主日礼拝

恐れず、信じなさい

「恐れず、信じなさい」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 哀歌 第3章22-33節 
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第5章21-43節
・ 讃美歌:210、528、454

二つにして一つの物語
 本日はマルコによる福音書第5章21節から43節の御言葉を通して神様の御言葉に耳を傾けたいと思います。本日の聖書の箇所で語られている出来事は印象深く、私たちの心に強く刻み込まれている物語ではないでしょうか。ここでは2つの出来事が語られています。しかし、2つの話が続けて語られているというよりも、1つの出来事が起こっている間に、もう1つの突発的な出来事が起きていると見ることが出来ます。まず、会堂長の一人でヤイロという人が登場します。ヤイロは自分の幼い娘が死に瀕しており、主イエスをお連れして癒してもらおうと願っておりました。そこに、12年間出血の止まらない女性の出来事が差し挟まれています。そして、再びヤイロの娘の話に戻ります。そのように2つの出来事が絡み合っております。記されているこの2つの出来事は、どのような話なのでしょうか。2つの出来事が絡み合っているということが、印象深く私たちの心に残るのではないでしょうか。それはこの物語を書いた人が、ヤイロという一人の会堂長の男と12年間の出血の止まらない病の女の、それぞれの信仰と救いの物語を書いたということだけではありません。この2つの物語のだけに留まらず、ここに自分たちの事柄を見出したのです。即ち自分たちの上に起きている出来事として受け止めたのです。自分たちの、私たちの信仰と救いの出来事が書かれていると思ったからです。

救いの物語
 34節で主は「あなたの信仰があなたを救った。」と言われます。主イエスは12年間出血の病にあった女に言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」主イエスはここで「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。この「救った」という言葉は、別の場面でも使われております。23節に会堂長ヤイロの主イエスに対する願いの言葉の中でも使われております。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23節)ここで「娘は助かり」とありますが、ここにも使われている言葉も「娘は救われ」という意味です。「助かり」と言う言葉は「救う」という意味なのです。また12年間出血の病の女が28節に「『この方の服にでも触れればいやしていただける』と言っておりますが、これもまた「この方の服にでも触れれば救われる」と言ったと訳しても良い言葉であります。先ほどの34節の「あなたの信仰があなたを救った。」とある「救った」とある「救い」という言葉は、「救い主イエス・キリスト」という時に用いられる言葉です。この「救った」というのはただ、病気が治される、癒されるという意味での助けが与えられるということに留まらないのです。私たちに欠けてはならない、健康であろうが、病気の肉体を持とうが、どんな人にも必要な「救い」を言い表す言葉です。その言葉をここで用いられています。肉体の癒しの問題だけではなくて、肉体の癒しを含みながら、もっと深く広い意味での「救い」が起こっているということになります。人間の全存在に関わる「救い」が起こっているということです。その救いに至ることができた信仰者たちの物語がここに描かれています。主イエスとの出会いを通して、信仰へと導かれた信仰者たちの姿があります。その後の教会の歴史の中で、多くの人がこの話を自分の話しとして、自分たちの事柄として読んだのです。そして、ここに集う私たち一人ひとりもまた、この話に続く者として、自分に起こったこととして、この話の中に巻き込まれていくのです。

ヤイロの信仰
 一人目の主人公は22節にあります、会堂長の一人でヤイロという人です。ヤイロという名前には「神が光を与えて下さる」「神様が呼び起こす」という意味が込められています。ヤイロの名前を付けた人も彼が生まれたときに、そのような思いを込めて付けたのです。そしてこれは、私たちの信仰で言えば「クリスチャン」という名前がまさにそういう意味です。「クリスチャン」とは、キリストのもの、という意味です。「私はクリスチャンです」という時、それは、生きている時も、死ぬ時も、私たちは自分のものではなくて、キリストのものであるということです。その意味では、神様の光が注がれており、倒れても、神が必ず立ち上がらせて下さるということです。このヤイロの物語は、12年間出血が止まらなかった女性の物語と同じように、私たち自身の物語です。ヤイロには12才になる「幼い娘」がおり、その娘が死にそうでした。12才と言えば、当時は結婚の話しが出てもおかしくない年齢でした。しかし、父親にとってはいつまでも「幼い娘」です。そしてこれからまさに人生の花が開くという時期を迎えていく娘なのです。この娘が助かるためなら、何でもするという父親の思いです。そのような思いで主イエスの前にひれ伏し「手を置いてやってください」と願いました。ヤイロは会堂長でありました。それはただの会堂守ではなくて、安息日礼拝についての大きな責任と権限を持つ務めでした。信仰共同体であるユダヤの社会においては、地域の有力者であり、人々の尊敬を集めていた人です。政治的・経済的な力もありました。ところが、その会堂長も、死にかけている娘については、何の力もありません。死の力を前にして無力な人間の姿が描かれています。既にこの頃、主イエスとユダヤ教の指導者たちの関係は、難しくなっていました。主イエスを殺そうという相談もされていたほどです。会堂長という立場から考えれば、ヤイロは主イエスと対立してもおかしくないのです。身内の中には、主イエスを家に招くことを快く思わない人もいたに違いありません。しかし、立場も体面も関係なく、ただ娘を助けたい一心で、主イエスをお連れするために出て来たのです。ヤイロの必死の願いを受けて、主イエスはヤイロの家に向かわれました。

12年間出血の止まらない女性
 ところが、ヤイロにとっては思わぬハプニングが起こりました。主イエスの前に12年間も出血が止まらないという重い病に苦しんでいた女が現れました。この女は「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」とあります。血は命と考えられていましたので、血が止まらないということは、命がどんどん尽きてゆくことです。この女性は12年間、不浄の女として、社会生活も許されない中で、自分の命が消滅して行く苦しみを味わっていました。この女性は主イエスのことを聞いておりました。そして「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」とあります。この女性は「この方の服にでも触れればいやしていただけると」と思い、行動に出たのです。そして、出血が止まり、病気が癒されたのです主イエスは後ろから自分の服のたもとにその女性の手が触れたことを、素早く察知しました。女の出血はすぐに止まり、主イエスもまたは、自分の内から力が出て行ったことに気づかれました。そして、群衆の中で振り返り「わたしの服に触れたのはだれか」と、自分の衣服に触った者を探し求められました。主イエスの弟子たちはまわりを見て、「これだけの群衆では分かるはずはありません」と答えます。しかし主イエスはなおも、自分の衣に触れた、その人を見つけようとされます。そして長い間、病に苦しんできた一人の女を探し出し、癒されたのです。この時、死にかけている娘のところ早く行きたいと会堂長のヤイロはどんなにやきもきしたことでしょう。そして弟子たちは、会堂長という地位ある人の求めに、まず優先的に応えるべきだと思ったことでしょう。もちろん主イエスはヤイロの娘を気にかけるのをやめたわけではありません。しかし主イエスは今この時は、自分に触れた者を見つけようとされたのです。この12年間病の中にあった女性の求めを、主は捕らえます。そして「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」(33節)とあります。そして、主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われました。病気が治る、ということだけに留まらず、「あなたを救った」と主イエスは言われました。この女の小さな行為、信仰を受け止められたのです。病の癒しを含みながら、もっと深く、人間の全存在に関わる救いについて主は与えられたのです。主イエスとその女性とは、一対一で、人格的に出会いました。その女は癒され、救われたのです。

あなたの信仰があなたを救った
 しかし、私たちは教会というのはどんな病気でも治せますよと言って伝道をしてきたわけではないということを確認しなければなりません。教会は、死んで誰でも連れて来い、息を吹き返させる、というようなことを伝道しているわけではありません。マルコによる福音書は、ローマの権力のもとで、信仰の故に次々と自分たちの信仰の仲間たちが殺されていく中で書かれたものです。その意味では、全く自分たちの無力さを思い知らされるようなところで、主イエスの「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」という御言葉を聞いてきたのです。私たちは本当にこの物語を自分の事柄として聞けるでしょうか。私たちに対する問いかけであります。主イエスの「あなたの信仰があなたを救った。」という言葉は癒し以上のものを与えたのです。そして、主は「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われました。病が癒されて、そこでうずくまるようにしている女に主は語られました。病気から解き放たれて生き続けなさい、と言われました。この女もやがて死んだでしょう。しかし、自分の人生の最期を迎えたときにも「安心して行きなさい。元気に暮らしなさい。」という主イエスの御言葉がこの女に響いたでしょう。ここで主イエスの言葉は終わりなどとは思わなかったでしょう。それが主イエスの自分に与えられた救いであったということを、今ここで既に確信しながら、この女は主イエスの元から遣わされたのです。

死の現実
 そして、物語は続きます。主イエスの傍らに立ち、この出来事を見ていた瀕死の娘のところに主イエスをお連れしょうとしているヤイロはどう思ったでしょうか。ヤイロの心配は現実のものとなりました。主イエスがまだ話しておられるところに、家から使いが来て告げました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」。この知らせを聞いて、ヤイロが何を思ったのか、聖書は何も記していません。ヤイロの願いは断ち切られたのです。この人が願ったのは、死にかけている自分の娘に主が手を置いて、その命を助けてくださることでした。数多くの病をいやしてこられた主イエス。だからこそ、娘を助けてくださるに違いないと望みをかけて、身内の反対や心配にも取り合わずに出かけてきたのです。死にかけている娘の手を握り、その傍らに身を寄せて、せめて最期を看取るのが、常識的な行動であったかもしれません。しかし、瀕死の娘と家族を家においたまま主イエスを訪ね、ひれ伏して願ったのです。しかし、その願いは断ち切られてしまいました。恐らく、ヤイロは混乱していたと思います。何が起きたのか、すぐには分からなかったかもしれません。いずれ来る娘の死を頭ではよく分かっていたはずです。けれども、頭で分かっているということと、現実を受け入れるということは別のことです。愛する者を亡くしたとき、その現実に対処することとそれを受け入れることの間には大きな開きがあります。大切な人の死は、動かない事実です。葬りのための準備を進めなければなりません。淡々と準備を整える中で本人は、何かすべてが現実ではないかのように、心の動きが止まったままで対処しているということがあります。何ヶ月もたって、頭で分かっていたことを、心で受け止め始める。そのとたんに、言いようのない寂しさが襲いかかってくる。「お嬢さんは亡くなりました」。この知らせに、父親の心は凍りついたのではないかと思うのです。「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」。実に、理性的で、もっともな助言です。

恐れることはない
 しかし、主イエスがそこに割って入られます。「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた」。「そばで聞いて」と訳されているのは、「聞き流す」という意味の言葉です。主イエスは、ヤイロの娘の死の知らせを聞き流されるのです。誰もが心を捕らわれて、そこから先に進めなくなるような死の告知に対して、主イエスだけは、それを聞き流して、なおも先へ進んでいこうとされます。そして、死の告知を受けたヤイロの心に信仰を吹き込むようにして語られます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。ここに、死の知らせを聞き流すことのできる方がおられます。死に直面して、死を恐れず、むしろ、死を打ち破る力をもつ方が立っておられるのです。会堂長も、その家族も、使いの者たちも、あるいは主イエスに従ってきた弟子たちでさえも、動かすことのできない死という現実に圧倒されて、死の力に呑み込まれそうになっています。しかし、ただ独り、死に支配されることなく、かえって、死をねじ伏せる力を持つ方がおられる。そして、死をさえ一つの通過点として、さらに先へ進んでいこうとされるのです。主イエスは「恐れることはない」と言われます。死の力の前に、すべての望みを砕かれて、くずおれそうになっている父親に「恐れるな、ただ信じなさい」と言われるのです。

起きなさい
 死の力の前に無力なこの世の常識に立ち向かって行かれるのです。死に直面して、ただ泣き叫ぶしかない者たちは、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われる主イエスを、平気であざ笑います。しかし、主イエスは、死がすべての終わりではないことを知っておられます。ご自身の死によって、死の力を打ち破る救い主として、子供の両親と選ばれた三人の弟子たちだけを証人として伴い、子供が寝かされた部屋に入られるのです。主は、子供の手を取って、声をかけられました。「タリタ、クム」。何か不思議な呪文を唱えた、ということではありません。いつも話しておられたアラム語の言葉です。恐らく、その場に居合わせた者たちの心に、この言葉の響きが深く刻まれたのでしょう。もとの言葉の発音がそのまま伝えられたのです。解説が付いています。「これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である」。すると少女はすぐに起き上がって、歩き出した、というのです。決して動くことがないと思われていた死の力を、主は突き破られました。死の力の中から、少女を取り戻されました。主イエスこそ、死から甦られたお方です。そして、この主イエスとの出会いによって、主イエスの御言葉によって、死から命へと甦った者たちのことが描かれております。会堂長ヤイロの娘が、主イエスの「タリタ・クム」「少女よ、起きなさい」という御言葉によって、死の世界から命の世界へと生き返らされました。また、12年間長血を患っている女性はおののきながら主の前に出て、主イエスと一対一で対面します。出会うのです。そして、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」、と宣言されました。主イエスとその女性とは、一対一で、人格的に向かい合い、彼女が主を信ずる信仰によって、主と一つに結ばれました。

「ただ信じなさい」
 死はまさに人間にとっての「最後の敵」(第1コリント15・26)ですが、それが自分の愛する者に襲いかかる瞬間ほど、その恐ろしさに震撼させられることはありません。主イエスはその中で「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃるのです。いったい、死の事実を前にして、どのような信仰が、求められているのでしょうか。主イエスは命の源なる主イエスです。そして「わたしを信じなさい」、と言われたのです。「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われる主です。そのわたしを信じなさい。そうすれば、あなたは立つことが出来る。そのように主は言われたのです。主は、「あなたを救ったのは、そのあなたの信仰だ」と仰ってくださいました。この時のヤイロも、ただ、自分の前に立つ主イエスを見つめているだけで、言葉を発することも出来ません。小さな信仰です。

命の主が中心に
 この二つの話の中心には、命の源なる救い主イエス・キリストが立っておられます。死はまさに人間にとっての「最後の敵」(コリントの信徒への手紙1第15章26節)ですが、それが自分の愛する者に襲いかかる瞬間ほど、その恐ろしさに震撼させられることはありません。ところが主は、「恐れることはない。ただ信じなさい」、とおっしゃるのです。いったい、死の事実を前にして、どのような信仰が、求められているのでしょうか。主がここでおっしゃったのはそれではないことは明らかです。主イエスは「わたしを信じなさい」、と言われたのです。「今、あなたが見ているこのわたしを信じなさい」。それは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書第14章6節)と言われる主、命の源なる主です。「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネによる福音書第11章25~26節)、と言われる主です。そのわたしを信じなさい。そうすれば、あなたは立つことが出来る。そのように主は言われたのです。

その後の歩みは?
 ここで会堂長の娘の死に臨んでも、なお立派な信仰を持ち続けたとは、マルコは書いていないのです。その点では、あの12年間長血を患っていた女性と同じです。あの女性の信仰も、考えようによっては、半分迷信のような信仰です。ただ主にすがりつかざるを得ないのですがりついただけの、全くギリギリの信仰しか持っていません。しかし主は、「あなたを救ったのは、そのあなたの信仰だ」と仰ってくださいました。この時のヤイロも、ただ、自分の前に立つ主イエスを見つめているだけで、言葉を発することも出来ません。それでも、彼を支えたのは、「恐れることはない。ただ信じなさい」という主イエスの一言だったのです。この言葉がなければ、彼は血の気を失って倒れてしまったでありましょう。しかし、彼は倒れません。彼は主イエスと一緒に、自分の家に向かって歩み始めたのです。求道者会で読んでおります『ハイデルベルク信仰問答』の第1問に、「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問があります。「慰め」はこの場合、「心の支え」とか、「救い」とか、「平安」とか、「命」と言い換えることも出来ます。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの支えは何ですか」。答は、「わたしのただ一つの支えは、わたしが自分のものではなく、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることであります」となっています。自分が自分のものではなく、キリストのものであります。この時の会堂長ヤイロを支えていた信仰は、私たちの信仰と同じ信仰です。

主と共に
 信仰とは、私たちの前に立っていて下さる主と出会うことです。その主イエスは命を与えられるお方です。そして、私たちに神の言葉を掛けて下さいます。私たちは、その主イエスを信ずることによって、主と結ばれるのです。そしてその信仰によって、生きている時にも、死ぬ時にも、私たちはもはや自分自身のものではなく、救い主イエス・キリストのものとされます。私たちに絶えず、光を与え、眼差しが注がれ、たとい倒されても起き上がることが出来るのです。ヤイロは主イエスと共に歩み始めたのです。これは、わたしども自身の物語でもあるのです。主はわたしどもにも、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語っておられます。そして教会では、その後もずっと、この言葉がヤイロの娘の出来事と共に、人々の記憶に止まるようになりました。主がわたしどもに命を与え、倒れた者を助け起こすお方であることを表す言葉だからです。そして、わたしどもが終わりの日に墓の中から甦る時に、主イエスからお聴きする言葉も、この「愛する者よ、死の床から起き上がりなさい」という言葉です。生きている今も、私たちは「起きなさい」という主の言葉に促されて、毎日を主と共に生き、歩むことが出来るのです。

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