「主の御心」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第51編3-11節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第1章40-45節
・ 讃美歌 ; 220、456
主イエスは、様々な癒しの業を行われました。本日の箇所には主イエスが、「重い皮膚病を患っている人」を癒された出来事が記されています。この「重い皮膚病」という言葉は、以前は「らい病」と訳されていた言葉です。現在では菌を発見した人の名前をとってハンセン病と言われている病です。皮膚の組織が犯されて、重傷になると、指、鼻、耳などが、なくなっていくという病です。新しく印刷された聖書からは、「重い皮膚病」という訳語があてられています。この原文の言葉が、らい病にかぎられないことや、この病に対する差別があったことから、訳を改めたのです。現在では特効薬が開発されて直る病になっています。しかし、日本ではこの病の人々を隔離して収容した歴史があります。かつては、「天刑病」とも呼ばれ、この病の人は、天から刑罰を受けているのだととらえられていたのです。不治の病の人に対して神から罰を受けているという、理由によって、差別をしていたのです。「天刑病」というような言葉を聞きますと、何と理不尽な理由で、ひどい差別をしたことかとの思いにとらわれます。しかし、医療が発達したことにより様々な知識を得た時代を生きる私たちが、単純に、過去の人のこのような行いを非難するだけでいいわけではありません。このような思いは、私たちの内にも起こることです。いつの時代にあっても特定の病の人に対する差別は存在するのです。自分も感染する恐れがある病が存在すれば私たちも又差別をしてしまうことでしょう。そこには、きれい事ではすまされない、人間の現実があるのです。
主イエスの生きられた時代の「重い皮膚病を患っている人」もやはり、非常に厳しい境遇にありました。旧約聖書のレビ記には、次のように記されています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわれなければならない」。そして、続けて、「その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」とあります。この当時の重い皮膚病の人も又、人々と共にいることが出来なかったのです。そこには、医療技術の発達していない時代にあって共同体を感染から守るという実際的な理由もあったでしょう。皮膚に症状が現れると祭司に見せて、汚れているかどうかを判断してもらわなければならないのです。そして、汚れているとされると、イスラエルの共同体から追放されてしまうのです。この、皮膚病を現すヘブライ語は、「打つ」という言葉に由来するものなのですが、やはり、この病の人は、神から打たれた者として見られていたのです。
この人々の苦しみは、ただ宿営の外に住まなくてはならないということにとどまりませんでした。誰かが自分に近づいてきたならば、間違って自分に触れることがないように、「私は汚れた者です。汚れた者です」と言って、自分の病を知らせなければならなかったのです。この人に触れることは、触れた人も汚れたものになるということを意味していたのです。ですから、その人が、誤って自分に触れることがないように注意を促さなくてはならないのです。「わたしは汚れたものです」。それが、この人が人々に語ることが出来る唯一の言葉でした。この人は、自分に人が近づいて来るたびに、この言葉を語るのです。そして、その言葉を聞く全ての人が、自分の傍を離れていくのを見ているだけなのです。言葉というものは、まことの人格と人格の関係を作るためにあるものです。しかし、この人にとって言葉は、ただ関係を遮断するためのものでしかありませんでした。確かに、この人にとって病による肉体の苦しみは筆舌に尽くしがたいものであったでしょう。しかし、この人にとっての苦しみは、まさに、言葉によって隔たりしか生み出せないということにあったのではないでしょうか。人間が本当に人間らしく生きるということは、言葉によって語りあうことによって、隣人との間に人格的な交わりを形成することにあると言ってよいでしょう。しかし、この人々は、交わりを自ら絶つための言葉しか語ることが赦されていませんでした。それは、この人が、人々から完全に隔絶され、人間らしく生きえないことを意味しているのです。ここには、罪の中にある人間の姿があるのです。
この重い皮膚病を患っている人は、この時、自分から主イエスの側にやってきたと記されています。この行為の中にこそ、この人の主イエスへの信頼が現れていると言って良いと思います。この人は、人々が自分の側に来ないように呼ばわらなければならないはずの人です。しかし、自分から近づいていったというのです。律法の秩序に従えば、あってはならないことです。ルカによる福音書において、主イエスに重い皮膚病を患っている十人の人が「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんで下さい。』」と言ったことが記されています。この人々は、遠くに立ち止まったまま主イエスに呼びかけています。しかし、この人はそのような律法の秩序を乗り越えて、主イエスの下にやってくるのです。そして、ひざまずいて願います。主イエスのみ心に一切を委ね、そのみ心を求めたのです。この方こそ、確かに、私を救いうる方であるという態度がここにあります。私たちは、この姿の中に、神の御前に出て、礼拝する時に必要な唯一の態度を見ることが出来るように思います。この人は、マルコによる福音書における最初の礼拝者であると言われることがあります。律法によれば、決して赦されないことであり、罪であると知りながらも、ただ主イエスを信頼して、主イエスの前にひざまずく。この姿勢の中に礼拝者の姿勢が示されているのです。このように主イエスに委ねる時にこそ、罪の中にある現実にもかかわらず、主イエスから、遠く離れて立つのではなく、主イエスのもとでひざまずいて願うことが出来るのです。
この人は、主イエスに語ります。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。おそらく、この人が、病になって以来、一度も語ったことのない言葉です。他人に対して、「汚れた者です」としか語れなかったものが、それ以外の言葉を語ったのです。隔たりを作るための言葉ではなく、真の人格的な関係を作る言葉。主の御心を求める言葉です。「御心ならば」と言われています。「それがあなたの意志であるならば」、「もしあなたが望んで下さるならば」という意味の言葉です。この人は清くなるという、自分自身の願いについて、全く、主イエスに委ねきっているのです。この言葉は、この人が、自分で自分を清めることが出来ないことを知っていた人だったからこそ、語り得た言葉であると思います。隣人との間に隔たりを作る言葉しか語れない者だったからこそ、この方に自分の全てを委ねることができたのだと思います。もし、関係を築く言葉を自ら語りうると思っていた者であったら、自ら罪の救いを得られると思っていたものであったなら、決して「御心ならば」とは言わなかったでしょう。この人は主イエスを前にして、この方以外には、真の救いがないということを知らされたのです。自分自身の罪を、もはや自分ではどうすることも出来ないことを知らされているものだけがなし得る謙りがここにあります。
イエスは、その姿を見て、「深く憐れんで、その人に触れ」とあります。ここで「深く憐れむ」という言葉は、はらわたや内蔵を示す言葉がもとになって出来ています。主イエスは、ここで、この人の状態を、かわいそうだと思ったとか、気の毒に思ったという程度のことではないのです。自らの内臓を痛められるような思いになられたのです。私たちも時に、「腸が抉られるような」とか、「腸が煮えくりかえる」という表現を使います。先日テレビで、北朝鮮に拉致された、横田恵さんの夫、金英男さんの会見が放映されました。この会見で英男さんの口からは、「恵みさんは94年に自殺した」との、北朝鮮当局の主張通りの発言が繰り返されるだけでした。この放送を見た横田早紀江さんが、言葉を震わせて、「こういうことを平然と言わせる国には、頭の中も、はらわたも煮えくりかえっている」と述べている姿が放映されていました。ただ自分の愛する家族が、自分と引き離されているということの、悲しみだけではないのです。家族の愛が国家の政治に利用されてしまう現実に激しい憤りを現しているのです。聖書の写本によっては、この部分に「憤って」という言葉を用いているものがあります。おそらく、主イエスはこの時、激しい怒りをも抱いていたのだと思います。律法によってもたらされている「わたしは汚れたものです」としか語ることが出来なくさせている現実に激しく憤りを覚えられているのではないでしょうか。
ここで、「深く憐れむ」という言葉は、聖書においては、主イエスにしか使われない表現です。私たちが「はらわたが煮えくりかえる」という感情よりも、もっと深く、悲しまれ、憐れまれているのです。人々の罪がもたらす世の現実を前にして、憐れまれたという時、悲しみと憤りが同時に起こって、自らの腸を痛められているのです。それは、真の神の子だけがなし得る、人間の内にある罪に対する憐れみです。
私たちは、この当時の重い皮膚病の人や日本において、らい病の人と同じ境遇にあるわけではありません。しかし、この、人々の苦しみの根元にある、人間の罪は、私たちの現実です。私たちを最も深い所で支配する罪は、私たちに、隣人との断絶を生み出します。時に、私たちに、隔たりを生み出す言葉を語らせます。隣人の罪に直面して、それを裁いて、自らと隔てようとしてしまいます。又、私たちは、時に、自らの罪の醜さの中で「わたしは汚れたものです」と叫ぶようにして、隣人を遠ざける言葉を語ることもあります。主イエスは、そのような人間の罪を深く憐れまれているのです。
主イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」とあります。イエスはこの重い皮膚病を患っている人に手を差し伸べて触れられたのです。誰も触れられたことがない体です。律法の秩序によれば、この者に触れたことで、触れた人も汚れた者となってしまうからです。しかし、主イエスは、その人の体に手を差し伸べられたのです。手当てするという言葉があります。傷を受けた患部に手を当てることです。たとえどんなに医療が進んでも忘れられてはならないこと、その傷口に手を当てて覆うことです。主イエスが来られたのは、まさに、私たちの病、罪に手を当てられるためです。ヨハネによる福音書は、主イエスがこの世に来られた出来事を、「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた」と記しました。神は、人間を遙かに超越したところから、人間を見下ろしているだけの方ではありません。確かに、神は人間を超越した方です。しかし、そこにとどまるのではなく、肉となって、世に来られた方なのです。肉となるというのは、まさに私たちに「手を差し伸べて触れ」て下さるものとなって下さったということです。
主イエスは、この人に触れて、「よろしい、清くなれ」と言われます。「よろしい」とは、「私は望む」、「私の意志だ」、という意味です。重い皮膚病を患った人が、「御心ならば」と、主イエスの御意志に委ねたのに対して、「よろしい」、「これがわたしの意志だ」、「清くなれ」、と語って下さったのです。私たちの誰も語りえない言葉です。ただ主イエスのみによって語られる言葉です。この主イエスの意志は、十字架によって結実することになります。主イエスが、私たちのために、十字架ですべてを捧げて下さることによって、人間を罪から清めて下さったのです。十字架の出来事において、私たちの罪に触れて下さっている方であるからこそ、私たちに「清くなれ」と語って下さるのです。この言葉は、主イエスの存在をかけて語られる御言葉なのです。この言葉によって、たちまち重い皮膚病は去り、この人は清くなるのです。
主イエスは清くなった人を立ち去らせようとして、「誰にも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」と言われます。「モーセが定めた供え物を捧げて」というのは、律法が定める、清めの儀式をおこなって、もといた共同体に戻ることです。しかし、この男は、主イエスの言う通りにはしないのです。「そこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広めた」のです。その結果、イエスは町の中にいることが出来なくなって町の外に出られるのですが、そこにも四方から人が集まって来るという事態が引き起こされるのです。主イエスによって清められたものは、新しい言葉を語りだします。そうせずにはいられなかったのです。「わたしは汚れたものです」としか語らなかったものが、主イエスのことを告げ広める言葉を語るのです。そのことによって、今度は人々が、主イエスを求めて、主イエスが退いた町の外にやってくるようになるのです。
何故、主イエスはご自身のことを語ることを咎められたのでしょうか。主イエスは、ご自身が、奇跡的な業によって癒しを行われることで人々の願望に答えるものであるかのように思われることを警戒したからです。そして、この重い皮膚病であった人が、言い広めることは、そのような主イエスのお姿でしかないことを知っておられたのです。それは、決して本来の救いの出来事を語ることにはならないのです。そのようになってしまうことは、主の御心ではなかったのです。しかし、この人は、告げ広めるのです。重い皮膚病の苦しみの中で、主イエスに委ねつつ、ひたすらに御心を求めていたものが、清められた現実の中で主の御心と異なることをしてしまうのです。
私たちが、注意したいことは、私たちが主イエスに先走って、自ら話す語りは、救いを生み出さない、私たちの語りでしかないということです。それは、私たちがなす最善のものであったとしても、せいぜい主イエスのうわさを広めることなのです。そのように語ることは、時に、主の御心に沿わないこともありますし、真の主イエスのお姿を語るには不十分なものです。どこまでも、私たちの業は不十分なものなのです。しかし、ここで、主イエスは、そのような不十分でしかない私たちの語りをも、ご自身の宣教の中に含めて下さっているのです。
私たちは常に、思い起こしたいのです。一方に、自らの罪の現実の中で、隣人と隔たりを生む言葉しか語れない現実があります。もう一方に、自分勝手な思いで、主イエスについて告げ広めようとしてしまう現実があります。しかし、その罪の中にあって、私たちが「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と委ねるときに、主イエスが、私たちに手を差し伸べて触れ、語ってくださっているのです。「よろしい、清くなれ」。御心をなしえない、私たちの内で、主イエスは、御心をなして下さっています。