主日礼拝

その星を見て喜びにあふれた

「その星を見て喜びにあふれた」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ミカ書 第5章1-3節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章1-12節
・ 讃美歌:51、75

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ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで
 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」。マタイによる福音書はイエス・キリストの誕生をこのようにのみ語っています。ルカによる福音書には、主イエスはベツレヘムの馬小屋で生まれたことと、どうしてそうなったかの事情が詳しく語られています。もっともルカは馬小屋とは言っておらず、生まれたイエスが飼い葉桶に寝かされたと語っているだけです。馬小屋かどうかはともかく、ルカは主イエスが宮殿のような所ではなくて、貧しさの中で生まれたことを語っているわけです。しかしマタイは、主イエスがお生まれになった時の状況を全く語っていません。ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムで生まれた、マタイは、主イエスの誕生については、この二つのことを語れば十分だと思ったのです。逆に言えばこの二つのことにマタイはとても重要な意味を見ているのです。その意味を探っていきたいと思います。

ユダヤのベツレヘム
 先ず、ユダヤのベツレヘムで、ということから見ていきます。聖書の原文の語順ではこちらの方が先なのです。主イエスがベツレヘムで生まれたことはルカ福音書も語っていますが、マタイはそこに「ユダヤの」をつけ加えています。ベツレヘムがユダヤにあることを知らない人がいるといけないから、ではないでしょう。「ユダヤのベツレヘム」という言い方は5節にもあります。メシア、つまり神が約束しておられる救い主はどこで生まれることになっているのかと問われた祭司長、律法学者たちが、「それはユダヤのベツレヘムです」と答えています。彼らがそう答えたのは、次の6節に引用されている旧約聖書の言葉のゆえです。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」。「ユダヤ」とはこの「ユダの地」のことです。「ユダの地ベツレヘム」から救い主が現れる、と旧約聖書に語られているのです。この6節は、先ほど共に読まれたミカ書第5章の1節です。しかしミカ書の言葉は「エフラタのベツレヘム」であって「ユダの地」ではありません。「ユダの地」はマタイがわざわざ書き加えたようです。それは何故でしょうか。「ユダヤ」という言葉は2節にもあります。東の国から来た占星術の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言ったのです。彼らは「ユダヤ人の王」の誕生を告げる星を見たので、はるばるその王を拝みにやって来たのです。マタイが「ユダヤのベツレヘム」とことさらに語ったのは、この学者たちの言葉との繋がりを示すためではないでしょうか。主イエスはユダヤのベツレヘムで生まれた、その時、ユダヤ人の王の誕生が、東の国の学者たちによって告げられたのです。つまり主イエスは、ユダヤ人の王として、ユダヤ人の地であるユダヤにお生まれになった。マタイはそのことを強調しているのです。

ヘロデ王の時代
 ユダヤのベツレヘムという言葉にそういう意味を見いだしていく時に、もう一つの言葉、「ヘロデ王の時代に」の意味も見えて来ます。主イエスは、ユダヤ人の王として、ご自分の国であるユダヤにお生まれになったのです。しかしユダヤはその時、「ヘロデ王の時代」だった。ヘロデという別の王がその地を支配していたのです。ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。イドマヤと言って、ユダヤ人と、旧約聖書に出てくるエドム人との混血による民族の出身です。そのヘロデがユダヤの王となっていたのは、当時この地を実質的に支配していたローマ帝国の後ろ立てによることでした。ローマはこの頃、初代の皇帝と呼ばれるアウグストゥスの下で、地中海世界全体におよぶ支配を確立していました。そのローマ帝国にうまく取り入る形で、ヘロデはユダヤの王としての地位を維持していたのです。そういうわけですから、彼の地位は非常に危ういものでした。そのために彼は、自分の王としての地位を脅かす者、あるいは脅かす恐れのある者を極端に警戒し、そういう人々を次々に排除していきました。親族をすら次々に殺していったと言われます。そのように、自分の王位を守ろうと必死になっているヘロデのもとに、東の国の学者たちによって、ユダヤ人の王の誕生の知らせが届けられたのです。3節に、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」とあるのは当然のことです。そこで王は、祭司長、律法学者たちを集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問うたのです。彼らはたちどころに、それはベツレヘムですと答えました。彼らの頭の中には聖書の言葉が全て入っているので、すぐに答えることができたのです。そこでヘロデは、学者たちをベツレヘムに遣わします。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。しかしそれは、王として生まれた幼子を見つけ出して今のうちに殺してしまうための口実でした。ユダヤ人の王として生まれた方を拝み、礼拝するためにやって来た学者たちを、ユダヤの王ヘロデは、その新しい王を殺して自分の王位を守るために利用しようとしたのです。「ヘロデ王の時代に」という言葉は、主イエスはこのような王の支配下にお生まれになったことを語っているのです。

今もヘロデ王の時代
 このことによってマタイは何を語ろうとしているのでしょうか。主イエスはひどい時代に生まれた、もう少しいい時代、いい王の下でだったら、あんなに苦労せずにすんだものを、ということでしょうか。そうではないでしょう。「ヘロデ王の時代」は、この時だけの特別な時代ではありません。私たちが生きているこの世は常に「ヘロデ王の時代」なのです。ヘロデ王の時代でなかった時など、世界の歴史にはありません。今現在のこの世界も、ヘロデ王の時代です。では現在のヘロデ王とは誰でしょうか。プーチン?、習近平?、岸田総理はそれほどでもない?、いえそういうことではありません。現在のヘロデ王とは、私たち一人ひとりです。私たち一人ひとりが、小さなヘロデとして、自分の人生という王国の王であろうとしている。そして、その王座を、誰にも明け渡そうとせず、それを脅かそうとする者を徹底的に排除しようとしている、だから私たちの人生も、今のこの時代も、「ヘロデ王の時代」なのです。

主イエスは私たちの王座を脅かす方
 主イエスがユダヤ人の王としてお生まれになったことによって不安を覚えたのはヘロデだけではなかったということが3節に語られています。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。新しい王の誕生の知らせにヘロデが不安を抱くのはわかります。しかしエルサレムの人々も、ヘロデと同じように不安を抱いたのです。それは、彼ら一人ひとりが、この知らせの中に、自分の王国を脅かすものを感じたからです。彼らはヘロデという暴君に支配されていましたが、ヘロデを本当の意味で自分たちの王とは思っていません。従っているのは上辺だけです。つまりヘロデの下で生きてはいても、彼らの本当の王はヘロデではなくて、自分なのです。ところが、東の国から来た学者たちは、ユダヤ人たちのまことの王の誕生を告げました。この王は、神から遣わわれた方として、神の力と権威をもって支配するのです。神のもとからそのようなまことの王が来たら、人々はもはやヘロデに対するように、上辺だけ従っておいて実は自分が王であり続けるようなことはもはやできないのです。ですから主イエスがユダヤ人のまことの王としてお生まれになったことは、自分が王であろうとしている者には、不安を与える出来事なのです。だからエルサレムの人々もヘロデと同じように不安を感じたのです。それは私たちも同じです。小さなヘロデとして、自分の人生の王になっている私たちも、まことの王である主イエスの誕生の知らせに不安を抱くのです。まことの王であられる主イエスが来られたなら、私たちはもはや自分が自分の人生の王であり続けることはできないのです。主イエスは私たちの王座を脅かす方なのです。

自分たちの王を喜び迎えようとしない神の民
 主イエスはユダヤ人の王としてお生まれになりました。ユダヤ人とは、主なる神の民です。6節の引用の最後の行に「わたしの民イスラエル」とあります。これがユダヤ人です。ユダヤ人とは、主なる神の民であり、主なる神に従って生きる人々なのです。そうであるならば、ユダヤ人たちは本来、主なる神が遣わして下さる王を待ち望んでいるはずです。そのユダヤ人たちが、主なる神から遣わされた王の誕生の知らせを聞いて不安を覚えるとは何事でしょうか。また4節には「民の祭司長たちや律法学者たち」が出てきますが、この民というのも神の民ユダヤ人のことです。その民の祭司や律法学者たちというのは、ユダヤ人が主なる神の民として、神に従って生きるための指導者として立てられているのです。ところが彼らがしたのは、ヘロデにメシアが誕生する場所を教えた、ということだけでした。彼らは聖書の知識を豊富に持っているので、メシアはベツレヘムで生まれることを知っていたのです。しかし彼らはこの正しい知識を、ヘロデが新しく生まれたユダヤ人のまことの王を殺してしまおうとすることの片棒をかつぐことに用いたのです。聖書の正しい知識を持っている彼らこそが、本来なら真っ先にこのまことの王を拝みに行き、民と共にその誕生を喜ぶべきなのに、彼らはそんなことは全く考えていません。つまり彼らは、主なる神の民の先頭に立って礼拝すべき者でありながら、その務めを全く果していないのです。主なる神の民であるはずのユダヤ人たちも、その先頭に立つはずの祭司や律法学者たちも、神がお遣わしになったまことの王を喜び迎えようとせず、受け入れようともせず、かえって不安を覚え、その王を抹殺しようとしている、そういう神の民の姿がここに描かれているのです。

異邦人の学者たちが主なる神を礼拝しに来た
 このユダヤ人たちと対照的なのが、東の国からはるばるやって来た占星術の学者たちです。彼らは勿論ユダヤ人ではありません。ユダヤ人たちが、あいつらは神に選ばれていないと蔑んでいた異邦人です。しかも彼らは占星術の学者でした。占星術という訳は適切とは言えません。彼らは、天体の動きを観測する、この当時の最先端の学者たちでした。しかし同時にそこには、主なる神の民であるユダヤ人たちにおいては厳しく禁じられている魔術や占いの要素もあります。つまり彼らは、神の民ではない異邦人であり、主なる神が禁じておられる厭うべきことをしている人々なのです。そのような人々が、ユダヤ人の王の誕生を知り、その王を拝むために、はるばる遠い道を旅して来たのです。「拝む」と訳されている言葉は、ひれ伏して拝む、礼拝するという意味です。つまり彼らはユダヤ人の王をまことの王として拝み、礼拝をするためにやって来たのです。それは本来、主なる神の民であるユダヤ人が真っ先にしなければならないことでした。そのことを、この異邦人の学者たちがしたのです。マタイはこのように、異邦人の学者たちと、主なる神の民であるはずのユダヤ人たちとが、神への礼拝の姿勢において全く逆転してしまっていることを描いているのです。

見せ掛けの、偽りの礼拝
 どうしてこのような逆転が生じてしまったのか。それは、神の民であるはずのユダヤ人たちが、「ヘロデ王の時代」を歩んでいるからです。それはヘロデが悪いと言うよりも、先ほど申しましたように、彼ら一人ひとりが小さなヘロデになっており、主なる神がお遣わしになったまことの王を迎えるのではなくて、自分が王であり続け、その王位は誰にも渡さない、という思いで生きているということです。私たちが、自分の人生の王は自分だと思って生きているなら、私たちは「ヘロデ王の時代」を歩んでいるのです。「ヘロデ王の時代」には、真実の礼拝は失われます。ヘロデは「わたしも行って拝もう」と言いました。この「拝もう」も礼拝するという言葉です。ヘロデも礼拝をしようとしているのです。しかしそれは見せ掛けの礼拝、まことの王を抹殺して自分が王であり続けるための礼拝です。私たちの礼拝はどうなのでしょうか。私たち自身が小さなヘロデとなっていて、見せ掛けの礼拝をしつつ、実はまことの王であられる主イエスを排除し、抹殺して、自分が王であり続けようとしている、ということがないと言えるでしょうか。私たちは今日から、ひさしぶりに讃美歌を一部共に歌う礼拝を再開しました。また今年のクリスマスには、三年ぶりに賛美礼拝を行おうと計画しています。それはまことに喜ばしいことです。しかし私たちがクリスマスにこの世にお生まれになった主イエスをまことの王としてお迎えし、そのみ前にひれ伏し、自らの王座を主イエスに明け渡して従う者となることがないならば、どんなに声高らかに讃美歌が歌われても、クリスマスを盛大に祝ったとしても、その礼拝はヘロデが「わたしも行って拝もう」と言っていたのと何ら変わらないものとなってしまうのです。

真実の礼拝の喜び
 そのような見せ掛けの、偽りの礼拝とは対照的な真実の礼拝をささげたのが、あの占星術の学者たちでした。彼らは、神の民の地であるユダヤからは遠く離れた自分たちの国で、自分たちの生活を営む中で、ふとしたことから、ユダヤ人の王の誕生を知ったのです。そんなこと自分には関係ない、と思っても不思議ではないのですが、しかし彼らは、自分たちの日常の生活を離れて、お生まれになったユダヤ人の王を礼拝するために旅立ちました。そこには、主なる神の不思議な導きがあったとしか言いようがありません。その神の導きを表しているのが、彼らが見た「星」です。彼らは星に導かれて、ということは主なる神に導かれて、主イエスのもとに来たのです。それは、教会に行ったことがない、聖書を読んだこともない人が、ふとしたことから教会や聖書のことを知り、行ってみようと腰を上げてやって来るのと同じです。そこにも、主なる神の不思議な導きがあるのです。そのように旅立った彼ら学者たちは、ユダヤ人の王は当然、王の都であるエルサレムにおられると思ってやって来ました。しかしエルサレムにいたのは、まことの王の到来を常に恐れ、自分の王座を守ることしか考えていない、偽りの王ヘロデでした。また、神の民であるはずのユダヤ人たちも、自分たちのまことの王の誕生を喜ぶどころかむしろ不安を抱くばかりでした。そのような神の民の姿に彼らは幻滅し、失望を覚えたでしょう。しかしその彼らをあの星が再び導いてくれました。つまり主なる神ご自身が彼らを、ベツレヘムの幼子イエス・キリストのもとへと連れて来て下さったのです。9、10節にこうあります。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。彼らは喜びにあふれた。それは、ヘロデやエルサレムの人々が不安を覚えたのと正反対です。自分が人生の王であろうとしている者には、主イエスの誕生は恐れや不安しかもたらしません。しかし主なる神の導きによって、主イエスと出会い、主イエスを自分のまことの王としてお迎えし、そのみ前にひれ伏して礼拝する者は、喜びにあふれるのです。彼らは、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。この三つの宝にはそれぞれ意味がある、と説明がなされることもありますが、しかし大事なことは、彼らが、自分にとって最も大切な宝を主イエスに献げた、ということです。それは、自分自身を献げたということです。彼らは自分の一番大切なものを献げることによって、主イエスを自分の王としてお迎えしたのです。この学者たちは東の国の王でもあったという伝説も生まれました。黄金、乳香、没薬は彼らの王としての権威の印だと考えることもできます。自分自身が王であった彼らが、王としての権威の印を主イエスにお献げして、自分が王であることをやめて、まことの王である主イエスの前にひれ伏したのです。それこそが真実の礼拝です。それによって彼らは大きな喜びにあふれたのです。私たちも、星に導かれて主イエス・キリストと出会い、そのみ前にひれ伏して真実の礼拝をし、自分が王であることをやめて主イエスを王としてお迎えする時に、彼らと同じ喜びにあふれることができるのです。

小さなヘロデである私たちのために
 しかし私たちは、教会に集って礼拝を守り、主イエス・キリストを信じる神の民とされていながらも、あのユダヤ人たちと同じように、小さなヘロデとなっており、まことの王であられる主イエスによって自分が人生の王であることができなくなってしまう、という不安を抱いてしまう、ということも現実だと思います。だから私たちはあの学者たちのように真実の礼拝をすることができず、あの大きな喜びにあずかることができない、それが私たちの罪の現実です。そのような罪人である私たちのところに、神の独り子である主イエス・キリストは、救い主として来て下さったのです。主イエスは、小さなヘロデである私たちの罪によって、苦しみを受け、十字架にかけられて、この地上から抹殺されたのです。しかしその死は、私たちの罪の赦しのための贖いの死、私たちの罪を背負っての、身代りの死でした。この主イエスの十字架の死と、そして父なる神が主イエスを復活させて下さったことによって、主なる神の救いの恵みが、私たちの罪に勝利したのです。このことによって主イエスは私たちのまことの王となって下さったのです。このまことの王は、ご自分の命を捨てて私たちの罪を赦して下さるという恵みによって私たちを支配して下さいます。主イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったことによって、このまことの王が来られたのです。星に導かれてこの主イエスを礼拝するところに、私たちの喜びもあふれるのです。

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