主日礼拝

心の清い人々は幸いである

「心の清い人々は幸いである」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第51編1-14節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章8節
・ 讃美歌:297、520

私たちの感じ方
 「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」。本日はこの主イエスのみ言葉に耳を傾けたいと思います。私たちはこのみ言葉をどのように受け止めているでしょうか。心の清い人、常に純粋な心を持って生きることができる人は本当に幸いだろうな。でも自分の心は清くない。不純な思いに満ちている。だからこの幸いは私にはない。現に私は神を見たことなんてない。私のように心が汚れている者は神を見ることなどできないのだ。何とか今より少しでも心の清い人になりたいと思って教会に通い、聖書を読み、祈っている。それによって少しでも心の清い人になって、この幸いに近づきたいと思うが、なかなかそうなれない…。そんなふうに私たちは感じているのではないでしょうか。つまり私たちは、心の清い人になろうと努力することが信仰であり、この教えはその努力を励ますために語らている、と思っているのではないでしょうか。そういう読み方は正しいのかどうか、それは保留にしておいて、先ず、「心が清い」ということについて聖書がどのように語っているかを見ていきたいと思います。

神のみ前に出ることができるのは心の清い者
 「清いもの」と「汚れたもの」を区別することは、旧約聖書の大事な教えの一つです。例えば、こういう動物は清いから食べてもよい、こういう動物は汚れているから食べてはいけない、という規定があります。重い皮膚病にかかっている人や、生理中の女性は汚れているともあって、そういう人に触れると自分も汚れてしまう、とも語られています。イスラエルの民は、私たちには異様に思えるほどに、自分を清く保とうとしていたのです。それは何のためかというと、神のみ前に出るためです。少しでも汚れている者は、神のみ前に出ることができないのです。こういう感覚はイスラエルの人々のみのものではありません。日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清めます。神社には、お参りの前に手を洗う場所があります。神仏の前に出る時には身を清めなければならないというのは、人間誰でも感じることなのです。そのために水で手や体を洗うというのも、洋の東西を問わず共通しています。聖書にも、身を清めるために水で手や体を洗うことが命じられているのです。しかし水で洗うことによって落とすことができるのは体の表面の汚れです。神はむしろ心をご覧になります。ですから水で体を洗うことは、心の中の汚れをぬぐい去って神の前に出る備えをするための象徴的な行為です。ところが、元々はそういう象徴的なものだった清めの儀式が、次第に、それをすることによって清くなって神のみ前に出ることができる、と思わるようになってしまいました。主イエスの当時、人々の信仰の導き手であったファリサイ派あるいは律法学者たちはそういう間違いに陥っていました。彼らは、神の律法を守ることに熱心でしたが、それを外面的、形式的に守ることにこだわる「律法主義者」になっていたのです。主イエスはそのような人々を「偽善者」と呼んで批判しました。マタイ福音書の23章25、6節にこのようにあります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」。外側だけきれいにしても、内側が汚れに満ちていたのでは意味がないのです。本当の清さとは、むしろ内側の清さ、つまり心の清さです。心が清ければ、その清さはおのずと外にも現れてくるのです。「心の清い人々は幸いである」という教えも、このことを語っているのです。つまり「心の」に強調があるのです。神の前に出ることのできる清さとは、外側の清さではなくて、心の清さなのだ、ということです。詩編第24編の3節以下にもそのことが語られています。その3節に、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」とあります。主なる神のみ前に出て礼拝をすることができるのはどのような者か、という問いです。その答えが4節です。「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」。清い心を持つ人こそが、神のみ前に出て礼拝をすることができるのです。
 私たちは今、その礼拝の場にいます。神のみ前に出て、礼拝をしているのです。しかし私たちは果して、神のみ前に出るにふさわしい清い心を持っているでしょうか。外面的には、特に汚れたことはしていないかもしれません。周りの人々からは、「あの人は親切な、やさしい、立派な人だ」と思われているかもしれません。しかし神は、心の清さを求めておられます。人には隠しておくことができる心の中において、あなたは清い者であるか、と問われる時に、私たちは、自分には、神のみ前に出ることができるような心の清さはない、汚れた、罪深い者だ、と感じずにはおれないのではないでしょうか。

悔い改め
 その私たちが神を礼拝するためには、自分の罪を認めて神の赦しと憐れみを求める「悔い改め」が必要です。悔い改めなしに私たちは神の前に出て礼拝をすることはできないのです。しかし悔い改めるとはどういうことでしょうか。先ほど、詩編第51編が朗読されました。この詩は、ダビデ王が、自分の部下であるウリヤの妻に横恋慕して、策略をもってウリヤを殺し、彼女を自分のものにしてしまった、その罪を預言者によって指摘され、自分の犯した罪の大きさに恐れおののきつつ、神の憐れみと赦しを求めて歌った悔い改めの詩です。その9節に、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」とあります。また12節には、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」とあります。神に、私を清くして下さい、私の内に清い心を造り出して下さい、と願っているのです。これは身勝手な願いです。自分で罪を犯しておいて、神に清くして下さいだの、清い心を与えて下さいだのというのはあまりにも虫が好すぎると言わなければならないでしょう。けれども、取り返しがつかないほど深い罪に陥って恐れおののく時に、私たちはこのように祈るしかないのではないでしょうか。自分で努力して清い心を持つようにするなどということはもはやできないのです。身勝手と言われようが、何と言われようが、神の憐れみにすがるしかない、それが悔い改めるということです。そういう悔い改めによってしか、私たちは神のみ前に出て、礼拝をすることができないのです。

ファリサイ派の人と徴税人の祈り
 これらのことを見てくると、主イエスが求めておられる心の清さは、私たちが「心が清い」という言葉によって抱くイメージとはかなり違っていることが分かってきます。ここで、主イエスが語られた一つのたとえ話を読みたいと思います。ルカによる福音書第18章9節以下です。
 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」。
 二人の人が礼拝の場である神殿に上ったのです。しかし義とされて家に帰ったのは一人だけでした。義とされたとは、神が「心の清い者」と認めて下さり、その人の祈りを受け止めて下さったということです。それは、律法を熱心に守り、清い生活をしていると思われていたファリサイ派の人ではなくて、みんなから罪人と思われており、自分でもそう自覚していた徴税人でした。彼は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈ったのです。神によって心の清い者と認められたのは、この徴税人だったのです。

神を見つめているか、自分を見つめているか
 この二人はどこが違うのか。そこに、主イエスが「心が清い」ということで何を考えておられるのかを知る鍵があります。ファリサイ派の人は、神殿の聖所のまん前に堂々と立って、目を天に向けて祈っています。つまり彼は、自分は神の前に立つことができる清い者だと思っているのです。しかし彼は祈りにおいて何を語っていたのでしょうか。それは、自分がどれだけ正しい者で、罪から遠ざかり、良いことをしているか、です。この祈りにおいて彼が見つめているのは、自分なのです。自分がどれだけ正しい人間で、罪から遠ざかり、良いことをしているか、その自分の姿を彼は見つめているのです。つまり彼は言わば鏡に写った自分の姿を見つめているのです。目を天に向けてはいるけれども、彼の目が見ているのは神ではなくて自分です。それに対して徴税人は、遠く離れて立ち、目を天に上げようともしていません。しかし彼の心の目はただひたすら神を見つめています。罪人である自分からは目を離して、ただ神を見つめ、その憐れみを求めているのです。つまりこの二人の根本的な違いは、ひたすら神を見つめているか、神を見ているようで実は自分自身を見つめているだけなのか、ということです。そこに、神に義とされるか否かの、つまり心の清い人と認められるか否かの分かれ道があるのです。主イエスが言っておられる心の清い人とは、ただひたすら神を見つめ、神の憐れみを求める人です。神を見つめるのでなく、自分を見つめ、自分の正しさ、清さを見つめていく時、私たちは自分と人とを比べるようになります。そして人と比べ始めると、私たちの心は、ある時はあのファリサイ派の人のような誇りや高ぶり、優越感を抱き、ある時はその裏返しとしての劣等感や嫉み、うらみなどに陥ります。つまりいずれにしても、汚れた思いに満たされていくのです。

神をこそ見つめている人は、神を見る
 心の清い人とは、自分を見つめ、自分と人とを見比べることをやめて、神をこそ見つめる人です。「その人たちは神を見る」と主イエスはおっしゃいました。神をこそ見つめている人たちは、神を見るのです。つまりこの教えは、私たちが自分の心を清くしていって、汚れた思い、悪い思いをなくしていけば、それによって神のお姿を見ることができるようになる、ということではありません。自分で自分の心を清めていこう、汚れた思いをなくしていこうとする時、私たちは自分を、自分の心を見つめています。自分の顔を鏡に写して、ここがまだ汚れているとか、このシワを何とかしなければ、と言っているようなものです。主イエスが教えておられるのは、そのように自分の姿を見つめているのをやめて、神をこそ見つめ、神の憐れみを願い求めなさい、ということです。そこでこそ、あなたがたは神を見ることができる、神と出会うことができる、と主イエスは言っておられるのです。あの徴税人はひたすら神を見つめ、その憐れみと赦しを願いました。その彼は義とされて帰った。彼は神と出会い、その赦しと恵みをいただいたのです。つまり彼は神を見たのです。神を見ることが起るのは、何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによってではありません。むしろ罪や汚れに捕らえられていて、自分ではそこから抜け出すことができずにいる者が、その自分の罪の姿から目を離して、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈るところで、神を見ることが起るのです。そこで神がご自身を示して下さり、赦しを与え、義として下さるのです。

主イエスの十字架と復活によって
 そのことは、神の独り子、主イエス・キリストによって、とりわけその十字架の死と復活によって与えられている恵みです。私たちが深い罪と汚れの中で、しかしその自分の罪の姿から目を離して、神の憐れみと赦しを祈り求めることができるのは、主イエス・キリストが私たちの罪と汚れを全てご自分の身に引き受け、私たちの身代わりとなって十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったからです。今私たちはそのことを特に覚えるレント、受難節の日々を歩んでいます。来週はいよいよ受難週です。神の独り子主イエス・キリストが、罪に満ちている私たちのために、私たちに代って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、神は私たちの罪を赦して、義として下さったのです。そして父なる神は主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。主イエスの十字架の死と復活によって、神は私たちの罪とその結果である死を滅ぼして、私たちに新しい命を、主イエスと共に、神の子とされて生きる命を与えて下さったのです。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活を見つめていく時に私たちは、このような救いを実現し、与えて下さっている神と出会うのです。「神を見る」幸いがそこに与えられます。私たちが神を見るのは、夢や幻の中ではありません。大自然の中で神秘的な思いになって神を見るのでもありません。私たちは、主イエス・キリストにおいて、罪人である私たちを赦すために十字架かかって死んで下さった神を見るのです。そこから目を離さず、つまり自分が清いとか清くないとか、人と比べてどうだとか、そういうことに目を向けるのでなく、ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめる者こそが心の清い人です。神はその人にご自身を示して下さり、神を見る幸いを与えて下さるのです。

神を見る幸いは世の終わりに完成する
 しかしこの世を生きている私たちは、神をこの肉体の目で見ることはできません。主イエス・キリストによる救いも、目に見える仕方で与えられているわけではありません。私たちは、今は、信仰によって神を見るのです。神の救いも、信仰によらなければ分からないのです。つまり神の救いは、今はまだ隠されているのです。しかしその隠されている救いが顕わになる時が来ます。私たちが神を、顔と顔とを合わせて見ることができる日が来ます。神のご支配が、誰の目にもはっきりと明らかになる日が来るのです。それは、世の終わりに、復活して今は天におられる主イエス・キリストがもう一度この世に来て下さる時です。その時には、今は隠されている神のご支配と救いが顕わになるのです。そのことを、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の13章12節でこう語っています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。昔の鏡は今のようにクリアーにものを映すことはできませんでした。鏡に映ったものを見るとは、はっきりしない、おぼろげな姿を見ることでした。今私たちが信仰によって神を見ているのもそれと同じです。しかしその時には、世の終わりには、顔と顔とを合わせて、はっきりと、神を見ることができるのです。「その人たちは神を見る」という幸いは、世の終わりに完成するのです。

はっきり知られているように
 今は、鏡におぼろに映ったものを見ている、そのことをパウロは、「今は一部しか知らない」と言い替えています。今この世において私たちは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みのほんの一部しか知りません。しかし「そのときには」、つまり世の終わりには、神の救いの恵みをはっきりと、完全に知ることを許されるのです。パウロはそこで「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と言っています。口語訳聖書ではここは、「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」となっていました。私たちが神とその恵みを、はっきりと、完全に知ることができるのは、つまり「神を見る」幸いが完成するのは、この世の終わりにおいてです。けれども実はその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っていて下さるのです。私たちの全てを、罪も、汚れも、弱さも、苦しみも、悲しみも、その全てを神は知っておられ、その私たちに、独り子イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと新しい命を与えて下さっているのです。このように神が今既に、私たちの弱さも罪も汚れも全て、完全に知っておられ、その上でなお愛して下さっているから、私たちは、自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができるのです。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができるのです。

私たちに与えられている幸い
 自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではありません。外側の、人に見える部分だけは何とか取り繕って清く見せることができるかもしれませんが、心において清い者であることのできる人は一人もいないのです。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神をまっすぐに見つめて「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる、つまり悔い改めを与えて下さるのです。罪人である私たちは、悔い改めなしに神の前に出て礼拝をすることはできません。しかし神は主イエス・キリストの恵みによって私たちをその悔い改めへと招いて下さっているのです。だから私たちは、自分の罪や汚れから目を離して、神の憐れみと赦しを祈り願いつつ、つまり悔い改めて神のみ前に出ることができるのです。そしてそこで、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る幸いにあずかるのです。「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」。この幸いは私たちに与えられているのです。

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