すというのは、素晴らしい愛の行為です。自分を犠牲にして人のために尽くすという愛の行為をすることによって、富を天に積むことができる、天の銀行に預金をすることができる、と主イエスは言っておられるのでしょうか。富を天に積む、ということを私たちはそのように理解しがちだと思います。善い行いをして人のために尽くすことによって、天の銀行に預金をすることができる。そうしたら神が利息を付けて返してくれる、つまり良い報いを与えてくれる。それを期待して私たちは善い行いによって天に富を積もうとしているのではないでしょうか。
天に富を積むとは
しかし私たちのそういう思いと、主イエスが言っておられることとはすれ違っています。主イエスが言っておられるのは、自分の持ち物、つまり自分の富を売り払えということです。富とは先ほど見たように、私たちが拠り所としているもの、人生の支えだと思って大切に守っているものです。それを売り払うとは、それを手放すことです。そうしたらその富はなくなります。つまり主イエスが求めておられるのは、私たちが拠り所としている富を手放しなさい、それを拠り所とすることをやめなさい、ということなのです。
そして主イエスは、天の銀行に善い行いを預金すれば、神が良い報いを与えてくれる、とは一言も言っておられません。だから私たちの思いと主イエスの教えはすれ違っているのです。私たちは、自分の富をしっかり確保して、それを人生の土台、拠り所としたいと思っています。その一環として、善い行いという富を天に積んでより確かな拠り所を得ようとしているのです。しかし主イエスは、その自分の富をむしろ手放し、捨てることを求めておられるのです。様々な意味での自分の財産を拠り所とすることをやめなさい、と言っておられるのです。つまり、富を天に積むということを、善い行いをして天の銀行に預金をすることと捉えるのは間違いです。「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という主イエスの教えのポイントは、「施す」という善い行いをすることにあるのではなくて、自分の富を手放すことによって、自分の持っているものに拠り所、安心、確かさを求めることをやめることにあるのです。そこで手放すべき富には、善い行いも含まれます。善い行いをすることをやめなさいということではありません。人のために愛の業をすることは大切です。しかしそれを自分の富、豊かさとして、それを拠り所、支えとすることをやめなさい、と主イエスは言っておられるのです。つまり愛の業をすることによって自分がより豊かな者、立派な者になることを拠り所とすることをやめなさいということです。それはこれまでの所に語られてきた、「見てもらおうとして、人の前で」善い行いをしようとする偽善への戒めとも繋がることです。偽善者たちは、人の目の前で良い行いをすることによって、自分の善い行いを誇り、それを拠り所としているのです。主イエスは、そのように人の目を意識して、人との比較において確かめられる富、豊かさは、天ではなくて地上に積まれている、それらは虫が食ったり、さび付いたり、盗まれたりする、本当には頼りにならないものだ、と言っておられるのです。
天の父である神の恵みに拠り頼む
天に富を積むとは、そういう地上の富を手放すこと、自分の持っている豊かさを拠り所とすることをやめることです。それでは何を拠り所として生きればよいのか。それは天の父である神の恵みです。自分の豊かさに拠り頼むことをやめて、天の父である神の恵みに拠り頼む者となること、それが天に富を積むことなのです。この教えは、山上の説教の冒頭に、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と語られていたのと同じことです。「心の貧しい人」とは、自分の心に何一つ豊かさを持っていない、拠り頼むべき富を持っていない、ただ神の恵み、憐れみにすがって生きるしかない、そういう人です。つまり地上に蓄えられた富を全く持っていない人です。その人こそ、幸いなのです。天の国はその人のものだからです。それは、天の父である神がその人に恵みを与え、養い、導いて下さるということです。この幸いに生きることこそが、富を天に積むことに他ならないのです。
「思い悩むな」
ルカによる福音書は、実はそのことをマタイよりももっとはっきり分かる形で述べています。もう一度ルカの12章に戻りたいと思います。先程は33節だけを読みました。しかしこの教えは、22節からのつながりの中にあるのです。22節以下には、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」という教えが語られています。何故そのように思い悩まないでよいのかというと、あなたがたの父である神が、あなたがたを養って下さるからです。32節には、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とあります。父である神は喜んで、子として下さった私たちを養い、導き、守って下さるのです。そのことを受けて33節に「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と教えられているのです。ということはこれは、自分のものを犠牲にして人のために尽くすという愛の行為をしなければいけない、という教えではありません。喜んで神の国を下さる、私たちを養い、導いて下さる、その父なる神に全てを委ねて、その恵みに拠り頼んで生きなさい、ということです。神が天の父として、私たちを責任をもって養い導いて下さる、その恵みに信頼して、安心して生きる中でこそ、自分の持ち物を売り払って施すことができるのです。つまり自分の富を自分のものとして確保しておこうとするのではなく、それを他の人のために用いていくことができるのです。富を天に積んで生きるとは、天の父なる神の恵みに信頼して、自分が何を持っているか、持っていないかと思い悩むことなく生きることなのです。この「思い悩むな」という教えは、マタイにおいてはこの後6章の終りに出てきます。本日の箇所の「天に富を積め」という教えが、この「思い悩むな」という教えと深く繋がっていることを意識しておきたいのです。
主イエス・キリストによる神の恵み
天に積まれた富は、虫が食うことも、さび付くこともなく、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない、ということの意味も、このことからはっきりします。天に積まれた富とは、父なる神の恵みです。それは、失われることもなければ、目減りすることもないのです。私たちが自分のものとして蓄えている富は、財産であれ、善い行いであれ、失われていくもの、本当には頼りにならないものです。しかし神の恵みはそうではない。そのことを私たちは、主イエス・キリストによって示され、知っています。神の恵みは、独り子イエス・キリストによって私たちに与えられています。神はその独り子主イエスを、私たちと同じ人間としてこの世に生まれさせて下さいました。それが第一の恵みです。来週から、そのことを喜び祝うクリスマスに備えるアドベントに入ります。そしてクリスマスにこの世に生まれて下さった主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。それによって、神に背いている罪人である私たちが、赦されて神の恵みのもとに迎えられたのです。それが第二の恵みです。さらに神はその主イエスを死者の中から復活させ、新しい、永遠の命を与えて下さいました。それによって、主イエスを信じ、主イエスと結び合わされて生きる私たちにも、肉体の死を超えた彼方に新しい命、永遠の命に生きる希望が与えられたのです。それが第三の恵みです。そしてさらに、復活して天に昇られた主イエスが、もう一度この世に来て下さり、それによって、今は隠されている神の恵みのご支配があらわになり完成する時が来る、という希望も与えられています。これが第四の恵みです。クリスマスに備えるアドベントは、この主イエスの再臨、第二の到来を待ち望む時でもあります。主イエス・キリストによって示され、与えられたこの父なる神の恵みは、どのようなことがあっても決して失われたり、目減りすることはないのです。このような決して失われることのない富を、主イエスが私たちのために天に積んで下さいました。その天の富を拠り所として生きる時に私たちは、自分の豊かさを自分の力でこの地上に積み上げ、それを誇りや拠り所とすることから自由になって、感謝と喜びをもって新しく生きていくことができるのです。
あなたの富のあるところに、あなたの心もある
しかし主イエスが「富は天に積め」と言っておられるのは、私たち自身が富を天に積むようにと命じておられる、ということです。主イエスご自身が私たちのための富を天に積んで下さったことと、このことはどう関係するのでしょうか。21節の「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」というみ言葉からこのことを考えることができます。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」というお言葉は「あなたが富として寄り頼んでいるもの、最も大事にしているもの、そこにあなたの心は向いている」という意味でしょう。そこからさらに言えるのは、「あなたが富として寄り頼んでいるのが自分の豊かさであるなら、あなたの心は自分自身へと向いている。もしそれが天の富、神の恵みであるなら、あなたの心は神へと向いている」ということです。つまりここで私たちに問われているのは、あなたは何を富として拠り頼んでいるのか、あなたの心はどこに向いているのか、ということです。その問いに対して、父なる神が主イエスによって実現して下さった恵みこそが私の富です、それこそが私の拠り所です、と答えること、それが、私たちが富を天に積むことなのです。そうではなくて、自分の持っているいろいろな意味での豊かさになお拠り頼み、自分の富を拠り所として生きようとしているならば、私たちは地上に富を積んでいることになります。天に富を積んでいるのか、それとも地上に富を積んでいるのかは、私たちが、何を富として、どこに心を向けて生きているか、ということなのです。
富を天に積みつつ生きる
本日は、詩編第40編が共に読まれました。この詩は、富を天に積みつつ生きている信仰者の歌です。その冒頭に、「主にのみ、わたしは望みをおいていた」とあります。「富を天に積む」とはこういうことです。主にのみ望みを置いて、富を天に積んで生きている者の幸いをこの詩は歌っています。その6,7節に「わたしの神、主よ。あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを、わたしは語り伝えて行きます。あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました」とあります。主なる神はこの詩人に、「多くの不思議な業」によって、「わたしたちに対する数知れない御計らい」を示して下さいました。つまり彼は神の恵みを豊かに体験しているのです。彼が体験した恵みとは、神が、いけにえや供え物を求めるのではなくて、彼の耳を開いて下さった、ということです。主なる神は彼に、いけにえや供え物を求めるのでなく、つまり善い行いをして神に仕えることを求めるのではなく、彼の耳を開いてみ言葉を聞かせて下さったのです。そのみ言葉を聞いた彼は、8節で「そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されております」と語っています。「わたしのことは巻物に記されている」、それは、神の救いのご計画の中に自分の名がしっかりと書き記されているということです。このことこそ、神のみ言葉によって彼が示されたことです。つまり彼はみ言葉によって、自分のための富が天に、神のもとにしっかりと積まれていることを示されたのです。この詩人のように私たちも、自分のための豊かな富が、主イエス・キリストによって天に、神のもとに蓄えられていることを、毎週の礼拝において、み言葉によって示されています。だから私たちも、み言葉に信頼して、主にのみ望みをおいて、富を天に積みつつ生きることができるのです。